作品冒頭、フランドン農学校の生徒は豚を「触媒(しょくばい)」として認識する。「媒介者」でも構わない。「水やスリッパや藁(わら)をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる」からだ。
「『すいぶん豚というものは、奇体(きたい)なことになっている。水やスリッパや藁(わら)をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる。豚のからだはまあたとえば生きた一つの触媒(しょくばい)だ。白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機体では豚なのだ』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.179~180』新潮文庫 一九八九年)
もっとも、「触媒(しょくばい)」という場合正しくは、それそのものは変化せず、或るものと他のものとの<あいだ>に立って両者に化学的変化を起こさせる物質を指す。ところが豚は豚の身体も同時に化学変化するため<媒介するもの>として考える方が正しい。その意味で豚は<生きたヘーゲル弁証法>と極めて似るのである。ヘーゲルから八箇所拾っておこう。
(1)「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.246~247」岩波文庫 一九五一年)
(2)「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.248~249」岩波文庫 一九五一年)
(3)「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある。というのは、この否定的なものは、それを成果として生み出したものを揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しないからである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.251」岩波文庫 一九五一年)
(3)「生あるものは死ぬ。しかもそれは、生あるものが生あるものとして自分自身のうちに死の萌芽を担っているからにほかならない」(ヘーゲル「小論理学・上・P.286」岩波文庫)
(4)「或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして《限りなく》続いていく」(ヘーゲル「小論理学・上・九三・P.286」岩波文庫 一九五一年)
(5)「エレア派において思想は自分みずからを自由に相手とし、エレア派が絶対実在だと言明するもののうちで、思想は自己を純粋に把握し、思想が概念のうちを運動する。ここに、弁証法のはじまりが、すなわち、概念における思考の純粋運動のはじまりが見られます。と同時に、思考が現象ないし感覚的存在と対立し、さらには、内部から見た自己と他者との関係のなかでの自己が対立し、自己のもとにある矛盾が対象のもとにもあらわれてくる(それが弁証法の本来のすがたです)」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.322」河出文庫 二〇一六年)
(6)「一般に弁証法といえば、(a)外的弁証法ーーー事柄の運動の総体とは区別される観察者の運動ーーーと、(b)たんなる外からの洞察の運動ではなく、事柄そのものの本質、つまり、内容の純粋概念に導かれた運動とがあります。前者は、対象を観察した上で、これまで確実なことと見なされていた一切をぐらつかせるような根拠や側面を提示する方法です。その場合、根拠はまったく外的なものでもさしつかえなく、わたしたちは、ソフィストの哲学をあつかうさいに、この弁証法についてくわしく論じることになるはずです。もう一つの弁証法は、対象のなかにはいって観察するもので、対象は、前提や理念や当為ぬきに、外的な関係や法則や根拠からではなく、それだけで取りあげられます。観察者は事柄そのもののまっただなかに飛びこみ、対象を対象に即して観察し、対象のもつ内容に従って対象をとらえる。この観察においては、対象みずからが、対立する内容をもち、したがって廃棄されていくことをあらわにします。この弁証法は古代にとりわけよく見られます。外的な根拠にもとづいて推論する主観的な弁証法は、『正のうちには不正もあり、偽のうちには真もある』といったことを認める上ではそれなりの意味がある。が、真の弁証法は、対象が一面からして欠陥があるといった中途半端にとどまることなく、その本性の全体からして対象を解体します」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.355」河出文庫 二〇一六年)
(7)「弁証法が最初に運動にかんして成立したことについては、その理由として、弁証法そのものが運動であること、いいかえれば、運動そのものがあらゆる存在の弁証法であることがあげられます。事物は運動するものとして自分のもとに弁証法をもっており、そして運動とは、べつのものになること、自分を廃棄していくことです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.357」河出文庫 二〇一六年)
(8)「矛盾は運動においてもっとも明瞭に示される。運動では、対立するものが目の前にあらわれるからです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.359~360」河出文庫 二〇一六年)
フランドン農学校の豚(ヨークシャイヤ)は或る日、「ラクダ印の歯磨楊枝(はみがきようじ)」を目にする。豚は思う。すでに擬人化されている。
「豚は実にぎょっとした。一体、その楊枝の毛を見ると、自分のからだ中の毛が、風に吹(ふ)かれた草のよう、ザラッザラッと鳴ったのだ。豚は実に永い間、変な顔をして、眺めていたが、とうとう頭がくらくらして、いやないやな気分になった」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.181』新潮文庫 一九八九年)
ここで作者=賢治が顔を覗かせてふと語る。
「さればまことに豚の心もちをわかるには、豚になって見るより致(いた)し方ない」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.181』新潮文庫 一九八九年)
ニーチェもまたこういっている。
「互いに理解し合うためには、同じ言葉を用いるだけではなお十分でない。同じ種類の内的体験に対しても同じ言葉を用いなければならない。結局、互いに《共通の》体験をもたなければならない」(ニーチェ「善悪の彼岸・二六八・P.285」岩波文庫 一九七〇年)
畜産学教師は毎日この豚の様子を見に来る。そしていう。
「『も少しきちんと窓をしめて、室中(へやじゅう)暗くしなくては、脂(あぶら)がうまくかからんじゃないか。それにもうそろそろと肥育をやってもよかろうな、毎日阿麻仁(あまに)を少しずつやって置いて呉(く)れないか』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.182』新潮文庫 一九八九年)
その言葉をすっかり聞いた豚はへこんでしまい急速に食欲が減退する。そしてこう思う。
「<とにかくあいつら二人は、おれにたべものはよこすが、時々まるで北極の、空のような眼をして、おれのからだをじっと見る、実に何ともたまらない、とりつきばもないようなきびしいこころで、これのことを考えている、そのことは恐(こわ)い、ああ、恐い>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.182』新潮文庫 一九八九年)
ところが屠殺の日の前月、その「国の王」が奇妙な布告を出した。内容は次のとおり。
「それは家畜撲殺(ぼくさつ)同意調印法といい、誰(たれ)でも、家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡承諾書(しょうだくしょ)を受け取ること、又その承諾証書には家畜の調印を要すると、こう云う布告だった」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.182』新潮文庫 一九八九年)
近代社会の始まりとともに<人権>という概念も入ってくる。労働力維持とその増殖のため当然、資本主義は<人権>を必要とし、また<人権>がなければ延命していけないからだが。しかしなおさら豚は不安に陥りこう思う。人間社会の雇用形態でいう「契約」のことだ。
「<承諾書というのは、何の承諾書だろう何を一体しろと云うのだ。やる前の日には、なんにも飼料をやっちゃいけない、やる前の日って何だろう。一体何をされるんだろう。どこか遠くへ売られるのか。ああこれはつらいつらい>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.185~186』新潮文庫 一九八九年)
数日後、三人の生徒たちが何気なく会話しているのを豚は聞いた。会話はこうだ。
「『豚のやつは暖かそうだ』。一人が斯う答えたら三人共どっとふき出しました。『豚のやつは脂肪でできた、厚さ一寸の外套(がいとう)を着てるんだもの、暖かいさ』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.186』新潮文庫 一九八九年)
豚はたちまち息苦しさを覚えてこう思う。
「<厚さ一寸の脂肪の外套、おお恐い、ひとのからだをまるで観透(みとお)してるおお恐い。恐い。けれども一体おれと葱と、何の関係があるのだろう。ああつらいなあ>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.187』新潮文庫 一九八九年)
そう思って深い孤独の中で一人ふるえている豚。死亡承諾書の調印を得るため農学校の校長がやって来た。前に一度やって来たがその時は豚も校長もただ黙って<しいん>とにらみ合っているだけだった。しかし今度、校長は豚に向かってこんなことを話して聞かせる。
「『実はね、この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんのだ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ。人間の中の貴族でも、金持でも、又私のような、中産階級でも、それからごくつまらない乞食(こじき)でもね。ーーーまた人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏(にわとり)でも、なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣(かげろう)のごときはあしたに生れ、夕(ゆうべ)に死する、ただ一日の命なのだ。みんな死ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬにきまってる』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.187~188』新潮文庫 一九八九年)
仏教思想のように聞こえる。諦めるしかない。したがって黙って印鑑を押せばよいのだというふうに聞こえはする。だが校長が語る<死>は少し条件が異なっている。豚にしろ人間にしろいつかは死ななければならない。一時的に代理を立てることはできてもいつか必ずやって来る自分固有の死は避けられない。いずれにせよ<それぞれ各自の死>は不可避であるというハイデッガーの思想に近似している。四箇所引いてみる。
(1)「しかしながら、現存在が終末に至ることを形成する存在可能性、そしてかようなものとして現存在にその全さを与える存在可能性が問題になる場合には、この代理可能性は全面的に挫折する。《だれも相手からその人の死を引きとることができない》。なるほど、だれかが『ほかの人の身替わりになって死地におもむく』ということはできる。しかしこのことは、どこまでも、『ある特定の任務のために』相手に代わって自分を犠牲にするということなのである。このような『身替わりの死』は、それによって相手からその人自身の死をいささかでも引きとることを決して意味しえない。死ぬことは、おのおのの現存在がいずれは各自で引きうけなくてはならないことなのである。死というものが《存在する》とすれば、それは本質上、各自私の死として存在するのである」(ハイデッガー「存在と時間・下・第二篇・第一章・第四七節・P.39~40」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「死とは、現存在がいつもみずから引き受けなくてはならない存在可能性である。死においては、現存在自身がひとごとでない自己の存在可能において現存在に差し迫っているのである。この可能性においては、現存在は端的におのれの世界=内=存在そのものに関わらせられている。おのれの死とは、とりもなおさず、もはや現に存在しえなくなることの可能性である。現存在がこのようなおのれ自身の可能性として現存在自身に差し迫ってくるとき、現存在は《ひたすら》、ひとごとでない自己の存在可能へ指し向けられている。現存在がこのようなありさまでおのれ自身に差し迫るとき、現存在においてほかの現存在へのあらゆる連絡が解かれてしまう。このひとごとでない可能性は、《係累のない》可能性である。そして、それは同時に、もっとも極端な可能性でもある。存在可能として、現存在は死の可能性を追い越すことができない。死は、現存在が絶対に不可能になることの可能性だからである。このようにして、《死とは、ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない可能性》であることがあらわになった。かような可能性として、死は《際立った意味で》差し迫っているものである。このことの実存論的な可能性は、現存在が本質上おのれ自身に開示されていること、しかも《おのれに先立って》というありさまで開示されていることにもとづいている。関心にそなわっているこの構造契機が、死へ臨む存在においてそのもっとも根源的な具体化を得たのである。《終末へ臨む存在》は、以上に性格づけたような際立った現存在の可能性へ臨む存在として、現象的にいっそう明瞭な姿をとってくる。さて、ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできないこの可能性は、現存在が自己の存在の経過中に時折追加的に身につけるというようなものではない。そうではなくて、現存在が実存するとすれば、それはすでにはじめからこの可能性のなかへ《投げられて》いるのである。自分が死へ引き渡されていること、したがって死が世界=内=存在にぞくしていることについて、現存在はさしあたってたいていは、はっきりと知らずにおり、まして理論的な知識などをもたずにいる。しかし、死のなかへ投げられていることは、知識よりももっと根源的に、もっと痛切に、《不安の心境において》現存在にあらわになるのである。死へ臨む不安は、ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない存在可能を『目前に控えた』不安である。この不安が何に臨む不安であるかというと、それは世界=内=存在そのものに臨む不安である。それが何を案ずるゆえの不安であるかというと、それは端的に現存在そのものの存在可能を案ずるゆえの不安である。この死へ臨む不安を、死亡の怖れと混同してはならない。それは個々人のありふれた偶然の『弱気』ではなく、現存在の根本的心境であり、実に、現存在がおのれの終末《へ臨む》被投的存在として実存していることの開示されたありさまにほかならないのである」(ハイデッガー「存在と時間・下・第二篇・第一章・第五〇節・P.60~62」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(3)「日常的な相互存在の公開性は、死のことを、たえず発生する災難として、『死亡例』として、『承知している』。あれこれの近親者や縁類の人が『死ぬ』。未見の人びとならば、毎日、毎時間『死んでいく』。『死』は、世界の内部で起こる当り前の出来事である。かようなものとして、それは日常的に接するものごとの特色をなす目立たなさのうちにとどまっている。そして世間はまた、この出来事にそなえて、すでにひとつの解釈を用意している。死について口にだして、あるいはたいていは言葉をはばかるようにして、世間が『洩らす』話の趣旨は、《ひとはいつかはきっと死ぬ、しかし当分は、自分の番ではない》ということなのである。この《ひとは死ぬ》を分析してみると、死へ臨む日常的な存在のありかたが、まぎれもなくあらわになる。このような話のなかで、死は漠然と、やがてどこかからやってくるにちがいないなにかあるものとして、しかし当分は自分自身にとって《まだ実在的に存在していない》から心配にならないものとして、了解されている。《『ひと』は死ぬ》という話し方は、死はいわば世間の人の身の上に起こる《ひとごと》だという意見をひろめる。現存在の公開的解釈は、《ひとは死ぬ》と言う。それは、だれでも私にむかって、そして私も私自身にむかって、《ひともあろうにこの私ではない》と安心させるためなのである。けだし、この《ひと》とは、《だれでもない》世間のことだからである。『死ぬ』こと、死へ臨んでいることは、現存在へふりかかってはくるが、しかし取り立ててだれにぞくするというのでもないたんなる出来事へならされてしまう。およそ曖昧さが世間話につきものであるとすれば、死についてのこの話こそは、その最たるものである。死に臨んでいることは、本質上、代理不可能な私の存在であるのに、それが本来の意味に反して、公開的に出現して世間に出会う事件へ錯倒される。ここで性格づけられた話では、死はたえず発生する『事例』として話題にされる。その話は、死を、いつもすでに『現実的なもの』として言いふらし、可能性としての死の性格をつつみかくし、そしてこれと同時に、死にそなわるふたつの契機ーーー係累のなさと、追い越すことの不可能さーーーを蔽ってしまう。このような曖昧さによって、現存在はひとごとでない自己にそなわる際立った存在可能に面しながら、自己を世間のうちに紛らわすことができるようになる。世間は《死へ臨むひとごとでない存在》をおのれに隠すことを正当化し、そしてその隠蔽への《誘惑》を深めるのである。死へ臨んでそれを隠しながら回避することは、日常生活を根づよく支配する態度である。それで、相互存在のなかでは、『近親者たち』がとりわけ『臨終の人』にむかって、彼は死なずに済んで、間もなくまた彼の配慮する世界の落ちついた日常性へもどってくるであろうと、なおも思いこませようとするのである。このような『心遣い』は、それで『臨終の人』を『慰めている』つもりなのである。しかしながら、それは実は、彼がひとごとでない彼自身の、係累のない存在可能性をいまわのきわまでつつみかくすのに加勢して、彼を現存在へ連れもどそうと努めているのである。世間はこのようにして、《死についてのたえまのない鎮静》を配慮する。けれども、実をいうと、この鎮静は、『臨終の人』のための気休めであるだけでなく、それにおとらず、『慰め役』にとっても気休めなのである。そしてだれかが死亡した場合にさえ、公開性は自分が配慮している屈託のなさが、この事件のためにかき乱されたり動揺させられたりすることがないように取りはからうのである。ほかの人びとの臨死に接して、それを社会的に迷惑視したり、あるいはそれを当人の不始末とみなしたりして、公開性にそのような迷惑や不始末をかけたことを非難することさえ稀ではないのは、そのためである。しかし世間は、このような鎮静を与えて現存在をおのれの死から遠ざけるだけでなく、そもそも《ひと》はいかに死に対処すべきかという点についても暗黙の規制を加えることによって、権威と声望を身につける。公開的にみれば、『死のことを考える』だけでも、すでに臆病な恐怖心、生活の自信のなさ、陰気な現実逃避とみなされる。《世間は、『死へ臨む不安』への勇気が湧くのを抑える》。世間の公開的な既成解釈は、その支配権によって、われわれが死へ臨んで態度を取るべき心境についても、すでに裁決をくだしている。死へ臨む不安のなかでは、現存在は、追い越すことのできない可能性へ引き渡されたものとしてのおのれ自身の前へひきだされる。ところが世間はこの不安を逆転して、襲ってくる出来事に対する怖れとすりかえるように工夫する。こうして不安を怖れとして紛らわした上で、世間は、それを、自信にみちた現存在のいさぎよしとしない弱気だと言いふらす。世間の無言の布告によって『然るべき事』としてふれられることは、《ひとは死ぬ》という《事実》に対する平然たる無関心である。しかるに、かように『超然たる』無関心の養成によって、現存在はおのれのひとごとでない、係累のない存在可能から《疎外》されるのである」(ハイデッガー「存在と時間・下・第二篇・第一章・第五一節・P.65~68」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(4)「ひとは確実な死を《気にしており》、しかもそれを本来的に確承して《いない》。現存在の頽落的日常性は、死の確実性を《知って》いるけれども、それをおのれの《存在》においてたしかめることを避けている。しかしながら、この逃避は、それが何に臨んでたじろぐのかという点に着目するならば、死はひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない、《確実な》可能性として把握されなくてはならない、ということを、現象的に証拠だてるものなのである。《死はたしかにやって来る、しかし、いますぐというわけではない》と、ひとは言う。この《しかし》によって、世間は死が確実であることを打ち消す。《いますぐというわけではない》は、たんに否定的な言明ではなく、世間はそこにひとつの自己解釈を含めているのである。すなわち、世間は死にこの解釈を与えながら、自分を──まだ自分の手に入るもの、まだ自分が従事することのできるもののところへ差し向けているのである。日常性は急用の配慮へひとを急き立て、張り合いのない《無為な死の想念》を厄介払いする。死は《そのうちまたーーー》へあと廻しにされ、しかもそのさい、いわゆる《大方の見積もり》が頼みにされる。こうして世間は、死の確実さの特異な性格、すなわち、《死はいかなる瞬間にも可能である》ということを、蔽いかくしてしまう」(ハイデッガー「存在と時間・下・第二篇・第一章・第五二節・P.75~76」ちくま学芸文庫 一九九四年)
校長は生物の死生観について語って聞かせた上で「実は相談だが」と死亡承諾書を取り出して豚にいう。
「『ここの処へただちょっとお前の前肢(まえあし)の爪印(つめいん)を、一つ押しておいて貰いたい。それだけのことだ』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.189』新潮文庫 一九八九年)
なるほど<それだけのこと>には違いない。たった<それだけのこと>でしかない。豚は突きつけられた証書に目を通してみる。文章を読むうちに恐怖がせり上がってきた。
「<この世はほんとうにつらいつらい、本当に苦の世界なのだ>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.192』新潮文庫 一九八九年)
以後、豚はますます食欲不振に陥った。ひどく痩せてきた。このままでは農学校の教材にならないと判断した教師は「肥育器」を用いて「強制肥育」するよう生徒たちに命じた。当時の方法が少し描写されている。
「『飼料をどしどし押し込んで呉れ。麦のふすまを二升とね、阿麻仁(あまに)を二合、それから玉蜀黍(とうもろこし)の粉を、五合を水でこねて、団子にこさえて一日に、二度か三度ぐらいに分けて、肥育器にかけて呉れ給(たま)え』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.194』新潮文庫 一九八九年)
さらに。
「教師はバケツの中のものを、ズック管の端の漏斗(じょうご)に移して、それから変な螺旋(らせん)を使い食物を豚の胃に送る。豚はいくら呑(の)むまいとしても、どうしても咽喉で負けてしまい、その練ったものが胃の中に、入ってだんだん腹が重くなる」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.197』新潮文庫 一九八九年)
その間にしょげかえっている豚に向かい再び校長が死亡承諾書を突き付けた。怯えきっている豚は「短い前の右肢(あし)を、きくっと挙げてそれからピタリと印をお」した。
「<いよいよ明日だ、それがあの、証書の死亡ということか。いよいよ明日だ、明日なんだ。一体どんな事だろう、つらいつらい>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.199』新潮文庫 一九八九年)
その間、生徒たちは代わる代わる覗きにやって来ていろいろと品評する。豚は「ひとのからだを桝(ます)ではかる」など「あんまりひどい」と七日間、夜通しずっと泣きつづけた。そして処理・解体実習の当日。フランドンの豚は自分の一生を振り返る。
「豚はもう眼もあけず頭がしんしん鳴り出した。ヨークシャイヤの一生の間のいろいろな恐(おそ)ろしい記憶(きおく)が、まるきり廻(まわ)り燈籠(どうろう)のように、明るくなったり暗くなったり、頭の中を過ぎて行く。さまざまな恐ろしい物音を聞く。それは豚の外で鳴ってるのか、あるいは豚の中で鳴ってるのか、それさえわからなくなった」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.201』新潮文庫 一九八九年)
この箇所で、「さまざまな恐ろしい物音を聞く。それは豚の外で鳴ってるのか、あるいは豚の中で鳴ってるのか、それさえわからな」い、とある。読者から見て、記憶を回想しているのは豚で間違いない。だが恐怖を伴うその<音>について、「豚の外で鳴ってるのか、あるいは豚の中で鳴ってるのか、それさえわからな」いというのは作者=賢治の印象である。この目線移動は一見して不可解に思える。しかしなぜ不可解に思えるのだろうか。それは書き手の目線が突如として極微な微粒子の流動にまで及んでいるからである。そこまで極微的なレベルへ目線が移動するとどんな動植物であってもそれぞれの区別は消滅してしまい、ただ、ありとあらゆるものの<流動>のみが流れていくばかりの世界へ入っていくほかない。
「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫 一九九四年)
八つの部分に解体され厩舎の後ろに積み上がられ雪の中で冷凍される豚。すっかり澄み渡った夜空に星が輝いている。そこで賢治は改行し直した上でこう書く。
「さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つまたく光る弦月(げんげつ)が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗われて、八きれになって埋(うず)まった」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.202~203』新潮文庫 一九八九年)
この箇所だけがそれまでの文面とは大変異なっており明らかに異質に思える。なぜだろう。フランドン農学校の豚はこの時、その光景を照らし出している月光と同様、ただひたすら一方的に<贈り与えるもの>=<贈与>へ転倒したからである。死が<贈与>を意味する場合、もはや再び擬人化することは許されない。だが逆に死なない場合、例えば太陽がそうであるような場合、一方的に贈り与えるばかりの場合、擬人化することはもちろん可能なのだが。ともかく、少し前に引用した箇所を幾つか振り返ってみよう。
(a)「<とにかくあいつら二人は、おれにたべものはよこすが、時々まるで北極の、空のような眼をして、おれのからだをじっと見る、実に何ともたまらない、とりつきばもないようなきびしいこころで、これのことを考えている、そのことは恐(こわ)い、ああ、恐い>」
(b)「<承諾書というのは、何の承諾書だろう何を一体しろと云うのだ。やる前の日には、なんにも飼料をやっちゃいけない、やる前の日って何だろう。一体何をされるんだろう。どこか遠くへ売られるのか。ああこれはつらいつらい>」
(c)「<厚さ一寸の脂肪の外套、おお恐い、ひとのからだをまるで観透(みとお)してるおお恐い。恐い。けれども一体おれと葱と、何の関係があるのだろう。ああつらいなあ>」
これらは(1)「よだかの星」の<よだか>、(2)「猫の事務所」の<かま猫>、(3)「銀河鉄道の夜」の<ジョバンニ>、(4)「なめとこ山の熊」の<熊>、(5)「祭の晩」の<山男>などに与えられ等しく背負った立場と同じものだ。
(1)「一たい僕(ぼく)は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂(さ)けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊(ぼう)のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ」(宮沢賢治「よだかの星」『銀河鉄道の夜・P.33~34』新潮文庫 一九八九年)
(2)「そしておひるになりました。<かま猫>は、持って来た弁当も喰(た)べず、じっと膝(ひざ)に手を置いてうつむいて居りました。とうとうひるすぎの一時から、<かま猫>はしくしく泣きはじめました。そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしたのです。それでもみんなはそんなこと、一向知らないというように面白(おもしろ)そうに仕事をしていました」(宮沢賢治「猫の事務所」『銀河鉄道の夜・P.135』新潮文庫 一九八九年)
(3)「<どうして僕(ぼく)はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向うにはまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ>。ジョバンニハ熱(ほて)って痛いあたまを両手で押(おさ)えるようにしてそっちの方を見ました。<ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談(はな)しているし僕はほんとうにつらいなあ>。ジョバンニの眼はまた泪(なみだ)でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く見えるだけでした」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」『銀河鉄道の夜・P.204』新潮文庫 一九八九年)
(4)「『もう二年ばかり待って呉(く)れ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事があるしただ二年だけ待ってくれ。二年目ならおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋(いぶくろ)もやってしまうから』。小十郎は変な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全体地面につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるという風でうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせかなが木の枝(えだ)の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。それから丁度二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒(たお)れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。丁度二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした」(宮沢賢治「なめとこ山の熊」『注文の多い料理店・P.351』新潮文庫 一九九〇年)
(5)「その時、表の方で、どしんがらがらがらっと言う大きな音がして、家が地震の時のようにゆれました。亮二は思わずお爺さんにすがりつきました。お爺さんは少し顔色を変えて、急いでラムプを持って外に出ました。亮二もついて行きました。ラムプは風のためにすぐ消えてしまいました。その代り、東の黒い山から、大きな十八日の月が静かに登って来たのです。見ると家の前の広場には、太い薪が山のように投げ出されてありました。太い根や枝までついた、ぼりぼりに折られた太い薪でした。お爺さんはしばらく呆(あき)れたように、それをながめていましたが、俄かに手を叩(たた)いて笑いました。『はっはっは、山男が薪をお前に持って来て呉れたのだ。俺(おれ)はまたさっきの団子屋にやるという事だろうと思っていた。山男もずいぶん賢いもんだな』。亮二は薪をよく見ようとして、一足そっちへ進みましたが、忽(たちま)ち何かに滑ってころびました。見るとそこらいちめん、きらきらきらきらする栗の実でした。亮二は起きあがって叫びました。『おじいさん、山男は栗も持って来たよ』。お爺さんもびっくりして言いました。『栗まで持って来たのか。こんなに貰(もら)うわけには行かない。今度何か山へ持って行って置いて来よう。一番着物がよかろうな』。亮二はなんだか、山男がかあいそうで、泣きたいようなへんな気持になりました。『おじいさん。山男はあんまり正直でかあいそうだ。僕何かいいものをやりたいな』。『うん、今度夜具(やぐ)を一枚持って行ってやろう。山男は夜具を綿入の代りに着るかもしれない。それから団子(だんご)も持って行こう』。亮二は叫びました。『着物と団子だけじゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉(うれ)しがって泣いてぐるぐるまわって、それから、からだが天に飛んでしまう位いいものをやりたいなあ』」(宮沢賢治「祭の晩」『風の又三郎・P.243~244』新潮文庫 一九八九年)
法華経主義者としての賢治はそれぞれの場所で最も虐げられている孤独な存在者の言動の中に如来的実践(菩薩的無償性)を見い出したのである。だがしかしこの種の贈与は途轍もない困難を伴う。ニーチェはいう。
「そこでおまえは学んだのだ。ーーー正しく与えることは、正しく受けるよりも、むずかしいということを。また、よく贈るということは、一つの《技術》であり、善意の究極の離れ業(わざ)、狡知(こうち)をきわめる巨匠の芸であることを」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第四部・進んでなった乞食(こじき)・P.433」中公文庫 一九七三年)
ゆえに宮沢賢治は妹トシ子の死に際してすらこう書いた。
「<みんなむかしからのきやうだいなのだから けつしてひとりをいのつてはいけない> ああ わたくしはけつしてさうしませんでした あいつがなくなつてからあとのよるひる わたくしはただの一どたりと あいつだけがいいとこに行けばいいと さういのりはしなかつたとおもひます」(宮沢賢治「春と修羅・青森挽歌」『宮沢賢治詩集・P.115』新潮文庫 一九九〇年)
たった一人の理解者であり献身的ですらあった妹トシ子の死に際してさえ、トシ子<一人だけ>が浄土=天上へ行けるようにと特別扱いすることを自分自身に厳しく戒めたのである。
BGM1
BGM2
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「『すいぶん豚というものは、奇体(きたい)なことになっている。水やスリッパや藁(わら)をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる。豚のからだはまあたとえば生きた一つの触媒(しょくばい)だ。白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機体では豚なのだ』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.179~180』新潮文庫 一九八九年)
もっとも、「触媒(しょくばい)」という場合正しくは、それそのものは変化せず、或るものと他のものとの<あいだ>に立って両者に化学的変化を起こさせる物質を指す。ところが豚は豚の身体も同時に化学変化するため<媒介するもの>として考える方が正しい。その意味で豚は<生きたヘーゲル弁証法>と極めて似るのである。ヘーゲルから八箇所拾っておこう。
(1)「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.246~247」岩波文庫 一九五一年)
(2)「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.248~249」岩波文庫 一九五一年)
(3)「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある。というのは、この否定的なものは、それを成果として生み出したものを揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しないからである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.251」岩波文庫 一九五一年)
(3)「生あるものは死ぬ。しかもそれは、生あるものが生あるものとして自分自身のうちに死の萌芽を担っているからにほかならない」(ヘーゲル「小論理学・上・P.286」岩波文庫)
(4)「或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして《限りなく》続いていく」(ヘーゲル「小論理学・上・九三・P.286」岩波文庫 一九五一年)
(5)「エレア派において思想は自分みずからを自由に相手とし、エレア派が絶対実在だと言明するもののうちで、思想は自己を純粋に把握し、思想が概念のうちを運動する。ここに、弁証法のはじまりが、すなわち、概念における思考の純粋運動のはじまりが見られます。と同時に、思考が現象ないし感覚的存在と対立し、さらには、内部から見た自己と他者との関係のなかでの自己が対立し、自己のもとにある矛盾が対象のもとにもあらわれてくる(それが弁証法の本来のすがたです)」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.322」河出文庫 二〇一六年)
(6)「一般に弁証法といえば、(a)外的弁証法ーーー事柄の運動の総体とは区別される観察者の運動ーーーと、(b)たんなる外からの洞察の運動ではなく、事柄そのものの本質、つまり、内容の純粋概念に導かれた運動とがあります。前者は、対象を観察した上で、これまで確実なことと見なされていた一切をぐらつかせるような根拠や側面を提示する方法です。その場合、根拠はまったく外的なものでもさしつかえなく、わたしたちは、ソフィストの哲学をあつかうさいに、この弁証法についてくわしく論じることになるはずです。もう一つの弁証法は、対象のなかにはいって観察するもので、対象は、前提や理念や当為ぬきに、外的な関係や法則や根拠からではなく、それだけで取りあげられます。観察者は事柄そのもののまっただなかに飛びこみ、対象を対象に即して観察し、対象のもつ内容に従って対象をとらえる。この観察においては、対象みずからが、対立する内容をもち、したがって廃棄されていくことをあらわにします。この弁証法は古代にとりわけよく見られます。外的な根拠にもとづいて推論する主観的な弁証法は、『正のうちには不正もあり、偽のうちには真もある』といったことを認める上ではそれなりの意味がある。が、真の弁証法は、対象が一面からして欠陥があるといった中途半端にとどまることなく、その本性の全体からして対象を解体します」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.355」河出文庫 二〇一六年)
(7)「弁証法が最初に運動にかんして成立したことについては、その理由として、弁証法そのものが運動であること、いいかえれば、運動そのものがあらゆる存在の弁証法であることがあげられます。事物は運動するものとして自分のもとに弁証法をもっており、そして運動とは、べつのものになること、自分を廃棄していくことです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.357」河出文庫 二〇一六年)
(8)「矛盾は運動においてもっとも明瞭に示される。運動では、対立するものが目の前にあらわれるからです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.359~360」河出文庫 二〇一六年)
フランドン農学校の豚(ヨークシャイヤ)は或る日、「ラクダ印の歯磨楊枝(はみがきようじ)」を目にする。豚は思う。すでに擬人化されている。
「豚は実にぎょっとした。一体、その楊枝の毛を見ると、自分のからだ中の毛が、風に吹(ふ)かれた草のよう、ザラッザラッと鳴ったのだ。豚は実に永い間、変な顔をして、眺めていたが、とうとう頭がくらくらして、いやないやな気分になった」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.181』新潮文庫 一九八九年)
ここで作者=賢治が顔を覗かせてふと語る。
「さればまことに豚の心もちをわかるには、豚になって見るより致(いた)し方ない」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.181』新潮文庫 一九八九年)
ニーチェもまたこういっている。
「互いに理解し合うためには、同じ言葉を用いるだけではなお十分でない。同じ種類の内的体験に対しても同じ言葉を用いなければならない。結局、互いに《共通の》体験をもたなければならない」(ニーチェ「善悪の彼岸・二六八・P.285」岩波文庫 一九七〇年)
畜産学教師は毎日この豚の様子を見に来る。そしていう。
「『も少しきちんと窓をしめて、室中(へやじゅう)暗くしなくては、脂(あぶら)がうまくかからんじゃないか。それにもうそろそろと肥育をやってもよかろうな、毎日阿麻仁(あまに)を少しずつやって置いて呉(く)れないか』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.182』新潮文庫 一九八九年)
その言葉をすっかり聞いた豚はへこんでしまい急速に食欲が減退する。そしてこう思う。
「<とにかくあいつら二人は、おれにたべものはよこすが、時々まるで北極の、空のような眼をして、おれのからだをじっと見る、実に何ともたまらない、とりつきばもないようなきびしいこころで、これのことを考えている、そのことは恐(こわ)い、ああ、恐い>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.182』新潮文庫 一九八九年)
ところが屠殺の日の前月、その「国の王」が奇妙な布告を出した。内容は次のとおり。
「それは家畜撲殺(ぼくさつ)同意調印法といい、誰(たれ)でも、家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡承諾書(しょうだくしょ)を受け取ること、又その承諾証書には家畜の調印を要すると、こう云う布告だった」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.182』新潮文庫 一九八九年)
近代社会の始まりとともに<人権>という概念も入ってくる。労働力維持とその増殖のため当然、資本主義は<人権>を必要とし、また<人権>がなければ延命していけないからだが。しかしなおさら豚は不安に陥りこう思う。人間社会の雇用形態でいう「契約」のことだ。
「<承諾書というのは、何の承諾書だろう何を一体しろと云うのだ。やる前の日には、なんにも飼料をやっちゃいけない、やる前の日って何だろう。一体何をされるんだろう。どこか遠くへ売られるのか。ああこれはつらいつらい>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.185~186』新潮文庫 一九八九年)
数日後、三人の生徒たちが何気なく会話しているのを豚は聞いた。会話はこうだ。
「『豚のやつは暖かそうだ』。一人が斯う答えたら三人共どっとふき出しました。『豚のやつは脂肪でできた、厚さ一寸の外套(がいとう)を着てるんだもの、暖かいさ』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.186』新潮文庫 一九八九年)
豚はたちまち息苦しさを覚えてこう思う。
「<厚さ一寸の脂肪の外套、おお恐い、ひとのからだをまるで観透(みとお)してるおお恐い。恐い。けれども一体おれと葱と、何の関係があるのだろう。ああつらいなあ>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.187』新潮文庫 一九八九年)
そう思って深い孤独の中で一人ふるえている豚。死亡承諾書の調印を得るため農学校の校長がやって来た。前に一度やって来たがその時は豚も校長もただ黙って<しいん>とにらみ合っているだけだった。しかし今度、校長は豚に向かってこんなことを話して聞かせる。
「『実はね、この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんのだ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ。人間の中の貴族でも、金持でも、又私のような、中産階級でも、それからごくつまらない乞食(こじき)でもね。ーーーまた人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏(にわとり)でも、なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣(かげろう)のごときはあしたに生れ、夕(ゆうべ)に死する、ただ一日の命なのだ。みんな死ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬにきまってる』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.187~188』新潮文庫 一九八九年)
仏教思想のように聞こえる。諦めるしかない。したがって黙って印鑑を押せばよいのだというふうに聞こえはする。だが校長が語る<死>は少し条件が異なっている。豚にしろ人間にしろいつかは死ななければならない。一時的に代理を立てることはできてもいつか必ずやって来る自分固有の死は避けられない。いずれにせよ<それぞれ各自の死>は不可避であるというハイデッガーの思想に近似している。四箇所引いてみる。
(1)「しかしながら、現存在が終末に至ることを形成する存在可能性、そしてかようなものとして現存在にその全さを与える存在可能性が問題になる場合には、この代理可能性は全面的に挫折する。《だれも相手からその人の死を引きとることができない》。なるほど、だれかが『ほかの人の身替わりになって死地におもむく』ということはできる。しかしこのことは、どこまでも、『ある特定の任務のために』相手に代わって自分を犠牲にするということなのである。このような『身替わりの死』は、それによって相手からその人自身の死をいささかでも引きとることを決して意味しえない。死ぬことは、おのおのの現存在がいずれは各自で引きうけなくてはならないことなのである。死というものが《存在する》とすれば、それは本質上、各自私の死として存在するのである」(ハイデッガー「存在と時間・下・第二篇・第一章・第四七節・P.39~40」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「死とは、現存在がいつもみずから引き受けなくてはならない存在可能性である。死においては、現存在自身がひとごとでない自己の存在可能において現存在に差し迫っているのである。この可能性においては、現存在は端的におのれの世界=内=存在そのものに関わらせられている。おのれの死とは、とりもなおさず、もはや現に存在しえなくなることの可能性である。現存在がこのようなおのれ自身の可能性として現存在自身に差し迫ってくるとき、現存在は《ひたすら》、ひとごとでない自己の存在可能へ指し向けられている。現存在がこのようなありさまでおのれ自身に差し迫るとき、現存在においてほかの現存在へのあらゆる連絡が解かれてしまう。このひとごとでない可能性は、《係累のない》可能性である。そして、それは同時に、もっとも極端な可能性でもある。存在可能として、現存在は死の可能性を追い越すことができない。死は、現存在が絶対に不可能になることの可能性だからである。このようにして、《死とは、ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない可能性》であることがあらわになった。かような可能性として、死は《際立った意味で》差し迫っているものである。このことの実存論的な可能性は、現存在が本質上おのれ自身に開示されていること、しかも《おのれに先立って》というありさまで開示されていることにもとづいている。関心にそなわっているこの構造契機が、死へ臨む存在においてそのもっとも根源的な具体化を得たのである。《終末へ臨む存在》は、以上に性格づけたような際立った現存在の可能性へ臨む存在として、現象的にいっそう明瞭な姿をとってくる。さて、ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできないこの可能性は、現存在が自己の存在の経過中に時折追加的に身につけるというようなものではない。そうではなくて、現存在が実存するとすれば、それはすでにはじめからこの可能性のなかへ《投げられて》いるのである。自分が死へ引き渡されていること、したがって死が世界=内=存在にぞくしていることについて、現存在はさしあたってたいていは、はっきりと知らずにおり、まして理論的な知識などをもたずにいる。しかし、死のなかへ投げられていることは、知識よりももっと根源的に、もっと痛切に、《不安の心境において》現存在にあらわになるのである。死へ臨む不安は、ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない存在可能を『目前に控えた』不安である。この不安が何に臨む不安であるかというと、それは世界=内=存在そのものに臨む不安である。それが何を案ずるゆえの不安であるかというと、それは端的に現存在そのものの存在可能を案ずるゆえの不安である。この死へ臨む不安を、死亡の怖れと混同してはならない。それは個々人のありふれた偶然の『弱気』ではなく、現存在の根本的心境であり、実に、現存在がおのれの終末《へ臨む》被投的存在として実存していることの開示されたありさまにほかならないのである」(ハイデッガー「存在と時間・下・第二篇・第一章・第五〇節・P.60~62」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(3)「日常的な相互存在の公開性は、死のことを、たえず発生する災難として、『死亡例』として、『承知している』。あれこれの近親者や縁類の人が『死ぬ』。未見の人びとならば、毎日、毎時間『死んでいく』。『死』は、世界の内部で起こる当り前の出来事である。かようなものとして、それは日常的に接するものごとの特色をなす目立たなさのうちにとどまっている。そして世間はまた、この出来事にそなえて、すでにひとつの解釈を用意している。死について口にだして、あるいはたいていは言葉をはばかるようにして、世間が『洩らす』話の趣旨は、《ひとはいつかはきっと死ぬ、しかし当分は、自分の番ではない》ということなのである。この《ひとは死ぬ》を分析してみると、死へ臨む日常的な存在のありかたが、まぎれもなくあらわになる。このような話のなかで、死は漠然と、やがてどこかからやってくるにちがいないなにかあるものとして、しかし当分は自分自身にとって《まだ実在的に存在していない》から心配にならないものとして、了解されている。《『ひと』は死ぬ》という話し方は、死はいわば世間の人の身の上に起こる《ひとごと》だという意見をひろめる。現存在の公開的解釈は、《ひとは死ぬ》と言う。それは、だれでも私にむかって、そして私も私自身にむかって、《ひともあろうにこの私ではない》と安心させるためなのである。けだし、この《ひと》とは、《だれでもない》世間のことだからである。『死ぬ』こと、死へ臨んでいることは、現存在へふりかかってはくるが、しかし取り立ててだれにぞくするというのでもないたんなる出来事へならされてしまう。およそ曖昧さが世間話につきものであるとすれば、死についてのこの話こそは、その最たるものである。死に臨んでいることは、本質上、代理不可能な私の存在であるのに、それが本来の意味に反して、公開的に出現して世間に出会う事件へ錯倒される。ここで性格づけられた話では、死はたえず発生する『事例』として話題にされる。その話は、死を、いつもすでに『現実的なもの』として言いふらし、可能性としての死の性格をつつみかくし、そしてこれと同時に、死にそなわるふたつの契機ーーー係累のなさと、追い越すことの不可能さーーーを蔽ってしまう。このような曖昧さによって、現存在はひとごとでない自己にそなわる際立った存在可能に面しながら、自己を世間のうちに紛らわすことができるようになる。世間は《死へ臨むひとごとでない存在》をおのれに隠すことを正当化し、そしてその隠蔽への《誘惑》を深めるのである。死へ臨んでそれを隠しながら回避することは、日常生活を根づよく支配する態度である。それで、相互存在のなかでは、『近親者たち』がとりわけ『臨終の人』にむかって、彼は死なずに済んで、間もなくまた彼の配慮する世界の落ちついた日常性へもどってくるであろうと、なおも思いこませようとするのである。このような『心遣い』は、それで『臨終の人』を『慰めている』つもりなのである。しかしながら、それは実は、彼がひとごとでない彼自身の、係累のない存在可能性をいまわのきわまでつつみかくすのに加勢して、彼を現存在へ連れもどそうと努めているのである。世間はこのようにして、《死についてのたえまのない鎮静》を配慮する。けれども、実をいうと、この鎮静は、『臨終の人』のための気休めであるだけでなく、それにおとらず、『慰め役』にとっても気休めなのである。そしてだれかが死亡した場合にさえ、公開性は自分が配慮している屈託のなさが、この事件のためにかき乱されたり動揺させられたりすることがないように取りはからうのである。ほかの人びとの臨死に接して、それを社会的に迷惑視したり、あるいはそれを当人の不始末とみなしたりして、公開性にそのような迷惑や不始末をかけたことを非難することさえ稀ではないのは、そのためである。しかし世間は、このような鎮静を与えて現存在をおのれの死から遠ざけるだけでなく、そもそも《ひと》はいかに死に対処すべきかという点についても暗黙の規制を加えることによって、権威と声望を身につける。公開的にみれば、『死のことを考える』だけでも、すでに臆病な恐怖心、生活の自信のなさ、陰気な現実逃避とみなされる。《世間は、『死へ臨む不安』への勇気が湧くのを抑える》。世間の公開的な既成解釈は、その支配権によって、われわれが死へ臨んで態度を取るべき心境についても、すでに裁決をくだしている。死へ臨む不安のなかでは、現存在は、追い越すことのできない可能性へ引き渡されたものとしてのおのれ自身の前へひきだされる。ところが世間はこの不安を逆転して、襲ってくる出来事に対する怖れとすりかえるように工夫する。こうして不安を怖れとして紛らわした上で、世間は、それを、自信にみちた現存在のいさぎよしとしない弱気だと言いふらす。世間の無言の布告によって『然るべき事』としてふれられることは、《ひとは死ぬ》という《事実》に対する平然たる無関心である。しかるに、かように『超然たる』無関心の養成によって、現存在はおのれのひとごとでない、係累のない存在可能から《疎外》されるのである」(ハイデッガー「存在と時間・下・第二篇・第一章・第五一節・P.65~68」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(4)「ひとは確実な死を《気にしており》、しかもそれを本来的に確承して《いない》。現存在の頽落的日常性は、死の確実性を《知って》いるけれども、それをおのれの《存在》においてたしかめることを避けている。しかしながら、この逃避は、それが何に臨んでたじろぐのかという点に着目するならば、死はひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない、《確実な》可能性として把握されなくてはならない、ということを、現象的に証拠だてるものなのである。《死はたしかにやって来る、しかし、いますぐというわけではない》と、ひとは言う。この《しかし》によって、世間は死が確実であることを打ち消す。《いますぐというわけではない》は、たんに否定的な言明ではなく、世間はそこにひとつの自己解釈を含めているのである。すなわち、世間は死にこの解釈を与えながら、自分を──まだ自分の手に入るもの、まだ自分が従事することのできるもののところへ差し向けているのである。日常性は急用の配慮へひとを急き立て、張り合いのない《無為な死の想念》を厄介払いする。死は《そのうちまたーーー》へあと廻しにされ、しかもそのさい、いわゆる《大方の見積もり》が頼みにされる。こうして世間は、死の確実さの特異な性格、すなわち、《死はいかなる瞬間にも可能である》ということを、蔽いかくしてしまう」(ハイデッガー「存在と時間・下・第二篇・第一章・第五二節・P.75~76」ちくま学芸文庫 一九九四年)
校長は生物の死生観について語って聞かせた上で「実は相談だが」と死亡承諾書を取り出して豚にいう。
「『ここの処へただちょっとお前の前肢(まえあし)の爪印(つめいん)を、一つ押しておいて貰いたい。それだけのことだ』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.189』新潮文庫 一九八九年)
なるほど<それだけのこと>には違いない。たった<それだけのこと>でしかない。豚は突きつけられた証書に目を通してみる。文章を読むうちに恐怖がせり上がってきた。
「<この世はほんとうにつらいつらい、本当に苦の世界なのだ>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.192』新潮文庫 一九八九年)
以後、豚はますます食欲不振に陥った。ひどく痩せてきた。このままでは農学校の教材にならないと判断した教師は「肥育器」を用いて「強制肥育」するよう生徒たちに命じた。当時の方法が少し描写されている。
「『飼料をどしどし押し込んで呉れ。麦のふすまを二升とね、阿麻仁(あまに)を二合、それから玉蜀黍(とうもろこし)の粉を、五合を水でこねて、団子にこさえて一日に、二度か三度ぐらいに分けて、肥育器にかけて呉れ給(たま)え』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.194』新潮文庫 一九八九年)
さらに。
「教師はバケツの中のものを、ズック管の端の漏斗(じょうご)に移して、それから変な螺旋(らせん)を使い食物を豚の胃に送る。豚はいくら呑(の)むまいとしても、どうしても咽喉で負けてしまい、その練ったものが胃の中に、入ってだんだん腹が重くなる」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.197』新潮文庫 一九八九年)
その間にしょげかえっている豚に向かい再び校長が死亡承諾書を突き付けた。怯えきっている豚は「短い前の右肢(あし)を、きくっと挙げてそれからピタリと印をお」した。
「<いよいよ明日だ、それがあの、証書の死亡ということか。いよいよ明日だ、明日なんだ。一体どんな事だろう、つらいつらい>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.199』新潮文庫 一九八九年)
その間、生徒たちは代わる代わる覗きにやって来ていろいろと品評する。豚は「ひとのからだを桝(ます)ではかる」など「あんまりひどい」と七日間、夜通しずっと泣きつづけた。そして処理・解体実習の当日。フランドンの豚は自分の一生を振り返る。
「豚はもう眼もあけず頭がしんしん鳴り出した。ヨークシャイヤの一生の間のいろいろな恐(おそ)ろしい記憶(きおく)が、まるきり廻(まわ)り燈籠(どうろう)のように、明るくなったり暗くなったり、頭の中を過ぎて行く。さまざまな恐ろしい物音を聞く。それは豚の外で鳴ってるのか、あるいは豚の中で鳴ってるのか、それさえわからなくなった」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.201』新潮文庫 一九八九年)
この箇所で、「さまざまな恐ろしい物音を聞く。それは豚の外で鳴ってるのか、あるいは豚の中で鳴ってるのか、それさえわからな」い、とある。読者から見て、記憶を回想しているのは豚で間違いない。だが恐怖を伴うその<音>について、「豚の外で鳴ってるのか、あるいは豚の中で鳴ってるのか、それさえわからな」いというのは作者=賢治の印象である。この目線移動は一見して不可解に思える。しかしなぜ不可解に思えるのだろうか。それは書き手の目線が突如として極微な微粒子の流動にまで及んでいるからである。そこまで極微的なレベルへ目線が移動するとどんな動植物であってもそれぞれの区別は消滅してしまい、ただ、ありとあらゆるものの<流動>のみが流れていくばかりの世界へ入っていくほかない。
「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫 一九九四年)
八つの部分に解体され厩舎の後ろに積み上がられ雪の中で冷凍される豚。すっかり澄み渡った夜空に星が輝いている。そこで賢治は改行し直した上でこう書く。
「さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つまたく光る弦月(げんげつ)が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗われて、八きれになって埋(うず)まった」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.202~203』新潮文庫 一九八九年)
この箇所だけがそれまでの文面とは大変異なっており明らかに異質に思える。なぜだろう。フランドン農学校の豚はこの時、その光景を照らし出している月光と同様、ただひたすら一方的に<贈り与えるもの>=<贈与>へ転倒したからである。死が<贈与>を意味する場合、もはや再び擬人化することは許されない。だが逆に死なない場合、例えば太陽がそうであるような場合、一方的に贈り与えるばかりの場合、擬人化することはもちろん可能なのだが。ともかく、少し前に引用した箇所を幾つか振り返ってみよう。
(a)「<とにかくあいつら二人は、おれにたべものはよこすが、時々まるで北極の、空のような眼をして、おれのからだをじっと見る、実に何ともたまらない、とりつきばもないようなきびしいこころで、これのことを考えている、そのことは恐(こわ)い、ああ、恐い>」
(b)「<承諾書というのは、何の承諾書だろう何を一体しろと云うのだ。やる前の日には、なんにも飼料をやっちゃいけない、やる前の日って何だろう。一体何をされるんだろう。どこか遠くへ売られるのか。ああこれはつらいつらい>」
(c)「<厚さ一寸の脂肪の外套、おお恐い、ひとのからだをまるで観透(みとお)してるおお恐い。恐い。けれども一体おれと葱と、何の関係があるのだろう。ああつらいなあ>」
これらは(1)「よだかの星」の<よだか>、(2)「猫の事務所」の<かま猫>、(3)「銀河鉄道の夜」の<ジョバンニ>、(4)「なめとこ山の熊」の<熊>、(5)「祭の晩」の<山男>などに与えられ等しく背負った立場と同じものだ。
(1)「一たい僕(ぼく)は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂(さ)けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊(ぼう)のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ」(宮沢賢治「よだかの星」『銀河鉄道の夜・P.33~34』新潮文庫 一九八九年)
(2)「そしておひるになりました。<かま猫>は、持って来た弁当も喰(た)べず、じっと膝(ひざ)に手を置いてうつむいて居りました。とうとうひるすぎの一時から、<かま猫>はしくしく泣きはじめました。そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしたのです。それでもみんなはそんなこと、一向知らないというように面白(おもしろ)そうに仕事をしていました」(宮沢賢治「猫の事務所」『銀河鉄道の夜・P.135』新潮文庫 一九八九年)
(3)「<どうして僕(ぼく)はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向うにはまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ>。ジョバンニハ熱(ほて)って痛いあたまを両手で押(おさ)えるようにしてそっちの方を見ました。<ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談(はな)しているし僕はほんとうにつらいなあ>。ジョバンニの眼はまた泪(なみだ)でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く見えるだけでした」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」『銀河鉄道の夜・P.204』新潮文庫 一九八九年)
(4)「『もう二年ばかり待って呉(く)れ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事があるしただ二年だけ待ってくれ。二年目ならおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋(いぶくろ)もやってしまうから』。小十郎は変な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全体地面につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるという風でうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせかなが木の枝(えだ)の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。それから丁度二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒(たお)れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。丁度二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした」(宮沢賢治「なめとこ山の熊」『注文の多い料理店・P.351』新潮文庫 一九九〇年)
(5)「その時、表の方で、どしんがらがらがらっと言う大きな音がして、家が地震の時のようにゆれました。亮二は思わずお爺さんにすがりつきました。お爺さんは少し顔色を変えて、急いでラムプを持って外に出ました。亮二もついて行きました。ラムプは風のためにすぐ消えてしまいました。その代り、東の黒い山から、大きな十八日の月が静かに登って来たのです。見ると家の前の広場には、太い薪が山のように投げ出されてありました。太い根や枝までついた、ぼりぼりに折られた太い薪でした。お爺さんはしばらく呆(あき)れたように、それをながめていましたが、俄かに手を叩(たた)いて笑いました。『はっはっは、山男が薪をお前に持って来て呉れたのだ。俺(おれ)はまたさっきの団子屋にやるという事だろうと思っていた。山男もずいぶん賢いもんだな』。亮二は薪をよく見ようとして、一足そっちへ進みましたが、忽(たちま)ち何かに滑ってころびました。見るとそこらいちめん、きらきらきらきらする栗の実でした。亮二は起きあがって叫びました。『おじいさん、山男は栗も持って来たよ』。お爺さんもびっくりして言いました。『栗まで持って来たのか。こんなに貰(もら)うわけには行かない。今度何か山へ持って行って置いて来よう。一番着物がよかろうな』。亮二はなんだか、山男がかあいそうで、泣きたいようなへんな気持になりました。『おじいさん。山男はあんまり正直でかあいそうだ。僕何かいいものをやりたいな』。『うん、今度夜具(やぐ)を一枚持って行ってやろう。山男は夜具を綿入の代りに着るかもしれない。それから団子(だんご)も持って行こう』。亮二は叫びました。『着物と団子だけじゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉(うれ)しがって泣いてぐるぐるまわって、それから、からだが天に飛んでしまう位いいものをやりたいなあ』」(宮沢賢治「祭の晩」『風の又三郎・P.243~244』新潮文庫 一九八九年)
法華経主義者としての賢治はそれぞれの場所で最も虐げられている孤独な存在者の言動の中に如来的実践(菩薩的無償性)を見い出したのである。だがしかしこの種の贈与は途轍もない困難を伴う。ニーチェはいう。
「そこでおまえは学んだのだ。ーーー正しく与えることは、正しく受けるよりも、むずかしいということを。また、よく贈るということは、一つの《技術》であり、善意の究極の離れ業(わざ)、狡知(こうち)をきわめる巨匠の芸であることを」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第四部・進んでなった乞食(こじき)・P.433」中公文庫 一九七三年)
ゆえに宮沢賢治は妹トシ子の死に際してすらこう書いた。
「<みんなむかしからのきやうだいなのだから けつしてひとりをいのつてはいけない> ああ わたくしはけつしてさうしませんでした あいつがなくなつてからあとのよるひる わたくしはただの一どたりと あいつだけがいいとこに行けばいいと さういのりはしなかつたとおもひます」(宮沢賢治「春と修羅・青森挽歌」『宮沢賢治詩集・P.115』新潮文庫 一九九〇年)
たった一人の理解者であり献身的ですらあった妹トシ子の死に際してさえ、トシ子<一人だけ>が浄土=天上へ行けるようにと特別扱いすることを自分自身に厳しく戒めたのである。
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