白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・非定住民たちの永遠回帰「ガドルフの百合」

2021年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
ガドルフは「憐(あわ)れな旅のもの」である。「みじめな旅のガドルフ」と記述されてもいる。朝から歩き通しだが次の町まではまだ二十五キロ以上ある。途中、烈しい雷雨に襲われる。その時の雷雨の余りの過酷さに接してガドルフはこう思う。

「(もうすっかり法則がこわれた。何もかもめちゃくちゃだ。これで、も一度きちんと空がみがかれて、星座がめぐることなどはまあ夢(ゆめ)だ。夢でなければ霧(きり)だ。みずけむりさ)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.214』新潮文庫 一九九五年)

通常の気象「法則」はもはや通用しないとガドルフは半ば呆れ半ば諦めるほかない。状況は「アナーキー」と言ってよい。しかし次々に襲いかかる稲光(いなびか)りは瞬間々々でしかないものの確かに道が続いていることを指し示す。「法則」は消えてアナーキーな世界へ変わったが、アナーキーな世界で気ままに振る舞う稲妻が今度は逆にガドルフの眼の前で道のありかを照らし上げる。逆説的だがアナーキーとはそういうものでもある。そんな状況下でふいに「巨(おお)きなまっ黒な家」がガドルフの視界に入った。ガドルフはそこへ逃げ込みながらこう思う。

「(この屋根は稜(かど)が五角で大きな黒電気石(せき)の頭のようだ。その黒いことは寒天だ。その寒天の中へ俺(おれ)ははいる)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.215』新潮文庫 一九九五年)

建物の「屋根」は「五角で大きな黒電気石(せき)の頭のよう」でありさらに「その黒いことは寒天」にほかならずガドルフは「その寒天の中へ」はいる。アナーキー化した世界では一切の「法則」が抹消されている。「その寒天の中へ俺(おれ)ははいる」と思いながら実際「寒天の中へ」入ったガドルフはその途端「おれは寒天だ」と考えることができるだけでなく事実上「寒天として」振る舞い始める。ガドルフは「法則」の消えた世界でただちに「寒天」と融合し「寒天」になったと言わねばならない。

さて、家の中はまっ暗。玄関で挨拶するも返事がない。「しんとして」おり、誰もいそうにない。

「(みんなどこかへ遁(に)げたかな。噴火(ふんか)があるのか。噴火じゃない。ペストか。ペストじゃない。またおれはひとりで問答をやっている。あの曖昧な犬だ。とにかく廊下(ろうか)のはじででも、ぬれた着物をぬぎたいもんだ)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.215』新潮文庫 一九九五年)

絶え間なく差し込む稲光り。窓の外の風景がちらりと見える。「白い貝殻(かいがら)でこしらえあげた」楊の木が目に入った。ガドルフは思う。

「(うるさい。ブリキになったり貝殻になったり。しかしまたこんな桔梗(ききょう)いろの背景に、楊の木の舎利がりんと立つのは悪くない)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.216』新潮文庫 一九九五年)

ガドルフはともかく雨に打たれた外套を脱ぎ、頭や顔をさっぱりと拭ってひと息つくことにする。それにしても家の中にはガドルフのほか誰一人いないようだ。背負ってきた「背嚢」を「手探りで開いて、小さな器械の類にさわって」みた。すると少しばかり気持ちが落ち着いたように思う。ガドルフの商売がなんであるかはさっぱり不明なのだが少なくとも「小さな器械の類」を背嚢の中に入れて歩き続ける「旅のもの」だということのみがここで明かされる。そしてそれ以上のことは作品のラストに至っても何一つ明かされない。ただ日頃から慣れ親しんだものに手を触れると気持ちが落ち着くというのは「寒天」になってもならなくてもガドルフにとっては変わらない事情である。

そしてまた稲妻のたびに周囲の光景が映って見えるのだが、石膏像や家具類が置いてあったり散らばっていたりする。ガドルフは思う。

「(ここは何かの寄宿舎か。そうでなければ避(ひ)病院か。とにかく二階にどうもまだ誰(たれ)か残っているようだ。一ぺん見て来ないと安心ができない)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.217』新潮文庫 一九九五年)

次に強烈な稲光りが周囲を照らした時、今度は硝子窓(ガラスまど)から「何か白いものが五つか六つ、だまってこっちをのぞいている」のが目に入る。

「(丈(たけ)がよほど低かったようだ。どこかの子供が俺(おれ)のように、俄(にわ)かの雷雨で遁げ込んだのかも知れない。それともやっぱりこの家の人たちが帰って来たのだろうか。どうだかさっぱりわからないのが本当だ。とにかく窓を開いて挨拶(あいさつ)しよう)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.217』新潮文庫 一九九五年)

ところが「どなたですか。今晩は」と挨拶を送っても返事がない。再び電光がそこら一面を照らした。するとそこにあるのは「十本ばかり」の「百合の花」。返事がないのももっともだと納得するガドルフ。しかしまたアナーキーな世界では様々なものの区別が消えてしまう。だからアナーキーなわけだが。「寒天」としてのガドルフは今見えたばかりの「百合」との融合を果たす。

「(おれの恋は、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕(くだ)けるなよ)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.218』新潮文庫 一九九五年)

例えばこの種の状況を「運命共同体」と言ってしまえばなるほど聞こえはいいかもしれない。だがアナーキーという<原理なき原理>は或る共同体と別の共同体との境界線を抹消してしまう。アルトーが「ヘリオガバルス」の中で<アナーキー>に注目して論じたように「運命共同体」というものももはや存在しない。詩人=宮沢賢治はこう書く。

「暗(やみ)が来たと思う間もなく、又稲妻が向うのぎざぎざの雲から、北斎の山下白雨のように赤く這(は)って来て、触(ふ)れない光の手をもって、百合を擦(かす)めて過ぎました。雨はますます烈(はげ)しくなり、かみなりはまるで空の爆破(ばくは)を企(くわだ)て出したよう、空がよくこんな暴れものを、じっと構わないで置くものだと、不思議なようにさえガドルフは思いました」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.219』新潮文庫 一九九五年)

文章の中に「北斎の山下白雨」とある。葛飾北斎「富嶽三十六景」の一つとして有名。右下朱色の幾何学模様が稲妻。だが近代社会の導入は近世日本を徹底的に破壊しパースペクティヴを決定的に異るものに変化させたため、もはや<あの稲妻>を生(なま)で見ることは不可能になった。可能なのは<あのような稲妻>ばかりである。

さらに打ちつづく稲妻。ガドルフの眼に飛び込んできた瞬間的光景は、荒れ狂う暴風に耐えられなくなった一本の百合がぽきりと折れたシーン。

「(おれはいま何をとりたてて考える力もない。ただあの百合は折れたのだ。おれの恋は砕けたのだ)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.220』新潮文庫 一九九五年)

しばらくして雷雨は去る。一本の百合は確かに折れていた。けれどもほかの百合の群はまっ白なまま残っている光景がガドルフの眼前に広がっている。

「(これは暁方(あけがた)の薔薇色ではない。南の蠍(さそり)の赤い光がうつったのだ。その証拠(しょうこ)にはまだ夜中にもならないのだ。雨さえ晴れたら出て行こう。街道の星あかりの中だ。次の町だってじきだろう。けれどもぬれた着物を又引っかけて歩き出すのはずいぶんいやだ。いやだけれども仕方ない。おれの百合は勝ったのだ)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.222』新潮文庫 一九九五年)

何か一つがいつも犠牲として自然生態系に捧げられるのは賢治作品のパターンだがここでは百合の群の中の一本が生贄にされている。法華経主義者=賢治としてはそのような如来的実践(菩薩的無償性)を「ガドルフの百合」にも描き込んだ。また注目しておきたいのはやや唐突ながら「南の蠍(さそり)の赤い光」とある箇所。蠍座の蠍は賢治にとって特別な思い入れがある。例えば「銀河鉄道の夜」に出てくるエピソード。

「川の向う岸が俄(にわ)かに赤くなりました。楊(やなぎ)の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗(ききょう)いろのつめたそうな天をも焦(こ)がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔(よ)ったようになってその火は燃えているのでした。『あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう』ジョバンニが云(い)いました。『蠍(さそり)の火だな』カムパネルラが又(また)地図と首っ引きして答えました。『あら、蠍の火のことならあたし知ってるわ』。『蠍の火って何だい』ジョバンニがききました。『蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんかお父さんから聴いたわ』。『蠍って、虫だろう』。『ええ、蠍は虫よ。だけどいい虫だわ』。『蠍いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールについてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫(さ)されると死ぬって先生が云ってたよ』。『そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯(こ)う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附(みつ)かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押(おさ)えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺(おぼ)れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈(いの)りしたというの、<ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときにはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい>、って云ったというの。そしたらいつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰(おっしゃ)ったわ。ほんとうにあの火それだわ』」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」『銀河鉄道の夜・P.209~211』新潮文庫 一九八九年)

さて、ガドルフとは何かという問いに戻ろう。「みじめな旅のガドルフ」・「憐(あわ)れな旅のもの」。「小さな器械の類」だけが商売道具らしい。そしてまた「とろとろ眠ろうと」しながらこんな夢を見る。

「一人は闇の中に、ありありうかぶ豹(ひょう)の毛皮のだぶだぶの着物をつけ、一人は烏(からす)の王のように、まっ黒くなめらかによそおっていました。そしてガドルフはその青く光る坂の下に、小さくなってそれを見上げてる自分のかたちも見たのです」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.221』新潮文庫 一九九五年)

この<乖離状態>。ラヴクラフト参照。

「カーターは人間であり非人間であり、脊椎(せきつい)動物であり無脊椎動物であり、意識をもつこともありもたないこともあり、動物であり植物であった。さらに、地球上の生命と共通するものをもたず、他の惑星、他の太陽系、他の銀河、他の時空連続体の只中を法外にも動きまわるカーターたちがいた。世界から世界へ、宇宙から宇宙へと漂う、永遠の生命の胞子がいたが、そのすべてが等しくカーター自身だった。瞥見(べっけん)したもののいくつかは、はじめて夢を見るようになったとき以来、長い歳月を経ても記憶にとどめられている夢ーーーおぼろな夢、なまなましい夢、一度かぎりの夢、連続して見た夢ーーーを思いださせた。その一部には、地球上の論理では説明のつけられない、心にとり憑(つ)き、魅惑的でありながら、恐ろしいまでの馴染(なじみ)深さがあった。これが紛れもない真実であると悟ったとき、ランドルフ・カーターは至高の恐怖にとらわれ、くらめく思いがしたーーー色を失う月のもと、ふたりしてあえて忌み嫌われる古びた埋葬地に入りこみ、ただひとりだけが脱け出した、あの怖気(おぞけ)立つ夜の慄然(りつぜん)たる絶頂でさえほのめかされることもなかったような、このうえもない恐怖だった。いかなる死であれ、運命であれ、苦悩であれ、自己一体感の喪失からわきおこる不二無類の絶望をひきおこせはしない。無に没して消えうせることは安らかな忘却であるにせよ、存在感を意識しながら、その存在というものが他の存在と区別できる明確なものではないことーーーもはや自己をもってはいない存在であることーーーを知るのは、いいようもない苦悶(くもん)と恐怖の極(きわみ)にほかならない」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.132~133』創元推理文庫 一九八九年)

ところでガドルフは「憐(あわ)れな旅のもの」としてどこから来たかもわからずどこへ行くのかもわからず、ただ過ぎ去って行くばかりである。永遠の非定住民なのだが、一方、非定住民は幾つかの村落共同体を越えて情報収集できる立場だったため、戦前の日本、とりわけ地方へ行くと「媒酌業者」を始める者たちが出てきた。縁談のためと称してあちこちから内密な情報を集めてくる。持っている情報量が多ければ多いほど選挙に利用されることで自らの存在価値を高める者も出てきた。赤松啓介は述べている。

「衆議院から県会、町村会、農会に至るまで選挙は多種多様であるし、町村長や区長の選挙、選出であるから、話題にこと欠かない。とった、とられたから、どんでん返しまで、ありとあらゆる秘術、秘策が開陳される。面白いのは一般百姓たちの買収で、そこらの一パイ屋、料理屋、宿屋へ連れ込んで飲ませるのだが、酔ってくるとどこそこはいくらくれたとか、筒抜けらしい。少しまとまった票のある男なら、その家で他所ごとの世間ばなしをして帰る。帰った後で座ぶとんを上げると、金包みが出てくるという仕掛けになっていた。ただし、こんなのはごく初歩的であり、一年も二年も前に山を売った、田を買ったということで、次の選挙はすんでいるらしい。また選挙ボスになると地方の町や都市で妾などに一パイ屋、カフエーなどを経営させ、策源地として活用する。その頃はまだ内閣が変わると、警察署長はもとより駐在所の巡査、小学校の校長、教員まで入れ替えになったといわれ、いろいろとゴマスリやタレコミが渦巻いて、聞いているだけで面白かった」(赤松啓介「性・差別・民俗・二・村の祭礼と差別・二・農村の結婚と差別の様相・P.123~124」河出文庫 二〇一七年)

しかし今やネット時代。「媒酌業者」はなくなったか。そうではない。まるでない。昔は良かったというのでもない。今やもはや昔以上に悪質な「媒酌業者」がその名称だけを取り換えて選挙や差別的世論形成のために諸々の活動に従事しているというのが実状と見るべきだろう。

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