白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/国王と取引した人面魚

2021年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、国王は大臣・公卿ら百官に至るまですべての臣下を従えて魚釣りの遊宴に出かけた。大きな江にたどり着くとたちまち数多くの休憩所の設置が始まった。それら休憩所にはどれも美麗な装飾が施され、国王の莫大な権威のほどが伺われる。さっそく始まった魚釣り。釣れること釣れること呆れるばかりの釣果である。

「忽(たちまち)ニ江ノ辺(ほとり)ニ多(おほく)屋ヲ造(つくり)テ、其ノ荘(かざ)リ、美麗ヲ尽セリ。而(しか)ル間、魚多ク鉤(つ)リ得タル事、其ノ員(かず)ヲ不知(しら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.346」岩波書店)

国王・大臣・公卿らが喜んで釣りに打ち興じる一方、釣れた魚は晩餐のために次々と調理に回され、多くは膾(なます)=刺身にしてどんどん工夫を凝らした品々が整えられた。盛り上がる遊宴はやがて夕暮方に及んだ。

「然レバ、此ノ多(おほく)ノ魚ヲ膾(なます)ニ造(つくり)テ、種々(くさぐさ)ニ調(ととの)ヘ備ヘテ食(じき)シ給ハムト為(す)ル間ニ、既ニ日晩方(ひのくれがた)ニ成ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.346」岩波書店)

そんな夕暮れ時、釣りで盛り上がっている大きな江の水面にどことなく不気味な気配が漂いはじめた。国王を取り巻く様々な人々もそれに気づき、様相を一変させた水面を覗き込んでたじろぎ出した。しばらくすると水中から急浮上してくる何かの影が見える。見詰めているとそれは何と体長三メートルを越える巨大魚。

「其ノ時ニ、江ノ面(おも)ヲ見レバ、水ノ上極(きはめ)テ怖(おそろ)シ気(げ)ニ成ル。国王ヨリ始メテ諸(かたへ)ノ人、此レヲ見テ怪(あやし)ムデ、恐(お)ヂ怖ルル事無限(かぎりな)シ。而(しか)ル間、忽ニ水ノ中ヨリ浮ビ出(い)ズル者有リ。諸(かたへ)ノ人、此レヲ見ルニ、大(おほき)ナル魚ノ形也。長サ一丈余也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.346~347」岩波書店)

それだけではない。その巨大魚の頭部を見ると人間の童子の頭部をしている。さらにその眼光は鉄のようにきらきらした燦きを放っておりとてもでないが尋常でない。鼻・口の形は人間のものと変わらない。

「其レ、魚ノ形也ト云ヘドモ、頭(かしら)ヲ見レバ、童ノ頭也。眼キラメキテ甚(はなは)ダ怖シ。鼻・口、皆有(あり)テ、人ノ如シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.347」岩波書店)

水辺にいる国王に向かって音(こゑ)を挙げた。人間の言葉をしゃべっている。「今日は残念でならない。国王がこの江にわざわざやって来られたと思っていたら、大量の魚の殺戮に大喜びしておられる。できれば国王よ、たかが魚といえども今後は無駄な殺生を止めて頂くことはできない相談だろうか」。

「悲哉(かなしいかなや)、国王、此ノ江ニ来リ給テ、多(おほく)ノ魚ヲ殺シ給ヘリ。願(ねがは)クハ、君、此ヨリ後殺生(せつしやう)シ給フ事無(なか)レ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.347」岩波書店)

巨大魚が発する憂鬱この上ない音声に怖(おそ)れおののいた人々はみんな、国王を始め高級官僚から王の取り巻きを含め、釣った魚はもちろんのこと、既に調理して膾=刺身にしてしまった肉塊まで全部江の中へ投げて戻した。すると、膾(なます)にされてしまった魚肉までが元の魚の姿となって生き返り、水の中で再び生き生きと泳ぎ始めた。しばらくして忽然と浮上してきた人面の巨大魚も水中へ返っていったと見ているうちにふっと消え失せた。

「其ノ膾、江ノ中ニ入(いり)テ各(おのおの)生キテ、水ノ中ニ入ヌ。其ノ後、此ノ大(おほきなる)魚モ、水ノ中ニ曳キ入ヌレバ、不見(みえ)ズ成ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.347」岩波書店)

さて。第一に押さえておきたい点はいつものように変異の起こる時間帯。「日晩方(ひのくれがた)」。第二に交換関係について。巨大魚の側の条件は「殺生戒あるいは放生会」。この条件は明らかに仏教系である。「ブッダのことば」にこうある。

「過酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ーーー動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう」(「ブッダのことば・第四・十五・九五二・P.205」岩波文庫)

だが巨大魚の条件には仏教教義の範囲には収まらないずっと古いアニミズム的宗教観念が或る種の脅しとして響いている。もし巨大魚の側の条件を無視するというなら「国王の治める国家といえどもどんな自然災害の襲来を受けるかわかったものではないと思うが」という恫喝めいた響きが明確に描かれている。一方、国王は巨大魚の提示した条件を丸呑みし、釣り上げた魚と既に刺身にしてしまった肉塊まで含めてすべて元の江に戻した。

さらに巨大魚そのものについて。人間の童形の顔で出現したこと。「人面魚・人面犬」などは現代になってもマスコミに登場して地域振興に一役買って出ている。ただ「似ている」というだけのことだがそれはそれで人間の関心を集める要素を満たすのだ。パスカルはいう。

「個別的にはどれも笑わせない似ている二つの顔も、いっしょになると、その相似によって笑わせる」(パスカル「パンセ・一三三・P.90」中公文庫)

また「人面瘡(じんめんそう)」については一連の「妖怪ブーム・本格ミステリ」の流行に伴い「甲子夜話」や「伽婢子」から引用され散々紹介されているので改めて説明する必要性はないだろう。というのは問題が「人間の手足」ではなく、ほかでもない「人の顔」でなければならないのはなぜかという点だからである。

さらに「人面」と書くと曖昧になってしまうに違いない。説話で国王一行が訪れた江は大きな江である。中国では黄河や揚子江など河川であっても巨大なものが少なくない。さらに古代では大型の江ともなれば何度も繰り返し悲惨な氾濫を起こしただろうことは考えるまでもない。そのような地域は世界中どこにでもあった。熊楠はデンマークの風習の一つだった「馬の生埋め」について語る箇所で日本でもまた「馬の髑髏(どくろ)」を祀る風習があったことに触れている。

「予の幼時和歌山に橋本という士族あり。その家の屋根に白くされた馬の髑髏(どくろ)があった。むかし祖先が敵に殺されたと聞き、その妻長刀(なぎなた)を持って駆けつけたが敵見えず、せめてもの腹癒せに敵の馬の刎(は)ねその首を持ち帰って置いた、と聞いた。しかし、柳田君の『山島民譚集(一)』に、馬の髑髏を柱に懸けて鎮宅除災のためにし、また家の入口に立てて魔除けとする等の例を挙げたのを見ると、橋本氏のも、デンマークで馬を生埋めするごとく、家のヌシとしてその霊が家を衛(まも)りくれるとの信念よりした、と考えらる。柳田君が遠州相良辺の崖の横穴に石塔とともに安置した馬の髑髏などは、馬の生埋めの遺風で、その崖の崩れざらしむるために置いた物と惟う」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.245~246』河出文庫)

文字通り論文名は「人柱の話」。牛・馬以前には何が生贄とされたか。

「大阪の御城内、御城代の居所の中に、明けずの間とて有りとなり。此処大なる廊下の側にあり。ここは五月落城のときより閉したるままにて、今に一度もひらきたることなしと云。因て代々のことなれば、若し戸に損じあれば版を以てこれを補ひ、開かざることとなし置けり。此は落城のとき宮中婦女の生害せし所となり。かかる故か、後尚(なほ)その幽魂のこりて、ここに入る者あれば必ず変殃を為すことあり。又其前なる廊下に臥す者ありても、亦怪異のことに遇ふとなり。観世新九郎の弟宗三郎、かの家伎のことに因て、稲葉丹州御城代たりしとき従ひ往たり。或日丹州の宴席に侍て披酒し、覚へず彼廊下に酔臥せり。明日丹州問(とひて)曰く。昨夜怪(あやしき)ことなきやと。宗三郎、不覚のよしを答ふ。丹州曰。さらばよし。ここは若(もし)臥す者あればかくかくの変あり。汝元来此ことを不知。因て冥霊も免(ゆる)す所あらんと云はれければ、宗三聞て始て怖れ、戦慄居る所をしらずと。又宗三物語(ものがたり)しは、天気快晴せしとき、かの室の戸の透間(すきま)より窺ひ覦(み)てば、其おくに蚊帳と覚しきもの、半ははづし、半は鈎にかかりたるものほのかに見ゆ。又半挿(はんざふ)の如きもの、其余の器物どもの取ちらしたる体に見ゆ。然れども数年久(ひさし)く陰閉の所ゆゑ、ただ其状を察するのみと。何(い)かにも身毛だてる話なり。又聞く。御城代某候、其権威を以てここを開きしこと有しに、忽(たちまち)狂を発しられて止(やみ)たりと。誰にてか有けん。此こと林子に話せば大笑して曰。今の坂城は豊臣氏の旧に非ず。偃武の後に築改(きづきあらため)られぬ。まして厦屋(かをく)の類は勿論皆後の物なり。総て世にかかる造説の実らしきこと多きものなり。其城代たる人も旧事詮索なければ、徒(いたづら)に斉東野人の話を信じて伝ること、気の毒千万なりと云。林氏の説又勿論なり。然ども世には意外の実跡も有り。又暗記の言は的證とも為しがたきなり。故にここに両端を叩て後定を竢(まつ)」(「甲子夜話2・巻二十二・二十八・P.64」東洋文庫)

「或人曰。大阪の御城代某候、初て彼地に赴(おもむ)かれしとき、御城中の寝処は、前職より誰も寝ざる所と云伝(いひつたへ)たるを、この候は心剛なる人にて、入城の夜その所にねられしが、夜更(ふけ)て便所にゆかん迚(とて)、手燭をともし障子をあけたれば、大男の山伏平伏して居たり。候驚きもせず、山伏に手燭を持て便所の導(みちびき)せよと云はれたれば、山伏不性げに立て案内して便所に到る。候中に入て良(やや)久しく居て出たるに、山伏猶(なほ)居たるゆゑ、候手水をかけよと云はれたれば、山伏乃(すなはち)水をかけたり。候又手燭を持せて寝処へ還られ、夫より快く臥(ふさ)れし。然るに後三夜の程は同じかりしかど、夫よりは出ずなりしと。総じて世の怪物も大抵その由る所あるものなるが、この怪は何の変化せしにや人その由を知らず。又此候は、本多大和守忠堯と云はれしの奥方、相良氏〔舎候の息女〕、後、栄寿院と称せし夫人の徒弟にてありける。此話もこの相良氏の物語られしを正く伝聞す」(「甲子夜話2・巻二十六・十五・P.160」東洋文庫)

「世に云ふ。姫路の城中にヲサカベと云妖魅あり。城中に年久く住りと云ふ。或云(あるひはいふ)。天守櫓(やぐら)の上層に居て、常に人の入ることを嫌ふ。年に一度、其城主のみこれに対面す。其余は人怯(おそ)れて不登。城主対面する時、妖其形を現すに老婆なりと云ふ。予過し年、雅楽頭忠以朝臣に此事を問たれば、成程世には然云(しかいう)なれど、天守の上別に替ることなし。常に上る者も有り。然れども、器物を置に不便なれば何も入れず。しかる間、常に行く人も稀なり。上層に昔より日丸の付たる胴丸壱つあり。是のみなりと語られき。其後己酉の東覲、姫路に一宿せし時、宿主に又このこと問(とは)せければ、城中に左様のことも侍り。此処にてはヲサカベとは不言、ハツテンドウと申す。天守櫓の脇に此祠有り。社僧ありて其神に事(つか)ふ。城主も尊仰せらるるとぞ」(「甲子夜話2・巻三十・二十・P.247~248」東洋文庫)

「鳥羽侯〔稲垣氏〕の邸は麹町八丁目にありて、伯母光照夫人ここに坐せしゆゑ、予中年の頃までは縷々此邸に往けり。邸の裏道を隔て、向は彦根侯〔井伊氏〕の中荘にして、高崖の上に大なる屋見ゆ。千畳鋪と人云ふ。又云ふ。この屋は以前加藤清正の邸なりし時のものにて、屋瓦の面にはその家紋、円中に桔梗花を出せりと。又この千畳鋪の天井に乗物を〔駕籠を云〕釣下げてあり。人の開き見ることを禁ず。或は云。清正の妻の屍を容れてあり。或は云。この中妖怪ゐて、時として内より戸を開くを見るに、老婆の形なる者見ゆと。数人の所話の如し。然るにその後彼荘火災の為に類焼して、千畳鋪も烏有となれり。定めて天井の乗物も焚亡せしならん。妖も鬼も倶に三界火宅なりき」(「甲子夜話4・巻五十九・五・P.194」東洋文庫)

なお、最初に引いた「大阪城落城時の宮中婦女の死」と新しく再建された大阪城とはまた別というのは分かりきった話である。だが人柱としての信仰は再建されようがされまいがその場所に残されるのが原則であり林氏が時間的ずれを持ち出して勘違いだと笑って済まそうとしたのは、人柱の期日(大阪城落城前)と工事日程(大阪城再建後)とが別なので、この種の信仰の意味に含まれている恐ろしく古いアニミズム性を見逃してしまっているからに過ぎない。だからといって幽霊が出る出ないはこれまた別問題であって、さらなる思想・信仰の自由並びに人類学的・民俗学的問題系に属する。

そこで問題は牛・馬・猿などの動物が恐ろしく古い時代から干支(えと)として君臨している点を見ておきたいと思う。例えば「馬蹄石(ばていせき)」は日本の昔話の中でも全国各地で有名だが、熊楠が引用しているように、柳田國男が収集した「神体・魔除け」としての馬は「髑髏(どくろ)」でなければ意味がないという箇所。

「駿河安倍郡大里村大字川辺ノ駒形神社ノ御正体モ亦(マタ)一箇ノ馬蹄石ナリ〔駿国雑志〕。此ハ多分安倍川ノ流レヨリ拾イ上ゲシ物ニテ、元ハ亦磨墨ノ昔ノ話ヲ伝エ居タリシナラン。此ノ地方ニ於テ磨墨ヲ追慕スルコトハ極メテ顕著ナル風習ニシテ、此ノ村ニモ彼(カ)ノ村ニモ其ノ遺跡充満ス。前ニ挙ゲタリシ多クノ馬蹄石ノ外(ホカ)ニ、安倍川ノ西岸鞠子宿(マリコシュク)ニ近キ泉谷村ノ熊谷氏ニテハ、磨墨ノ首ノ骨ト云フ物ヲ数百年ノ間家ノ柱ニ引キ掛ケタリ。其ノ為ニ此ノ家ニハ永ク火災無ク、且(カ)ツ病馬悍馬(カンバ)ヲ曳キ来タリテ暫(シバラ)ク其ノ柱ニ繋ギ置クトキハ、必ズ其ノ病又ハ癖ヲ直シ得ベシト信ゼラレタリ〔同上〕。之ニ由リテ思ウニ、諸国ニ例多キ駒留杉、鞍掛杉、駒繋桜ノ類ハ恐ラクハ皆此ノ柱ト其ノ性質目的ヲ同ジクスルモノニシテ、之ヲ古名将ノ一旦(イッタン)ノ記念ニ托言スルガ如キハ、此ノ素朴ナル治療法ガ忘却セラレテ後ノ家ノ祖先山ニ入リテ草ヲ刈ルニ、其ノ馬狂ウトキ之ヲ此ノ木ニ繋ゲバ必ズ静止スルニヨリテ、之ヲ奇ナリトシテ其ノ庭ニ移植スト云エリ〔大日本老樹名木誌〕。此ノ説頻(スコブ)ル古意ヲ掬(キク)スルニ足レリ。更ニ一段ノ推測ヲ加ウレバ、此ノ種ノ霊木ハ亦馬ノ霊ノ寄ル所ニシテ、古人ハ之ヲ表示スル為ニ馬頭ヲ以テ其ノ梢ニ掲ゲ置キシモノニハ非ザルカ。前年自分ハ遠州ノ相良(サガラ)ヨリ堀之内ノ停車場ニ向ウ道ニテ、小笠(オガサ)郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅(ワズ)カナル横穴ヲ堀リ、馬ノ髑髏(ドクロ)ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其ノ中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。ソレト熊谷氏ノ磨墨ノ頭ノ骨ノ図トヲ比較スルニ、後者ガ之ヲ柱ニ懸クル為ニ耳ノ穴ニ縄ヲ通シテアル外(ホカ)ハ些(スコ)シモ異ナル点無ク、深ク民間ノ風習ニ古今ノ変遷少ナキコト感ジタル次第ナリ。羽前ノ男鹿(オガ)半島ナドニハ、今モ家ノ入口ニ魔除(マヨケ)トシテ馬ノ頭骨ヲ立テ置クモノアリ〔東京人類学雑誌第百八号〕」(柳田國男「山島民譚集(一)」『柳田国男全集5・P.235~237』ちくま文庫)

童子の顔をした巨大魚の説話に戻ると、大量に釣れた魚はごく普通の種だが、忽然と浮上した人面魚ばかりは他の魚とは異なり特に大きく、なおかつ人間の言語を話したという点。特権的排除を通した過剰=逸脱の公式が見える。

「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)

日本では「甲子夜話」に、四、五十匹ばかり出現したどこにでもいる猴(さる)の群れの中に一匹だけとりわけ大きい猴がおり、それが他の猴と異なる「白い猴」だった話が見える。鳥銃(てっぽう)で捕えようとしているうちにふっと消え去ったらしい。周囲の里の年配者に尋ねたところ、この辺りに白い猴はいないという。だが松平定信が隠居後、伊豆国で目撃したと言い同行していた谷文晁もしっかり見たと言っていたらしい。

「松平楽翁、宴席にての物語には、某先年蒙命て、伊豆国の海辺を巡見するとて山越(やまごえ)せしとき、何とか云〔名忘〕所に抵(いた)り、暫し休(やすら)ひ居せしとき、某処は前に谷ありて、向は遥に森山を見渡し、広き芝原の所ありしに、何か白きものの人の如く見ゆるが、森中より出来りぬ。夫に又うす黒き小きものの、数多く従ひ出(いで)く。遥に隔りたるゆへ、折ふし携へる遠目鏡にて視しに、白きと見えしは其大さ人にひとしき猴(さる)にて、純白雪の如し。小き者は尋常の猴にて大小あり。其数四、五十にも及(および)なん。彼白猴を左右よりとりまきて居けり。白猴は石上に腰をかけて、某が通行を遠望する体なり。いかにも奇なることと思ひしが、風(ふ)と彼白猴を鳥銃(てっぽう)にて打取んと思ひ、持(もた)せつる鳥銃をと傍の者に申せしに、折ふし先の宿所へ遣(やり)て其所には無し。その内はや猴は林中に入ぬ。奇異のことゆへ、其辺の里長に尋(たずね)させしに、里長の答には、白猴この山中に住候こと、いまだ聞及ばずと。これは山霊にや有りけんなど語られし。此日、谷文晁も陪坐せしが、晁云ふ、其行に従ひしが、共に親く見しと也」(「甲子夜話1・巻一・五十一・P.2~243」東洋文庫)

「今昔物語」の説話は古代中国で仏教の「殺生戒・放生会」の教えとそれ以前からあったアニミズム的原始信仰とが入り混じっていく過程で出現したものに違いないと考えられる。また敢えて熊楠「人柱の話」を引いたかは言うまでもなく古代中国で灌漑技術が醸成されていく過程で、巨大な河川・湖が繰り返す氾濫に関し、古くヨーロッパでも見られたような「人柱信仰」が日本同様に根強く存在したと思われるからである。

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