白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・移動の価値/価値の移動「気のいい火山弾」

2021年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム
岩手県では「牛」のことを「ベゴ」と呼ぶ方言がある。そのくらい大きな黒い石が「かしわの木のかげ」にあった。いつ頃からあったのかわからないほどだ。別の作品冒頭にこうある。

「ずうっと昔(むかし)、岩手山が、何べんも噴火(ふんか)しました。その灰でそこらはすっかり埋(うず)まりました。このまっ黒な巨きな巌も、やっぱり山からはね飛ばされて、今のところに落ちて来たのだそうです」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.27』新潮文庫 一九九〇年)

そのうちのどれかはわからないが、山麓の或る突出して大きな黒い石は周囲のあちこちに散らばった大きくない黒い石たちから「ベゴ石」と呼ばれていた。いつもからかわれている。しかも一度も怒ったことがない。「人がよい」と言うことはしばしばある。けれどもベゴ石は「人がよすぎる」のだった。どのような「からかわれ方」か。最初に四箇所ばかり連発される。いずれも対話形式が取られている。

(1)「『ベゴさん。今日(こんち)は。おなかの痛いのは、なおったかい』。『ありがとう。僕(ぼく)は、おなかが痛くなかったよ』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.179』新潮文庫 一九九〇年)

(2)「『ベゴさん。こんちは。ゆうべは、ふくろうがお前さんに、とうがらしを持って来てやったかい』。『いいや。ふくろうは、昨夜(ゆうべ)、こっちへ来なかったようだよ』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.180』新潮文庫 一九九〇年)

(3)「『ベゴさん。今日は。昨日(きのう)の夕方、霧の中で、野馬がお前さんに小便をかけたろう。気の毒だったね』。『ありがとう。おかげで、そんな目には、あわなかったよ』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.180』新潮文庫 一九九〇年)

(4)「『ベゴさん。今日は。今度新しい法律が出てね、まるいものや、まるいようなものは、みんな卵のように、パチンと割ってしまいそうだよ。お前さんも早く逃(に)げたらどうだい』。『ありがとう。僕は、まんまる大将のお日さんと一しょに、パチンと割られるよ』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.180』新潮文庫 一九九〇年)

というふうに揶揄されているわけだがベゴ石の返事に注目すると奇妙にもというべきか、揶揄に対する<かわし方>が実に上手い。摩擦を起さない言葉が選択されていることに気づく。作者の手腕なのだが、ではなぜ賢治はそのような形式を選んだのだろうか。次にすぐそばの柏の木がベゴ石をからかって言う。

「『ベゴさん。僕とあなたが、お隣(とな)りになってから、もうずいぶん久しいもんですね』。『ええ。そうです。あなたは、ずいぶん大きくなりましたね』。『いいえ。しかし僕なんか、前はまるで小さくて、あなたのことを、黒く途方(とほう)もない山だと思っていたんです』。『はあ、そうでしょうね。今はあなたは、もう僕の五倍もせいが高いでしょう』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.182』新潮文庫 一九九〇年)

ベゴ石よりも五倍は大きくなったと言われた柏の木はすっかりのぼせ上がり「枝をピクピクさせ」てうぬぼれた。さらにそばに生えているおみなえしの花もベゴ石を馬鹿扱いしはじめる。

(1)「『ベゴさん。僕は、とうとう、黄金(きん)のかんむりをかぶりましたよ』。『おめでとう。おみなえしさん』。『あなたは、いつ、かぶるのですか』。『さあ、まあ私はかぶりませんね』。『そうですか。お気の毒ですね。しかし。いや。はてな。あなたも、もうかんむりをかぶってるではありませんか』。おみなえしは、ベゴ石の上に、このごろ生えた小さな苔(こけ)を見て、云いました。ベゴ石は笑って、『いやこれは苔ですよ』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.183』新潮文庫 一九九〇年)

(2)「『ベゴさん。とうとう、あなたも、かんむりをかぶりましたよ。つまり、あなたの上の苔がみな赤ずきんをかぶりました。おめでとう』。ベゴ石は、にが笑いをしながら、なにげなく云いました。『ありがとう。しかしその赤頭巾(あかずきん)は、苔のかんむりでしょう。私のではありません。私の冠(かんむり)は、今に野原いちめん、銀色にやって来ます』。このことばが、もうおみなえしのきもを、つぶしてしまいました。『それは雪でしょう。大へんだ。大へんだ』。ベゴ石も気がついて、おどろいておみなえしをなぐさめました。『おみなえしさん。ごめんなさい。雪が来て、あなたはいやでしょうが、毎年のことで仕方もないのです。その代り、来年雪が来えたら、きっとすぐ又いらっしゃい』。おみなえしは、もう、へんじをしませんでした」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.183~184』新潮文庫 一九九〇年)

また、ベゴ石の上には苔(こけ)が生えている。苔は「赤い小さな頭巾(ずきん)」をかぶったように見える。巨大な黒い石の上の小さな赤い頭巾のような苔。とても綺麗なコントラストを示して目立っていただろう。苔はベゴ石を馬鹿にしてこんな歌を作って歌ってみせた。

「『ベゴ黒助、ベゴ黒助、黒助どんどん、あめがふっても黒助、どんどん、日が照っても、黒助どんどん。ベゴ黒助、ベゴ黒助、黒助どんどん、千年たっても、黒助どんどん、万年たっても、黒助どんどん』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.185』新潮文庫 一九九〇年)

そこでベゴ石は「僕はかまわないけれど」、しかしその歌は、「よくないことになるかも知れないよ」と述べる。その代りにこう歌ってみてはとベゴ石は提案する。

「『お空。お空。お空のちちは、つめたい雨の ザァザザザ、かしわのしずくのトンテントン、まっしろきりのポッシャントン。お空。お空。お空のひかり、おてんとさまは、カンカンカン、月のあかりは、ツンツンツン、ほしのひかりの、ピッカリコ』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.186』新潮文庫 一九九〇年)

ところが周囲からはまったく受けが良くない。輪をかけて馬鹿にされてしまうばかり。とうとう山麓の野原中のものがベゴ石をあざけり笑い、遂に「絶交」されてしまう。その時。

「向うから、眼(め)がねをかけた、せいの高い立派な四人の人たちが、いろいろなピカピカする器械をもって、野原をよこぎって来ました」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.186』新潮文庫 一九九〇年)

学者ふうの人々のようだ。こういう。

「『あ、あった、あった。すてきだ。実にいい標本だね。火山弾の典型だ。こんなととのったのは、はじめて見たぜ。あの帯の、きちんとしてることね。もうこれだけでも今度の旅行は沢山だよ』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.187』新潮文庫 一九九〇年)

さらに。

「『うん。実によくととのってるね。こんな立派な火山弾は、大英博物館にだってないぜ』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.187』新潮文庫 一九九〇年)

午後になった。ふたたび四人の学者は村の人たちと一緒にやって来た。一台の荷馬車もある。ベゴ石の上に生えていた苔は目立って邪魔なのだろう、すぐにむしり取られしまった。逆にベゴ石の側が今度はからだを丁寧に取り扱われ、きれいな藁(わら)やむしろに包み込まれた。ベゴ石は学者たちから「立派な火山弾」と呼ばれながら周囲のものたちに別れの挨拶を告げる。

「『さよなら。さっきの歌を、あとで一ぺんでも、うたって下さい。私の行くところは、ここのように明るい楽しいところではありません。けれども、私共は、みんな、自分でできることをしなければなりません。さよなら。みなさん』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.188』新潮文庫 一九九〇年)

場所移動させられるベゴ石に一枚の「大きな札」が貼り付けられた。

「『東京帝国大学校地質学教室行』」(宮沢賢治「気のいい火山弾」『注文の多い料理店・P.188』新潮文庫 一九九〇年)

東京帝大の研究室へ移動すればもうベゴ石はこれまでのベゴ石ではなくなる。まわりから嘲笑されもて遊ばれることはもう決してなくなる。今後は貴重な研究対象としてナンバリングされ新しく命名されるだろう。従ってこの場合の場所移動は価値の移動・価値転換でもある。しかしなぜベゴ石は「さっきの歌を、あとで一ぺんでも、うたって下さい」と言ったのか。振り返ってみよう。

「『ベゴ黒助、ベゴ黒助、黒助どんどん、あめがふっても黒助、どんどん、日が照っても、黒助どんどん。ベゴ黒助、ベゴ黒助、黒助どんどん、千年たっても、黒助どんどん、万年たっても、黒助どんどん』」

巨大な黒い火山弾のみを対象とした唯一性が嫌が上にも際立っている。そしてそれが周囲の石や花や苔たちのちょうどよい<癒し>になり得ていた。もはや彼らは唯一の<癒し>を根こそぎ奪い取られてしまっている。またベゴ石の側から提示した歌の歌詞を見てみよう。

「『お空。お空。お空のちちは、つめたい雨の ザァザザザ、かしわのしずくのトンテントン、まっしろきりのポッシャントン。お空。お空。お空のひかり、おてんとさまは、カンカンカン、月のあかりは、ツンツンツン、ほしのひかりの、ピッカリコ』」

気の遠くなるほど長い年月をかけて岩手山に残る火山弾を取り巻いてきた周囲の環境がどのようなものだったか。それら諸条件のいずれについても必要不可欠な要因がまんべんなく列挙されている。しばらくすれば雨や霧の水分だけでなくベゴ石を見下ろして馬鹿にしていた「かしわ」の葉の成分も検出されるかもしれない。去っていくベゴ石はいう。「私の行くところは、ここのように明るい楽しいところではありません」。ベゴ石にとって必要以上に嫌な思いを越えない限り、周囲の<癒し>としてこの場所にいることはベゴ石自身にとっても「明るい楽しい」あり方だった。しかし今や大変貴重で「立派な火山弾」として存在意義をすっかり置き換えられなくてはならない。周囲からは<癒し>が奪い去られベゴ石には新しい<孤独>が与えられる。これまで下へ排除されていたものはこれから上へ排除されてしまう。いずれにしても突出した希少性を持つ火山弾の<孤立性>に限れば何らの変化もない。現場にあった頃の周囲の様子について次の詩はとてもよい参考になるだろう。

「イーハトーヴの死火山は 斧劈(ふへき)の皺(しわ)を示してかすみ 禾草がいちめんぎらぎらひかるーーーイーハトーヴの死火山よ その水いろとかがやく銀との襞(ひだ)ををさめよ」(宮沢賢治「春と修羅・第二集・三三三・遠足統率」『宮沢賢治詩集・P.198~200』新潮文庫 一九九〇年)

しかし過剰=逸脱した「立派な火山弾」は一方で周囲の<癒し>として身を捧げていた。そのあり方は「法華経・化城喩品」にある次のような「方便」と重なる。

「譬如五百由旬。險難悪道。曠絶無人。怖畏之處。若有多衆。欲過此道。至珍寶處。有一導師。聡慧明達。善知險道。通塞之相。將導衆人。欲過此難。所將人衆。中路懈退。白導師言。我等疲極。而復怖畏。不能復進。前路猶遠。今欲退還。導師多諸方便。而作是念。此等可愍。云何捨大珍寶。而欲退還。作是念已。以方便力。於險道中。過三百由旬。化作一城。告衆人言。汝等勿怖。莫得退還。今此大城。可於中止。随意所作。若入是城。快得安穏。若能前至寶所。亦可得去。是時疲極之衆。心大歓喜。歎未曾有。我等今者。免斯悪道。快得安穏。於是衆人。前入化城。生已度想。生安穏想。爾時導師。知此人衆。既得止息。無復疲惓。即滅化城。語衆人言。汝等去来。寶處在近。向者大城。我所化作。爲止息耳。

(書き下し)譬えば、五百由旬の険難なる悪道の、曠(むな)しく絶えて人なき怖畏(ふい)の処あるが如し。若し多くの衆(ひとびと)ありて、この道を過ぎて、珍宝の処に至らんと欲するに、一(ひとり)の導師の、聡慧(そうえ)・明達(みょうだつ)にして、善く險道(けんどう)の通塞(つうそく)の相を知れるものあり。衆人(もろびと)を将(ひき)い導(みちび)きて、この難を過ぎんと欲するに、将(ひき)いらるる人衆(にんしゆ)は中路に懈退(けたい)して、導師に、白(もう)して言わく「われ等は疲(つか)れ極まりて、また怖畏す。また進むこと能わず。前路はなお遠し。今、退(しりぞ)きかえらんと欲す」と。導師は、諸(もろもろ)の方便多くして、この念をなす「これ等は愍むべし。いかんぞ大いなる珍宝を捨てて、退きかえらんと欲するや」と。この念を作しおわりて、方便力(ほうべんりき)をもって、険道(けんどう)の中において、三百由旬を過ぎて、一城を化作して、衆人(もろびと)に告げていわく、「汝等よ、怖るることなかれ。退きかえることを得ることなかれ。今、この大城は、中において止(とど)まりて、意(こころ)のなす所に随うべし。若しこの城に入らば、快(こころよ)く安穏(あんのん)なることを得ん。若しよく前(すす)みて、宝所(ほうしょ)に至らば、また去ることを得べし」と。このとき、疲れ極まりし衆(ひとびと)は、心大いに歓喜(かんぎ)して、未曽有なりと歎じ「われ等、いまこの悪道をまぬかれて、快く安穏なることを得たり」といえり。ここにおいて、衆人(もろびと)は、前(すす)みて化城(けじょう)に入りて、すでに度(こえ)たりとの想(おもい)を生じ、安穏の想(おもい)を生ぜり。そのとき、導師は、この人衆の、すでに止息(しそく)することを得、また疲惓(ひけん)なきを知りて、すなわち、化城を滅して、衆人(もろびと)に語りて言わく「汝等よ去来(いざ)や、宝所は近きにあり。さきの大城は、われの化作せるところにして、止息のためなるのみ」と。

(サンスクリット原典からの邦訳)例えば、僧たちよ、ここに広さ五百ヨージャナの人跡未到の密林があって、そこに大勢の人々が到着したとしよう。ラトナ=ドゥヴィーパに行くために、賢明で学識があり、敏捷で精神力があり、密林の難路に通じていて隊商を案内して密林を通過さすことのできる、一人の案内人がいるとしよう。ところで、かの大勢の人々は途中で疲れ果てた上に、密林の不気味さに怖れおののいて、このように言うとしよう。「君、案内人よ、われわれは疲れ果てて、不安に怖れおののいているんだ。引き返そうじゃないか。人跡未到の密林は非常な遠くまで広がっている」と。そのとき、僧たちよ、巧妙な手段に通暁しているかの案内人は、人々が引き返そうと思っていることを知り、このように考えるとしよう。「これは駄目だ。あこの憐れな連中は、このままではラトナ=ドゥヴィーパに行けないであろう」と。彼はかれらを憐れんで、巧妙な手段を用いるとしよう。その密林の真中に、百ヨージャナあるいは二百ヨージャナないし三百ヨージャナの向こうに、彼が神通力で都城を造るとしよう。こうして、彼は、人々にこのように言うとしよう。「諸君、怖れてはならぬ。怖れてはいけない。あそこに大きな町がある。あそこで休もう。諸君たちがしなければならないことがあるなら、あそこで用を足しなさい。安心して、あそこに滞在するがよろしい。あそこで休んで、仕事のある人はラトナ=ドゥヴィーパに行くがよい」と。そこで、僧たちよ、密林に入りこんだ人々は不思議に思い、いぶかりながらも、「われわれは人跡未踏の密林を通り抜けたのだ。安心して、ここに逗留しよう」と思うであろう。また、助かったと思うであろう。「われわれは安心した。気分が爽快になった」と思うであろう。そこで、かの案内人は人々の疲れがなくなったことを知ると、神通力で造った都城を消して、人々にこのように言うとしよう。「諸君、こちらへ来てください。ラトナ=ドゥヴィーパは直ぐ近くだ。この都城は、君たちを休憩させるために、わたしが造ったのだ」と」(「法華経・中・巻第三・化城喩品・第七・P.572~75」岩波文庫 一九六四年)

山麓の様々な動植物や鉱物にとってもはやオアシスとしての<都城>は幻と消えた。とすると「立派な火山弾」がまだ「ベゴ石」と呼ばれていた頃、周囲のものたちの<癒し>としてその身を捧げ「明るく楽しみ楽しませ」ていた「ベゴ石」の価値はもはや消え失せ、研究室への場所移動とともに「立派な火山弾」は今後、地球の成り立ち、歴史的かつ宇宙論的<研究対象>として人間社会の学問に貢献する物質へとその価値を転換させた。だがしかし火山弾自身は或る孤独から別の孤独へ移動したというに過ぎない。この種の孤独を引き受ける態度。作者=賢治はおそらくそのような態度を如来的実践(菩薩的無償性)として捉えていたように思う。

BGM1

BGM2

BGM3