白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・昭和へのディストピア「北守将軍と三人兄弟の医者」

2021年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム
創作上、架空の都市が設定され命名されるのはありふれている。だが架空の都市が「首都」ととして設定されている場合、なぜあえて「首都」として設定され<ねばならなかった>のかという問いはいつも出現して脳裏を離れない。作品「北守将軍と三人兄弟の医者」の舞台もまた「首都」である。そこでは三人の医師の兄弟がそれぞれ違った科を受け持っている。

「いちばん上のリンパーは、普通(ふつう)の人の医者だった。その弟のリンプーは、馬や羊の医者だった。いちばん末のリンポーは、草だの木だのの医者だった」(宮沢賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」『銀河鉄道の夜・P.137』新潮文庫 一九八九年)

長男は人間相手の医師、次男は獣医師、三男は農学者である。或る日、首都「ラユー」に北守将軍ソンバーユーが凱旋してきた。三十年ぶりの帰還である。十万人の騎兵を率いて出かけたが帰ってきた時は一万人少ない九万人になっていた。首都の城門で軍歌を歌ってみせる。その歌詞の中にどこかで見かけた箇所がある。特に専門の研究者でなくともふとわかる組み合わせになっていてどこか微笑ましい。しかしその内容はあまりにもけわしい。二箇所ある。(1)は作品中に出てくる賢治のリミックス。(2)はほぼ間違いなくその原典とされている箇所。なお「塞下(そくか)曲」は詩のジャンルの一つ。古くからモンゴルやチベットなどで戦闘に従事する辺境守備隊の苦難を歌う。その第一。

(1)「『みそかの晩とついたちは 砂漠に黒い月が立つ。西と南の風の夜は 月は冬でもまっ赤だよ。雁(がん)が高みを飛ぶときは 敵が遠くへ遁(に)げるのだ。追おうと馬にまたがれば にわかに雪がどしゃぶりだ』」(宮沢賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」『銀河鉄道の夜・P.141~142』新潮文庫 一九八九年)

(2)「月黑雁飛高 單于遠遁逃 欲將輕騎逐 大雪滿弓刀

(書き下し)月(つき)黒(くろ)くして雁(かり)の飛(と)ぶこと高(たか)し 単于(ぜんう) 遠(とお)く遁逃(とんとう)す 軽騎(けいき)を将(ひき)いて逐(お)わんと欲(ほっ)すれば 大雪(だいせつ) 弓刀(きゅうとう)に満(み)つ

(現代語訳)月のない夜空を、雁が高く飛んで行く。単于は闇にまぎれて、遠く逃走した。軽装した騎馬隊をひきいて、あとを追おうとすれば、大雪は弓にも刀にも、いっぱいに降りつもる」(廬綸「和張僕射塞下曲」『唐詩選・中・巻六・P.420~421』岩波文庫 二〇〇〇年)

その第二。

(1)「『雪の降る日はひるまでも そらはいちめんまっくらで わずかに雁の行くみちが ぼんやり白く見えるのだ。砂がこごえて飛んできて 枯(か)れたよもぎもひっこぬく。抜(ぬ)けたよもぎは次々と 都の方へ飛んで行く』」(宮沢賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」『銀河鉄道の夜・P.142』新潮文庫 一九八九年)

(2)「朔雪飄飄開雁門 平沙歴亂捲蓬根

(書き下し)朔雪(さくせつ) 飄飄(ひょうひょう)として 雁門(がんもん)開(ひら)き 平沙(へいさ) 歴乱(れきらん)として 蓬根(ほうこん)捲(ま)く

(現代語訳)雪は北風に舞い飛んで、雁門の関は開かれた(いざ、出陣だ)。砂漠の砂はばらばらと舞いあがり、枯れた蓬(よもぎ)も丸く捲きながらころがって行く」(廬綸「塞下曲二」『唐詩選・下・巻七・P.201』岩波文庫 二〇〇〇年)

いずれも作品「氷河鼠の毛皮」に登場する「ベーリング行最大急行」に載った人々のように、毎年々々とても厳しい寒気と飢餓とに襲われることが日常生活のほとんどを占めている人々の苦難の姿を重ね合わせた光景が描かれる。それは作者=賢治が生まれ育った岩手県花巻から北海道、シベリアを経て北極へ達するあらゆる地域に当てはまる。かつて吉本隆明は「宮沢賢治」論の中で述べたことがある。ユートピアとして構想された「ポラーノの広場」はイーハトーヴォ(岩手県)のどこにでもある野原に理想的ユートピア的光景を重ね合わせて描き出されたものに違いないと。それは作品の中の次の箇所を上げて指摘されていた。

「そのときでした。野原のずうっと西北の方でぼぉとたしかにトローンボーンかバスの音がきこえました。わたくしはきっとそっちを向きました。するとまた西の方でもきこえるのです。わたくしはおもわず身ぶるいしました。野原ぜんたいに誰(たれ)か魔術(まじゅつ)でもかけているかそうでなければ昔からの云い伝え通りひるには何もない野原のまんなかに不思議に楽しいポラーノの広場ができるのか、わたくしは却(かえ)ってひるの間役所で標本に札をつけたり書類を所長のところへ持って行ったりしていたことが別の世界のことのように思われてきました」(宮沢賢治「ポラーノの広場」『ポラーノの広場・P.402~403』新潮文庫 一九九五年)

同一地域で日常的に営まれている風景がまるで「別の世界のことのように思われて」くる。吉本隆明は賢治がユートピアを描き上げる時の特徴の一つとしてその重層的記述(重ね合わせ)を強調している。吉本隆明の批評にも奇妙な違和感があり、賢治がこの種の創作方法を取る場合、なるほど創作方法の一つには違いないが、一方、賢治の持つ<弱さ>の指摘とも重ねられた上で述べられているように思える。要するに宮沢賢治は最初から挫折を決定づけられていたかのようだ。実際、挫折ばかりが目立つ生涯だったわけで、とてもではないが華々しいとはいえない。華々しくあろうともしていない。ところが熱心な法華経主義者としてはなりふり構わずあちこちに顔を出し、心身ともに限界的な疲労に陥るまでそれぞれに異なる生活様式を持つ村落共同体へどんどんおもむき指導者的立場に立ってしまうため、しばしば煙たがられもした。新しい肥料の開発といってもすべての肥料が有効だったわけではまるでなく、おもむいた先々で迷惑がられたりしたのも事実である。

だが「北守将軍と三人兄弟の医者」はおそらくその逆で、重ね合わせの方法を取りつつもユートピアならぬディストピアを描き出そうとしたのは間違いない。そしてこの場合はさらに奇妙なことに、ユートピアを描いている時の理想以上に成功しているように見える。ともかく凱旋したソンバーユー将軍が患っていた病気は次のようなものだ。

「将軍の両足は、しっかり馬の鞍(くら)につき、鞍はこんどは、がっしりと馬の背中にくっついて、もうどうしてもはなれない。さすが豪気(ごうぎ)の将軍も、すっかりあわてて赤くなり、口をびくびく横に曲げ、一生けん命、はね下りようとするのだが、どうにもからだがうごかなかった。ああこれこそじつに将軍が、三十年も、国境の空気の乾いた砂漠のなかで、重いつとめを肩に負い、一度も馬を下りないために、馬とひとつになったのだ。おまけに砂漠のまん中で、どこにも草の生えるところがなかったために、多分はそれが将軍の顔を見付けて生えたのだろう。灰いろをしたふしぎなものがもう将軍の顔や手や、まるでいちめん生えていた」(宮沢賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」『銀河鉄道の夜・P.143』新潮文庫 一九八九年)

読者はここでなぜ先に三人の医師が準備されていたか理解するだろう。それぞれ「人間の医学・獣医学・農学」に相当しているからである。ソンバーユー将軍は第一に長男のリンパー医師のもとへ向かう。両者が交わす対話から洩れるソンバーユー将軍の疾患の訴えは精神的疲労困憊から到来したものだろうと思われるが、リンパー医師の問診による返事は将軍の「つかれ」によるものでその症状は「つまり十パーセントです」とされる。「十パーセント」が病気の診断名である。近現代の特徴である万能主義的<数値>に置き換えられたものがすなわち<症状>として流通している。古代中国の架空都市を舞台としてはいるものの、その実、医師が用いる言語は極めて<近代的>であり、あたかも行き先を間違えて超近代へ忽然と出現した超古代の将軍というディストピア的重ね合わせの人物形象が際立つ。

「『いいや、病気はしなかったが、狐(きつね)のために欺(だま)されて、どうもときどき困ったじゃ』。『それは、どういう風ですか』。『向うの狐はいかんのじゃ。十万近い軍勢を、ただ一ぺんに欺すんじゃ。夜に沢山(たくさん)火をともしたり、昼間いきなり砂漠の上に、大きな海をこしらえて、城や何かも出したりする。全くたちが悪いんじゃ』。『それを狐がしますのですか』。『狐とそれから、砂鶻(サコツ)じゃね、砂鶻というて鳥なんじゃ。こいつは人の居(お)らないときは、高い処(ところ)を飛んでいて、誰(だれ)かを見ると試しに来る。馬のしっぽを抜(ぬ)いたりね。目をねらったりするもんで、こいつがでたらもう馬は、がたがたふるえてようあるかんね』。『そんなら一ぺん欺されると、何日ぐらいでよくなりますか』。『まあ四日じゃね。五日のときもあるようじゃ』。『それであなたは今までに、何べんぐらい欺されました?』『ごく少くて十ぺんじゃろう』。『それではお尋(たず)ねいたします。百と百とを加えると答はいくらになりますか』。『百八十じゃ』。『それでは二百と二百では』。『さよう、三百六十だろう』。『そんならも一つ伺(うかが)いますが、十の二倍は何ほどですか』。『それはもちろん十八じゃ』。『なるほど、すっかりわかりました。あなたは今でもまだ少し、砂漠のためにつかれています。つまり十パーセントです。それではなおしてあげましょう』」(宮沢賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」『銀河鉄道の夜・P.147~148』新潮文庫 一九八九年)

次に隣の次男・リンプー先生の診察所へ移動して馬の病気が治療される。第三にさらにその隣の三男・リンポー先生の診察所へ移動してソンバーユー将軍の顔に生えてきていた灰色の植物のようなものが除去されて治療を終える。その後、ソンバーユー将軍は北方の極寒地帯での三十年間の任務をねぎらわれつつ引退する。生まれ故郷の山麓へ帰った。しばらく畑仕事に従事して生きていたようだが、衰弱が激しくそのうちどこにも姿が見えなくなった。周囲の人々は死亡したと判断し、将軍は「仙人(せんにん)になった」と考えて山の頂上に小さな祠を作って祀った。しかし近代医学の立場から見ればどう考えてもごく普通の人間がまったく何一つ姿形を失って「仙人」になるとは考えられもしない。ソンバーユー将軍の病を治療したリンパー先生はいった。

「『どうして、バーユー将軍が、雲だけ食った筈(はず)はない。おれはバーユー将軍の、からだをよくみて知っている。肺と胃の腑(ふ)は同じでない。きっとどこかの林の中に、お骨(こつ)があるにちがいない』」(宮沢賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」『銀河鉄道の夜・P.156』新潮文庫 一九八九年)

そう聞かされた人々はこう思う。

「なるほどそうかもしれないと思った人もたくさんあった」(宮沢賢治「北守将軍と三人兄弟の医者」『銀河鉄道の夜・P.156』新潮文庫 一九八九年)

このフレーズは何を意味しているのだろうか。なぜ賢治は両者の立場のどちらへも同時に疑義を呈するかのような不完全な言葉を作品に与えているのか。あえて与えたのだろうか。とすればなぜか。法華経信者としての賢治は、幻の砂上の楽園を出現させて僧侶たちを絶望感から救う「化城喩品」のエピソードにただならぬ魅力を感じていたことは明白だろう。

「譬如五百由旬。險難悪道。曠絶無人。怖畏之處。若有多衆。欲過此道。至珍寶處。有一導師。聡慧明達。善知險道。通塞之相。將導衆人。欲過此難。所將人衆。中路懈退。白導師言。我等疲極。而復怖畏。不能復進。前路猶遠。今欲退還。導師多諸方便。而作是念。此等可愍。云何捨大珍寶。而欲退還。作是念已。以方便力。於險道中。過三百由旬。化作一城。告衆人言。汝等勿怖。莫得退還。今此大城。可於中止。随意所作。若入是城。快得安穏。若能前至寶所。亦可得去。是時疲極之衆。心大歓喜。歎未曾有。我等今者。免斯悪道。快得安穏。於是衆人。前入化城。生已度想。生安穏想。爾時導師。知此人衆。既得止息。無復疲惓。即滅化城。語衆人言。汝等去来。寶處在近。向者大城。我所化作。爲止息耳。

(書き下し)譬えば、五百由旬の険難なる悪道の、曠(むな)しく絶えて人なき怖畏(ふい)の処あるが如し。若し多くの衆(ひとびと)ありて、この道を過ぎて、珍宝の処に至らんと欲するに、一(ひとり)の導師の、聡慧(そうえ)・明達(みょうだつ)にして、善く險道(けんどう)の通塞(つうそく)の相を知れるものあり。衆人(もろびと)を将(ひき)い導(みちび)きて、この難を過ぎんと欲するに、将(ひき)いらるる人衆(にんしゆ)は中路に懈退(けたい)して、導師に、白(もう)して言わく「われ等は疲(つか)れ極まりて、また怖畏す。また進むこと能わず。前路はなお遠し。今、退(しりぞ)きかえらんと欲す」と。導師は、諸(もろもろ)の方便多くして、この念をなす「これ等は愍むべし。いかんぞ大いなる珍宝を捨てて、退きかえらんと欲するや」と。この念を作しおわりて、方便力(ほうべんりき)をもって、険道(けんどう)の中において、三百由旬を過ぎて、一城を化作して、衆人(もろびと)に告げていわく、「汝等よ、怖るることなかれ。退きかえることを得ることなかれ。今、この大城は、中において止(とど)まりて、意(こころ)のなす所に随うべし。若しこの城に入らば、快(こころよ)く安穏(あんのん)なることを得ん。若しよく前(すす)みて、宝所(ほうしょ)に至らば、また去ることを得べし」と。このとき、疲れ極まりし衆(ひとびと)は、心大いに歓喜(かんぎ)して、未曽有なりと歎じ「われ等、いまこの悪道をまぬかれて、快く安穏なることを得たり」といえり。ここにおいて、衆人(もろびと)は、前(すす)みて化城(けじょう)に入りて、すでに度(こえ)たりとの想(おもい)を生じ、安穏の想(おもい)を生ぜり。そのとき、導師は、この人衆の、すでに止息(しそく)することを得、また疲惓(ひけん)なきを知りて、すなわち、化城を滅して、衆人(もろびと)に語りて言わく「汝等よ去来(いざ)や、宝所は近きにあり。さきの大城は、われの化作せるところにして、止息のためなるのみ」と。

(サンスクリット原典からの邦訳)例えば、僧たちよ、ここに広さ五百ヨージャナの人跡未到の密林があって、そこに大勢の人々が到着したとしよう。ラトナ=ドゥヴィーパに行くために、賢明で学識があり、敏捷で精神力があり、密林の難路に通じていて隊商を案内して密林を通過さすことのできる、一人の案内人がいるとしよう。ところで、かの大勢の人々は途中で疲れ果てた上に、密林の不気味さに怖れおののいて、このように言うとしよう。「君、案内人よ、われわれは疲れ果てて、不安に怖れおののいているんだ。引き返そうじゃないか。人跡未到の密林は非常な遠くまで広がっている」と。そのとき、僧たちよ、巧妙な手段に通暁しているかの案内人は、人々が引き返そうと思っていることを知り、このように考えるとしよう。「これは駄目だ。あこの憐れな連中は、このままではラトナ=ドゥヴィーパに行けないであろう」と。彼はかれらを憐れんで、巧妙な手段を用いるとしよう。その密林の真中に、百ヨージャナあるいは二百ヨージャナないし三百ヨージャナの向こうに、彼が神通力で都城を造るとしよう。こうして、彼は、人々にこのように言うとしよう。「諸君、怖れてはならぬ。怖れてはいけない。あそこに大きな町がある。あそこで休もう。諸君たちがしなければならないことがあるなら、あそこで用を足しなさい。安心して、あそこに滞在するがよろしい。あそこで休んで、仕事のある人はラトナ=ドゥヴィーパに行くがよい」と。そこで、僧たちよ、密林に入りこんだ人々は不思議に思い、いぶかりながらも、「われわれは人跡未踏の密林を通り抜けたのだ。安心して、ここに逗留しよう」と思うであろう。また、助かったと思うであろう。「われわれは安心した。気分が爽快になった」と思うであろう。そこで、かの案内人は人々の疲れがなくなったことを知ると、神通力で造った都城を消して、人々にこのように言うとしよう。「諸君、こちらへ来てください。ラトナ=ドゥヴィーパは直ぐ近くだ。この都城は、君たちを休憩させるために、わたしが造ったのだ」と」(「法華経・中・巻第三・化城喩品・第七・P.572~75」岩波文庫 一九六四年)

幻の砂上の楽園を出現させて僧侶たちを絶望感から救う「化城喩品」のエピソードは、賢治自身が一番よく知っていたように、あくまで「方便」である。その限りどこまで行っても現実ではあり得ない。その意味で賢治が習得した近代科学とは相容れない部分がどうしても出てくるし出てこないわけにはいかない。そこにダブルバインド(精神的板挟み)が発生する。近代日本は歴然として実際にあった。今から振り返ってみて、そんな時代だったと苦さを交えた皮肉な笑みで簡単に済ませてしまうことなどできようはずはない。なぜなら「北守将軍と三人兄弟の医者」に描かれたような、おそろしく古く何一つ根拠のない信仰と近代医学という絶対的に相入れることのできない<衝突>とが解決されないまま、むしろ両者の不可解な<相互乗り入れ>を条件として始めて日本は東アジア一帯を巻き込んだ帝国主義戦争を押し進めることが可能となったからである。宮沢賢治は放置しておけばどのような事態が到来するか、心の中で精一杯危惧していたに違いない。それが次のようなブルカニロ博士の言葉となって奔り出たのではなかったか。

「『おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったろう。水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんとうにそうなんだから。けれども昔(むかし)はそれを水銀と塩でできていると云ったり、水銀と硫黄(いおう)でできていると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互(たがい)ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考(かんがえ)とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰(しんこう)も化学と同じようになる』」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜〔初期形第三次稿〕」『ポラーノの広場・P.375』新潮文庫 一九九五年)

最終的な決定稿では削除された箇所。もっとも、児童向けの「童話・童謡」としてはあまりに難解過ぎると認めないわけにはいかないことも確かだ。しかしその事情とは別に、「ほんとうの考(かんがえ)とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰(しんこう)も化学と同じようになる」という賢治の<思想・信念>は、今またじっくり取り組み直し、捉え直されなくてはと思われる。今や世界は「うそ」が多過ぎるばかりでなく、むしろ「うそ」の側が大手を振って暴走しなおかつさらに加速さえしようとしているように思えてならないからである。

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