前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き
隋の大業(だいげふ)の頃(六〇五年〜六一六年)、仏道に励む一人の遊行僧がいた。大山府君(たいざんぶくん)の廟堂(めうどう)へ登り着き、そこで一夜の宿りを得ようとしていると廟堂守りがやって来ていう。「ここに宿泊できる施設はないので廟堂の床下でよければそこで宿るようにしなさい。ただ、以前にもこの廟堂で宿った人々はいたが全員死んでしまった」。
「此ノ所ニ別ノ屋無シ。然レバ、廟堂(めうだう)ノ廊(らう)ノ下(もと)ニ可宿(やどりすべ)シ。但シ、前々(さきざき)此ノ廟(めう)ニ来リ宿(やどり)スル人、必ズ死スリ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.122」岩波書店)
大山府君(たいざんぶくん)の廟堂(めうどう)のついては以前「巻第九・第三十五話・震旦庾抱(しんだんのゆはう)、被殺曾氏報怨語(ぞうしにころされてあたをほうぜること)」で触れた。「大山(たいざん=泰山)」。古くは古代中国の神仙思想から生じてきたものと考えられている。次第に道教や仏教などの諸神・諸仏と混合されてしまい、結果的に冥途の王である閻魔王の居城とされるようになった。しかし「泰山(たいざん)」はもともと「泰山府君(たいざんぶくん)」の「府」に示されているように、あの世ではなくこの世の官庁街がモデルになっている。始めは高級官僚や大貴族を指しており、同時に先祖を敬うという意味を持っていた。それが次の段階になると「府君」は亡くなった親を指し示す言葉へとやや意味を変える。死去した先祖という意味が強調されるようになる。その頃、遣隋使に象徴されるように日本へも本格的に仏教・道教並びに中国の神仙思想などが伝来し始めた。小野篁(おののたかむら)は「野相公」と名乗り、「本朝文粋」の一節に「府君之恩」と書き残している。
「幸願蒙府君之恩許、共同穴偕老之義」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第七・一八六・奉右大臣・野相公・P.242」岩波書店)
その頃はまだ冥界とか地獄とかへ直結する思想ではなかった。あくまで本流としては先祖供養が主流だったように見える。ところが隋から唐へ移る過程で中国各地では大規模な戦乱や反乱が相次いだ。するともう何が何だか整理し切れないほど多様な宗教・思想が入り乱れて独特の冥界が描かれるようになる。十七世紀半ばから十八世紀に書かれた「聊斎志異(りょうさいしい)」ではほとんどまったく日本の地獄絵図と変わらない閻魔庁があり閻魔王が出てくる。そしてそこへ行くには「底知れぬ深い洞穴」があり、「一里ばかり行くと、ふっと灯が消え」、「行く手に広い道が開け、間口十余里もあろうかという広間があ」るという格好。
「鄷都(ほうと)県の城外に閻羅(えんら・閻魔)大王の法廷と伝えられてきた底知れぬ深い洞穴がある。中で使用される刑具はすべてこの世のもので、枷や鎖などが古くなって使えなくなると、外に投げ出される。知県がただちに新品と取り替えておくと、翌朝にはなくなっているので、要した費用はすべて記帳しておくのである。明のとき、按察御史(検察官)の華(か)公といいう人が、鄷都に回ってきたときこれを聞き、『そんな馬鹿なことが』と信ぜず、自ら中にはいって真相を究明しようと、人が止めるのも聞かず、下僕二人を従え、灯を持って奥にはいった。一里ばかり行くと、ふっと灯が消えた。頭を上げてみれば、行く手に広い道が開け、間口十余里もあろうかという広間があって、左右には官服に威儀を正した大官たちが、東側筆頭の席一つを残して居流れていた。そして華公が来たのを見ると、にこにこしながら降りてきた。『いらっしゃい。その後、お変わりありませんか』。『ここはどこですか』。『冥府(閻魔の庁)ですよ』」(「鄷都御史(ほうとぎよし)」『聊斎志異・上・四八・P.440~441』岩波文庫)
また、泰山は「岱宗(たいそう)」とも書く。杜甫が「岱山を望む」という詩を残している。しかし杜甫の場合、詩人だけあってというべきか、どちらかというとご当地案内のためのキャッチ・コピーの色合いが濃い。
「岱宗夫如何 斉魯青未了 造化鍾神秀 陰陽割昏暁 盪胸生曾雲 決眥入帰鳥 会当凌絶頂 一覧衆山小
(書き下し)岱宗(たいそう)夫(そ)れ如何(いかん) 斉魯(せいろ)青(せい)未(いま)だ了(おわ)らず 造化(ぞうか)は神秀(しんしゅう)を鍾(あつ)め 陰陽(いんよう)は昏暁(こんぎょう)を割(さ)く 胸(むね)を盪(うごか)して曾雲(そううん)生(しょう)じ 眥(まなじり)を決(けっ)して帰鳥(きちょう)入(い)る 会(かなら)ず当(まさ)に絶頂(ぜっちょう)を凌(しの)ぎて 一(ひと)たび衆山(しゅうざん)の小(しょう)なるを覧(み)るべし
(現代語訳)泰のみやまは一体いかなる山であるかといえば、斉のくに魯のくにまでその山の青さが終わろうとはしない。万物のつくり主が神妙な霊気をあつめ、陰気と陽気がこの山に働いて昼と夜とを分割する。重なった雲が湧きたってわがこころをとどろかせ、山に帰りゆく鳥をまぶたも裂けよと目をこらす。いつかはきっと絶頂によじのぼり、足もとに山々の小さくみえるのを眺めるであろう」(「望岳」『杜甫詩選・P.14~16』岩波文庫)
遊行僧の話に戻ろう。廟堂守りの忠告に応えていう。「いずれ死ぬことは逃れられない必然的なことです。私はそれを苦しみだとは思っていません」。
「死セム事、遂(つひ)ノ道也。我レ、苦ブ所ニ非(あら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.122」岩波書店)
すると廟堂守りは露台のような椅子を持ってきてくれた。僧はそこで寝ることにした。夜になり静かに経典を読誦していると、廟堂の中から環(たまき=輪の形をした玉)の音色が響いてきた。何だろうと不審に思っていると、この上なく超然たる神が忽然と出現した。すると怯えを見せている僧に向かって礼拝された。そこで僧はやや緊張がほぐれたのか、神に尋ねてみた。「数年来、この廟堂で宿ろうとした人々はみんな死んでしまったと聞いております。どうして神が人間を殺そうとされるのでしょうか。むしろ私を守って頂きたいと願うばかりです」。そう聞くと神はこう仰る。「わたしは人間を殺したことなど一度もない。ただ、わたしが出現するとその音を聞いた者が恐怖のあまり自然死してしまうのだ。僧よ、どうかわたしを恐れることのないように」。
「我レ、更ニ人ヲ害スル事無シ。只、我ガ至ルヲ、人、其ノ音ヲ聞クニ、恐レテ自然(おのづか)ラ死スル也。願(ねがは)クハ、師、我レニ恐ルル事無カレ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.123」岩波書店)
遊行僧は親しみを感じ、神もまたこの僧を悪くは思っていないらしく、僧は神と並んで腰掛け語り合い始めた。僧は聞いてみる。「太山府君は冥界を支配する神だと伺っておりますが、本当なのでしょうか」。神は答える。「まさしく。そなた、以前の死者の中で見たい者がいるのですか」。僧はいう。「先に死去した同僚の僧が二人います。できれば彼らを見たいと思います」。
「前(さき)ニ死(しに)タル、二人ノ同学ナリシ僧有リ。願(ねがは)クハ、我レ、彼等ヲ見ムト思フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.123」岩波書店)
神はその二人の姓名を尋ねた。僧は二人の名前を正確に告げた。すると神はこう答えた。「その二人のうち一人はもう既に人間道に還り、今や人間に生まれ代わっている。もう一人は地獄に堕ちている。重罪ゆえ直接そなたが見ることはできない。だからわたしに随行して地獄を巡ってみることにしよう」。
「其ノ二人、一人ハ既ニ還(かへり)テ人間(にんげん)ニ生(うまれ)タリ。一人ハ地獄(ぢごく)ニ有リ。極(きはめ)テ罪重クシテ不可見(みるべから)ズ。但シ我レニ随(したがひ)テ地獄ニ行(ゆき)テ可見(みるべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.123」岩波書店)
神に付き従って或る場所に至るとそこでは強烈な火焔がほとばしり溢れている。神は僧を連れて遥かに見渡せる箇所へ案内した。僧が火焔の中を見ると一人の人間が火の中でうごめいている。言葉にならない唸り声でただ絶叫しているばかり。姿形は誰とも見分けがつかない。ただ単なる血まみれの肉塊でしかない。
「僧遥(はるか)ニ見レバ、一人ノ人、火ノ中ニ有リ。云フ事不能(あたは)ズシテ只叫ブ。其ノ形、其ノ人ト不可見知(みしるべから)ズ。只血肉(ちじし)ニテノミ有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.123」岩波書店)
神はいう。「あの者がそなたのいう同僚です」。僧はなるほど深い慈悲心の持ち主だが神はすぐ元の廟堂に戻って行くのでどうすることもできない。僧は神に尋ねる。「彼は私の同僚です。救う方法はないのでしょうか」。神は仰る。「速やかに救おうとなさるなら、あの者のために法華経を書写し、奉納して供養とされるがよい。そうすれば彼はただちに罪を免(まぬが)れることができるでしょう」。
「速(すみやか)ニ可救(すくふべ)シ。善(よ)ク彼レガ為ニ法花経(ほくゑきやう)ヲ書写(しよしや)シ可奉(たてまつるべ)シ。然ラバ、即チ罪ヲ免(まぬか)ルル事ヲ得(え)テム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.124」岩波書店)
僧は神の指示に従って写経しようと心に決めた。翌朝、椅子を用意してくれた廟堂守りがやって来た。僧が生きているのを見るとかえって訝しそうな表情になった。そこで僧は昨夜の出来事を詳しく話して聞かせた。廟堂守りは「妙なことがあるものだ」と思いながら帰っていった。
「朝(あした)ニ廟令(めいりやう)来(きたり)テ、僧ヲ見テ、不死(しな)ザル事ヲ怪(あやし)ぶ。僧、廟令ニ有(あり)ツル事ヲ具(つぶさ)ニ語ル。廟令、此レヲ聞(きき)テ、『奇異也』ト思(おもひ)テ返(かへり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.124」岩波書店)
その後、遊行僧は法華経一部(巻第一・第一〜巻第八・第二十八)を写経し、地獄で見た同僚のために供養した。さらに僧は書写した経を持って再び太山府君の廟堂へ赴き、先日の夜と同じように宿りを取った。その夜、前に降臨された神が出現した。僧は神の問いに答え、地獄の火焔の中で血塗れの肉塊になっている同僚の苦しみを救うため、神が告げられたとおり写経し供養を行った旨を報告した。
「其後(そののち)、其ノ経ヲ持(たもち)テ、亦、廟(めう)ニ至(いたり)テ前(さき)ノ如ク宿(やどりし)ヌ。其(その)夜、亦、神出(いで)給フ事、前(さき)ノ如シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.124」岩波書店)
神はそれを見ていう。「そなたが同僚のために書したこの経文には他でもない題目の解釈が説かれている。始めて見ました。あの同僚はもう地獄の苦しみを許されたに違いない。今や生まれ変わってそれほど時間が経っていないはずです」。
「汝(なむ)ヂ、彼(か)ノ同学ノ為ニ始メテ経ノ題目ヲ書(かき)シニ、彼レ、既ニ苦ヲ免(まぬか)レニキ。今、生(しやう)ヲ賛(かへ)テ不久(ひさしから)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.124」岩波書店)
僧はそう聞かされて大変うれしく思い、書写してきた経を廟堂に安置して差し上げたいと述べた。だが神は仰る。「ここは死者を祀る廟堂であって汚穢(おえ)の世界です。経を安置して差し上げるべき場所ではない。そなた、本(もとの)所へ帰って経を寺に奉納しなさい」。
「此ノ所、浄キ所ニ非(あら)ズ。然レバ、経ヲ安置(あんぢ)シ不可奉(たてまつるべから)ズ。願(ねがは)クハ、師、本(もとの)所ニ返(かへり)テ経ヲ寺ニ送リ奉レ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.125」岩波書店)
僧は神の言葉に随い経は寺に納めることにした。
さて。これまでにも太山の廟堂を訪れた僧はいたがいずれも皆死んだ。ところがこの僧だけは太山の神と語り合い、地獄に堕ちた同僚を苦しみから救うことに成功している。第一の条件としてこの僧は一つの決まった場所に定住せず全国各地を行脚して廻る「遊行僧」であること。僧としては定住者ではないがただ単なる俗人でもない一種の「移動民」。或る秩序〔価値体系〕から別の秩序〔価値体系〕へ移動可能な境界領域の住人である。それが仏教の聖地から道教の聖地への移動を可能にしている。第二にかつての同僚の地獄からの救済。法華経一部の書写並びに供養と同僚の転生との交換。交換の場で両者が等置されるや両者は等価と見做され、同僚の転生は速やかに達成された。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
貨幣と諸商品との交換と同じく、両者は交換されるや否や互いが互いの価値を実現し合う。ニーチェがいうようにこのような関係は宗教の発生以前からあった行為である。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
だがしかし、一旦交換が果たされるとその起源は交換行為それ自体によって覆い隠され忘れられてしまう。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
熊楠はそのような事態を別の分野でこう述べた。
「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫)
外国のことはよく知らないが、少なくとも日本政府は今なお転倒したまま同様の過ちを犯しつつあるのでは、と思われて仕方がない。
BGM1
BGM2
BGM3
隋の大業(だいげふ)の頃(六〇五年〜六一六年)、仏道に励む一人の遊行僧がいた。大山府君(たいざんぶくん)の廟堂(めうどう)へ登り着き、そこで一夜の宿りを得ようとしていると廟堂守りがやって来ていう。「ここに宿泊できる施設はないので廟堂の床下でよければそこで宿るようにしなさい。ただ、以前にもこの廟堂で宿った人々はいたが全員死んでしまった」。
「此ノ所ニ別ノ屋無シ。然レバ、廟堂(めうだう)ノ廊(らう)ノ下(もと)ニ可宿(やどりすべ)シ。但シ、前々(さきざき)此ノ廟(めう)ニ来リ宿(やどり)スル人、必ズ死スリ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.122」岩波書店)
大山府君(たいざんぶくん)の廟堂(めうどう)のついては以前「巻第九・第三十五話・震旦庾抱(しんだんのゆはう)、被殺曾氏報怨語(ぞうしにころされてあたをほうぜること)」で触れた。「大山(たいざん=泰山)」。古くは古代中国の神仙思想から生じてきたものと考えられている。次第に道教や仏教などの諸神・諸仏と混合されてしまい、結果的に冥途の王である閻魔王の居城とされるようになった。しかし「泰山(たいざん)」はもともと「泰山府君(たいざんぶくん)」の「府」に示されているように、あの世ではなくこの世の官庁街がモデルになっている。始めは高級官僚や大貴族を指しており、同時に先祖を敬うという意味を持っていた。それが次の段階になると「府君」は亡くなった親を指し示す言葉へとやや意味を変える。死去した先祖という意味が強調されるようになる。その頃、遣隋使に象徴されるように日本へも本格的に仏教・道教並びに中国の神仙思想などが伝来し始めた。小野篁(おののたかむら)は「野相公」と名乗り、「本朝文粋」の一節に「府君之恩」と書き残している。
「幸願蒙府君之恩許、共同穴偕老之義」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第七・一八六・奉右大臣・野相公・P.242」岩波書店)
その頃はまだ冥界とか地獄とかへ直結する思想ではなかった。あくまで本流としては先祖供養が主流だったように見える。ところが隋から唐へ移る過程で中国各地では大規模な戦乱や反乱が相次いだ。するともう何が何だか整理し切れないほど多様な宗教・思想が入り乱れて独特の冥界が描かれるようになる。十七世紀半ばから十八世紀に書かれた「聊斎志異(りょうさいしい)」ではほとんどまったく日本の地獄絵図と変わらない閻魔庁があり閻魔王が出てくる。そしてそこへ行くには「底知れぬ深い洞穴」があり、「一里ばかり行くと、ふっと灯が消え」、「行く手に広い道が開け、間口十余里もあろうかという広間があ」るという格好。
「鄷都(ほうと)県の城外に閻羅(えんら・閻魔)大王の法廷と伝えられてきた底知れぬ深い洞穴がある。中で使用される刑具はすべてこの世のもので、枷や鎖などが古くなって使えなくなると、外に投げ出される。知県がただちに新品と取り替えておくと、翌朝にはなくなっているので、要した費用はすべて記帳しておくのである。明のとき、按察御史(検察官)の華(か)公といいう人が、鄷都に回ってきたときこれを聞き、『そんな馬鹿なことが』と信ぜず、自ら中にはいって真相を究明しようと、人が止めるのも聞かず、下僕二人を従え、灯を持って奥にはいった。一里ばかり行くと、ふっと灯が消えた。頭を上げてみれば、行く手に広い道が開け、間口十余里もあろうかという広間があって、左右には官服に威儀を正した大官たちが、東側筆頭の席一つを残して居流れていた。そして華公が来たのを見ると、にこにこしながら降りてきた。『いらっしゃい。その後、お変わりありませんか』。『ここはどこですか』。『冥府(閻魔の庁)ですよ』」(「鄷都御史(ほうとぎよし)」『聊斎志異・上・四八・P.440~441』岩波文庫)
また、泰山は「岱宗(たいそう)」とも書く。杜甫が「岱山を望む」という詩を残している。しかし杜甫の場合、詩人だけあってというべきか、どちらかというとご当地案内のためのキャッチ・コピーの色合いが濃い。
「岱宗夫如何 斉魯青未了 造化鍾神秀 陰陽割昏暁 盪胸生曾雲 決眥入帰鳥 会当凌絶頂 一覧衆山小
(書き下し)岱宗(たいそう)夫(そ)れ如何(いかん) 斉魯(せいろ)青(せい)未(いま)だ了(おわ)らず 造化(ぞうか)は神秀(しんしゅう)を鍾(あつ)め 陰陽(いんよう)は昏暁(こんぎょう)を割(さ)く 胸(むね)を盪(うごか)して曾雲(そううん)生(しょう)じ 眥(まなじり)を決(けっ)して帰鳥(きちょう)入(い)る 会(かなら)ず当(まさ)に絶頂(ぜっちょう)を凌(しの)ぎて 一(ひと)たび衆山(しゅうざん)の小(しょう)なるを覧(み)るべし
(現代語訳)泰のみやまは一体いかなる山であるかといえば、斉のくに魯のくにまでその山の青さが終わろうとはしない。万物のつくり主が神妙な霊気をあつめ、陰気と陽気がこの山に働いて昼と夜とを分割する。重なった雲が湧きたってわがこころをとどろかせ、山に帰りゆく鳥をまぶたも裂けよと目をこらす。いつかはきっと絶頂によじのぼり、足もとに山々の小さくみえるのを眺めるであろう」(「望岳」『杜甫詩選・P.14~16』岩波文庫)
遊行僧の話に戻ろう。廟堂守りの忠告に応えていう。「いずれ死ぬことは逃れられない必然的なことです。私はそれを苦しみだとは思っていません」。
「死セム事、遂(つひ)ノ道也。我レ、苦ブ所ニ非(あら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.122」岩波書店)
すると廟堂守りは露台のような椅子を持ってきてくれた。僧はそこで寝ることにした。夜になり静かに経典を読誦していると、廟堂の中から環(たまき=輪の形をした玉)の音色が響いてきた。何だろうと不審に思っていると、この上なく超然たる神が忽然と出現した。すると怯えを見せている僧に向かって礼拝された。そこで僧はやや緊張がほぐれたのか、神に尋ねてみた。「数年来、この廟堂で宿ろうとした人々はみんな死んでしまったと聞いております。どうして神が人間を殺そうとされるのでしょうか。むしろ私を守って頂きたいと願うばかりです」。そう聞くと神はこう仰る。「わたしは人間を殺したことなど一度もない。ただ、わたしが出現するとその音を聞いた者が恐怖のあまり自然死してしまうのだ。僧よ、どうかわたしを恐れることのないように」。
「我レ、更ニ人ヲ害スル事無シ。只、我ガ至ルヲ、人、其ノ音ヲ聞クニ、恐レテ自然(おのづか)ラ死スル也。願(ねがは)クハ、師、我レニ恐ルル事無カレ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.123」岩波書店)
遊行僧は親しみを感じ、神もまたこの僧を悪くは思っていないらしく、僧は神と並んで腰掛け語り合い始めた。僧は聞いてみる。「太山府君は冥界を支配する神だと伺っておりますが、本当なのでしょうか」。神は答える。「まさしく。そなた、以前の死者の中で見たい者がいるのですか」。僧はいう。「先に死去した同僚の僧が二人います。できれば彼らを見たいと思います」。
「前(さき)ニ死(しに)タル、二人ノ同学ナリシ僧有リ。願(ねがは)クハ、我レ、彼等ヲ見ムト思フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.123」岩波書店)
神はその二人の姓名を尋ねた。僧は二人の名前を正確に告げた。すると神はこう答えた。「その二人のうち一人はもう既に人間道に還り、今や人間に生まれ代わっている。もう一人は地獄に堕ちている。重罪ゆえ直接そなたが見ることはできない。だからわたしに随行して地獄を巡ってみることにしよう」。
「其ノ二人、一人ハ既ニ還(かへり)テ人間(にんげん)ニ生(うまれ)タリ。一人ハ地獄(ぢごく)ニ有リ。極(きはめ)テ罪重クシテ不可見(みるべから)ズ。但シ我レニ随(したがひ)テ地獄ニ行(ゆき)テ可見(みるべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.123」岩波書店)
神に付き従って或る場所に至るとそこでは強烈な火焔がほとばしり溢れている。神は僧を連れて遥かに見渡せる箇所へ案内した。僧が火焔の中を見ると一人の人間が火の中でうごめいている。言葉にならない唸り声でただ絶叫しているばかり。姿形は誰とも見分けがつかない。ただ単なる血まみれの肉塊でしかない。
「僧遥(はるか)ニ見レバ、一人ノ人、火ノ中ニ有リ。云フ事不能(あたは)ズシテ只叫ブ。其ノ形、其ノ人ト不可見知(みしるべから)ズ。只血肉(ちじし)ニテノミ有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.123」岩波書店)
神はいう。「あの者がそなたのいう同僚です」。僧はなるほど深い慈悲心の持ち主だが神はすぐ元の廟堂に戻って行くのでどうすることもできない。僧は神に尋ねる。「彼は私の同僚です。救う方法はないのでしょうか」。神は仰る。「速やかに救おうとなさるなら、あの者のために法華経を書写し、奉納して供養とされるがよい。そうすれば彼はただちに罪を免(まぬが)れることができるでしょう」。
「速(すみやか)ニ可救(すくふべ)シ。善(よ)ク彼レガ為ニ法花経(ほくゑきやう)ヲ書写(しよしや)シ可奉(たてまつるべ)シ。然ラバ、即チ罪ヲ免(まぬか)ルル事ヲ得(え)テム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.124」岩波書店)
僧は神の指示に従って写経しようと心に決めた。翌朝、椅子を用意してくれた廟堂守りがやって来た。僧が生きているのを見るとかえって訝しそうな表情になった。そこで僧は昨夜の出来事を詳しく話して聞かせた。廟堂守りは「妙なことがあるものだ」と思いながら帰っていった。
「朝(あした)ニ廟令(めいりやう)来(きたり)テ、僧ヲ見テ、不死(しな)ザル事ヲ怪(あやし)ぶ。僧、廟令ニ有(あり)ツル事ヲ具(つぶさ)ニ語ル。廟令、此レヲ聞(きき)テ、『奇異也』ト思(おもひ)テ返(かへり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.124」岩波書店)
その後、遊行僧は法華経一部(巻第一・第一〜巻第八・第二十八)を写経し、地獄で見た同僚のために供養した。さらに僧は書写した経を持って再び太山府君の廟堂へ赴き、先日の夜と同じように宿りを取った。その夜、前に降臨された神が出現した。僧は神の問いに答え、地獄の火焔の中で血塗れの肉塊になっている同僚の苦しみを救うため、神が告げられたとおり写経し供養を行った旨を報告した。
「其後(そののち)、其ノ経ヲ持(たもち)テ、亦、廟(めう)ニ至(いたり)テ前(さき)ノ如ク宿(やどりし)ヌ。其(その)夜、亦、神出(いで)給フ事、前(さき)ノ如シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.124」岩波書店)
神はそれを見ていう。「そなたが同僚のために書したこの経文には他でもない題目の解釈が説かれている。始めて見ました。あの同僚はもう地獄の苦しみを許されたに違いない。今や生まれ変わってそれほど時間が経っていないはずです」。
「汝(なむ)ヂ、彼(か)ノ同学ノ為ニ始メテ経ノ題目ヲ書(かき)シニ、彼レ、既ニ苦ヲ免(まぬか)レニキ。今、生(しやう)ヲ賛(かへ)テ不久(ひさしから)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.124」岩波書店)
僧はそう聞かされて大変うれしく思い、書写してきた経を廟堂に安置して差し上げたいと述べた。だが神は仰る。「ここは死者を祀る廟堂であって汚穢(おえ)の世界です。経を安置して差し上げるべき場所ではない。そなた、本(もとの)所へ帰って経を寺に奉納しなさい」。
「此ノ所、浄キ所ニ非(あら)ズ。然レバ、経ヲ安置(あんぢ)シ不可奉(たてまつるべから)ズ。願(ねがは)クハ、師、本(もとの)所ニ返(かへり)テ経ヲ寺ニ送リ奉レ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十九・P.125」岩波書店)
僧は神の言葉に随い経は寺に納めることにした。
さて。これまでにも太山の廟堂を訪れた僧はいたがいずれも皆死んだ。ところがこの僧だけは太山の神と語り合い、地獄に堕ちた同僚を苦しみから救うことに成功している。第一の条件としてこの僧は一つの決まった場所に定住せず全国各地を行脚して廻る「遊行僧」であること。僧としては定住者ではないがただ単なる俗人でもない一種の「移動民」。或る秩序〔価値体系〕から別の秩序〔価値体系〕へ移動可能な境界領域の住人である。それが仏教の聖地から道教の聖地への移動を可能にしている。第二にかつての同僚の地獄からの救済。法華経一部の書写並びに供養と同僚の転生との交換。交換の場で両者が等置されるや両者は等価と見做され、同僚の転生は速やかに達成された。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
貨幣と諸商品との交換と同じく、両者は交換されるや否や互いが互いの価値を実現し合う。ニーチェがいうようにこのような関係は宗教の発生以前からあった行為である。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
だがしかし、一旦交換が果たされるとその起源は交換行為それ自体によって覆い隠され忘れられてしまう。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
熊楠はそのような事態を別の分野でこう述べた。
「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫)
外国のことはよく知らないが、少なくとも日本政府は今なお転倒したまま同様の過ちを犯しつつあるのでは、と思われて仕方がない。
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