白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・蠍座への意志「よだかの星」

2021年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム
動物は<いじめ・差別・排除>など知りはしない。ところがそれらは擬人化されるや途方もない排除の構造が出現する。第一にそれは「容姿」に関わる。「よだか」の場合。

「ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合(ぐあい)でした。たとえば、ひばりも、あまり美しい鳥ではありませんが、よだかよりは、ずっと上だと思っていましたので、夕方など、よだかにあうと、さもさもいやそうに、しんねりと目をつぶりながら、首をそっ方(ぽ)へ向けるのでした。もっとちいさなおしゃべりの鳥などは、いつでもよだかのまっこうから悪口をしました。『ヘン。又(また)出て来たね。まあ、あのざまをごらん。ほんとうに、鳥の仲間のつらよごしだよ』。『ね、まあ、あのくちの大きいことさ。きっと、かえるの親類か何かなんだよ』」(宮沢賢治「よだかの星」『銀河鉄道の夜・P.31』新潮文庫 一九八九年)

比較しないことが大事だとはいえ、しかし例えば、何らの比較もなしに「百円」と「百万円」とを間違えることができるだろうか。できはしない。宝くじに当選したからといって「三百円」と「三億円」とを間違って受け取ることができるだろうか。できない。

また<よだか>という名の由来について。鷹はその権威ある立場からものをいう。<よだか>は<たか>と<夜>とを合体させた上で僭称しているに過ぎないわけだから「返す」ことができるはずだと鷹は主張する。シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)とは絶対的な繋がりを持つものでは決してなくむしろ置き換えることができるという前提がある。

「『おれの名なら、神さまから貰(もら)ったのだと云(い)ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ』」(宮沢賢治「よだかの星」『銀河鉄道の夜・P.32~33』新潮文庫 一九八九年)

さらに債権=債務関係が当り前のように前提されている。ニーチェはいう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)

<よだか>は一人苦悩し、つぶやく。そしてこのつぶやきは、マルクス「資本論」の冒頭で論じられる「価値形態論」と同じく、諸商品の無限の系列から唯一の商品が排除される「排除の構造」の<よだか>なりの言葉化である。

「一たい僕(ぼく)は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂(さ)けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊(ぼう)のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ」(宮沢賢治「よだかの星」『銀河鉄道の夜・P.33~34』新潮文庫 一九八九年)

排除された第三項はいつものように新しい「名」を与えられなければならない。それが<掟>だ。しかしそれにしても<よだか>自身、いったい何にそれほどまで苦悩しているのだろうか。

「かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓(う)えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの空の向うに行ってしまおう」(宮沢賢治「よだかの星」『銀河鉄道の夜・P.35』新潮文庫 一九八九年)

食物連鎖の中に組み込まれている自分自身の立場についてである。<よだか>の内面へ方向を置き換え、食い込み巣食って離れなくなった「本能の<力>」は<よだか>自身を破滅へ追い込む。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫 一九四〇年)

<よだか>は幾つかの星座に救いを求める。ところがどの星座もまともに相手してくれない。疲れ果てた<よだか>はもう「よろよろ」して地上へ落ちていく。その時、作者=賢治は<よだか>が地面へ叩きつけられる寸前で瞬時に場面を転倒させて救おうとする。そのラストはあまりにも有名だ。ところでしかし、<よだか>と、<よだか>が夢見る<火>とのただならぬ関係はまったく別の作品の中で、姿形を置き換えて次のような会話の中でふいに登場する。例えば「銀河鉄道の夜」の「蠍(さそり」がそうだ。ジョバンニとカンパネルラと女の子との会話。

「川の向う岸が俄(にわ)かに赤くなりました。楊(やなぎ)の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗(ききょう)いろのつめたそうな天をも焦(こ)がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔(よ)ったようになってその火は燃えているのでした。『あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう』ジョバンニが云(い)いました。『蠍(さそり)の火だな』カムパネルラが又(また)地図と首っ引きして答えました。『あら、蠍の火のことならあたし知ってるわ』。『蠍の火って何だい』ジョバンニがききました。『蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんかお父さんから聴いたわ』。『蠍って、虫だろう』。『ええ、蠍は虫よ。だけどいい虫だわ』。『蠍いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールについてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫(さ)されると死ぬって先生が云ってたよ』。『そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯(こ)う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附(みつ)かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押(おさ)えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺(おぼ)れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈(いの)りしたというの、<ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときにはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい>、って云ったというの。そしたらいつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰(おっしゃ)ったわ。ほんとうにあの火それだわ』」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」『銀河鉄道の夜・P.209~211』新潮文庫 一九八九年)

<よだか>と<蠍(さそり>。直面している課題は両者ともまったく同じものだ。そして前者は<星の光>に、後者は「夜空の火」になる。恒星として輝く。荘子はいう。

「子祀・子輿・子犁・子來、四人相與語曰、孰能以无爲首、以生爲脊、以死爲尻、孰知死生存亡之一體者、吾與之友矣、四人相視而笑、莫逆於心、遂相與爲友、俄而子輿有病、子祀往問之、曰、偉哉、夫造物者、將以予爲此拘拘也、曲僂發背、上有五管、頣隠於齊、肩高於頂、句贅指天、陰陽之気有乱、其心間而无事、偏遷而鑑于井曰、嗟乎、夫造物者、又將以予爲此拘拘也、子祀曰、女惡之乎、亡、予何惡、浸假而化予之左臂以爲雞、予因以求時夜、浸假而化予之右臂以爲彈、予因以求鴞炙、浸假而化予之尻以爲輪、以神爲馬、予因而乗之、豈更駕哉、且夫得者時也、失者順也、安時而處順、哀樂不能入也、此古之所謂縣解也、而不能自解者、物有結之、且夫物不勝天久矣、吾又何惡焉

(書き下し)子祀(しし)・子輿(しよ)・子犁(しり)・子来(しらい)、四人相(あ)い与(とも)に語りて曰わく、孰(たれ)か能く無(む)を以て首(こうべ)と為し、生を以て脊(せ)と為し、死を以て尻(しり)と為すや。孰か死生存亡の一体なるを知る者ぞ。吾れこれと友たらんと。四人相い視(み)て笑い、心に逆らう莫(な)く、遂(つい)に相い与に友と為(な)る。俄(にわ)かにして子輿に病あり、子祀往(ゆ)きてこれを問う。曰わく、偉なるかな、夫(か)の造物者(ぞうぶつしゃ)。将(まさ)に予れを以て此の拘拘(こうこう)を為さんとすと。曲僂(きょくる)背に発し、上に五管あり、頣(あご)は斉(へそ=臍)に隠れ、肩は頂(あたま)より高く、句贅(こうぜい)は天を指(さ)す。陰陽の気に乱(みだ)るることあるも、其の心間(しずか=閑)にして無事(むじ)なり。偏遷(へんせん)して井(せい)に鑑(かがみ)して曰わく、嗟手(ああ)、夫の造物者、又た将に予れを以て此の拘拘を為さんとするなりと。子祀曰わく、女(なんじ)これを悪(にく)むかと。曰わく、亡(いな)、予れ何ぞ悪まん。浸(ようや)くに仮(いた)りて予れの左臂(さひ)を化して雞(けい)と為(な)さば、予れは因(よ)りて時夜(じや)を求めん。浸くに仮りて予れの右臂を化して弾(だん)と為さば、予れは因りて鴞炙(きょうしゃ)を求めん。浸くに仮りて予れの尻を化して輪と為し、神(しん)を以て馬と為さば、予れは因りてこれに乗らん。豈(あ)に更(さら)に駕(が)せんや。且(か)つ夫れ得る者は時なり、失う者は順なり。時に安んじて順に処(お)れば、哀楽も入(い)ること能(あた)わず、此れ古(いにし)えの謂わゆる県解(けんかい)なり。而も自ら解くこと能わざる者は、物これを結ぶあればなり。且つ夫れ物の天に勝たざるや久し。吾れ又た何ぞ悪(にく)まんと。

(現代語訳)子祀(しし)と子輿(しよ)と子犁(しり)と子来(しらい)とが、四人でいっしょに語りあった。『無を頭とし、生を背(せなか)とし、死を尻とすることのできる者が、だれかいるだろうか。死と生と。存と亡とが一体であることをわきまえた者が、だれかいるだろうか。われわれはそういう者と友だちになりたい』。四人はこういうと、顔を見あわせてにっこり笑い、心からうちとけて、そのまま互いに友だちとなった。〔その後〕、突然、子輿が病気になった。子祀が見舞いに訪ねていくと、子輿はこういった、『偉大だね、あの造物者(ぞうぶつしゃ)は。わしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』。背中はひどい背むしでもりあがり、内臓は頭の上にきて頣(あご)は臍(へそ)のあたりにかくれ、両肩は頭のてっぺんよりも高く、頭髪のもとどりは天をさしている。体内の陰陽の気が乱れているのだが、その心は平静で格別の事もない。よろめきながら井戸の〔そばに行くと〕、水に姿をうつして、『ああ、あの造物者はまたわしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』といった子祀はいう、『君はそれがいやかね』。『いや、わしがどうしていやがろう。〔造化のはたらきが〕だんだん進んでわしの左の臂(かいな)を鶏に変えるというなら、ついでにわしはその鶏が時を告げるのを聞こうと思う。だんだん進んでわしの右の臂(かいな)をはじき弓に変えるというなら、ついでにわしは射(い)落した鳥の焼き肉をほしいと思う。だんだん進んでわしの尻(しり)を車の輪に変え、わしの心を馬にするというなら、ついでにわしはそれに乗るだろう。別の馬車を用意しなくてすむよ。それに、いったいこの世に生を受けたのは生まれるべき時にめぐりあっただけのことだし、生を失って死んでゆくのも死すべき道理に従うまでのことだ。めぐりあわせた時のままに身をまかせて、自然の道理に従っていくということなら、〔生死のために感情を動かすこともなく〕、喜びや悲しみの感情が入りこむ余地はない。こういう境地が、むかしの人のいう県解(けんかい)ーーーすなわち束縛からの解放ということだ。しかもなお自分で解放することができない〔で生死のためにくよくよする〕というのは、外界の事物がその心の中で固まっているからだ。それに、そもそも外界の事物が自然の道理に勝てないのは、むかしからのことだ。わしは〔ただ自然の道理に従うばかり〕、またどうしてこの病をいやがったりしようか』」(「荘子(第一冊)・内篇・大宗師篇・第六・五・P.194~197」岩波文庫 一九七一年)

荘子のいう「縣解(けんかい)」=「束縛からの解放」。子輿(しよ)の場合、「だんだん進んでわしの左の臂(かいな)を鶏に変えるというなら、ついでにわしはその鶏が時を告げるのを聞こうと思う」。賢治作品の登場人物は苦悩の末、死と同時に世界中を煌々と光り輝かせる<火>になる。ところが荘子の場合何も死ぬ必要はないと語る。むしろ生きたまま不意に<鳥>になったり<馬>になったりする。前者は「生と死」のあいだに切断があり「死」と同時に再生がやって来る。ところが後者は「生のうち」ですでに切断と再生とを両立させる思想が確立されている。どちらが良いとか良くないとかは問題外である。ヘーゲルはいう。

「主観が何で《ある》かは、《主観の一連の行為がこれを示す》。これらの行為が一連の、価値のない所産であるならば、意欲の主観性も同様に価値のない主観性である。これに反して、個人の一連の行果が実体的な本性を具えたものであるならば、その内面的な意志もまた実体的本性を具えたものなのである」(ヘーゲル「法の哲学・上・第二部・第二章・一二四・P.293~294」岩波文庫 二〇二一年)

ゆえに実践に移ることが大切である。しかもそれは何一つ大袈裟なことではない。人々はそれを日常生活の中でごく普通にやっている。ただ気づいていないに過ぎない。

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