白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/賈誼(かぎ)と薪(しん)・国史編入まで

2021年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

漢の時代、賈誼(かぎ)といって多くの典籍に通じ、並外れて理解も深い一人の学者がいた。息子の名は薪(しん)。ところが薪(しん)が幼少期のうちに父の賈誼(かぎ)は死去した。薪は父から学問を教わる暇もなく父を失ったことになる。他の誰が父の代わりを務めてくれるわけでもない。

或る日の夜、薪は父の墓に赴いた。そしていう。「学問がないのにこの世をどうやって渡っていけばよいというのでしょう」。学問を習得するのに付き纏う様々な困難な事情について泣く泣く語りかけた。

「薪、『文無クシテ世ニ何(いか)ニシテカ可有(あるべ)カルラム』ト心細ク思ヒ歎(なげき)テ、夜、父ノ墓ニ行(ゆき)テ、諸(もろもろ)ノ事ヲ云ヒ次(つづ)ケテ、泣々(なくな)ク拝ス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.340」岩波書店)

するとどういうわけか、死去したはずの父・賈誼が出現した。それを見た薪はとっさに尋ねた。「わたしは学問で生計を立てていきたいと思っています。でもお父さん無き今、一体誰を師として学ぶべきがよいのかわからないのです」。

「我レ、文ヲ学セムト思フト云ヘドモ、誰(たれ)ヲ師ト為(し)テカ可学(がくすべ)キ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.340」岩波書店)

賈誼はただ、こう答えた。「薪よ、もし学問の道に入りたいのなら、このように夜ごとにここにやって来て、私に付いて学ぶことにしなさい」。

「汝、文ヲ学セムト思(おも)ハバ、如此(か)ク夜々(よなよな)此(ここ)ニ来(きたり)テ、我レニ随(したがひ)テ可学(がくすべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.341」岩波書店)

そう聞いた薪はその後、毎夜父の墓前を訪れ、父の導きのもとで学問に没頭した。そのうち十五年が過ぎた。こんなふうに学問に没頭した十五年。いつしか薪の学力は学者といって差し支えない領域に達していた。

「薪、其ノ後、父ノ教ヘニ随(したがひ)テ、夜々(よなよな)、墓ニ行(ゆき)テ文ヲ学スルニ、既ニ十五年ヲ経タリ。如此(かくのごと)ク習フ間ニ、既ニ其ノ道ニ達(さとり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.341」岩波書店)

夜毎に父の墓前で学問し続けている男子がいる。その話は遂に国王の耳にまで届いた。国王は試しに薪を召し出して使ってみることにした。すると本当に一流の学者というにふさわしいレベルに達している。

「国王、此ノ由ヲ聞キ給テ、薪ヲ召シテ被仕(つかは)ルルニ、実(まこと)ニ其ノ道ニ達(さと)レリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.341」岩波書店)

国王に見出される形で、薪は、宮廷で重職を拝命することになった。その後、薪は亡き父の墓を訪れたが薪が学者として認められたと同時に、父・賈誼が薪の前に出てくることはもう二度となかった。

「其ノ後ハ、薪、墓ニ至ルト云ヘドモ、賈誼更ニ見エザリケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.341」岩波書店)

さて。「今昔物語」に多く見られる「夢」という装置がこの説話には見られない。「夢」という回路を通すことなく薪(しん)の亡き父・賈誼(かぎ)はいとも簡単に登場している。この説話でのフィルターは「夢」ではなく「墓地」。墓地と幽霊・亡霊とは余りにも長い間、余りにも古くから紐づけられて語り継がれてきたため、もはや「そこにある不思議なものを不思議がらなく」なってしまっていたのだろう。

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)

また、薪(しん)が国王の重臣として登用されることが決定するや否や父・賈誼(かぎ)の幽霊は二度と出現しない点で、その構造は「子育飴(こそだてあめ)」説話に似る。「子育飴(こそだてあめ)」の場合も、赤子が発見されるやもはや育てる役割は地域社会へと移動し幽霊としての亡き母の役割は終了するが、それとともに飴を買いに来る亡き母の幽霊はもう二度と出現しなくなる。仏教でいえば「成仏」したとされる。だが問題は「子育飴」は明らかに日本版だが「今昔物語」に見える「賈誼・薪父子」の説話は古代中国が舞台である点。韓非子にこうある。

「燕人李季、好遠出、其妻私有通於士、季突之、士在内中、妻患之、其室婦曰、令公子裸而解髪、直出門、吾属佯不見也、於是公子従其計、疾走出門、季曰、是何人也、家室皆曰無有、季曰、吾見鬼乎、婦人曰然、為之奈何、曰取五姓之矢浴之、季曰諾、乃浴以矢

(書き下し)燕人李季(りき)、遠出を好む。其の妻私かに士に通ずる有り。季突(にわか)に之<至>(いた)るに、士内中(ないちゆう)に在り。妻これを患(うれ)う。其の室婦(しつふ)曰わく、公子をして裸(はだか)にして髪を解き、直(ただ)ちに門を出(い)でしめよ。吾が属(ぞく)、見ずと佯(いつわ)らんと。是(ここ)に於いて公子其の計に従い、疾走して門を出(い)づ。季曰わく、是れ何人ぞやと。家室皆な曰わく、有ること無しと。季曰わく、吾れ鬼(き)を見たるかと。婦人曰わく、然りと。これを為すこと奈何(いかん)。曰わく、五姓(牲)の矢(し)を取りてこれに浴せよと。季曰わく、諾(だく)と。乃ち浴するに矢を以てせり。

(現代語訳)燕(えん)の人である李季(りき)は遠くへ旅に出ることを好んだ。そこでその妻はこっそり若い男と通じていた。季が突然に帰宅したとき、その若い男が寝室の中にいたので、妻は青くなった。召使いの女が言った、『あのお方(かた)に、裸になってさんばら髪で、まっしぐらに門から飛び出してもらいなさい。わたくしどもは見えなかったふりをしましょう』。そこで、その若い男は計略どおりに突(つ)っ走って門を出た。李季は『あれは何ものだ』とたずねたが、家じゅうの者みな『何もおりません』と答えた。李季が『わたしは幽霊でも見たのかな』と言うと、女ども『そうです』。『〔変なものに取りつかれたようだが〕どうしたらよかろうか』。『五牲の糞を集めて体に浴びることです』。李季は『よし』と言って、そこで糞を浴びた」(「韓非子2・内儲説下・六微・第三十一・P.318~321」岩波文庫)

まだ仏教がそれほど広まっていなかった頃の古代中国では「浴狗矢」=「魔除けのために犬の糞を浴びる」風習があった。この一節を見ると漢語の「鬼」は現代語訳で「幽霊」と訳されている。とすればこう考えられる。

「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

x量の商品A=y量の商品B または x量の商品Aはy量の商品Bに値する。(亜麻布20エレ=上衣1着 または二〇エレの亜麻布は一着の上衣に値する)。

1価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態

すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有の困難がある。

ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。リンネルは自分の価値を上着で表わしており、上着はこの価値表現の材料として役だっている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。第一の商品の価値は相対的価値として表わされる。言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。第二の商品は等価物として機能している。言いかえれば、その商品は等価形態にある。

相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.94」国民文庫)

従って置き換えは次のようになる。

「妖魔としての鬼=幽霊」または「妖魔としての鬼は幽霊に値する」。

さらに浄化するものとして「狗の糞」に特権性が与えられている点も見逃せない。世界中どこでも狗=犬は古くから人間社会の一員として承認されていたばかりか、その並外れた感受性の高さは人々を驚嘆させるに十分だった。「日本書紀」にもこうある。

「爰(ここ)に万が養(か)へる白犬(しらいぬ)有(あ)り。俯(ふ)し仰(あふ)ぎて其の屍(かばね)の側(ほとり)を廻(めぐ)り吠(ほ)ゆ。遂(つひ)に頭(かしら)を嚙(く)ひ挙(あ)げて、古冢(ふるはか)に収(おさ)め置(お)く。横(よこさま)に枕(まくら)の側(かたはら)に臥(ふ)して、前(まへ)に飢(う)死(し)ぬ。河内国司、其の犬(いぬ)を尤(とが)め異(あやし)びて、朝庭(みかど)に牒(まう)し上ぐ。朝庭、哀不忍聴(いとほしが)りたまふ。符(おしてふみ)を下したまひて称(ほ)めて曰(のたま)わく、『此の犬、世(よ)に希聞(めづら)しき所(ところ)なり。後(のち)に観(しめ)すべし。万が族(やから)をして、墓(はか)を作(つく)りて葬(かく)さしめよ』とのたまふ。是(これ)に由(よ)りて、万が族(やから)、墓を有真香邑(ありまかのさと)に双(なら)べ起(つく)りて、万と犬とを葬(かく)しぬ。河内国司言(まう)さく、『餌香川原(ゑがのかはら)に、斬(ころ)されたる人(ひと)有(あ)り。計(かぞ)ふるに将(まさ)に数百(ももあまりばかり)なり。頭(かしら)身(むくろ)既(すで)に爛(ただ)れて、姓字(かばねな)知(し)り難(がた)し。只(ただ)衣(きもの)の色(いろ)を以(も)て、身(むくろ)を収(をさ)め取(と)る。爰(ここ)に桜井田部連胆渟(さくらゐのたべのむらじいぬ)が養(か)へる犬(いぬ)有り。身頭(むくろ)を嚙(く)ひ続(つづ)けて、側(かたはら)に伏(ふ)して固(かた)く守(まも)る。己(おの)が主(あるじ)を収めしめて、乃(すなは)ち起(た)ちて行(ゆ)く』とまうす」(「日本書紀4・巻第二十一・崇峻天皇即位前紀・P.72~74」岩波文庫)

二つのエピソードが載っているが、一方は万という人物の飼い犬について。白犬だった。万の死後、白犬は鳴きながら万の屍体の周りを何度もぐるぐる巡り歩いた。そしてとうとう万の屍体を口で咥えて墓に納めて置いた。白犬は万を埋めた墓の横に伏せってじっとしたまま飢え死した。それを聞いた天皇は哀れにおもい印璽を押した文を下し、飼い主の万の墓と並べて白犬の墓を作って葬った話。もう一方は数百名を越す死者が出た戦場に桜井田部連胆渟の飼い犬がやって来た話。戦死した飼い主の亡骸(なきがら)を口で咥えて移動させ、他人を寄せ付けずすぐそばに蹲って伏したまま屍体を雑踏による損傷から手堅く守り抜き、飼い主を墓に収めたのを見届けた後、立ち上がってその場を去って行ったというもの。

説話に戻っていえば、「賈誼・薪父子」がどれほど高い成果を出していたとしても、時の国王(政治的指導者)にそれを見抜く眼力がなければ以前取り上げた「玉造(たまつくり)職人・卞和(べんくわ)」のように、寸手のところで何もかも無駄になっていたことである。それが「宿報」とか「世俗」とかではなく「国史」に編入されている理由だろう。

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