白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・呆れたやつらの弁証法「鳥箱先生とフウねずみ」

2021年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
或る日のこと、一個の鳥かごが自分で自分自身についてほかでもない「先生」であると目覚める。もっとも、「一疋の子供のひよどり」がその中に入れられた時に始めて「鳥かご」は「鳥かご」であると自覚するわけだが。しかしさらに「先生なんだなと」気づくに至ったのはいつか。鳥かごの中の子供のひよどりが「いやがってバタバタ」したばかりか疲れ果てて「おっかさんの名を呼んで」泣き出したため、そのひよどりに声をかけて教えさとした瞬間である。

「鳥かごは、早速、『泣いちゃいかん』と云いました。この時、とりかごは、急に、ははあおれは先生なんだなと気がつきました。なるほど、そう気がついて見ると、小さなガラスの窓は、鳥かごの顔、正面の網戸が、立派なチョッキと云うわけでした」(宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」『ポラーノの広場・P.23~24』新潮文庫 一九九五年)

それ以後、ひよどりは嫌々ながらも仕方なく鳥かごに向って「鳥箱(とりばこ)先生」と呼びはじめた。ところが七日間というもの「一つぶの粟(あわ)」も貰えず経過した。みんなすっかり餌やりを忘れていた。ひよどりは飢えて死ぬ。その後に鳥箱先生の中に入れられたひよどりを合わせると合計四疋。いずれもあっけなく死んでしまう。とはいえ死に方はそれぞれ違っている。第一のひよどりを入れると次のとおり。

(1)「ひもじくって、ひもじくって、とうとう、くちばしをパクパクさせながら、死んでしまいました」(宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」『ポラーノの広場・P.24』新潮文庫 一九九五年)

(2)「腐(くさ)った水を貰った為(ため)に、赤痢(せきり)になったのでした」(宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」『ポラーノの広場・P.24』新潮文庫 一九九五年)

(3)「あんまり空や林が恋(こい)しくて、とうとう、胸がつまって死んでしまいました」(宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」『ポラーノの広場・P.24』新潮文庫 一九九五年)

(4)「先生がある夏、一寸(ちょっと)油断をして網のチョッキを大きく開けたまま、睡(ねむ)っているあいだに、乱暴な猫(ねこ)大将が来て、いきなりつかんで行ってしまったのです」(宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」『ポラーノの広場・P.24』新潮文庫 一九九五年)

あらかじめ擬人化されているため、鳥箱は遂に鳥箱でしかなく餌やりについてもその出入口が開いていたのも管理人の責任だとは決して言えない状況が始めから設定されている。言い換えれば、鳥箱先生からは前もって弁解の余地が奪われている。意義申し立ての機会はまったくない。にもかかわらず「すっかり信用をなくし」、いきなり「物置の棚(たな)」へ放り込まれてしまう。鳥箱先生は物置の中に置かれてる他の物品の一つと化す。そこにあるのは「こわれかかった植木鉢(うえきばち)」や「古い朱塗(しゅぬ)りの手桶(ておけ)」など「がらくたが一杯(いっぱい)」だった。鳥箱先生はすでに「がらくた」の無限の系列の一つでしかない。

ところで鳥箱先生が放り込まれた物置のすぐうしろに「まっくらな小さい穴」があいていた。夜中にそこから一疋の鼠が出てきて鳥箱先生を少しばかり齧(かじ)った。驚いた鳥箱先生は無理矢理落ち着いた風情をとりつくろいながらその鼠にいう。「みだりに他人をかじるべからず」という格言を知らないのかと。鼠もまたびっくりした様子で「三歩」下がって丁寧にお辞儀をして言った。

「『これは、まことにありがたいお教えでございます。実に私の肝臓(かんぞう)にまでしみとおります。みだりに他人をかじるということは、ほんとうに悪いことでございます。私は、去年、みだりに金づちさまをかじりましたので、前歯を二本欠きました。又(また)、今年の春は、みだりに人間の耳を齧(か)じりましたので、あぶなく殺されようとしました。実にかたじけないおさとしでございます。ついては、私のせがれ、フウと申しますものは、誠(まこと)におろかものでございますが、どうか毎日、お教えを戴(いただ)くように願われませんでございましょうか』」(宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」『ポラーノの広場・P.26』新潮文庫 一九九五年)

鼠の子どもの名は「フウ」(おろかもの)とある。フランス語の“fou”、英語の“fool”がそれに相当。フランス語・英語に変換した場合、ただ単なる「馬鹿者・愚者」から誹謗中傷の意味を除外した「呆れたやつ」というニュアンスが込められるため、賢治はあえて「フウ」としたのかも知れない。ちなみにジャズの楽曲にビル・エバンスの名演で知られる“My foolish heart”がある。そんなイメージだろう。また、この小説で「フウ」なのは鼠に限らずむしろ鳥箱先生自身に当てはまる。先生とフウ鼠との対話を取り出してみよう。

(1)「『おい。フウ。ちょっと待ちなさい。なぜ、おまえは、そう、ちょろちょろ、つまだてしてあるくんだ。男というものは、もっとゆっくり、もっと大股(おおまた)に歩くものだ』。『だって先生。僕(ぼく)の友だちは、誰(たれ)だってちょろちょろ歩かない者はありません。僕はその中で、一番威張(いば)って歩いているんです』。『お前の友だちというのは、どんな人だ』。『しらみに、くもに、だにです』。『そんなものと、お前はつきあっているのか。なぜもう少し、りっぱなものとつきあわん。なぜもっと立派なものとくらべないのか』。『だって、僕は、猫や、犬や、獅子や、虎(とら)は、大嫌いなんです』。『そうか。それなら仕方ない。が、もう少しりっぱにやって貰いたい』」(宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」『ポラーノの広場・P.27~28』新潮文庫 一九九五年)

(2)「『おい。フウ。一寸待ちなさい。なぜお前は、そんなにきょろきょろあたりを見てあるくのです。男はまっすぐに行く方を向いて歩くもんだ。それに決して、よこめなんかはつかうものではない』。『だって先生。私の友達はみんなもっときょろきょろしています』。『お前の友だちというのは誰だ』。『たとえばくもや、しらみや、むかでなどです』。『お前は、また、そんなつまらないものと自分をくらべているが、それはよろしくない。お前はりっぱな鼠になる人なんだからそんな考(かんがえ)はよさなければいけない』。『だって私の友達は、みんなそうです。私はその中では一番ちゃんとしているんです』」(宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」『ポラーノの広場・P.28~29』新潮文庫 一九九五年)

(3)「『おい。フウ、ちょっと待ちなさい。おまえはいつでもわしが何か云おうとすると、早く逃げてしまおうとするが、今日は、まあ、すこしおちついて、ここへすわりなさい。お前はなぜそんなにいつでも首をちぢめて、せかなかを円くするのです』。『だって、先生。私の友達は、みんな、もっとせなかを円くして、もっと首をちぢめていますよ』。『お前の友達といっても、むかでなどはせなかをすっくりとのばしてあるいているではないか』。『いいえ。むかではそうですけれども、ほかの友だちはそうではありません』。『ほかの友だちというのは、どんな人だ』。『けしつぶや、ひえつぶや、おおばこの実などです』。『なぜいつでも、そんなつまらないものとだけ、くらべるのだ。ええ。おい』」(宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」『ポラーノの広場・P.29』新潮文庫 一九九五年)

人間が生きていく上で最も大切な条件、地球上のすべての生物を順調に循環させる食物連鎖、という大前提をまったく無視し去ってしまうや否や、忽然とこのようなちんぷんかんぷんな対話が出現する。その意味で作者=賢治は実に正当的なメタレベルの立場から話を進めている。一方、フウねずみの言動に業を煮やした鳥箱先生はついにフウねずみの母親を呼び出し退学を命じた。そしていう。「おれは四人もひよどりを教育したが、今日までこんなひどいぶじょくを受けたことはない。実にこの生徒はだめなやつだ」。鳥箱に入れられたひよどりはすべて非業の死を遂げた。とはいえなるほど「おれは四人もひよどりを教育した」と主張することがまったく不可能だと言い切れない要素を残しているのも事実である。この種の<あいまい>な無責任性はのちの「東京裁判」で再現された。ともかく、そんなふうに鳥箱先生が怒ってじたばたしているその瞬間。

「嵐(あらし)のような黄色なものが出て来て、フウをつかんで地べたへたたきつけ、ひげをヒクヒク動かしました。それは猫大将でした」(宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」『ポラーノの広場・P.30』新潮文庫 一九九五年)

この作品の舞台は前人未到の山奥でもなければジャングルのような密林でもない。どこにでもある「いえ」だとされている。家の中にいる限り登場する小動物たちの中で「猫」は十分「大将」たりうる。賢治は「猫大将」を持ち出して鳥箱をめぐる一連の動きを総括する立場を与えており、なおかつこう言わせる。

「『ハッハッハ、先生もだめだし、生徒も悪い。先生はいつでも、もっともらしいうそばかり云っている。生徒は志がどうもけしつぶより小さい。これではもうとても国家の前途(ぜんと)が思いやられる』」(宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」『ポラーノの広場・P.30』新潮文庫 一九九五年)

ところで、ただ単なる「鳥かご」が自分で自分自身について「鳥箱先生」にほかならないと自覚するにあたって、作用した論理的構造はヘーゲルのいう「反省〔反証〕」概念である。ヘーゲル用語としての「反省〔反証〕」という言葉は通俗的に濫用されている「謝罪」とはまったく別の意味を与えられている。そして本来はヘーゲルが用いる意味の側が正しい。

「《本質》は《媒介的に定立された》概念としての概念である。その諸規定は本質においては《相関的》であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ《反省》したものとして存在していない。したがって概念はまだ《向自》として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、《定立され媒介されたもの》として存在している。ーーー有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、《直接的なもの》であるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象へ《ひきさげられている》。ーーーしたがって本質は、自分自身のうちでの《反照》としての有である。

<訳者注>。Reflexion、reflektierenという言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もともと、ラテン語のReflexioは、まがりもどることを意味する。ここから、光は、反射の意味となる。自己をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、Reflexionという言葉を使う。例えば、支配者というものは、支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互の側から、このようなReflexionが行われるわけである。これがReflexionの全体的な意味である。しかし、他者へのReflexionというように、この言葉が使われるとき、それは、とりあえず関係という意味しか表面に持っていない。ヘーゲルにおいては、概念が自覚する形をも持つから、反省と訳すが、十分ではない。エンチクロペディーの初版では、ヘーゲルは、『本質の領域では、相関性が支配的な規定をなしている』と言っている。マルクスは、資本論で、相対的価値形態を述べたところの、註のうちでReflexionsbestimmungに言及し、次のように言っている。『Reflexionsbestimmungenというものは、一般に、独特なものである。例えば、特定の人間が王であるのは、ただ他の人々が臣下としてかれにたいするからである。ところが、この人々は、かれが王であるからこそ、自分たちは臣下なのだと思っている』。なお、主観的思惟にReflexionという言葉をヘーゲルが使うとき、それは、すでにこれまでの訳者註に述べたように、関係的、相関的思惟である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一一二・P.15~16」岩波文庫 一九五二年)

またそれは<媒介するもの>でもある。「小論理学」から二箇所引いておこう。

(1)「《自己に即した》区別は《本質的な》区別、《肯定的なもの》と《否定的なもの》である。肯定的なものは、否定的なもので《ない》という仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なもので《ない》という仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが《他者でない》程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は《対立》であり、区別されたものは自己にたいして《他者一般》をではなく、《自己に固有の》他者を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に《固有》の他者である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一一九・P.28」岩波文庫 一九五二年)

(2)「本質はまず《自己のうち》で反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには、本質の自己統一は今や区別の揚棄、したがって媒介の揚棄として《定立》されている。したがってこれは《直接態》あるいは《有》の復活である。が、この有は《媒介の揚棄によって媒介されている有》、すなわち《現存在》である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一二二・P.42」岩波文庫 一九五二年)

さらに同じことが「精神現象学」で繰り返されている。ここでも二箇所拾っておきたい。

(1)「生きた実体は、実際には《主観》〔体〕であるような存在である。同じことになるが、実体は、自己自身を措定する運動、自己が他者となることを自己自身と媒介するはたらきである限りでのみ、実際に現実的であるような存在である。実体は主観〔体〕としては純粋で《単一な否定性》である。であるからこそ、単一なものを二つに引きはなす、つまり対立させて二重なものとする。この二重作用が二つのものの無関心なちがいと対立をさらに否定する。真理とは、このように自己を《回復する》相等性もしくは他在において自己自身へと復帰〔反照〕することにほかならない」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.33」平凡社ライブラリー 一九九七年)

(2)「なぜなら、媒介とは自ら動いて自己自身と等しくなることにほかならないからである、言いかえれば、媒介とは自己自身に帰〔反照す〕ること、自己自身に対している自我の契機、純粋否定性であるからである。あるいは〔全くの抽象のレベルまでおとしてしまえば〕、《単一な生成》である。自我もしくは生成一般というこのような媒介のはたらきは、単一なものであるから、生成しつつある直接態であり、無媒介なものそれ自身にほかならない。それゆえ、反照するはたらきを真理から除外してしまい、それを絶対者の肯定的な契機と考えないならば、理性を見あやまることになる。反照は真理を結果とするが、また真理の生成に対するこの結果という対立を、止揚するようなものでもある」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.35~36」平凡社ライブラリー 一九九七年)

<鳥かご>から<鳥箱先生>への移動、そして<鳥箱先生>から<がらくたの一つ>への移動。この二度にわたる移動とその認識は、いずれも媒介されていく「反省〔反証〕」概念を通過することで始めて可能になる。

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