昼と夜との<あいだ>に何かが起こる。作者の意図とは関係なく作者自身が作品の中で無意識のうちに何かを起してしまうことさえ稀ではない。「さるのこしかけ」も例に漏れず「夕方」に設定されている。
「楢夫(ならお)は夕方、裏の大きな栗(くり)の木の下に行きました」(宮沢賢治「さるのこしかけ」『注文の多い料理店・P.169』新潮文庫 一九九〇年)
家の「裏」へ行くに際して特に「夕方」でなければならない必然性などまるでない。だがともかく楢夫(ならお)はあたかも「夕方」の側が導び寄せるがごとく「栗(くり)の木の下に行」く。次に楢夫は通称「さるのこしかけ」と呼ばれている<きのこ>を見つけるわけだが作者=賢治は<きのこ>が生えている位置をちょうど「楢夫の目位高い所」と一致させる。
「楢夫の目位高い所に、白いきのこが三つできていました」(宮沢賢治「さるのこしかけ」『注文の多い料理店・P.169』新潮文庫 一九九〇年)
<きのこ>の側もまた「三疋の小猿」をちょうど「楢夫の目位高い所」に合わせて出現させる。小猿のうち一疋は小猿たちの「大将」。軍服を身にまとっている。軍服には猿の軍隊特有の意味不明な「勲章(くんしょう)」がじゃらじゃらぶらさがっている。残る二疋の小猿たちはただ単なる「兵隊」のようだがあまりにも小さすぎて「肩章(けんしょう)」すらよく見えない。ともかく「さるのこしかけ」の上に忽然と姿を現した小猿たちの「大将」が代表者として楢夫との対話に入る。賢治文学の特徴の一つに対話形式が上げられるのは昔から「お約束」とされているが、ここでも慣例にしたがって差し当たり両者が双方向から執り行う最初の対話を見ておこう。
「『おまえが楢夫か。ふん。何歳(さい)になる』。楢夫はばかばかしくなってしまいました。小さな小さな猿の癖(くせ)に、軍服などを着て、手帳まで出して、人間をさも捕虜(ほりょ)か何かのように扱(あつか)うのです。楢夫が申しました。『何だい。子猿。もっと語(ことば)を丁寧(ていねい)にしないと僕(ぼく)は返事なんかしないぞ』。小猿が顔をしかめて、どうも笑ったらしいのです。もう夕方になって、そんな小さな顔はよくわかりませんでした。けれども小猿は、急いで手帳をしまって、今度は手を膝(ひざ)の上で組み合わせながら云いました。『仲々強情(ごうじょう)な子供だ。俺(おれ)はもう六十になるんだぞ。そして陸軍大将だぞ』。楢夫は怒(おこ)ってしまいました。『何だい。六十になっても、そんなにちいさいなら、もうさきの見込(みこみ)が無いやい。腰掛けのまま下へ落すぞ』。小猿が又(また)笑ったようでした。どうも、大変、これが気にかかりました」(宮沢賢治「さるのこしかけ」『注文の多い料理店・P.170』新潮文庫 一九九〇年)
すでに問いが出現している。子猿の「大将」と楢夫はなぜこうもスムーズに対話に入ることができたのか。人間の幼少期にしばしば見られる「白日夢」だとか子どもにありがちな「過剰な妄想」だとかの説明ならもう飽きるほど聞かされてきていいる。だが「白日夢」にせよ「過剰な妄想」にせよ幼少期の子どもに限らず、とりわけ「白日夢」の場合、前後半を問わず二十代の女性が多少なりとも説明のつかない不安感情を伴って悩みを訴えることがある。というより思春期などとっくに通過したにもかかわらず精神的動揺が比較的発生しやすい結婚間際の女性が「白日夢」に襲われるといったケースについて相談しやすい社会福祉的環境が少しずつ整ってきたことが前提になり、必ずしも幼少期の子どもにばかり限ったことではないということがようやく今になってはっきりしてきた。とはいえこの箇所で問われるべきはあくまで楢夫と小猿との対話はどうしてこうもスムーズに実現されているのか、でなくてはならない。
そこで楢夫は小猿に案内されて家の裏の栗の木の根もとに開いている「入口」から木の内部へ招待されることになった。内部へ入ったとたん「栗の木」は「まるで煙突(えんとつ)のようなもの」へと瞬時に置き換えられる。内部は上方へ向っておそろしく高いところへ伸びている。猿たちは持ち前の俊敏さでどんどん上へ昇(のぼ)っていく。しかし楢夫は逆に猿よりも先に疲れを見せ始める。子猿の大将は励ます。駈(か)け抜けなければならない、「最大急行で通らないといけません」という。作品「氷河鼠の毛皮」でも「ベーリング行最大急行」という言葉が用いられていることは以前触れた。その時、「ベーリング」は実在する「ベーリング市」を指して言われているのではなく、賢治が考える<極>としてのシベリア、地図上でどこと指し示すことのできない遥かな<極としての北方>を列車は目指していると示唆しておいた。また詩「青森挽歌」冒頭で妹トシ子の死に駆けつける賢治の眼に映るのは、列車が走っているというよりむしろ逆に周囲の景色の側が猛烈な速度で過去へ過去へとどんどん送り込まれていく情景だ。「さるのこしかけ」では作品タイトルになにせ「猿」とあるため、ともすれば読者の側がいとも容易に緊張感を欠いてしまいがちだが、ここでの楢夫は先導する小猿たちを追いかけて懸命な上昇を試みる。息が切れる。「走っているかどうかもわからない位」の速度に《なる》。楢夫はもはや《光》だ。
「もう楢夫は、息が切れて、苦しくて苦しくてたまりません。それでも、一生けん命、駈けあがりました。もう、走っているかどうかもわからない位です。突然(とつぜん)眼の前がパッと青白くなりました。そして、楢夫は、眩(まぶ)しいひるまの草原の中に飛び出しました」(宮沢賢治「さるのこしかけ」『注文の多い料理店・P.173』新潮文庫 一九九〇年)
二度目の場面転換。そこは栗の木の内部ではなくすでに「眩(まぶ)しいひるまの草原」へ切り換えられる。小猿の大将に尋ねるとそこは「種山(たねやま)ヵ原(はら)」だという。ずいぶん遠くへ出てきたなと思いながらも楢夫はなぜか納得している様子。そこで子猿の軍団が始めたのは思いもよらなかった「軍事演習」。楢夫の身体はあれよという間もなく小さな網で縛り付けられてしまう。しかし小猿たちはあまりにも小型なので引きちぎろうと思えばできないことはない気もする。見ているとそのうち本格的に縛り付けられてしまったようだ。無数の猿たちが寄ってたかってきて胴上げされるに立ち至った。星の数ほども出てきた猿たちがどんどん肩車(かたぐるま)を組み上げて胴上げしていくその高さは周囲の林の高さをゆうに越えた。見晴らしがよくなった。ずっと遠くを流れる河がきらりと光るのが目に入った。すると子猿の大将は兵隊の猿たちに向って「落せっ」と命じた。
「楢夫はもう覚悟(かくご)をきめて、向うの川を、もう一ぺん見ました。その辺に楢夫の家があるのです。そして楢夫は、もう下に落ちかかりました。その時、下で、『危いっ。何をする』という大きな声がしました。見ると、茶色のばさばさした髪(かみ)と巨(おお)きな赤い顔が、こっちを見あげて、、手を延ばしているのです。『ああ山男だ。助かった』と楢夫は思いました。そして、楢夫は、忽(たちま)ち山男の手で受け留められて、草原におろされました」(宮沢賢治「さるのこしかけ」『注文の多い料理店・P.177~178』新潮文庫 一九九〇年)
地面へ叩きつけられて死ぬばかりという寸前、楢夫は「山男」の言葉を聞いた。さらに賢治は「山男」の姿形を書き留めている。それはおそらく柳田國男のいう<山人>に近い。ところで楢夫がひょいと飛び出した「種山(たねやま)ヵ原(はら)」は北上山地に実在する高原の名前。別の作品でこう描かれている。
「種山(たねやま)ヵ原(はら)というのは北上(きたかみ)山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩(じゃもんがん)や、硬(かた)い橄欖岩(かんらんがん)からできています。高原のへりから、四方に出たいくつかの谷の底には、ほんの五、六軒ずつのがあります。春になると、北上の河谷(かこく)のあちこちから、沢山(たくさん)の馬が連れて来られて、此(こ)のの人たちに預けられます。そして、上の野原に放されます。それも八月の末には、みんなめいめいの持主に戻(もど)ってしまうのです。なぜなら、九月には、もう原の草が枯(か)れはじめ水霜(みずしも)が下りるのです」(宮沢賢治「種山ヵ原」『ポラーノの広場・P.223』新潮文庫 一九九五年)
そこはすでに林の中をさらに森の奥へ入ったところに開けた野原であり、いつごろ命名されたかは定かでないが「今昔物語」に出てくるように「陸奥(みちのく)」の高原は名馬の産地として平安時代から放牧に向いていると知られていた。また林の中を通り過ぎて山間部の森を抜けたところはもはや都(京)あるいは首都(東京)では見られなくなった<山人>や動植物たちが共に暮らしていける共同体的地域性の境界の指標でもあった。柳田はいう。
「最初は麓の方から駆け登ったとしても、いったん山に入ってから後は遷徙(せんし)移動に至っては、全然下界と没交渉にこれを行うことができる処ばかりである。九州で申さば今でもこの徒の活動しているのは彦山と霧島の連山である。阿蘇火山の東側の外輪山を通ればほとんど無人の地のみである。ただ阪梨(さかなし)の峠を鉄道が横ぎるようになったら彼等は大いに面食うことになるであろう。四国では石鎚山彙(いしづちさんさんい)と剣山の奥が本拠であるらしい。吉野川の上流には処々に閑静な徒渉(としょう)場があるのみならず、多くの山の峯は白昼大手を振って往来しても見咎(みとが)める者もなく、必要があればちょっと鬱散(うつさん)のために海岸に出てみることも自由である。それから本土においても彼等にとって不退の領土がある。前に述べた大井川の上流から、たとえば木曽の親類を訪問するにも良い路が幾筋もある。赤石・農鳥(のうとり)に就いて北に向えば、高遠(たかとお)の町の火を眼下に見つつ、そっと蓼科(たてしな)の方へ越えることもできる。夜行の貨物列車に驚かされるのが厭(いや)なら、守屋岳(もりやだけ)の峯伝いに岡谷の製糸工場のすこし下流で天竜川を渡ってもよろしい。塩尻峠や鳥居峠では日本人の方が閉口して地の底を俯伏(ふふく)している。山人にとってはおそらくは里近い平野が我々の方の山路、峠路に該当することであろう。我々の旅人が麓の宿の旅籠(はたご)に泊って明日の山越えの用意をするように、彼等はまた一人旅の昼道は危いなどと、言っているかも知れぬ」(柳田國男「山人外伝史料」『柳田国男全集4・P.393』ちくま文庫 一九八九年)
とすると楢夫はただ単なる「白日夢」を見たわけではなくましてや「過剰な妄想」のとりこになったわけでもなく、少なくとも大正時代までの「イーハトーヴォ」(ドリームランドとしての岩手県)にはところどころ<子ども><小猿><山人>が共通に言葉を交通させあえる空間が残されていたと考えられはしないだろうか。ウィトゲンシュタインはいう。
「次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それはわれわれの言語における『石版!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい!』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石版!』という文の《ひきのばし》であると言っては、なぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは、『石板!』と《言い》ながら《そのようなこと》〔『石版をもってこい!』ということ〕《をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石版!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』といいうことをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことをわたくしは欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分の言う文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。
ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起こっている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。
ーーー文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・十九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店 一九七六年)
こうした条件を満たす共同体を指してウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と名づけた。もっとも、<子ども><小猿><山人>が用いる言語は三者三様で当然のことながらそれぞれ異なっていたに違いない。しかし「言語ゲーム」という用語でウィトゲンシュタインが述べているのはそういう語彙の違いについてではない。その場で用いられている語彙についての意味内容が共有されているかどうかである。そこで改めて作品「さるのこしかけ」が語っていることについて考え直してみよう。さらなる問いとともにこう思われる。それら別々の言語の意味内容を理解し合える条件は特に別世界を持ってきてまったく次元の異なるユートピアを設定するまでもなく現実として存在したと言えはしないだろうかと。ちなみに「山男」が楢夫を受け止めて草原におろしたその草原はもはや北上山地の真ん中の「種山ヵ原」ではすでになく、いつも見慣れてありふれた「楢夫」の家の前の草原だった。それが第三の劇的場面転換に当たる。
なお「楢夫」という名前の子どもは作品「ひかりの素足」で触れたように東北地方特有の暴風雪の犠牲者として死ぬ子どもの一人に与えられた名前とまったく同じである。とともに柳田のいう「ざしきわらし」は地方の寒村に古くから残っていた<人柱><生贄><口べらし>の風習が、あたかもフロイトのいう「夢の作業」そっくりに圧縮・転移・加工・変形されたものなのかも知れない。賢治はすでにフレイザーやプルーストに目を通していたらしく、何度も繰り返し反復される回想という形式で地方固有の歴史的史実を小説に置き換えて保存しようとしたのではと思われるのである。
BGM1
BGM2
BGM3
「楢夫(ならお)は夕方、裏の大きな栗(くり)の木の下に行きました」(宮沢賢治「さるのこしかけ」『注文の多い料理店・P.169』新潮文庫 一九九〇年)
家の「裏」へ行くに際して特に「夕方」でなければならない必然性などまるでない。だがともかく楢夫(ならお)はあたかも「夕方」の側が導び寄せるがごとく「栗(くり)の木の下に行」く。次に楢夫は通称「さるのこしかけ」と呼ばれている<きのこ>を見つけるわけだが作者=賢治は<きのこ>が生えている位置をちょうど「楢夫の目位高い所」と一致させる。
「楢夫の目位高い所に、白いきのこが三つできていました」(宮沢賢治「さるのこしかけ」『注文の多い料理店・P.169』新潮文庫 一九九〇年)
<きのこ>の側もまた「三疋の小猿」をちょうど「楢夫の目位高い所」に合わせて出現させる。小猿のうち一疋は小猿たちの「大将」。軍服を身にまとっている。軍服には猿の軍隊特有の意味不明な「勲章(くんしょう)」がじゃらじゃらぶらさがっている。残る二疋の小猿たちはただ単なる「兵隊」のようだがあまりにも小さすぎて「肩章(けんしょう)」すらよく見えない。ともかく「さるのこしかけ」の上に忽然と姿を現した小猿たちの「大将」が代表者として楢夫との対話に入る。賢治文学の特徴の一つに対話形式が上げられるのは昔から「お約束」とされているが、ここでも慣例にしたがって差し当たり両者が双方向から執り行う最初の対話を見ておこう。
「『おまえが楢夫か。ふん。何歳(さい)になる』。楢夫はばかばかしくなってしまいました。小さな小さな猿の癖(くせ)に、軍服などを着て、手帳まで出して、人間をさも捕虜(ほりょ)か何かのように扱(あつか)うのです。楢夫が申しました。『何だい。子猿。もっと語(ことば)を丁寧(ていねい)にしないと僕(ぼく)は返事なんかしないぞ』。小猿が顔をしかめて、どうも笑ったらしいのです。もう夕方になって、そんな小さな顔はよくわかりませんでした。けれども小猿は、急いで手帳をしまって、今度は手を膝(ひざ)の上で組み合わせながら云いました。『仲々強情(ごうじょう)な子供だ。俺(おれ)はもう六十になるんだぞ。そして陸軍大将だぞ』。楢夫は怒(おこ)ってしまいました。『何だい。六十になっても、そんなにちいさいなら、もうさきの見込(みこみ)が無いやい。腰掛けのまま下へ落すぞ』。小猿が又(また)笑ったようでした。どうも、大変、これが気にかかりました」(宮沢賢治「さるのこしかけ」『注文の多い料理店・P.170』新潮文庫 一九九〇年)
すでに問いが出現している。子猿の「大将」と楢夫はなぜこうもスムーズに対話に入ることができたのか。人間の幼少期にしばしば見られる「白日夢」だとか子どもにありがちな「過剰な妄想」だとかの説明ならもう飽きるほど聞かされてきていいる。だが「白日夢」にせよ「過剰な妄想」にせよ幼少期の子どもに限らず、とりわけ「白日夢」の場合、前後半を問わず二十代の女性が多少なりとも説明のつかない不安感情を伴って悩みを訴えることがある。というより思春期などとっくに通過したにもかかわらず精神的動揺が比較的発生しやすい結婚間際の女性が「白日夢」に襲われるといったケースについて相談しやすい社会福祉的環境が少しずつ整ってきたことが前提になり、必ずしも幼少期の子どもにばかり限ったことではないということがようやく今になってはっきりしてきた。とはいえこの箇所で問われるべきはあくまで楢夫と小猿との対話はどうしてこうもスムーズに実現されているのか、でなくてはならない。
そこで楢夫は小猿に案内されて家の裏の栗の木の根もとに開いている「入口」から木の内部へ招待されることになった。内部へ入ったとたん「栗の木」は「まるで煙突(えんとつ)のようなもの」へと瞬時に置き換えられる。内部は上方へ向っておそろしく高いところへ伸びている。猿たちは持ち前の俊敏さでどんどん上へ昇(のぼ)っていく。しかし楢夫は逆に猿よりも先に疲れを見せ始める。子猿の大将は励ます。駈(か)け抜けなければならない、「最大急行で通らないといけません」という。作品「氷河鼠の毛皮」でも「ベーリング行最大急行」という言葉が用いられていることは以前触れた。その時、「ベーリング」は実在する「ベーリング市」を指して言われているのではなく、賢治が考える<極>としてのシベリア、地図上でどこと指し示すことのできない遥かな<極としての北方>を列車は目指していると示唆しておいた。また詩「青森挽歌」冒頭で妹トシ子の死に駆けつける賢治の眼に映るのは、列車が走っているというよりむしろ逆に周囲の景色の側が猛烈な速度で過去へ過去へとどんどん送り込まれていく情景だ。「さるのこしかけ」では作品タイトルになにせ「猿」とあるため、ともすれば読者の側がいとも容易に緊張感を欠いてしまいがちだが、ここでの楢夫は先導する小猿たちを追いかけて懸命な上昇を試みる。息が切れる。「走っているかどうかもわからない位」の速度に《なる》。楢夫はもはや《光》だ。
「もう楢夫は、息が切れて、苦しくて苦しくてたまりません。それでも、一生けん命、駈けあがりました。もう、走っているかどうかもわからない位です。突然(とつぜん)眼の前がパッと青白くなりました。そして、楢夫は、眩(まぶ)しいひるまの草原の中に飛び出しました」(宮沢賢治「さるのこしかけ」『注文の多い料理店・P.173』新潮文庫 一九九〇年)
二度目の場面転換。そこは栗の木の内部ではなくすでに「眩(まぶ)しいひるまの草原」へ切り換えられる。小猿の大将に尋ねるとそこは「種山(たねやま)ヵ原(はら)」だという。ずいぶん遠くへ出てきたなと思いながらも楢夫はなぜか納得している様子。そこで子猿の軍団が始めたのは思いもよらなかった「軍事演習」。楢夫の身体はあれよという間もなく小さな網で縛り付けられてしまう。しかし小猿たちはあまりにも小型なので引きちぎろうと思えばできないことはない気もする。見ているとそのうち本格的に縛り付けられてしまったようだ。無数の猿たちが寄ってたかってきて胴上げされるに立ち至った。星の数ほども出てきた猿たちがどんどん肩車(かたぐるま)を組み上げて胴上げしていくその高さは周囲の林の高さをゆうに越えた。見晴らしがよくなった。ずっと遠くを流れる河がきらりと光るのが目に入った。すると子猿の大将は兵隊の猿たちに向って「落せっ」と命じた。
「楢夫はもう覚悟(かくご)をきめて、向うの川を、もう一ぺん見ました。その辺に楢夫の家があるのです。そして楢夫は、もう下に落ちかかりました。その時、下で、『危いっ。何をする』という大きな声がしました。見ると、茶色のばさばさした髪(かみ)と巨(おお)きな赤い顔が、こっちを見あげて、、手を延ばしているのです。『ああ山男だ。助かった』と楢夫は思いました。そして、楢夫は、忽(たちま)ち山男の手で受け留められて、草原におろされました」(宮沢賢治「さるのこしかけ」『注文の多い料理店・P.177~178』新潮文庫 一九九〇年)
地面へ叩きつけられて死ぬばかりという寸前、楢夫は「山男」の言葉を聞いた。さらに賢治は「山男」の姿形を書き留めている。それはおそらく柳田國男のいう<山人>に近い。ところで楢夫がひょいと飛び出した「種山(たねやま)ヵ原(はら)」は北上山地に実在する高原の名前。別の作品でこう描かれている。
「種山(たねやま)ヵ原(はら)というのは北上(きたかみ)山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩(じゃもんがん)や、硬(かた)い橄欖岩(かんらんがん)からできています。高原のへりから、四方に出たいくつかの谷の底には、ほんの五、六軒ずつのがあります。春になると、北上の河谷(かこく)のあちこちから、沢山(たくさん)の馬が連れて来られて、此(こ)のの人たちに預けられます。そして、上の野原に放されます。それも八月の末には、みんなめいめいの持主に戻(もど)ってしまうのです。なぜなら、九月には、もう原の草が枯(か)れはじめ水霜(みずしも)が下りるのです」(宮沢賢治「種山ヵ原」『ポラーノの広場・P.223』新潮文庫 一九九五年)
そこはすでに林の中をさらに森の奥へ入ったところに開けた野原であり、いつごろ命名されたかは定かでないが「今昔物語」に出てくるように「陸奥(みちのく)」の高原は名馬の産地として平安時代から放牧に向いていると知られていた。また林の中を通り過ぎて山間部の森を抜けたところはもはや都(京)あるいは首都(東京)では見られなくなった<山人>や動植物たちが共に暮らしていける共同体的地域性の境界の指標でもあった。柳田はいう。
「最初は麓の方から駆け登ったとしても、いったん山に入ってから後は遷徙(せんし)移動に至っては、全然下界と没交渉にこれを行うことができる処ばかりである。九州で申さば今でもこの徒の活動しているのは彦山と霧島の連山である。阿蘇火山の東側の外輪山を通ればほとんど無人の地のみである。ただ阪梨(さかなし)の峠を鉄道が横ぎるようになったら彼等は大いに面食うことになるであろう。四国では石鎚山彙(いしづちさんさんい)と剣山の奥が本拠であるらしい。吉野川の上流には処々に閑静な徒渉(としょう)場があるのみならず、多くの山の峯は白昼大手を振って往来しても見咎(みとが)める者もなく、必要があればちょっと鬱散(うつさん)のために海岸に出てみることも自由である。それから本土においても彼等にとって不退の領土がある。前に述べた大井川の上流から、たとえば木曽の親類を訪問するにも良い路が幾筋もある。赤石・農鳥(のうとり)に就いて北に向えば、高遠(たかとお)の町の火を眼下に見つつ、そっと蓼科(たてしな)の方へ越えることもできる。夜行の貨物列車に驚かされるのが厭(いや)なら、守屋岳(もりやだけ)の峯伝いに岡谷の製糸工場のすこし下流で天竜川を渡ってもよろしい。塩尻峠や鳥居峠では日本人の方が閉口して地の底を俯伏(ふふく)している。山人にとってはおそらくは里近い平野が我々の方の山路、峠路に該当することであろう。我々の旅人が麓の宿の旅籠(はたご)に泊って明日の山越えの用意をするように、彼等はまた一人旅の昼道は危いなどと、言っているかも知れぬ」(柳田國男「山人外伝史料」『柳田国男全集4・P.393』ちくま文庫 一九八九年)
とすると楢夫はただ単なる「白日夢」を見たわけではなくましてや「過剰な妄想」のとりこになったわけでもなく、少なくとも大正時代までの「イーハトーヴォ」(ドリームランドとしての岩手県)にはところどころ<子ども><小猿><山人>が共通に言葉を交通させあえる空間が残されていたと考えられはしないだろうか。ウィトゲンシュタインはいう。
「次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それはわれわれの言語における『石版!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい!』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石版!』という文の《ひきのばし》であると言っては、なぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは、『石板!』と《言い》ながら《そのようなこと》〔『石版をもってこい!』ということ〕《をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石版!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』といいうことをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことをわたくしは欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分の言う文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。
ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起こっている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。
ーーー文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・十九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店 一九七六年)
こうした条件を満たす共同体を指してウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と名づけた。もっとも、<子ども><小猿><山人>が用いる言語は三者三様で当然のことながらそれぞれ異なっていたに違いない。しかし「言語ゲーム」という用語でウィトゲンシュタインが述べているのはそういう語彙の違いについてではない。その場で用いられている語彙についての意味内容が共有されているかどうかである。そこで改めて作品「さるのこしかけ」が語っていることについて考え直してみよう。さらなる問いとともにこう思われる。それら別々の言語の意味内容を理解し合える条件は特に別世界を持ってきてまったく次元の異なるユートピアを設定するまでもなく現実として存在したと言えはしないだろうかと。ちなみに「山男」が楢夫を受け止めて草原におろしたその草原はもはや北上山地の真ん中の「種山ヵ原」ではすでになく、いつも見慣れてありふれた「楢夫」の家の前の草原だった。それが第三の劇的場面転換に当たる。
なお「楢夫」という名前の子どもは作品「ひかりの素足」で触れたように東北地方特有の暴風雪の犠牲者として死ぬ子どもの一人に与えられた名前とまったく同じである。とともに柳田のいう「ざしきわらし」は地方の寒村に古くから残っていた<人柱><生贄><口べらし>の風習が、あたかもフロイトのいう「夢の作業」そっくりに圧縮・転移・加工・変形されたものなのかも知れない。賢治はすでにフレイザーやプルーストに目を通していたらしく、何度も繰り返し反復される回想という形式で地方固有の歴史的史実を小説に置き換えて保存しようとしたのではと思われるのである。
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