<オリジナル>という観念を取り外して読むこと。読者にとってよく知られた民話「とんびの染屋」譚をすっかり忘れて読むこと。そこから始めなくては始まらない。もっとも、類話はいくつもある。しかしなぜそれらの多くが東北地方から北海道、さらには樺太、千島列島、中国東北部など、ギリヤーク系諸民族が暮らす諸地域の間で長く伝承されてきたのか。その理由はまだまだ未解明な部分を多く残しているのである。とはいえ手がかりはまったく何一つないかといえばそうでもない。
例えば柳田國男は「日本の昔話」の中で「聴耳頭巾(ききみみずきん)」を取り上げている。陸中(岩手県)上閉伊郡の伝承。舞台の条件は冒頭箇所ですでに描かれる。不景気のため余りの貧困に耐えられそうになくなった老人が地元の氏神である稲荷(いなり)におもむき祈願したところ一つの「赤頭巾(あかずきん)」を授かった。その赤頭巾を頭にかぶると動物の声が人間の言葉に翻訳されて聞こえるというすぐれもの。老人が試してみるとなるほど烏(からす)の会話が聴こえる。地域社会で噂になっている最新情報が烏たちの会話を通していろいろ耳に入ってきた。そこで老人は八卦見(はっけみ)を装って烏が話していた家に赴き、家庭内問題(長引く病気とその原因)を解決に導く。そして受け取った謝礼金を大事に蓄え、貧乏な身から長者になり、これ以上欲を出すのはよくないと思ったところで八卦見を廃業して普通の長者としてまずまず無事な生涯を送ることになったという話。そして民話「とんびの染屋」を下敷きとして書かれた「林の底」の作者=宮沢賢治はまさしく岩手県出身である。
作品冒頭、<私>はいきなり梟(ふくろう)がこう言うのを聞く。
「『わたしらの先祖やなんか、鳥がはじめて、天から降って来たときは、どいつもこいつも、みないち様(よう)に白でした』」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.31』新潮文庫 一九九五年)
<私>は「名高いとんびの染屋」のことを聞かせようとしているのだろうと思い、少しばかりからかってみるのも面白いと考える。そこから<私>と梟との対話が作品のメインになる。しばらく<私>優位な対話が続く。梟と人間との対話といっても人間<私>は賢治の分身というべき「近代知識人」。優位に立つのは当り前。梟の話の中に出てくる論理的におかしな箇所を少しばかり指摘してみるや梟はたちまち苦境に陥り泣き出しそうになってしまった。<私>はあわてて梟の話を本筋に戻してやる。
「梟はいかにもまぶしそうに、眼をぱちぱちして横を向いて居(お)りましたが。とうとう泣き出しそうになりました。私もすっかりあわてました。下手(へた)にからかって、梟に泣かれたんでは、全く気の毒でしたし、第一折角あんなに機嫌よく、私にはなしかけたものを、ひやかしてやめさせてしまうなんて、あんまり私も心持ちがよくありませんでした」」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.33~34』新潮文庫 一九九五年)
気持ちを持ち直した梟は話の続きを語り出す。
「『それはもう立派な訳がございます。ぜんたいみんなまっ白では、ずいぶん間ちがいなども多ございました。たとえばよく雉子(きじ)や山鳥などが、うしろから<四十雀(しじゅうから)さん、こんにちわ>とやりますと、変な顔をしながらだまって振(ふ)り向くのがひわだったり、小さな鳥どもが木の上にいて、<ひわさん、いらっしゃいよ>なんて遠くから呼びますのに、それが頬白(ほおじろ)で自分よりもひわのことをよく思っていると考えて、噴(おこ)ってぷいっと横へ外(そ)れたりするのでした。実際感情を害することもあれば、用事がひどくこんがらかって、おしまいはいくら禿鷲(はげわし)コルドンさまのご裁判でも、解けないようになるのだったと申します』」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.34~35』新潮文庫 一九九五年)
<私>は梟の話を聞きながら次のようにまるで別のことを考えたりもする。知識人として地元の農学校教師となった賢治にとってもはや二度と戻っていくことのできない少年時代の回想だ。
「(ああ、あの楢(なら)の木の葉が光ってゆれた。ただ一枚だけどうしてゆれたろう)」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.35』新潮文庫 一九九五年)
そんなこととは露知らず梟は話を続ける。鳥たちはどれもみなそれぞれに違った特徴(差異)を持っている。それぞれに違った固有の差異がなくてはどれもみな同じ「鳥」だとして一括されてしまう。<私>は梟の話について、人間社会で実にしばしば生じる言葉の意味の取り違えから、様々な事件や訴訟を巻き起こしたりする言語との共通性を見出す。<私>と梟との対話ではこうある。
「『そこでもうどの鳥も、なんとか工夫(くふう)をしなくてはとてもいけない、こんな工合(ぐあい)じゃ鳥の文明は大ていここらでとまってしまうと、口に出しては云いませんでしたが、心の中では身にしみる位そう思いつづけていたのでございます』。『うんそうだろう。そうなくちゃならないよ。僕(ぼく)らの方でもね、少し話はちがうけれども、語(ことば)について似たようなことがあるよ』」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.35』新潮文庫 一九九五年)
言語の一般性と個別性との問題について。ヘーゲルから。
「私は、《個別的なもの》と言うとき、じつはむしろそれを全く一般的なものであると言っているのである。なぜならば、すべてのものは個別的なものだからである。同じように、人々の求めているものは、みなどれも《この》ものである。もっと正確な言い表わし方をして、この一枚の紙と言うとき、《すべての》紙、《どの》紙も《一枚の》紙なのである。だから私は相変らずただ一般的なものを語っているだけである。言葉というものは、思いこみをそのまま逆のものとし、別のものにするだけでなく、《言葉に表現できない》ものにしてしまうという、神にもふさわしい天性をもっている」(ヘーゲル「精神現象学・上・意識・このものと思いこみ・P.138」平凡社ライブラリー 一九九七年)
さらに荘子から。
「物無非彼、物無非是、自彼則不見、自知則知之、故曰、彼出於是、是亦因彼、彼是方生之説也、雖然方生方死、方死方生、方可方不可、方不可方可、因是因非、因非因是、是以聖人不由而照之于天、亦因是也、是亦彼也、彼亦是也、彼亦一是非、此亦一是非、果且有彼是乎哉、果且無彼是乎哉、彼是莫得其偶、謂之道樞、樞始得其環中、以應無窮、是亦一無窮、非亦一無窮也、故曰莫若以明
(書き下し)物は彼に非ざるは無く、物は是れに非ざるは無し。自ら彼とすることは則(乃)ち見えず、自ら知ることは則(乃)ちこれを知る。故に曰わく、彼は是れより出で、是れも亦た彼に因(よ)ると。彼と是れと方(まさ)に生ずるの説なり。然(しか)りと雖(いえど)も方に生ずれば方に死し、方に死すれば方に生ず。方に可なれば方に不可、方に不可なれば方に可なり。是(ぜ)に因りて非(ひ)に因り、非に因りて是に因る。是(ここ)を以て聖人は由(よ)らずしてこれを天に照す、亦(た=唯)だ是れに因るのみ。是れも亦た彼なり、彼も亦た是れなり。彼も亦た一是非(ぜひ)、此れも亦た一是非(ぜひ)。果(は)たして彼と是れと有るか、果たして彼と是れと無きか。彼と是れと其の偶(ぐう=対)を得るなき、これを道枢(どうすう)と謂う。枢にして始めて其の環中(かんちゅう)を得て、以て無窮に応ず。是(ぜ)も亦た一無窮、非も亦た一無窮なり。故に曰わく、明(めい)を以(もち)うるに若(し)くなしと。
(現代語訳)物は彼(あれ)でないものはないし、また物は此(これ)でないものもない。〔此方からすればすべてが彼(あれ)、彼方からすればすべてが此(これ)である〕。自分で自分を彼(あれ)とすることは分からないが、自分で自分を此(これ)としてわきまえることは分かるものである。だから『彼(あれ)は此(これ)から出てくるし、此(これ)もまた彼(あれ)によってあらわれる』という。彼(あれ)と此(これ)とは〔あの恵施の説く〕方生(ほうせい)の説(ーーーちょうど一しょに生まれるという説)である。けれども、〔恵施も説くように〕ちょうど生まれることはちょうど死ぬことであり、死ぬことはまたそのまま生まれることである。〔判断についても同じことで〕、可(よ)しとすることはそのまま可(よ)くないとすることであり、可(よ)くないとすることはまたそのまま可(よ)しとすることである。善(よ)しとしたことい身をまかせて悪(あ)しとしたことにまかせたことになる。悪しとしたことに身をまかせて善しとしたことにまかせたことになる。〔善し悪しの区別も相対的なものだから〕。そこで、聖人はそんな方法にはよらないで、それを自然の照明にゆだねる。そしてひたすらそこに身をまかせていく。〔そこでは〕此(これ)も彼(あれ)であり、彼(あれ)もまた此(これ)である。そして彼(あれ)にも善し悪しの判断があり、此(これ)にも善し悪しの判断がある。果たして彼(あれ)と此(これ)とがあるのか。果たして彼(あれ)と此(これ)とがないことになるのか。〔もちろん彼(あれ)と此(これ)との対立はないことになる。このように〕彼(あれ)と此(これ)とがその対立をなくしてしまった〔ーーー対立を超えた絶対の〕境地、それを道枢(どうすう)ーーー道の枢(とぼそ)ーーーという。枢(とぼそ)であってこそ環(わ)の中心にいて窮まりない変転に対処できる。善しとすることも一つの窮まりない変転であり、悪しとすることも一つの窮まりない変転である。だから、〔善し悪しを立てるのは〕『真の明智を用いる立場に及ばない』といったのだ」(「荘子(第一冊)・内篇・斉物論篇・第二・三・P.54~57」岩波文庫 一九七一年)
さて梟が言うには、肺活量の少ない鳥の場合、染料を入れた壺に長時間顔を入れて呼吸を止めていることができないため、例えば「めじろは眼のまわりが染まらず、頬じろは両方の頬が染まって居りません」と、さも事情に熟達しているかのように語る。そこで<私>は思いきって矛盾点を指摘する。
「『ほう、そうだろうか。そうだろうか。そうだろうかねえ。私はめじろや頬じろは、自分からたのんであの白いとこは染めなかったのだろうと思うよ』。梟は少しあわてましたが、ちょっとうしろの林の奥(おく)の、くらいところをすかして見てから言いました。『いいえ、そいつはお考えちがいです。たしかに肺の小さなためです』。ここだと私は思いました。『そうするとどうしてあんなにめじろも頬白も、きちんと両方おんなじ形で、おんなじ場所に白いかたが残っているだろうね。あんまり工合がよすぎるよ。息がつづかないでやめたもんなら、片っ方の眼のまわり、あとはひたいの上とかいう工合に行きそうなもんだねえ』。梟はしばらく眼をつむりました」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.38』新潮文庫 一九九五年)
<私>はさらに梟の話の矛盾点を指摘してみる。梟の言い訳は苦しい。そこで<私>は一方で手加減を加えて梟に話の続きをうながしてやる。梟はふたたび気持ちを持ち直してこう語る。
「『ところがとんびはだんだんいい気になりました。金もできたし気ぐらいもひどく高くなって来て、おれこそ鳥の仲間では第一等の功労者というような顔をして、なかなか仕事もしなくなりました。尤も自分は青と黄いろとで、とても立派な縞(しま)に染めて大威張(おおいば)りでした。それでもいやいや日に二つ三つはやってましたが、そのやり方もごく大ざっぱになって来て、茶いろと白と黒とで、細(こまか)いぶちぶちにして呉れと頼んでも、黒は抜(ぬ)いてしまったり、赤と黒とで縞(しま)にして呉れと頼んでも、燕(つばめ)のようにごく雑作なく染めてしまったり、実際なまけ出したのでした。尤もそのときは残ったものもわずかでした。烏と鷺とはくちょうとこの三疋(びき)だけだったのです』」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.40』新潮文庫 一九九五年)
有名になりずいぶん裕福にもなった<とんび>は仕事に熱が入らないばかりかちょっとしたやる気さえもはや失せてしまっている。だがせっかく手に入れた名声をふいにするのはいかにも惜しい。ダブルバインド(板挟み)に陥る<とんび>。
「染屋をやめても、金には少しも困らんが、ただその名前がいたましい。やめたくもない。けれどもいまごろから稼(かせ)ぎたくもない」と思うわけである。
一方、染めるのを延期されてばかりいた<烏>がとうとう怒り出し<とんび>と大喧嘩を演じて犬猿の仲になるという伝承民話の中心はずらされており、むしろ逆にほとんどまったく重視されていない。作者=賢治の狙いが始めからそこになかったからに違いない。梟は話を終えるとすぐ「しんと向うのお月さまをふり向」いて黙ってしまう。そんな梟に<私>はこう声をかける。
「『そうかねえ、それでよくわかったよ。そうして見ると、おまえなんかはまあ割合に早く染めて貰ってよかったねえ、なかなか細(こまか)く染まっているし』」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.42』新潮文庫 一九九五年)
何の慰めにもならない、ただ単に梟の話を聞き届けたというばかりの連れない返事に思われるが、それが法華経主義者=賢治の如来的実践(菩薩的無償性)をあらわにする。ただひたすら「聞くこと」に徹するだけでなく梟の存在自身を《あるがまま》全的に受け入れてやること。だがしかしこの場合、<梟とは何か>という疑問を呈することはできる。再び冒頭部分に戻ろう。
「私は梟などを、あんまり信用しませんでした。ちょっと見ると梟は、いつでも頬(ほお)をふくらせて、滅多(めった)にしゃべらず、たまたま云(い)えば声もどっしりしてますし、眼(め)も話す間ははっきり大きく開いています、又(また)木の陰(かげ)の青ぐろいとこなどで、尤(もっと)もらしく肥(ふと)った首をまげたりなんかするとこは、いかにもこころもまっすぐらしく、誰(たれ)も一ぺんは欺(だま)されそうです」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.31』新潮文庫 一九九五年)
<近代知識人>。とりわけ帝国大学の研究室でふんぞり返って学生たちを指導している学者がそうだ。さらに近代日本の<大富裕層>。貧困のどん底生活に喘いでいる地方の農民たちのひもじさに満ちた実状を一向に顧みない政治家や実業家がそうだ。そしてその<あいだ>であちこち走り回るしかなすすべがないにもかかわらず、ほかでもない作者=賢治もまた近代知識人の一人として数え上げられてしまう。このように歪みに歪んでもはや動かしようのない事実に耐え抜きつつ深い諦めの中へ打ち沈んでいく姿を「水銀いろの重い月光」が照らし出す。
BGM1
BGM2
BGM3
例えば柳田國男は「日本の昔話」の中で「聴耳頭巾(ききみみずきん)」を取り上げている。陸中(岩手県)上閉伊郡の伝承。舞台の条件は冒頭箇所ですでに描かれる。不景気のため余りの貧困に耐えられそうになくなった老人が地元の氏神である稲荷(いなり)におもむき祈願したところ一つの「赤頭巾(あかずきん)」を授かった。その赤頭巾を頭にかぶると動物の声が人間の言葉に翻訳されて聞こえるというすぐれもの。老人が試してみるとなるほど烏(からす)の会話が聴こえる。地域社会で噂になっている最新情報が烏たちの会話を通していろいろ耳に入ってきた。そこで老人は八卦見(はっけみ)を装って烏が話していた家に赴き、家庭内問題(長引く病気とその原因)を解決に導く。そして受け取った謝礼金を大事に蓄え、貧乏な身から長者になり、これ以上欲を出すのはよくないと思ったところで八卦見を廃業して普通の長者としてまずまず無事な生涯を送ることになったという話。そして民話「とんびの染屋」を下敷きとして書かれた「林の底」の作者=宮沢賢治はまさしく岩手県出身である。
作品冒頭、<私>はいきなり梟(ふくろう)がこう言うのを聞く。
「『わたしらの先祖やなんか、鳥がはじめて、天から降って来たときは、どいつもこいつも、みないち様(よう)に白でした』」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.31』新潮文庫 一九九五年)
<私>は「名高いとんびの染屋」のことを聞かせようとしているのだろうと思い、少しばかりからかってみるのも面白いと考える。そこから<私>と梟との対話が作品のメインになる。しばらく<私>優位な対話が続く。梟と人間との対話といっても人間<私>は賢治の分身というべき「近代知識人」。優位に立つのは当り前。梟の話の中に出てくる論理的におかしな箇所を少しばかり指摘してみるや梟はたちまち苦境に陥り泣き出しそうになってしまった。<私>はあわてて梟の話を本筋に戻してやる。
「梟はいかにもまぶしそうに、眼をぱちぱちして横を向いて居(お)りましたが。とうとう泣き出しそうになりました。私もすっかりあわてました。下手(へた)にからかって、梟に泣かれたんでは、全く気の毒でしたし、第一折角あんなに機嫌よく、私にはなしかけたものを、ひやかしてやめさせてしまうなんて、あんまり私も心持ちがよくありませんでした」」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.33~34』新潮文庫 一九九五年)
気持ちを持ち直した梟は話の続きを語り出す。
「『それはもう立派な訳がございます。ぜんたいみんなまっ白では、ずいぶん間ちがいなども多ございました。たとえばよく雉子(きじ)や山鳥などが、うしろから<四十雀(しじゅうから)さん、こんにちわ>とやりますと、変な顔をしながらだまって振(ふ)り向くのがひわだったり、小さな鳥どもが木の上にいて、<ひわさん、いらっしゃいよ>なんて遠くから呼びますのに、それが頬白(ほおじろ)で自分よりもひわのことをよく思っていると考えて、噴(おこ)ってぷいっと横へ外(そ)れたりするのでした。実際感情を害することもあれば、用事がひどくこんがらかって、おしまいはいくら禿鷲(はげわし)コルドンさまのご裁判でも、解けないようになるのだったと申します』」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.34~35』新潮文庫 一九九五年)
<私>は梟の話を聞きながら次のようにまるで別のことを考えたりもする。知識人として地元の農学校教師となった賢治にとってもはや二度と戻っていくことのできない少年時代の回想だ。
「(ああ、あの楢(なら)の木の葉が光ってゆれた。ただ一枚だけどうしてゆれたろう)」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.35』新潮文庫 一九九五年)
そんなこととは露知らず梟は話を続ける。鳥たちはどれもみなそれぞれに違った特徴(差異)を持っている。それぞれに違った固有の差異がなくてはどれもみな同じ「鳥」だとして一括されてしまう。<私>は梟の話について、人間社会で実にしばしば生じる言葉の意味の取り違えから、様々な事件や訴訟を巻き起こしたりする言語との共通性を見出す。<私>と梟との対話ではこうある。
「『そこでもうどの鳥も、なんとか工夫(くふう)をしなくてはとてもいけない、こんな工合(ぐあい)じゃ鳥の文明は大ていここらでとまってしまうと、口に出しては云いませんでしたが、心の中では身にしみる位そう思いつづけていたのでございます』。『うんそうだろう。そうなくちゃならないよ。僕(ぼく)らの方でもね、少し話はちがうけれども、語(ことば)について似たようなことがあるよ』」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.35』新潮文庫 一九九五年)
言語の一般性と個別性との問題について。ヘーゲルから。
「私は、《個別的なもの》と言うとき、じつはむしろそれを全く一般的なものであると言っているのである。なぜならば、すべてのものは個別的なものだからである。同じように、人々の求めているものは、みなどれも《この》ものである。もっと正確な言い表わし方をして、この一枚の紙と言うとき、《すべての》紙、《どの》紙も《一枚の》紙なのである。だから私は相変らずただ一般的なものを語っているだけである。言葉というものは、思いこみをそのまま逆のものとし、別のものにするだけでなく、《言葉に表現できない》ものにしてしまうという、神にもふさわしい天性をもっている」(ヘーゲル「精神現象学・上・意識・このものと思いこみ・P.138」平凡社ライブラリー 一九九七年)
さらに荘子から。
「物無非彼、物無非是、自彼則不見、自知則知之、故曰、彼出於是、是亦因彼、彼是方生之説也、雖然方生方死、方死方生、方可方不可、方不可方可、因是因非、因非因是、是以聖人不由而照之于天、亦因是也、是亦彼也、彼亦是也、彼亦一是非、此亦一是非、果且有彼是乎哉、果且無彼是乎哉、彼是莫得其偶、謂之道樞、樞始得其環中、以應無窮、是亦一無窮、非亦一無窮也、故曰莫若以明
(書き下し)物は彼に非ざるは無く、物は是れに非ざるは無し。自ら彼とすることは則(乃)ち見えず、自ら知ることは則(乃)ちこれを知る。故に曰わく、彼は是れより出で、是れも亦た彼に因(よ)ると。彼と是れと方(まさ)に生ずるの説なり。然(しか)りと雖(いえど)も方に生ずれば方に死し、方に死すれば方に生ず。方に可なれば方に不可、方に不可なれば方に可なり。是(ぜ)に因りて非(ひ)に因り、非に因りて是に因る。是(ここ)を以て聖人は由(よ)らずしてこれを天に照す、亦(た=唯)だ是れに因るのみ。是れも亦た彼なり、彼も亦た是れなり。彼も亦た一是非(ぜひ)、此れも亦た一是非(ぜひ)。果(は)たして彼と是れと有るか、果たして彼と是れと無きか。彼と是れと其の偶(ぐう=対)を得るなき、これを道枢(どうすう)と謂う。枢にして始めて其の環中(かんちゅう)を得て、以て無窮に応ず。是(ぜ)も亦た一無窮、非も亦た一無窮なり。故に曰わく、明(めい)を以(もち)うるに若(し)くなしと。
(現代語訳)物は彼(あれ)でないものはないし、また物は此(これ)でないものもない。〔此方からすればすべてが彼(あれ)、彼方からすればすべてが此(これ)である〕。自分で自分を彼(あれ)とすることは分からないが、自分で自分を此(これ)としてわきまえることは分かるものである。だから『彼(あれ)は此(これ)から出てくるし、此(これ)もまた彼(あれ)によってあらわれる』という。彼(あれ)と此(これ)とは〔あの恵施の説く〕方生(ほうせい)の説(ーーーちょうど一しょに生まれるという説)である。けれども、〔恵施も説くように〕ちょうど生まれることはちょうど死ぬことであり、死ぬことはまたそのまま生まれることである。〔判断についても同じことで〕、可(よ)しとすることはそのまま可(よ)くないとすることであり、可(よ)くないとすることはまたそのまま可(よ)しとすることである。善(よ)しとしたことい身をまかせて悪(あ)しとしたことにまかせたことになる。悪しとしたことに身をまかせて善しとしたことにまかせたことになる。〔善し悪しの区別も相対的なものだから〕。そこで、聖人はそんな方法にはよらないで、それを自然の照明にゆだねる。そしてひたすらそこに身をまかせていく。〔そこでは〕此(これ)も彼(あれ)であり、彼(あれ)もまた此(これ)である。そして彼(あれ)にも善し悪しの判断があり、此(これ)にも善し悪しの判断がある。果たして彼(あれ)と此(これ)とがあるのか。果たして彼(あれ)と此(これ)とがないことになるのか。〔もちろん彼(あれ)と此(これ)との対立はないことになる。このように〕彼(あれ)と此(これ)とがその対立をなくしてしまった〔ーーー対立を超えた絶対の〕境地、それを道枢(どうすう)ーーー道の枢(とぼそ)ーーーという。枢(とぼそ)であってこそ環(わ)の中心にいて窮まりない変転に対処できる。善しとすることも一つの窮まりない変転であり、悪しとすることも一つの窮まりない変転である。だから、〔善し悪しを立てるのは〕『真の明智を用いる立場に及ばない』といったのだ」(「荘子(第一冊)・内篇・斉物論篇・第二・三・P.54~57」岩波文庫 一九七一年)
さて梟が言うには、肺活量の少ない鳥の場合、染料を入れた壺に長時間顔を入れて呼吸を止めていることができないため、例えば「めじろは眼のまわりが染まらず、頬じろは両方の頬が染まって居りません」と、さも事情に熟達しているかのように語る。そこで<私>は思いきって矛盾点を指摘する。
「『ほう、そうだろうか。そうだろうか。そうだろうかねえ。私はめじろや頬じろは、自分からたのんであの白いとこは染めなかったのだろうと思うよ』。梟は少しあわてましたが、ちょっとうしろの林の奥(おく)の、くらいところをすかして見てから言いました。『いいえ、そいつはお考えちがいです。たしかに肺の小さなためです』。ここだと私は思いました。『そうするとどうしてあんなにめじろも頬白も、きちんと両方おんなじ形で、おんなじ場所に白いかたが残っているだろうね。あんまり工合がよすぎるよ。息がつづかないでやめたもんなら、片っ方の眼のまわり、あとはひたいの上とかいう工合に行きそうなもんだねえ』。梟はしばらく眼をつむりました」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.38』新潮文庫 一九九五年)
<私>はさらに梟の話の矛盾点を指摘してみる。梟の言い訳は苦しい。そこで<私>は一方で手加減を加えて梟に話の続きをうながしてやる。梟はふたたび気持ちを持ち直してこう語る。
「『ところがとんびはだんだんいい気になりました。金もできたし気ぐらいもひどく高くなって来て、おれこそ鳥の仲間では第一等の功労者というような顔をして、なかなか仕事もしなくなりました。尤も自分は青と黄いろとで、とても立派な縞(しま)に染めて大威張(おおいば)りでした。それでもいやいや日に二つ三つはやってましたが、そのやり方もごく大ざっぱになって来て、茶いろと白と黒とで、細(こまか)いぶちぶちにして呉れと頼んでも、黒は抜(ぬ)いてしまったり、赤と黒とで縞(しま)にして呉れと頼んでも、燕(つばめ)のようにごく雑作なく染めてしまったり、実際なまけ出したのでした。尤もそのときは残ったものもわずかでした。烏と鷺とはくちょうとこの三疋(びき)だけだったのです』」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.40』新潮文庫 一九九五年)
有名になりずいぶん裕福にもなった<とんび>は仕事に熱が入らないばかりかちょっとしたやる気さえもはや失せてしまっている。だがせっかく手に入れた名声をふいにするのはいかにも惜しい。ダブルバインド(板挟み)に陥る<とんび>。
「染屋をやめても、金には少しも困らんが、ただその名前がいたましい。やめたくもない。けれどもいまごろから稼(かせ)ぎたくもない」と思うわけである。
一方、染めるのを延期されてばかりいた<烏>がとうとう怒り出し<とんび>と大喧嘩を演じて犬猿の仲になるという伝承民話の中心はずらされており、むしろ逆にほとんどまったく重視されていない。作者=賢治の狙いが始めからそこになかったからに違いない。梟は話を終えるとすぐ「しんと向うのお月さまをふり向」いて黙ってしまう。そんな梟に<私>はこう声をかける。
「『そうかねえ、それでよくわかったよ。そうして見ると、おまえなんかはまあ割合に早く染めて貰ってよかったねえ、なかなか細(こまか)く染まっているし』」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.42』新潮文庫 一九九五年)
何の慰めにもならない、ただ単に梟の話を聞き届けたというばかりの連れない返事に思われるが、それが法華経主義者=賢治の如来的実践(菩薩的無償性)をあらわにする。ただひたすら「聞くこと」に徹するだけでなく梟の存在自身を《あるがまま》全的に受け入れてやること。だがしかしこの場合、<梟とは何か>という疑問を呈することはできる。再び冒頭部分に戻ろう。
「私は梟などを、あんまり信用しませんでした。ちょっと見ると梟は、いつでも頬(ほお)をふくらせて、滅多(めった)にしゃべらず、たまたま云(い)えば声もどっしりしてますし、眼(め)も話す間ははっきり大きく開いています、又(また)木の陰(かげ)の青ぐろいとこなどで、尤(もっと)もらしく肥(ふと)った首をまげたりなんかするとこは、いかにもこころもまっすぐらしく、誰(たれ)も一ぺんは欺(だま)されそうです」(宮沢賢治「林の底」『ポラーノの広場・P.31』新潮文庫 一九九五年)
<近代知識人>。とりわけ帝国大学の研究室でふんぞり返って学生たちを指導している学者がそうだ。さらに近代日本の<大富裕層>。貧困のどん底生活に喘いでいる地方の農民たちのひもじさに満ちた実状を一向に顧みない政治家や実業家がそうだ。そしてその<あいだ>であちこち走り回るしかなすすべがないにもかかわらず、ほかでもない作者=賢治もまた近代知識人の一人として数え上げられてしまう。このように歪みに歪んでもはや動かしようのない事実に耐え抜きつつ深い諦めの中へ打ち沈んでいく姿を「水銀いろの重い月光」が照らし出す。
BGM1
BGM2
BGM3
