白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/幷洲(へいしう)の僧感(そうかん)・極楽への飛翔

2021年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、幷洲(へいしう)に僧感(そうかん)という名の僧侶がいた。幷洲(へいしう)は今の中国山西省。僧感は思い立って観無量寿経(くわんむりやうじゆきやう)と阿弥陀経(あみだきやう)の二経を記憶し、いつでも暗唱できるようもっぱら修行に励んでいた。

数年を経た或る夜、僧感はこんな夢を見た。自分の体に翼が生えている。思いがけないことだとよく見ると左側の翼に観無量寿経の経文が、右側の翼に阿弥陀経の経文が書かれている。僧感はその両翼で飛ぼうとしているのだが、体はなお重いようで飛ぶに飛ばれず必至になっているうちにがばっと目が覚めた。

「夢ニ、僧感ガ『自(みづか)ラノ身ニ翼生(おひ)タリ。希有(けう)也』ト思(おもひ)テ見レバ、左ノ翼ニハ観無量寿経ノ文(もん)有リ。右ノ翼ニハ阿弥陀経ノ文(もん)有リ。僧感、此ノ翼ヲ以テ飛バムト為(す)ルニ、身猶少シ重クシテ、不被飛(とばれ)ズト見テ、夢覚(さめ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十四・P.84」岩波書店)

その後ますます仏道を極めようと励み、この二つの経典に深く打ち込んだ。三年が経った。するとまた夢を見た。翼が生えている夢だ。今度も飛んでみようとした。飛ぶことはできなかったが、以前よりは少しばかり体が軽くなっている手答えがあり、そこで目が覚めた。

「其ノ後、弥(いよい)ヨ信ヲ発(おこし)テ、此ノ二ノ経ヲ誦持(じゆぢ)スル事不怠(おこたら)ズ。其ノ後(のち)三箇年ヲ経テ、亦、夢ニ、翼前(さき)ノ如クシテ、飛バムト為(す)ルニ、身少シ軽シト見シト見テ、夢覚(さめ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十四・P.85」岩波書店)

さらに修行に打ち込み、それからまた二年ほど過ぎた頃、今度も同じように翼が生えている夢を見た。羽ばたいてみると体はずいぶん軽い。大空に舞い上がって自由自在に飛翔することができる。そこで西の方角を目指して飛んで行くと極楽にたどり着いた。

「其ノ後、弥(いよい)ヨ信ヲ発(おこ)シテ、経ヲ持(たも)ツ程ニ二年ヲ経テ、亦、翼先(さき)ノ如クシテ身軽シ。虚空(こくう)ニ飛ビ昇ル事、自在(じざい)也。即チ、西方(さいはう)ヲ指(さし)飛ビ行(ゆき)テ、極楽ノ地ニ至(いたり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十四・P.85」岩波書店)

極楽には一仏(阿弥陀仏)と二菩薩(観音菩薩・勢至菩薩)がいらっしゃる。僧感に向けてこう仰った。「そなた、二つの経典をしっかり学び修めてきた功力により遥々極楽浄土の境地へ到達したに違いない。ならばそなた、ただちに現世に戻って今度は毎日(ひごと)に四十八巻を読誦しなさい。そうすれば一千日後にはまさしく極楽の上品(じやうぼん)の地に往生することになろう」。

「汝(なむ)ヂ、懃(ねむごろ)ニ二ノ経ヲ持(ぢ)スル力(りき)ニ依(より)テ、此ノ界(さかひ)ニ可来(きたるべ)シ。汝(なむ)ヂ、速(すみやか)ニ娑婆(しやば)ニ還(かへり)テ、毎日(ひごと)ニ四十八巻ヲ誦(じゆ)セヨ。然ラバ、一千日ノ後(のち)、当(まさ)ニ上品(じやうぼん)ノ地(ぢ)ニ可生(うまるべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十四・P.85」岩波書店)

そう教えられたところで夢が覚めた。僧感は夢で告げられたことにまっすぐ随い、毎日欠かさず四十八巻の経典を読誦した。そして三年後、寿命をまっとうして死去した。すると僧感が臥していたところにたちまち九茎の蓮華が生えてきて花を咲かせた。花は七日間萎むことなく咲き続けたという。

「彼(か)ノ夢ノ教ヘノ如ク、誠ノ心ヲ至シテ、毎日(ひごと)ニ四十八巻ヲ誦(じゆ)シテ、三年ヲ経テ命終(みやうじう)シヌ。而(しか)ルニ、其ノ僧感ガ臥(ふし)シ所ニ忽(たちまち)ニ九茎(くきやう)ノ蓮華(れんぐゑ)生(お)イタリ。七日不萎落(しぼみおち)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十四・P.85」岩波書店)

ところで説話に「四十八巻」とあるが「観無量寿経・阿弥陀経」ともに一巻本。従って「四十八巻」はおそらく「無量寿経」に述べられている「四十八願」のことを指すのだろう。「巻(かん)」と「願(がん)」との読み違い。というのは「無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経」の三つを合わせて「浄土三部経」とするのが通例だからである。次にその「四十八願」の箇所を引いておこう。

「設我得仏、国有地獄餓鬼畜生者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、寿終之後、復更三悪道者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、不悉真金色者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、形色不同、有好醜者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、不識宿命、下至不知、百千億那由他、諸刧事者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、不得天眼、下至不見、百千億那由他、諸仏国者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、不得天耳、下至聞、百千億那由他、諸仏諸説、不悉受持者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、不得見他心智、下至不知、百千億那由他、諸仏国中、衆生心念者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、不得神足、於一念頃、下至不能超過、百千億那由他、諸仏国者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、若起想念、貪計身者、不取正覚
設我得仏、国中人天、不住定聚必至滅度者、不取正覚。
設我得仏、光明有能限量、下至不照、百千億那由他、諸仏国者、不取正覚。
設我得仏、寿命有能限量、下至百千億那由他刧者、不取正覚。
設我得仏、国中声聞、有能計量、下至三千大千世界、声聞縁覚、於百千刧、悉共計校、知其数者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、国中人天、寿命無能限量。除其本願修短自在。若不爾者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、国中人天、乃至聞有不善名者、不取正覚。
設我得仏、十方世界無量諸仏、不悉咨嗟、称我名者、不取正覚。
設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚。唯除五逆誹謗正法。
設我得仏、十方衆生、発菩提心、修諸功徳、至心発願、欲生我国、臨寿終時、仮令不与大衆囲繞、現其人前者、不取正覚。
設我得仏、十方衆生、聞我名号、係念我国、植諸徳本、至心廻向、欲生我国、不果遂者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、不悉成満、三十二大人相者、不取正覚。
設我得仏、他方仏土、諸菩薩衆、来生我国、究竟必至、一生補処。除其本願、自在所化、為衆生故、被弘誓鎧、積累徳本、度脱十方、諸仏如来、開化恒沙無量衆生、使立無上正真之道、超出常倫、諸地之行現前、修習普賢之徳。若不爾者、不取正覚。
設我得仏、国中菩薩、承仏神力、供養諸仏、一食之頃、不能徧至、無数無量那由他、諸仏国者、不取正覚。
設我得仏、国中菩薩、在諸仏前、現其徳本、諸所欲求供養之具、若不如意者、不取正覚。
設我得仏、国中菩薩、不能演説一切智者、不取正覚。
設我得仏、国中菩薩、不得金剛那羅延身者、不取正覚。
設我得仏、国中人天一切万物、厳浄光麗、形色殊特、窮微極妙、無能称量。其諸衆生、乃至逮得天眼、有能明了弁其名数者、不取正覚。
設我得仏、国中菩薩、乃至少功徳者、不能知見、其道場樹、無量光色、高四百万里者、不取正覚。
設我得仏、国中菩薩、若受読経法、諷誦持説、而不得弁才智慧者、不取正覚。
設我得仏、国中菩薩、智慧弁才、若可限量者、不取正覚。
設我得仏、国土清浄、皆悉照見、十方一切、無量無数、不可思議、諸仏世界、猶如明鏡覩其面像。若不爾者、不取正覚。
設我得仏、自地已上、至于虚空、宮殿楼観、池流華樹、国中所有一切万物、皆以無量雑宝、百千種香、而共合成、厳飾奇妙、超諸人天、其香晋薫、十方世界、菩薩聞者、若不如是者、不取正覚。
設我得仏、十方無量不可思議、諸仏世界衆生之類、蒙我光明、触其身者、身心柔輭、超過人天。若不爾者、不取正覚。
設我得仏、十方無量不可思議、諸仏世界衆生之類、聞我名字、不得菩薩無生法忍、諸深総持者、不取正覚。
設我得仏、十方無量不可思議、諸仏世界、其有女人、聞我名字、歓喜信楽、発菩提心、厭悪女身。寿終之後、復為女像者、不取正覚。
設我得仏、十方無量不可思議、諸仏世界諸菩薩衆、聞我名字、寿終之後、常修梵行、至成仏道、若不爾者、不取正覚。
設我得仏、十方無量不可思議、諸仏世界諸天人民、聞我名字、五体投地、稽首作礼、歓喜信楽、修菩薩行、諸天世人、莫不至敬、若不爾者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、欲得衣服、随念即至、如仏所讃、応法妙服、自然在身。若有裁縫擣染浣濯者、不取正覚。
設我得仏、国中人天、所受快楽、不如漏尽比丘者、不取正覚。
設我得仏、国中菩薩、随意欲見、十方無量、厳浄仏土、応時如願、於宝樹中、皆悉照見、猶如明鏡、覩其面像。若不爾者、不取正覚。
設我得仏、他方国土、諸菩薩衆、聞我名字、至于得仏、諸根歇陋、不具足者、不取正覚。
設我得仏、他方国土、諸菩薩衆、聞我名字、皆悉逮得、清浄解脱三昧、住是三昧、一発意頃、供養無量不可思議、諸仏世尊、而不失定意。若不爾者、不取正覚。
設我得仏、他方国土、諸菩薩衆、聞我名字、寿終之後、生尊貴家。若不爾者、不取正覚。
設我得仏、他方国土、諸菩薩衆、聞我名字、歓喜踊躍、修菩薩行、具足徳本。若不爾者、不取正覚。
設我得仏、他方国土、諸菩薩衆、聞我名字、皆悉逮得、普等三昧、住是三昧、一切諸仏、若不爾者、不取正覚。
設我得仏、国中菩薩、随其志願、所欲聞法、自然得聞。若不爾者、不取正覚。
設我得仏、他方国土、諸菩薩衆、聞我名字、不即得至、不退転者、不取正覚。
設我得仏、他方国土、諸菩薩衆、聞我名字、不即得至、第一第二第三法忍、於諸仏法、不能即得不退転者、不取正覚。

(書き下し)1 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国に地獄、餓鬼、畜生あらば、(われ)正覚(しょうがく)を取らじ。
2 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人(にん)・天(てん)、寿(いのち)終りてのち、また三悪道(さんまくどう)に更(かえ)らば、正覚(しょうがく)を取らじ。
3 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、ことごとく真金色(しんごんじき)ならずんば、正覚(しようがく)を取らじ。
4 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、形色(ぎょうしき)同じからず、好醜(こうしゅ)あらば、正覚(しょうがく)を取らじ。
5 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、宿命(しゅくみょう)通(つう)を識(し)らず、下(しも)、百千億那由他(なゆた)の諸刧(しょこう)の事を知らざるに至らば、正覚(しょうがく)を取らじ。
6 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、天眼(てんげん)を得ず、下、百千億那由他(なゆた)の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚(しょうがく)を取らじ。
7 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、天耳(てんに)を得ず、下、百千億那由他(なゆた)の諸仏の所説(しょせつ)を聞きて、ことごとく受持せざるに至らば、正覚(しょうがく)を取らじ。
8 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、他心を見るの智を得ず、下、百千億那由他(なゆた)の諸仏の国中の、衆生(しゅじょう)の心念を知らざるに至らば、正覚(しょうがく)を取らじ。
9 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、神足(じんそく)をえず、一念の頃(あいだ)において、下、百千億那由他(なゆた)の諸仏の国を超過(ちょうか)すること能(あた)わざるに至らば、正覚(しょうがく)を取らじ。
10 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、もし想念を起して、身を貪計(とんげ)せば、正覚(しょうがく)を取らじ。
11 たとい、われ仏(ほとけ)とんなるをえんとき、国中の人・天、正(しょう)定聚(じょうじゅ)に住し、必ず滅度(めつど)に至らずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
12 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、光明、よく限量ありて、下、百千億那由他(なゆた)の諸仏の国を照さざるに至らば、正覚(しょうがく)を取らじ。
13 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、寿命、よく限量ありて、下、百千億那由他刧(なゆたこう)に至らば、正覚(しょうがく)を取らじ。
14 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の声聞(しょうもん)、よっく計量ありて、下、三千大千世界の声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)、百千刧において、ことごとく共に計校(けきょう)して、その数を知るに至らば、正覚(しょうがく)を取らじ。
15 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、寿命よく限量なからん。(ただし)その本願により、修短自在なるものを除かん。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
16 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、(不善の者あり)乃至、不善の名すらありと聞かば、正覚(しょうがく)を取らじ。
17 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、わが名を称(たた)えずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
18 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、十方の衆生(しゅじょう)、至心(ししん)に信楽(しんぎょう)して、わが国に生れんと欲して、乃至十念(ないしじゅうねん)せん。もし、生れずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。ただ、五逆(ごぎゃくの罪を犯すもの)と正法(しょうぼう)を誹謗(ひぼう)するものを除かん。
19 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、十方の衆生(しゅじょう)、菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)し、もろもろの功徳(くどく)を修め、至心(ししん)に願を発(おこ)して、わが国に生れんと欲せば、寿(いのち)の終る時に臨みて、(われ)仮令(もし)、大衆とともに囲繞(いにょう)して、その人の前に現ぜずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
20 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、十方の衆生(しゅじょう)、わが名号(みょうごう)を聞きて、念をわが国に係(か)け、(さらに)もろもろの徳本(とくほん)を植えて、(それらを)至心に廻向(えこう)して、わが国に生れんと欲(おも)わんに、(この願い)果遂(かすい)せずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
21 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、ことごとく三十二の大人相(だいにんそう)を成満(じょうまん)せずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
22 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、他方の仏土のもろもろの菩薩衆(ぼさつしゅ)、わが国に来生(らいしょう)せば、究竟(くきょう)して必ず、一生補処(いっしょうふしょ)に至らしめん。(ただし)その本願、自在に化益(けやく)せんとするところの、衆生(しゅじょう)のためのゆえに、弘誓(ぐぜい)の鎧(よろい)を被(かぶ)り、徳本(とくほん)を積累(しゃくるい)し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩(ぼさつ)の行を修し、十方のもろもろの仏(ぶつ)・如来(にょらい)を供養し、恒沙(ごうじゃ)の無量の衆生(しゅじょう)を開化(かいけ)して、無上正真(むじょうしょうしん)の道に安立(あんりゅう)せしめ、常倫(じょうりん)の(菩薩)に超出(ちょうしゅつ)して、諸地(しょじ)の行(ぎょう)現前し、普賢(ふげん)の徳を修習(しゅじゅう)せんものを除く。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
23 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の菩薩(ぼさつ)、仏(ほとけ)の神力(じんりき)を承(う)けて、諸仏を供養し、一食(いちじき)の頃(あいだ)に、、あまねく無数無量那由他(なゆた)の諸仏の国に至ること能(あた)わずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
24 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の菩薩(ぼさつ)、諸仏の前(みまえ)に在りて、その徳本(とくほん)を(積み)現わさんに、もろもろの欲求(よくぐ)するところの供養の具、もし、意のごとく(えられ)ずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
25 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の菩薩(ぼさつ)、一切智(いっさいち)を演説すること能わずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
26 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の菩薩(ぼさつ)、金剛の(如き)那羅延(ならえん)の身を得ずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
27 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天の(用いる)一切の万物(まんもつ)、厳浄光麗(ごんじょうこうらい)にして、(その)形色(ぎょうしき)、殊特(しゅどく)にして、窮微極妙(ぐみごくみょう)なること、よく称量することなけん。(しかるに)そのもろもろの衆生(しゅじょう)、ないし、天眼(てんげん)を逮得(たいとく)して、よく明了(みょうりょう)に、その名数(みょうしゅ)を弁(わきま)うることあらば、正覚(しょうがく)を取らじ。
28 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の菩薩(ぼさつ)、ないし、少功徳(しょうくどく)の者も、その道場樹の、無量の光色(こうしき)ありて、高さ四百万里なるを知見すること能わずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
29 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の菩薩(ぼさつ)、もしは経法(きょうぼう)を受読(じゅどく)し、(もしは)諷誦(ふじゅ)・持説(じせつ)して(他人に説き)、弁才(べんざい)智慧をえずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
30 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の菩薩、智慧弁才(べんざい)、もし、限量すべくんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
31 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国土、清浄にして、(その光明をもって)みなことごとく、十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見すること、なお明鏡にその面像を覩(み)るがごとくせん。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
32 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、地より已上(いじょう)、虚空(こくう)に至るまで、宮殿(くでん)・楼観(ろうかん)・池流(ちる)・華樹(けじゅ)などの、国中の所有(あらゆる)の一切の万物(まんもつ)、みな、無量の雑宝と百千種の香をもって、共に合成(ごうじょう)し、(その)厳飾(ごんじき)の奇妙なること、もろもろの人・天(の世界)に超え、その香、あまねく十方世界に薫じ、菩薩(ぼさつ)これを聞かば、みな、仏行(ぶつぎょう)を修せん。もし、かくのごとくならずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
33 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界の衆生(しゅじょう)の類(たぐい)、わが光明を蒙(こうむ)りて、その身に触(ふ)れなば、身心柔輭(にゅうなん)にして、人・天に超過せん。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
34 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界の衆生(しゅじょう)の類(たぐい)、わが名字(みょうじ)を聞きて、菩薩(ぼさつ)の無生法忍(むしょうぼうにん)、(ないしは)もろもろの深(妙)なる総持(そうじ)をえずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
35 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界、それ、女人(にょにん)ありて、わが名字(みょうじ)を聞き、歓喜信楽(かんぎしんぎょう)し、菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)し、女身(にょしん)を厭悪(えんお)せん。(その人)寿(いのち)終りてのち、また女像(にょぞう)とならば、正覚(しょうがく)を取らじ。
36 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界のもろもろの菩薩衆(ぼさつしゅ)、わが名字(みょうじ)を聞きて、寿(いのち)終りてのち、常に梵行(ぼんぎょう)を修し、仏道を成ずるに至らん。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
37 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界のもろもろの天・人民、わが名字(みょうじ)を聞きて、五体投地(ごたいとうち)し、稽首作礼(けいしゅさらい)し、歓喜信楽(かんぎしんぎょう)して、菩薩(ぼさつ)の行(ぎょう)を修めんに、(他の)もろもろの天・世人、敬(うやま)いを致さずということなからん。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
38 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天、衣服(えぶく)をえんと欲(おも)わば、念(おもい)に随って、すなわち至る。(あたかも)仏(ほとけ)の讃(ほ)むるところの、応法(おうほう)の妙服(みょうぶく)、自然(じねん)、身に在らんがことし。もし、(その衣服に)裁縫(さいほう)、擣染(とうぜん)、浣濯(かんたく)あらば、正覚(しょうがく)を取らじ。
39 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の人・天の受くるところの快楽(けらく)・漏尽比丘(ろじんびく)のごとくならずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
40 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の菩薩(ぼさつ)・意に随って十方の無量の厳浄(ごんじょう)の仏土を見んと欲(おも)わば、そのとき願いのごとく、宝樹(ほうじゅ)の中において、みなことごとく照見せんこと、なお明鏡にその面像を覩(み)るがごとくならん。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
41 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、他方の国土のもろもろの菩薩衆(ぼさつしゅ)、わが名字(みょうじ)を聞きて、仏(ほとけの位)をうるに至るとも、諸根歇陋(しょこんけつる)して、具足せずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
42 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、他方の国土のもろもろの菩薩衆(ぼさつしゅ)、わが名字(みょうじ)を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧(しょうじょうげだつざんまい)を逮得(たいとく)し、この三昧(さんまい)に住して、一発意(いちぼつち)の頃(あいだ)に、無量・不可思議のもろもろの仏(ぶつ)・世尊(せそん)を供養して、禅定(ぜんじょう)の意(こころ)を失わざらん。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
43 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、他方の国土のもろもろの菩薩衆(ぼさつしゅ)、わが名字(みょうじ)を聞きて、寿(いのち)終りてのち、尊貴の家に生れん。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
44 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、他方の国土のもろもろの菩薩衆(ぼさつしゅ)、わが名字(みょうじ)を聞きて、歓喜踊躍(かんぎゆやく)し、菩薩(ぼさつ)の行(ぎょう)を修めて、徳本(とくほん)を具足せん。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
45 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、他方の国土のもろもろの菩薩衆(ぼさつしゅ)、わが名字(みょうじ)を聞きて、みなことごとく普等三昧(ふとうざんまい)を逮得(たいとく)し、この三昧(さんまい)に住して、仏(ほとけ)と成るに至るまで、常に無量・不可思議の一切の諸仏を見たてまつらん。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
46 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、国中の菩薩(ぼさつ)、その志願に随いて、聞かんと欲するところの法、自然(じねん)、聞くことをえん。もし、しからずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
47 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、他方の国土のもろもろの菩薩衆(ぼさつしゅ)、わが名字(みょうじ)を聞きて、すなわち不退転(ふたいてんの位)に至ることをえずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。
48 たとい、われ仏(ほとけ)となるをえんとき、他方の国土のもろもろの菩薩衆(ぼさつしゅ)、わが名字(みょうじ)を聞きて、すなわち第一、第二、第三法忍(ぼうにんの位)に至るをえず、(また)諸仏の法において、すなわち不退転(ふたいてんの位)をうること能わずんば、正覚(しょうがく)を取らじ」(「浄土三部経(上)・無量寿経・四十八願・P.155~164」岩波文庫)

さて。現世と別世界あるいは異界とを接続する出入口の役割を演じているのは「夢」。「今昔物語」の中では最も頻繁に見られる傾向である。また夢はフロイトのいうように常に助詞を脱落させているため、文脈は本来的にばらばらだが狙いは願望充足にあり、そのための素材はあり合わせの身近なもので構成される。とすればこの説話では「観無量寿経・阿弥陀経=両翼」となる。

交換関係について。一方で仏典への打ち込み、もう一方で夢の中での翼による飛翔。仏典が身に染み込み、重みを増せば増すほど逆に夢の中の身は軽くなり、遂に極楽まで飛んで行ってしまう。変化は「二つの経」から「二つの翼」への転化。霊験譚に分類されるが、なかでも極めてオーソドックスなタイプなのではと思われる。

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