白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/楚(そ)の厚谷(くうこく)・祖父を棄てに山へ

2021年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

春秋戦国時代、楚(そ)に厚谷(くうこく)という男性がいた。「楚(そ)」は「長江(ちょうこう・揚子江)」の中流域に当たる今の中国湖南省・湖北省周辺。

厚谷には父と祖父とがいた。父は祖父がかなりの老体になってなお余りに長生きしているのを苦痛に感じ厭わしく思うようになっていた。或る日、厚谷の父は一台の輿(こし)を造り、そこに老いた祖父を乗せ、厚谷に手伝わせて山深くまで輿を運んで祖父を遺棄して帰った。

「而(しか)ル間、厚谷ガ父、一(ひとつ)ノ輿(こし)ヲ造(つくり)テ、老(おい)タル父ヲ乗セテ、此ノ厚谷ト共ニ此レヲ荷(になひ)テ、深キ山ノ中ニ将(ゐ)テ行(ゆき)テ、父ヲ棄置(すておき)テ家ニ返(かへり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十五・P.276」岩波書店)

ところが何を思ったのか厚谷は、祖父の乗せた輿(こし)だけを家に持って帰ってきた。

「其ノ時ニ厚谷、此ノ祖父(おほぢ)ヲ乗セタリツル輿(こし)ヲ家ニ持返(もてかへり)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十五・P.276」岩波書店)

父は息子・厚谷にその理由を尋ねた。厚谷は答える。「人の子は親が年老いたら輿(こし)に乗せて山に棄てるものだとわかりました。それならお父さんが老人になられた時は、この輿に乗せて山に棄てに行こうと思います。そこで新しく輿(こし)を造るよりも、まだ使えるこの輿を残しておいてリサイクルするに越したことはありません」。

「人ノ子ハ、老(おい)タル父ヲバ輿ニ乗セテ山ニ棄(す)ツル者也(なり)ケリト知(しり)ヌ。然レバ、我ガ父ヲモ老(おい)ナム時ニ、此ノ輿ニ乗セテ山ニ棄テム。亦、更(さ)ラニ輿ヲ造ラムヨリハ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十五・P.277」岩波書店)

厚谷の父はそれを聞いて、「は?わしが老人になれば間違いなく山深くに遺棄されるだろうと」、と戦慄した。すると父はさっき祖父を棄ててきた山へたちまち入って行って祖父を連れ帰ってきた。その後、父は祖父のことを疎かにすることなく身の回りの世話に尽くした。厚谷がとっさに演じたユーモアが功を奏したというべきだろう。

「父、此レヲ聞テ、『然ラバ、我モ老ナム時、必ズ被棄(すてら)レナムズ』ト思(おもひ)テ、怖レ迷(まどひ)テ、即チ山ニ行(ゆき)テ、父ヲ迎(むかへ)テ将返(ゐれかへり)ニケリ。其ノ後ハ、厚谷ガ父、老(おいたる)父ニ孝養(けうやう)スル事不愚(おろかなら)ズ。此レ偏(ひとへ)ニ、厚谷ガ謀(はかりごと)ニ依(より)テ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十五・P.277」岩波書店)

さて。この説話で重要なのは「ユーモア」という形式で厚谷が演じた言語の役割は、貨幣の役割に似ているがまるで違っている点。ユーモアはギャクでもなければ冗談でもなく、ウィットや皮肉に似ているようでいてそれらともまた異なる。フロイトはいう。

「大切なのは、それが自分自身に向けられたものであれ、また他人に向けられたものであれ、ユーモアが持っている意図なのである。いってみれば、ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、それが世の中だ、ずいぶん危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶべきことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。ーーー超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとするということと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しない」(フロイト「ユーモア」『フロイト著作集3・P.411』人文書院)

或いはボードレールの場合。

「笑いは悪魔的である。ゆえにこれは深く人間的である。これは人間にあって、自らの優越性の観念の帰結である。そして事実、笑いは本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾したものだ、すなわち、笑いは無限な偉大さの徴(しるし)であると同時に無限な悲惨の徴であって、人間が頭で知っている<絶対存在者>との関連においてみれば無限の悲惨、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さということになる。この二つの無限の絶え間ない衝突からこそ、笑いが発する。滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者の裡に存するのであり、笑いの対象の裡にあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分自身のころんだことを笑ったりは決してしない、もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの《自我》の諸現象に局外の傍観者として立ち会う力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話は別だが」(ボードレール「笑いの本質について、および一般に造型芸術における滑稽について」『ボードレール批評1・P.227』ちくま学芸文庫)

漱石の場合。「写生文」について述べた例がそうだ。

「社会は人間の塊(かた)まりである。その人間を区別すれば色々出来る。貴とも賤(せん)ともなる。賢とも不肖ともなる。正とも邪ともなる。男とも女ともなる。貧とも富ともなる。老とも若、長と幼ともなる。その他色々に区別が出来る。区別が出来る以上は、区別された一のものが他を視(み)る態度は、一のうちにある甲が、同じく一のうちにある乙を視る態度とは異ならなければならぬ。人生観というと堅苦しく聞える。何だか恐ろしくて近寄りにくい。しかし煎(せん)じつめればこの態度である。隣りの法律家が余を視る立脚地は、余が隣りの法律家を視る立脚地とは自(おのず)から違う。大袈裟(おおげさ)な言葉でいうと彼此(ひし)の人生観が、ある点において一様でない。というに過ぎん。

人事に関する文章はこの視察の表現である。従って人事に関する文章の差異はこの視察の差異に帰着する。この視察の差異は視察の立場によって岐(わか)れてくる。するとこの立場が文章の差異を生ずる源になる。今の世にいう写生作家というものの文章は如何(いか)なる事をかいても皆共有の点を有して、他人のそれとは截然(せつぜん)と区別の出来るような特色を帯びている。するとこれらの団体はその特色の共有なる点において、同じ立場に根拠地を構えているというてよろしい。もう一遍大袈裟な言葉を借用すると、同じ人生観を有して同じ穴から隣りの御嬢さんや、向うの御爺さんを覗(のぞ)いているに相違ない。この穴を紹介するのが余の責任である。否この穴から浮世を覗けばどんなに見えるかという事を説明するのが余の義務である。

写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者(せんじゃ)を視(み)るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子(くんし)が小人(しょうじん)を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が子供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。しかし解剖すれば遂にここに帰着してしまう。

子供はよく泣くものである。子供の泣く度に泣く親は気違(きちがい)である。親と子供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は子供が泣く度に親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做(みな)して、擦(す)ったもんだの社会にわれ自身も擦ったり揉(も)んだりして、あくまで、その社会の一員であるという態度で筆を執る。従って隣りの御嬢さんが泣く事をかく時は、当人自身も泣いている。自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのとわれは泣かずして、泣く人を覗いているのとは記叙の題目その物は同じでもその精神は大変違う。写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。

そんな不人情な立場に立って人を動かす事が出来るかと聞くものがある。動かさんでもいいのである。隣りの御嬢さんも泣き、写す文章家も泣くから、読者も泣かねばならん仕儀(しぎ)となる。泣かなければ失敗の作となる。しかし筆者自身がぽろぽろ涙を落して書かぬ以上は御嬢さんが、どれほど泣かれても、読者がどれほど泣かれなくても失敗にはならん。子供が駄菓子(だがし)を買いに出る。途中で犬に吠(ほ)えられる。ワーと泣いて帰る。御母(おっか)さんが一所になってワーと泣かぬ以上は、傍人(ぼうじん)が泣かんでも出来損(できそこな)いの御母さんとはいわれぬ。御母さんは駄菓子を犬に取られる度に泣き得るような平面に立って社会に生息していられるものではない。写生文家は思う。普通の小説家は泣かんでもの事を泣いている。世の中に泣くべき事がどれほどあると思う。隣りの御嬢さんが泣くのを拝見するのは面白い。これを記述するのも面白い。しかし同じように泣くのは御免蒙(ごめんこうむ)りたい。だからある男が泣く様を文章にかいた時にたとい読者が泣いてくれんでも失敗したとは思わない。むやみに泣かせるなどは幼稚だと思う。

それでは人間に同情がない作物を称して写生文家というように思われる。しかしそう思うのは誤謬(ごびゅう)である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻(れいこく)でもない。無論同情がある。同情があるけれども駄菓子を落した子供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是(がんぜ)なく煩悶(はんもん)し、無体(むてい)に号泣し、直角に跳躍(ちょうやく)し、一散に狂奔(きょうほん)する底(てい)の同情ではない。傍(はた)から見て気の毒の念に堪(た)えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。

従って写生文家の描く所は多く深刻なものではない。否(いな)如何に深刻な事をかいてもこの態度で押して行くから、ちょっと見ると底まで行かぬような心持ちがするのである。しかのみならずこの態度で世間人情の交渉を視(み)るから大抵の場合には滑稽(こっけい)の分子を含んだ表現となって文章の上にあらわれて来る。

人によると写生文家のかいたものを見て世を馬鹿にしているという。茶化しているという。もし両親の子供に対する態度が子供を馬鹿にしている、茶化しているといい得(う)べくんば写生文家もまたこの非難を免かれぬかも知れぬ。多少の道化(どうけ)たるうちに一点の温情を認め得ぬものは親の心を知らぬもので、また写生文家を解し得ぬものであろう。この故に写生文家は地団太(じだんだ)を踏む熱烈な調子を避ける。かかる狂的な人間を写すのを避けるのではない。写生文家自身までが写さるる狂的な人間と同一になるを避けるのである。避けるのではない。そこまで引き込まるる事が可笑(おか)しくて出来(でき)にくいのである。そこで写生文家なるものは真面目に人世を観じておらぬかの感が起る。なるほどそうかも知れぬ。しかし一方から見れば作者自身が恋に全精神を奪われ、金に全精神を捧げ、名に全精神を注いで、そうして恋と金と、名を求めつつある人物を描くよりも比較的に真面目かも知れぬ。描き出(い)ださるべき一人に同情して理否も、前後も弁(わきま)えぬほどの熱情を以て文をやる男よりも慥(たし)かな所があるかも知れぬ。

わが精神を篇中の人物に一図(いちず)に打ち込んで、その人物になり済まして、恋を描き愛を描き、もしくは他の情緒を描くのは熱烈なものが出来るかも知れぬが、如何にも余裕がない作が現れるに相違ない。写生文家のかいたものには何となく《ゆとり》がある。逼(せま)っておらん。屈託気(くったくげ)が少ない。従って読んで暢(の)び暢びした気がする。全く写生文家の態度が人事を写し行く際に全精神を奪われてしまわぬからである。写生文家は自己の精神の幾分を裂いて人事を視る。余す所は常に遊んでいる。遊んでいる所がある以上は、写すわれと、写さるる彼との間に一致する所と同時に離れている局部があるという意味になる。全部がぴたりと一致せぬ以上は写さるる彼になり切って、彼を写す訳には行かぬ。依然として彼我(ひが)の境を有して、我の見地から彼を描かなければならぬ。これにおいて写生文家の描写は多くの場合において客観的である。大人は小児を理解する。しかし全然小児に成り済ます訳にも行かぬ。小児の喜怒哀楽を写す場合には勢(いきおい)客観的でなければならぬ。ここに客観的というは《我》を写すにあらず《彼》を写すという態度を意味するのである。この気合で押して行く以上は如何に複雑に進むとも如何に精緻(せいち)に赴(おもむ)くともまた如何に解剖的に説き入るとも調子は依然として同じ事である。

余は最初より大人と小児の譬喩(たとえ)を用いて写生文家の立場を説明した。しかしこれは単に彼らの態度を尤(もっと)もよくいいあらわすための言語である。決して彼らの人生観の高下を示すものではない。大人だから《えらい》。《えらい》見方をして人事に対するのが写生文家だという意義に解釈されては余の本旨に背(そむ)く。《えらい、えらくない》は問題外である。ただ彼らの態度がこうだというまでに過ぎぬ。

この故に写生文家は自己の心的行動を叙する際にもやはり同一の筆法を用いる。彼らも喧嘩をするだろう。煩悶するだろう。泣くだろう。その平生を見れば毫(ごう)も凡衆と異なる所なく振舞っているかも知れぬ。しかし一度(ひとたび)筆を執って喧嘩するわれ、煩悶するわれ、泣くわれ、を描く時はやはり大人が小児を視る如き立場から筆を下す。平生の小児を、作家の大人が叙述する。写生文家の筆に依怙(えこ)の沙汰(さた)はない。紙を展(の)べて思を構うるときは自然とそういう気合になる。この気合が彼らの人生観である。少なくとも文章を作る上においての人生観である。人生観が自然と出来ているのだから、自己が意識せざるうちに筆は既に着々としてその方向へ進んで行く。

彼らは何事をも写すを憚(はば)からぬ。ただ拘泥(こうでい)せざるを特色とする、人事百端、遭逢纏綿(そうほうてんめん)の限りなき波瀾(はらん)は悉(ことごと)く喜怒哀楽の種で、その喜怒哀楽は必竟(ひっきょう)するに拘泥するに足らぬものであるというような筆致が彼らの人生に齎(もたら)し来(きた)る福音(ふくいん)である。彼らのかいたものには筋のないものが多い。進水式をかく。すると進水式の雑然たる光景を雑然と叙(の)べて知らぬ顔をしている。飛鳥山の花見をかく。踊(おど)ったり、跳(は)ねたり、酣酔狼藉(かんすいろうぜき)の体(てい)を写して頭も尾もつけぬ。それで好いつもりである。普通の小説の読者からいえば物足らない。しまりがない。漠然として捕捉すべき筋が貫いておらん。しかし彼らからいうとこうである。筋とは何だ。世の中は筋のないものだ。筋のないもののうちに筋を立てて見たって始まらないじゃないか。どんな複雑な趣向で、どんな纏(まとま)った道行(みちゆき)を作ろうとも畢竟は、雑然たる進水式、紛然たる御花見と異なる所はないじゃないか。喜怒哀楽が材料となるにもかかわらず拘泥するに足らぬ以上は小説の筋、芝居の筋のようなものも、また拘泥するに足らん訳だ。筋がなければ文章にならんというのは窮屈に世の中を見過ぎた話しである。ーーー今の写生文家がここまで極端な説を有しているかいないかは余といえども保証せぬ。しかし事実上彼らはパノラマ的のものをかいて平気でいる所を以て見ると公然と無筋を標榜せぬまでも冥々(めいめい)のうちにこういう約束を遵奉(じゅんぽう)していると見ても差支(さしつかえ)なかろう。写生文家もこう極端になると全然小説家の主張と相容(あいい)れなくなる。小説において筋は第一要件である。文章に苦心するよりも背景に苦心するよりも趣向に苦心するのが小説家の当然の義務である。従って巧妙な趣向は傑作たる上に大なる影響を与えうるものと、誰(だれ)も考えている。ところが写生文家はそんな事を主眼としない。のみならず極端に行くと力(つと)めて筋を抜いてまでその態度を明かにしようとする。

作家は身辺の状況と天下の形勢に応じて時々その立場を変えなければならん。評家もまた眼界を広くして必要の場合には作物に対するごとにその見地を改めねば活(い)きた批評は出来まい」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.165~173』岩波文庫)

さて。説話は世界中どこにでもある棄老伝説。柳田國男はいう。

「山口、飯豊、附馬牛の字東禅寺(とうぜんじ)及び火渡(ひわたり)、青笹の字中沢並びに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野(れんだいの)という地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追いやるの習いありき。老人はいたずらに死んでしまうこともならぬゆえに、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。そのために今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らの出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり」(柳田國男「遠野物語・百十一」『柳田國男全集4・P.62』ちくま文庫)

また柳田は蓮台野(れんだいの)について他の箇所でこう述べている。蓮台野はそもそも祭祀場であり、古くは屋内に限られたものではなく、「塚」とか「壇」とかいった形式を持つ。

「東北にては一般に塚を壇とも申し候。中央の仏教に於ては同じく修法の為に結構するものながら、壇は屋内に作るものに限り候やうなれども、曼荼羅(まんだら)の語義を尋ね候へば此の区別は無きわけかと存じ候。神社の敷地を俗に社壇と申し候も新たなる土を盛りて祭場を浄(きよ)くしたるものなるべく、社寺の建立(こんりゅう)に先だちて砂持の式を行ふなど、共に皆塚を築きて神を祭るの風より沿革するものと考へ候」柳田國男「石神問答・二八」『柳田國男全集15・P.148』ちくま文庫)

ちなみに吉本隆明は「遠野物語拾遺」から次の箇所も同時に拾い上げている。

「遠野在の村境いにデンデラ野というのがある。そこの堂守の家には村に死人があるとかならず予兆があるといわれている。死ぬのが男ならば、デンデラ野を夜なかに馬を引いて山歌を歌ったり、又は馬の鳴輪の音をさせて通る。女ならば平生歌っていた歌を小声で吟じたり、啜泣きをしたり、或は高声に話をしたりなどして此処を通りすぎる。こうして夜更にデンデラ野を通った人があると、堂守の家では、ああ今度は何某が死ぬぞなどといっているうちに、間もなく某人が死ぬのだといわれている」(柳田國男「遠野物語拾遺・二六六」)

そして吉本はいう。

「後段の『デンデラ野』というのは、前段の『蓮台野』とおなじで、六十歳をこえた老人を捨てた場所を指している。

『ダンノハナ』は村境いの塚所であり、その向う側に相対する蓮台野は、いわば現世的な《他界》である。そして六十歳をこえた老人たちは、行きながら《他界》へ追いやられたことをこの民譚は表象している。そして後段の民譚では、村の男女はたれも死ぬとここを通りすぎると記している。

なぜ、村落の老人は六十歳をこえると生きながら《他界》へ、いわば共同体の外へ追いやられるのだろうか?

もちろん、六十歳をすぎた老人の存在が、村落共同体の共同利害と矛盾するからである。農耕にかける老人の労働力のうみだす価値が、その生活の再生産の過程に耐えないからである。しかしこういう理由づけは、六十をこえた老人たちがなぜ、村落の《家》から《他界》へ追いやられたかをそのままでは説明したことにならない。個々の老人は、村落の共同体から共同幻想の《彼岸》へ生きながら追いやられたとき、かならず《家》の対幻想の共同性から追いやられたはずである。そして《家》から追いやられるには、老人の存在が《家》の共同利害と矛盾しなければならない。身体的にいえば《家》の働き手として失格していなければならない。

だがこれでも、なお《姥捨》の理由はつくされないだろう。つまり老人たちは、対幻想の共同性が、現実の基礎をみつけだせなくなったとき(ヘーゲル的にいえばそれは子供をうむことによって実現される)、《他界》へ追いやられたのである。そして対幻想の共同性が、現実の基盤をみつけだせなくなるのは、ヘーゲルがかんがえたように、子供を生むことで現実化されなくなったかどうかではなくて、対幻想として、村落の共同幻想にも、自己幻想にたいしても《特異な位相を保ちえなくなったかどうか》を意味しているのだ。いうまでもなく、対幻想として特異な位相を保ちえなくなった個体は、自己幻想の世界に馴致するか、村落の共同幻想に従属するほかに道はない。それが六十歳をこえた老人が『蓮台野』に追いやられた根源的な理由である」(吉本隆明「共同幻想論・他界論・P.128~130」角川文庫)

柳田國男も吉本隆明もともに何を言いたがっているかというと、第一に、「ダンノハナ」にせよ「デンデラ野」にせよ、いずれにせよ、それらはどれも村落共同体の尽きる場所、境界領域に位置する人工的に設定された場所だという点である。第二に戦後のカラー写真で残っているように「ダンノハナ」は「村境いの塚所」に位置するだけでなく、村落内で長く共有されてきた特定の掟=法によって構築された幻想の限界域の位置を示している点だろう。村落共同体はそのような幻想的な村の掟の共有によって、どの村人も同じ夢を見たり同じ言動を何度も繰り返すことになる。そしてそれが国家なら国家的規模の共同幻想の下で支配されるよう手なずけられていくほかない。「遠野物語」から次の一節を見てみよう。

「佐々木氏の曽祖母(そうそぼ)年によりて死去せし時、棺に取り納め親族の者集り来てその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。喪の間は火の気を絶やすことを忌むが所の風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裏の両側に坐り、母人は旁(かたわら)に墨籠(すみかご)を置き、折々炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音して来る者あるを見れば、亡くなりし老女なり。平生腰かがみて衣物(きもの)の裾(すそ)の引きずるを、三角に取り上げて前に縫い附けてありしが、まざまざとその通りにて、裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。母人は気丈(きじょう)の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親類の人々の打ち臥したる座敷の方へ近より行くと思うほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に睡(ねむ)りを覚ましただ打ち驚くばかりなりしといえり」(柳田國男「遠野物語・二二」『柳田國男全集4・P.24~25』ちくま文庫)

なるほど古い田舎に行けばいかにもありそうな話ではある。この一節には次のような続きがある。

「同じ人の二十七日の逮屋(たいや)に、知者の者集りて、夜更るまで念仏を唱え立ち帰らんとする時、門口の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。そのうしろ付(つき)まさしく亡くなりし人の通りなりき。これは数多(あまた)の人見たるゆえに誰も疑わず。いかなる執着(しゅうじゃく)のありしにや、ついに知る人はなかりしなり」(柳田國男「遠野物語・二三」『柳田國男全集4・P.25』ちくま文庫)

ここで見えてくるのは幽霊が出たとか故人の執念が残っているだとかいった安物の創作ではない。「親族」、「狂女」、「裏口」、「門口」といった整然たる論理性を構築するに必要な諸要素が出揃っている点である。「親族」は一つの信仰でまとまっている。そこに故人が生きていた頃、実は親族の中で何か心残りな齟齬が起こっていた事実を暴露するのは「狂女」である。他の親族は誰も心当たりがないか薄々感じていても黙っていて触れないのだが、節目の日のどこかで誰かがそれを指摘しない以上、故人が報われることは遂にないという信仰が一方にあるため、あえてその場にいる任意の女性が「狂女」としてその役割を演じなければ喪の儀式はいつまでも終わらず延々と引き延ばされていく構造が出来上がっている。そして指摘がなされるやいなや実際に幽霊が出現するしないに関わらず、その場に集まっている全員が一致して「見た」ことにしなければ喪は決して明けないし明けようにもそのきっかけを失ってしまうことになる。しかし故人はあくまで死者である以上、その出入口は正門ではなく「裏口・門口」という形式を取り、その限りでのみ可視化される。吉本のいう共同幻想はそのような極めてアジア的な村落共同体の原理に言及しているように思える。

この問題は姿形を置き換えて、今や日本全国どこにでもごろごろ転がっており、社会問題としてけっして避けて通れない大問題と化した。老々介護、セルフ・ヘルプ・グループ(自助グループ)の少なさと人材確保の致命的な遅れ並びに賃金保障の低さ。自助も共助ももはや限界に達しており、相当タフな人材でさえ過労でギブアップするスタッフがどんどん増えてきた。また今の高齢者問題は子どもたちの未来の問題と直結している。日本の首相とその側近らがアルバイトでもして差し当たり五〇〇億円ほど公助を捻出するとでもいうのだろうか。言うわけないしそもそも言えない事情があるのだろう。法律とはまた別に。

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