白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/百丈ノ石卒堵婆(いはのそとば)と工(たくみ)夫婦の機転

2021年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、「百丈ノ石卒堵婆(いはのそとば)」を造る工(たくみ)がいた。百丈は約三百メートル。名工・名匠といって差し支えない。敦煌の莫高窟など多くの磨崖仏が発見されるに及び、この説話も多少の誇張はあるにせよ、あながちただ単なる作り話に過ぎないとは言えなくなった。ところでこの工(たくみ)は一念発起して石卒堵婆(いはのそとば)を建立しようと思い立ったわけではない。時の国王に命じられて仕事として請け負ったものだ。

言うまでもなく国王には魂胆がある。三百メートルに達する石卒堵婆を造る工(たくみ)はどこをどう探してみてもそういない。世界広しといえども数えるほどもいるかいないかだろう。完成すれば国王の威信は嫌が上にも確固たるものになる。しかしその工(たくみ)が他国へ招待されてそれ以上に重厚長大な石卒堵婆(いはのそとば)を造ったとしたら、その瞬間、この国の国王の威信はもはや過去のものとされてしまうほかない。そこで工(たくみ)が二度と他国へ出ることができないよう、建造中の石卒堵婆を完成させるや否や暗殺してしまうことにした。

「我レ、此ノ石卒堵婆(いはのそとば)ヲ思ヒノ如ク造リ畢(をはり)ヌ。極(きはめ)テ喜ブ所也。而(しか)ルニ、此ノ工、他(ほか)ノ国ニモ行(ゆき)テ、此ノ卒堵婆ヲヤ起(た)テムト為(す)ラム。然レバ、此ノ工ヲ速(すみやか)ニ殺シテム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十五・P.371」岩波書店)

殺害方法は極めて単純。石卒堵婆を完成させた工(たくみ)がそのてっぺんにいる間、建造のために組まれた「麻柱(あななひ)」=「足場」をこなごなに打ち砕いて地上に下りてこれないようにし、そのまま放置して餓死させるというもの。一方、そんな策略が張り巡らされているとは思いも寄らない工(たくみ)。工事を終えて下へ降りようとするとそれまであった足場が崩れ去ってなくなっている。降りようにも降りられない。何があったのだろうと不審感を抱いた。工事は済んだ。なのにまだ卒堵婆の頂上にいても無駄に時間を過ごしてしまうばかり。とはいえ自分の妻子がこのことを聞き及べばきっと駆け付けてくれるだろう、わけもなくおれが死んでしまうなどあるはずないのだから、と考えた。

「卒堵婆ノ上ニ徒(いたづら)ニ居テ為方(せむはう)無シ。我ガ妻子共(めこども)、然(さ)リトモ、此ノ事ヲ聞キツラム。聞テバ、必ズ来(きたり)テ見ツラム。故無クシテ我レ死ナムズラムトハ思ハジ物ヲ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十五・P.371」岩波書店)

だが声の届く距離なら呼ぶこともできるだろう。目に見える地点ならそれこそすぐさま判別できる。しかし百丈もある石卒堵婆のてっぺんにいては伝達方法などまるでない。工(たくみ)は仕方なく石卒堵婆の頂上でぼんやりしていた。ところがその間、周囲の地域住民らは、国王の命令で足場がこなごなに打ち砕かれる場面をすっかり見ている。そして工(たくみ)の家族にもその噂がたちまち伝え聞こえてきた。話を聞いた工(たくみ)の妻子はすぐに現場に駆け付けた。卒堵婆の周りをぐるぐる見て廻り、何か取っ掛かりになるものを探した。しかしこれといって使えそうなものは何もない。とはいえ、妻は思った。「まったく何らのアイデアも思い浮かばないままあっけなく無駄死にしてしまうような夫ではない。きっと工夫をこらして上手に降りてくるに違いない」。そう考えて下で待つことにした。一方、工(たくみ)は何か考え付いたようで着ている衣服を全部脱ぎ、それをすべて細かく裂いて糸状にした。

「工、上ニ有テ、着タル衣ヲ皆解(とき)テ、亦、斫(さき)テ糸ニ成シツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十五・P.372」岩波書店)

工(たくみ)は糸状に分解した衣服を今度は一つ一つ結んで繋ぎ、大変長い一本の糸を作ると、それをそろそろと下へ下ろしてみた。下にいる妻は上から極めて細い糸が風に吹かれてふらふらと降ろされてくるのに気づいた。「これだ!」と思った妻は細い糸を手に取り下からそっと動かしてみた。すると今度は上にいる夫が「気づいてくれたか」と思い、すぐさまそっと動かして反応を見た。

「其ノ糸ヲ結ビ継ギツツ耎(やは)ラ下(おろ)シ降(くだ)スガ、極(きはめ)テ細クテ風ニ被吹(ふか)レテ飄(ただよ)ヒ下(くだ)ルヲ、妻、下ニテ此レヲ見テ、『此レコソ我ガ夫ノ験(しる)シニ下(おろ)シタル物ナメリ』ト思テ、耎(やは)ラ動(うごか)セバ、上ニ夫、此レヲ見テ心得テ、亦動カス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十五・P.372」岩波書店)

手応えを感じた妻は走って家へ帰り、家の中からありったけの糸を巻き付けた道具を取り出して現場に舞い戻った。そして持ってきた糸を上から下ろされた細い糸に繋ぎ合わせて動かしてみた。その動きを見た夫は細い糸を上に引っ張り上げ、一度は一本にまで解体した糸を今度は二重に撚(よ)り合わせた。二人は糸が途切れないように注意深く次々と糸を繋いでいった。繰り返し糸を撚り合わせているうちに、今度は細いながらも一本の縄のようなものが仕上がってきた。さらに作業を続けると最初は細かった縄がだんだん三絡四絡(みよりよより)と太さを増してきた。二人は根気よく同じ作業を何度も丁寧に繰り返した。次第に一本の頑丈な縄が出来上がった。

「家ニ走リ行テ、続(う)ミ置(おき)タル取リ持来(もてきたり)テ、前(さき)ノ糸ニ結(ゆ)ヒ付ケツ。上ニ動カスニ随(したがひ)テ、下ニモ動カスヲ、漸ク上ゲ取ツレバ、此ノ度ハ切(きり)タル糸ヲ結ヒ付ケツ。其レヲ絡(く)リ取ツレバ、亦、糸ノ程ナル細キ縄ヲ結(ゆ)ヒ付ケツ。亦、其レヲ絡リ取ツレバ、亦太キ縄ヲ結ヒ付ケツ。亦、其レヲ絡リ上ゲ取レバ、其ノ度ハ三絡四絡(みよりよより)ノ縄ヲ上ゲツ。亦、其レヲ絡リ上ゲ取リツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十五・P.372」岩波書店)

これなら、と思ったところで工(たくみ)は縄に体を絡め、用心しつつ慎重に下へ降りることにした。すっかり地上に降りきると、誰が自分を殺そうとしたか、もう十分理解している工(たくみ)とその家族は、こんな国王のもとで誰が暮らしていけるものかとたちまち亡命して他国へ逃げ去った。

「其ノ時ニ、其ノ縄ニ付(つき)テ、構(かまへ)テ伝ヒ下(お)リヌレバ、逃(にげ)去(さり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第三十五・P.372」岩波書店)

さて。この説話で見える交換関係について。「石卒堵婆の大きさ」と「国王のステイタス」との等価性が前提されている点。この前提が崩れない限り、他国の国王が「百丈(三百メートル)を越える石卒堵婆」を建造させるとすれば、その瞬間、殺害を命じた国の「国王のステイタス」は木っ端微塵に崩壊するとともに「百丈(三百メートル)の石卒堵婆」の価値は一挙に下落する。この国王は一石で二鳥を得るのではなく逆に一石で二鳥を失う。さらに民心はたちまち離れるため、一石で三鳥を失うことになる。その混乱に乗じて群雄割拠している諸大国に攻め込まれ、あっという間に国土は蹂躙され国王は逮捕され頸(くび)を刎ね飛ばされて死ぬ。都合、一石で何もかも失う。しかし得るものもなくはない。歴史的「愚帝」の称号である。

また、もし今の世の中ならわざわざ地域住民の噂話が伝わってくるのを待つまでもなく、簡単な連絡手段としてスマートフォンがあるのではと考えられる。しかし国家の電波を隅々まで管理監督しているのは今や国家権力という網目であり、いつどのような状況であってもすぐさま多国籍企業に命じてどんな電波でも遮断することができる。工事関係者の家族だと名乗り出たとしても現場は危険だとされて立ち入り禁止になり、むしろ家族ゆえに弁護士らと連絡が取れないよう厳重な監視のもとに監禁・軟禁され、三六五日、片時も休まずカメラは回っておりどんな会話も盗聴対象になる。日本でも既に国家秘密法が成立して何年か経った。少なくとも先進諸国で暮らしている以上、監視対象にならない国民はどこにもいない。

説話では、工(たくみ)とその家族はとっとと他国へ亡命したので無事逃げ延びることができた。しかしそれはもはや過去の甘い時代のエピソードであり、今や逆に歴史的「愚帝」ばかりがおおっぴらに路上をうろついて「首相」とか「大統領」とか「首席」とか名乗っている始末。ところが歴史は終わらない。工(たくみ)とその家族は姿形を取り換えて、すべての地域住民がとまではいかないものの、今なお世界のあちこちに上手く溶け込んでもいる。ニーチェはいった。

「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫)

この一節を少しばかり押し進めてドゥルーズはいっている。

「わたしたちがすでに見てきたように、『似ているものどうしが異なる』と『異なるものどうしが類似する』という二つの表現は、まったく縁のない〔二つの〕世界に属している。ここでも、事情は同様であって、《<永遠回帰はまさに《似ている》ものである>、<永遠回帰における反復はまさに《同一的な》ものである>のだが、ーーーしかしまさしく類似と同一性は、還帰するものの回帰に先立って存在することはないのである》。似ているものや同一的なものは、還帰するものの特徴をまずはじめに表わすというわけではない。それらは、還帰するものの回帰と絶対的に入り混じっているのである。《還帰するのは同じものではないし、還帰するのは似ているものではない》とはいえ、しかし《同じ》ものとは、還帰するものの、<すなわち《異なる》ものの>還帰であり、似ているものとは、還帰するものの、<すなわち《非相似的な》ものの>還帰である。永遠回帰における反復は同じものであるが、ただしそれは、ひたすら差異および異なるものについてのみ言われるかぎりのことである。そこにこそ、表象=再現前化の世界の、そして、『同一的』と『似ている』がその世界のなかで有していた意味の、完全な転倒がある。こうした転倒は、思弁的なものにすぎないというわけではなく、むしろすぐれて実践的なものである。なぜなら、その転倒は、《同一的》と《似ている》という言葉を、もっぱら見せかけ(シミュラクル)たちに結びつけることによって、それらの言葉の通常の用法を、不当なものとして告発するからである」(ドゥルーズ「差異と反復・下・結論・P.341~342」河出文庫)

ちなみに国家的管理装置の伸縮自在性に始めて言及したのはカフカ「城」が最初である。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)

どこからどこまでが誰の責任なのか明瞭にすることが困難になったのはなるほど困った事態だ。しかしこの種の困難性を逆に利用している政府高官並びに高級官僚がうようよしている事実を覆い隠すことはかえって不可能になってきた。ネット社会の世界化によって。

説話に戻れば、もし国王による工(たくみ)暗殺が成功していた場合、工(たくみ)が完成させた「百丈(三百メートル)の石卒堵婆」の存在自体が暗殺を覆い隠す装置として機能していたに違いない。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

その意味で「百丈(三百メートル)の石卒堵婆」は見た目こそなるほど「石卒堵婆」にしか映らないけれども、その価値は「貨幣」として十分に機能したと言えるだろう。

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