白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・精神安定剤<藤蔓>「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」

2021年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
タネリが外へ走り出そうとした時、お母(っか)さんはこう注意する。

「『森へは、はいって行くんでないぞ』」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.246』新潮文庫 一九九五年)

タネリは聞いて納得しているのかいないのかわからないが、たぶん聞いたというだけに過ぎないが、こまかく裂いた藤蔓(ふじつる)を噛みながら陽の光に明るく見えだしている野原や丘の方向へ飛び出していった。窪地や木陰ではまだ消え残りの雪がちらほらしている。溢れる悦びを押さえきれないタネリは凍てたように張りつめて輝く青空のかけらをむしゃむしゃ喰べてしまいたいほどだ。

「そのはてでは、青ぞらが、つめたくつるつる光っています。タネリは、まるで、早く行ってその青ぞらを少し喰(た)べるのだというふうに走りました」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.247』新潮文庫 一九九五年)

飛び出してきたタネリの小屋がうさぎ小屋くらいに見える距離まで駆けてきた時、タネリは野原の真ん中で叫ぶ。

「『ほう、太陽(てんとう)の、きものをそらで編んでるぞ。いや、太陽(てんとう)の、きものを編んでいるだけでない。そんなら西のゴスケ風だか?いいや、西風ゴスケでない。そんならホースケ、蜂(すがる)だか?うんにゃ、ホースケ、蜂(すがる)でない。そんなら、トースケ、ひばりだか?うんにゃ、トースケ、ひばりでない』」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.248~249』新潮文庫 一九九五年)

一人で歌っているに過ぎないでたらめな歌だが対話形式を取っている。較べてみよう。野原へ駆け出す前の歌は一方的に叫ぶばかりの「独り言」だった。

「『山のうえから、青い藤蔓(ふじつる)とってきたーーー西風ゴスケに北風カスケーーー崖(がけ)のうえから、赤い藤蔓とってきたーーー西風ゴスケに北風カスケーーー森のなかから、白い藤蔓とってきたーーー西風ゴスケに北風カスケーーー洞(ほら)のなかから、黒い藤蔓とってきたーーー西風ゴスケに北風カスケーーー山のうえからーーー』」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.245』新潮文庫 一九九五年)

それが第一の歌詞。独り言(モノローグ・つぶやき)に過ぎない。第二はその変奏。それもまた独り言(モノローグ・つぶやき)でしかない。ところが外へ出て山野のまんなかで大きな声を上がるタネリの歌はもはや独り言(モノローグ・つぶやき)ではなく、対話(ダイアローグ)へ変化している。では誰との対話か。誰でもない。世界が変わったか少なくとも対話するに値する相手の息吹を感じさせる場所に変わった。この場所移動がタネリの歌の形式をモノローグからダイアローグへと変えた。ところがダイアローグ形態を得て世界全体がぐっと拡張されるやタネリの発語はダイアローグでもモノローグでもないアナーキーな叫びへ変化する。モノローグやダイアローグにあった整然たる形式へ還ってくることはもはやない。とともに自然生態系の世界へ溶け込む。タネリはまたひとつまみの藤蔓を口にふくんで枯れ草の上を歩き出した。

四本の柏の木が立っているところへ来たとき、タネリは柏の木に声をかける。しかし返事がない。仕方なく「来たしるし」を付けていくとつぶやいて、足元の枯れ草をつかんで「あちこちに四つ、結び目をこしらえて、やっと安心したように」歩きだした。作品「若い木霊」では六本の柏の木まで木霊がやって来て声をかける。が、返事はない。そこで木霊は「おれが来たしるし」に「柏の木の下の枯れた草穂(くさほ)をつかんで四つだけ結び合」っておく。「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」の場合、読者はタネリが同じ仕草を反復するこの場面に出会って始めてふいに両者が「姉妹編」であることを知る。タネリはまた藤の蔓をくちゃくちゃ噛みながら歩きだす。丘の背後の小さな湿地には水ばしょうが行儀よく並んでいる。姿形が似ていることから、ここでは水ばしょうのことを別名「牛(ベゴ)の舌」と呼んでいる。タネリは「牛(ベゴ)の舌」に向かって自分の「舌」で応じる。このとき両者は等価関係に置かれる。

「勢(いきおい)よく湿地のへりを低い方へつたわりながら、その牛(ベゴ)の舌の花に、一つずつ舌を出して挨拶(あいさつ)してあるきました」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.250』新潮文庫 一九九五年)

それにしてもタネリが置き換え可能性を実証してみせるのはなぜだろうか。「牛(ベゴ)の舌」と自分の「舌」との同一化は何の証明になるのか。タネリは人間だが大人になっていない。乳幼児ではないが少なくとも<少年>である。この<あいだ>の年齢にのみ許された独自の世界観形成の可能性を雄弁に物語っている。タネリはまだ<水ばしょう>の群落の中に溶け込むことができる年齢なのだ。

そしてこの湿地帯には「若い木霊」に出てきたように「蟇(ひきがえる)」が「のそのそ」這い出してきた。蟇はいう。若い木霊はもとより人間でない。だから蟇がしゃべっても驚きはしないかといえばそうではなく、「ギクッ」としつつも蟇の言葉を聞いた。タネリの場合も「ぎくっ」としつつその言葉を聞いている。

「『どうだい、おれの頭のうえは。いつから、こんな、ぺらぺら赤い火になったろう。ーーーそこらはみんな、桃(もも)いろをした木耳(きくらげ)だ。ぜんたい、いつから、こんなにぺらぺらしだしたのだろう』」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.251』新潮文庫 一九九五年)

若い木霊は蟇のいう通り「鴾の火」を探しにあちこち飛びめぐる。タネリもまた鴾と出会うことになるが、第一に蟇の言葉が聞こえた点で仰天し走って逃げだす。やっとの思いで栗の木の立っているところへたどり着き、やどり木を見つけて声をかけようとする。だが息が上がってしまっていて声がでない。ここでタネリはまた藤蔓をつまんで噛んでみる。気持ちを落ち着かせるためだ。ところが火でも吹いているかのように激しい呼吸のせいで藤蔓はかえって邪魔になったようだ。

「藤蔓を一つまみ噛んでみても、まだなおりませんでした」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.251』新潮文庫 一九九五年)

吐き出すと声が出た。口の中でむちゃむちゃやっていれば声は出ない。吐き出すと声が出る。当り前といえば当り前なのだが、少なくともタネリの場合、気持ちを落ち着かせるために自分には藤蔓が必要だと信じて疑っていないと言える。藤蔓はただ単なる植物というだけでなく、寒冷地のため不作や飢饉の年が多かった賢治自身の故郷とその飢えを象徴する重要な印でもある。何度も繰り返し藤蔓を噛みしめてみても、しかし生前の賢治にとって、それが一粒の白米に匹敵することは遂になかった。そんな苦労の多い生活条件が少年時代の前提となり、賢治は農学校教師として肥料研究に没頭する。ところで、やどり木に向かって歌を歌ってみせるタネリ。一度目はでたらめな歌詞を試しに歌ったに過ぎない。けれども面白がって歌った二度目の歌詞はとても重要。

「『栗の木食って 栗の木死んで かけすが食って 子どもが死んで 夜鷹(よだか)が食って かけすが死んで 鷹は高くへ飛んでった』」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.252』新潮文庫 一九九五年)

食物連鎖にヒューマニズムを感情移入するとたちまち悲哀の情に打ちひしがれずにはおれない賢治の相貌が如実に現われる。食う者は食われ、食った者が次には食われる。以降、この連鎖はひたすら続くほかない。この事情は宗教者=賢治にとってやりきれず<負い目>の感情から逃れられない。賢治はその<負い目>と<罪の意識>をその死までずっと引きずっていくことになる。一方、食物連鎖の歌詞を聞かされたやどり木は「べそ」をかいてしまう。それを見たタネリは慢心して「高く笑」うが、タネリ自身の笑い声はむなしく遠くへ消えていく。そしてタネリは「しょんぼりしてしまいました」。ほかの作品の登場人物がしばしば陥るように、いつものような「しいん」とした情景の中に一人孤独を噛みしめなければならない。そんな時、タネリはいつも藤蔓を噛む。

「やどりぎが、上でべそをかいたようなので、タネリは高く笑いました。けれども、その笑い声が、潰(つぶ)れたように丘へひびいて、それから遠くへ消えたとき、タネリは、しょんぼりしてしまいました。そしてさびしそうに、また藤の蔓を一つまみとって、にちゃにちゃと噛みはじめました」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.252』新潮文庫 一九九五年)

やがてタネリは蟇の予告通り「鴾」を見つける。そしていう。「おいらと遊んでおくれ」。

「『おおい、鴾、おいらはひとりなんだから、おまえはおいらと遊んでおくれ。おいらはひとりなんだから』」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.253』新潮文庫 一九九五年)

飛んでいく「鴾」を追いかけて行くうちにお母(っか)さんが「行くな」と言っていた森の中へ迷いこむタネリ。ところが森の暗さにたじろいでしまう。さらに森の奥はひどく「陰気」に思え、中に何がいるのかさっぱりわからない。ただ、若い木霊が聞いたような「様々な怒鳴り声」をタネリも聞く。

「タネリは、一つの丘をかけあがって、ころぶようにまたかけ下りました。そこは、ゆるやかな野原になっていて、向うは、ひどく暗い巨(おお)きな木立でした。鳥は、まっすぐにその森の中に落ち込みました。タネリは、胸を押(おさ)えて、立ちどまってしまいました。向うの木立が、あんまり暗くて、それに何の木かわからないのです。ひばよりも暗く、榧(かや)よりももっと陰気で、なかには、どんなものがかくれているか知れませんでした。それに、何かきたいな怒鳴(どな)りや叫びが、中から聞えて来るのです」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.254』新潮文庫 一九九五年)

森の中へ入っていった「鴾」に向かってこわごわながら呼び声を上げてみた。ところが「鴾」の返事は思いのほか無愛想この上ない。怖くもあり急なさびしさに襲われたタネリは藤蔓を噛んで、もう一度森を見た。

「いつの間にか森の前に、顔の大きな犬神みたいなものが、片っ方の手をふところに入れて、山梨(やまなし)のような赤い眼(め)をきょろきょろさせながら、じっと立っているのでした。タネリは、まるで小さくなって、一目さんに遁げだしました。そしていなずまのようにつづけざまに丘を四つ越(こ)えました」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.255』新潮文庫 一九九五年)

必死で逃げ帰ったタネリはいつか栗の木を目の前にしていた。すでに夕暮れになってもいる。そばにかたくりの花が咲いている。タネリはかたくりの葉に目を落とした。

「葉の上には、いろいろな黒いもようが、次から次へと、出てきては消え、でてきては消えしています」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.255』新潮文庫 一九九五年)

そこでは次々と言葉が行列をなして出現し、出現しては消えていくのが目に映えた。

「『太陽(てんとう)は、丘の髪毛(かみけ)の向うのほうへ、かくれて行ってまたのぼる。そしてかくれてまたのぼる』」(宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」『ポラーノの広場・P.255』新潮文庫 一九九五年)

ところでそれらの言葉の行列について、もしヘーゲルならこういうに違いない。

「世界史をひとわたりながめてみると、そこには、目もくらむような色とりどりの変化や行為、無限に多様な形をもつ民族や国家や個人が、つぎからつぎへと登場します。人間の心に入りこんで興味をよびおこすすべてのものーーー善・美・偉大にかんするすべての感覚が自己を主張するし、わたしたちの承認を得、わたしたちの実行意欲をかきたてる目的が、あらゆるところに登場します。それらは希望の対象にも恐怖の対象にもなる。こうした事変や偶発事のすべてには、人間の行為と苦しみが露出している。それらは身のまわりでおこってもおかしくないことばかりで、好悪いずれにせよ、わたしたちの関心をかきたてます。美や自由や富が興味をひくこともあれば、悪徳ののしあがっていくエネルギーが目をうばうこともある。公共の利益となるはずの大事業が進捗せず、こまごまとした小事にさまたげられて雲散霧消することもあるし、途方もない力が動員されながら、結果がちっぽけなこともあるし、なんでもないものから途方もないものがうまれたりもする、ーーー要するに、多種多様なできごとがわたしたちの関心をひこうと待ちかまえていて、一つが消えさると、ただちにべつのできごとがかわって登場します」(ヘーゲル「歴史哲学講義・上・序論・世界史のあゆみ・P.126~127」岩波文庫 一九九四年)

哲学的言語に変換すればこうなる。

「或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして《限りなく》続いていく」(ヘーゲル「小論理学・上・九三・P.286」岩波文庫 一九五一年)

そしてその各々が人間、とりわけ労働する人間である場合、次のようになる。相互依存的でない人間はどこにもいないと。

「自らの欲〔要〕求のためにする個人の《労働》は、自己自身の欲〔要〕求の満足であるように、また他人の欲〔要〕求の満足でもある。個人が自己の欲〔要〕求を満足させるのは、ただ他人の労働によるのである。ーーー個別者は、自ら《個別的に》労働するとき、すでに《意識せずに》、《一般的な》労働を果たしているように、一般的な労働をも、自らの《意識》的な対象として、果たしてもいる。全体は、《全体として》個別者の仕事となり、この仕事のために、個別者は自分を犠牲とし、まさにこの犠牲によって、全体の方から、自分自身を逆に支えられるのである。ーーーここには相互的でないようなものは何もない」(ヘーゲル「精神現象学・上・理性・理性的自己意識の自己自身による実現・P.400」平凡社ライブラリー 一九九七年)

さらに労働者ばかりでなく個々人の法的規定(権利)はどのように考えるのが妥当だろうか。ヘーゲルはいう。

「みずからが《自由であると主観的に規定する》ための《個々人の法》〔権利〕は、彼らが人倫的現実性に帰属することにおいて実現される。というのは、個々人のもつ、自分が自由だという《確信》は、このような客観性のなかで《その真理》をえ、そして個々人は、人倫的なものにおいて、《自分自身の》本質、自分の《内的な》普遍性を《現実的に》所有するからである」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・一五三・P.27~28」岩波文庫 二〇二一年)

ここで言われている「現実的」とはどういうことか。

「理性的なものは現実的であり、そして現実的なものは理性的である」(ヘーゲル「法の哲学・上・序言・P.34」岩波文庫 二〇二一年)

さらにまた「現実的」とはどのような意味なのか。

「現実性とは、本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。ーーー<補遺>人々は、普通、よく考えもしないで、現実と思想(正確に言えば、理念)とを対立させており、かくしてわれわれは人々がよく次のように言うのを聞く。すなわち、或る思想が正しく真理であることに異論はないが、しかしそうしたものは現実のうちには存在しない、あるいは、現実のうちにそれを実現することはできない、と。しかしこういう言い方をする人は、それによって、かれらが思想の本性をも現実の本性をも正しく把握していないことを証明しているのである。このような言い方においては、思想は主観的表象、計画、意図などと同じ意味に理解され、現実は外的な、感覚的な現存在と同じ意味に理解されている。カテゴリーおよびその表示を人々がそうまで厳密に考えていない日常生活においては、そうしたことも許されるであろう。例えば、或る税制計画(日常的には、此のようなものもイデーとよばれている)が、それ自身としては全くすぐれていて目的にかなっているが、いわゆる現実のうちには見出されず、また与えられた諸事情のもとでは実行できないというようなことも、もちろんおこりうるであろう。しかし抽象的な悟性が理念と現実という二つの規定をとらえて、その区別を動かすことのできない対立にまで高め、われわれはこの世界においては理念を頭から作り出さねばならないなどと言う場合には、われわれはこのような考え方を学問および健全な理性の名において決定的にしりぞけなければならない。なぜなら、一方において、理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものであるからであり、他方、現実は、無思想な、あるいは、思惟をきらい、思惟の点では全く駄目になった実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもないからである」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一四二・P.81~83」岩波文庫 一九五二年)

さらに問題系は続く。ここでは一度、ネルヴァルのような精神障害のケースはどう考えればよいか、参照しておきたい。まずネルヴァル自身はどのように考えているだろうか。ちなみにこの箇所のネルヴァルの考え方には小林秀雄も賛同している。

「私は、人間の想像は嘗て此の世界に於いても他の諸世界に於いても、一つとして真ならざるものを考え出したことはないと信ずるのであり、そして自分がかくも明瞭に《見た》ものを、疑うことはできぬ」(ネルヴァル「オーレリア・P.41」岩波文庫 一九三七年)

というふうにネルヴァルはその幻覚幻聴にもかかわらず自分の精神障害について極めて鋭敏な自覚がある。したがってヘーゲルによればネルヴァルのケースはおそらく次のように記述することができるだろう。

「自分が考えている《主観的なものがまだ客観的には》実存し《ない》ということを知っているならば、まだなんら《精神錯乱》ではない。誤謬および愚行が《精神錯乱》になるということは、人間が自分の《単に主観的な》表象を《客観的なもの》として自分の《眼前に》もっているように信じ、且つ自分の単に主観的な表象と《矛盾》している《現実的客観性に対立して》自分の単に主観的な表象を《固持する》場合に始めて起こることである。精神錯乱におちいっている人々にとっては、自分の単に主観的なものが、ちょうど客観的なものが全く確実であると同じように、全く確実である」(ヘーゲル「精神哲学・上・第一篇・三二・P.271」岩波文庫 一九六五年)

さて、タネリが知らない森の前に立っているのを見た「顔の大きな犬神」とはいったい何だろうか。「犬神信仰」というだけのことならほぼ全国どこにでもあるが、東北という地理的条件を考慮すると次のように「北極犬」の存在を見逃すわけにはいかない。

「おれはたしかに その北極犬のせなかにまたがり 犬神のやうに東へ歩き出す まばゆい緑のしばくさだ おれたちの影は青い沙漠旅行(りよかう) そしてそこはさつきの銀杏(いてふ)の並樹 こんな華奢(きやしや)な水平な枝に 硝子のりつぱなわかものが すつかり三角になつてぶらさがる」(宮沢賢治「春と修羅・真空溶媒」『宮沢賢治詩集・P.47』新潮文庫 一九九〇年)

また北海道、樺太、中国東北部・シベリアへとつづく長い北方への道程では、北極犬(白い犬)だけでなく例えば「熊」に対する信仰が参考になるかも知れない。フレイザーは述べる。

「ギリヤーク族の近隣に住むゴリド族〔やはりトゥングース族に属する、ナナイ族の旧称〕も、ほぼ同じ方法で熊を扱う。普段は狩猟で殺すのだが、ときには生け捕りにして檻の中で飼い、十分餌を与え、これを自分たちの息子や兄や弟と呼ぶ。そして大きな祭りの際に、檻から連れ出し、大いに敬意を表して行進を行い、その後殺して食べる。『頭蓋と顎の骨と耳は、悪霊に対するお守りとして木に吊るされる。だが肉は大変好んで食される。この肉に与った者は皆、狩猟の喜びを得るようになり、勇敢になる、と信じられているからである』。これらの部族が捕らえた熊を扱うその扱い方には、ほとんど崇拝と区別のつかない面がある。とりわけギリヤーク族が熊を一軒一軒連れて回り、どの家族もこの熊の祝福を受けるという風習は、春に『五月の木』もしくは樹木霊の人間による表象を一軒一軒連れて回る、という風習に類似している。これはだれもが自然の新たな再生力に与れるようにと行われるものである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十二節・P.139」ちくま学芸文庫 二〇〇三年)

岩手県の山間部で四月だったものがよりいっそう北方のシベリアへ行くと五月になる。そしてその地の生活様式に溶け込んでいる北極犬は、東北地方とはまた違った生活様式とその文法に従って暮らす人々が営む別の世界の<神>でもあったに違いない。

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