或る夏の暮れ方。カン蛙・ブン蛙・ベン蛙という三疋の蛙たちが林の中を流れる堰(せき)から続く<つめくさ>の広場に座って「雲見(くもみ)」を楽しんでいた。人間たちが「花見(はなみ)・月見(つきみ)」をするように蛙たちは「雲見(くもみ)」をする。夏の間によく見られる「雲の峯(みね)」はむくむくと湧き起こり複雑微妙な姿形をいろいろと置き換えながら徐々に崩れ去っていく。毎日のように現れる。玉髄(ぎょくずい)やオパールのような色合いが組み重なり組み換えられて変容する壮大な光景は、まるで映画のように蛙たちの眼を見張らせずにはおかない。しかも人間社会で催される「花見(はなみ)・月見(つきみ)」のようなお金は始めから一切かからないため、後になって収支が合わなかったり資金の出どころが不透明な汚職が発覚したりということもあり得ない。
そんな折、人間たちの住む都市部では「ゴム靴」が流行っているという話が林の中でも聞かれるようになった。カン蛙・ブン蛙・ベン蛙たちは「雲見」のついでに「ゴム靴」の実用性を口にしながら是非手に入れたいものだと欲しがる。家に帰ったカン蛙はしばらく考えていたが畑に出かけた。もう外は夜で暗い。訪れたのは畑に住んでいる野鼠(のねずみ)の家。「ゴム靴」を一足用意できないかとの相談。野鼠は答える。
「『去年の秋、僕が蕎麦団子(そばだんご)を食べて、チブスになって、ひどいわずらいをしたときに、あれほど親身の介抱(かいほう)を受けながら、その恩を何でわすれてしまうもんかね』」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.98』新潮文庫 一九八九年)
ところが野鼠はカン蛙の依頼を二つ返事で簡単に承諾したものの、実際に「ゴム靴」を手に入れるまでは「ひどい難儀(なんぎ)をし」、「大へんな手数をし」、「命がけで心配した」という。カン蛙が野鼠に施した「親身の介抱(かいほう)」がここでは人間社会でいう「労働力」として取り扱われ、次のような経過をたどり、「ゴム靴」一足となってカン蛙の手元に環流したことになる。
「まず野鼠は、ただの鼠にゴム靴をたのむ、ただの鼠は猫(ねこ)にたのむ、猫は犬にたのむ、犬は馬にたのむ、馬は自分の金沓(かなぐつ)を貰(もら)うとき、何とかかんとかごまかして、ゴム靴をもう一足受け取る、それから、馬がそれを犬に渡(わた)す、犬が猫に渡す、猫がただの鼠に渡す、ただの鼠が野鼠に渡す、その渡しようもいずれあとでお礼をよこせとか何とか、気味の悪い語(ことば)がついていたのでしょう、そのほか馬はあとでゴム靴をごまかしたことがわかったら、人間からよほどひどい目にあわされるのでしょう。それ全体を野鼠が心配して考えるのですから、とても命にさわるほどつらい訳です」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.99』新潮文庫 一九八九年)
翌日、ブン蛙とベン蛙は「雲見」の時間がやって来たといって、いつものようにカン蛙を誘いに来た。見るとカン蛙は「ゴム靴」を履いている。ブン蛙とベン蛙は一体どこから出したのかと尋ねる。カン蛙の返事は小説という形式上、メタ・レベルに立つことが可能なので、次のように省略された説明を取る。
「『これはひどい難儀をして大へんな手数をしてそれから命がけほど頭を痛くして取って来たんだ』」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.100』新潮文庫 一九八九年)
またカン蛙の依頼を受けた野鼠が「ゴム靴」一足を携えて再び野鼠の手に戻ってくるまでの経過について、野鼠はその全体像を次のように想定できていなければならない。またその間の事情が想定通りに進行したこともすでに明らかになっている。荘子にこうある。
「荘周遊乎雕陵之樊、覩一異鵲自南方来者、翼廣七尺、目大運寸、感周之顙而集於栗林、荘周曰、此何鳥哉、翼殷不逝、目大不覩、蹇裳躊歩、執弾而留之、覩一蟬方得美蔭而忘其身、螳蜋執翳而搏之、見得而忘其形、異鵲從而利之、見利而忘其眞、荘周怵然曰、噫、物固相累、二類相召也、捐弾而反走、虞人逐而責之
(書き下し)荘周、雕陵(ちょうりょう)の樊(はん)に遊び、一異鵲(いちいじゃく)の南方より来たる者を覩(み)る。翼の広さ七尺、目の大いさ運(径)寸、周の顙(ひたい)を感(かす)めて栗林(りつりん)に集(とま)る。荘周曰わく、此れ何の鳥ぞや。翼殷(おお)いなるも逝(ゆ)かず、目大いなるも覩(み)ずと。裳(しょう)を蹇(かか)げて躊歩(かくほ)し、弾(だん)を執(と)りてこれを留(ひ)く。一蟬(いちぜん)を覩(み)るに、方(まさ)に美蔭(びいん)を得て其の身を忘る。螳蜋(とうろう)翳(かげ)を執(まも)りてこれを搏(とら)えんとし、得(とく)をのみ見て其の形を忘る。異鵲、従(したが)いてこれを利とし、利をのみ見て其の真を忘る。荘周、怵然(じゅつぜん)として曰わく、噫(ああ)、物は固(もと)より相い累(るい)し、二類は相い召(まね)くなりと。弾を捐(す)てて反(かえ)り走る。虞人(ぐじん)逐(お)いてこれを責(せ)む。
(現代語訳)荘周は雕陵(ちょうりょう)という禁苑のなかに入って遊んだ。そのとき一羽の奇妙な鵲(かささぎ)に似た鳥が南の方から飛んでくるのを認めた。翼のはばは七尺もあり、目の大きさは直径一寸もあって、それが荘周の額(ひたい)をかすめて飛びすぎると栗林のなかにとまった。荘周はつぶやいた、『これは何という鳥だろう。翼は大きいが飛び去ろうともせず、目は大きいがものを見ようともしていない』。着物の裾(すそ)をまくりあげて静かに歩みより、弾弓(はじきゆみ)を手にとるとそれを引きしぼって射とめようとした。ふと見ると、一匹の蟬(せみ)がちょうど快い木蔭(こかげ)に満足してわが身のことを忘れている。螳蜋が葉蔭にひそんでこの蟬をとらえようとしているのだが、その螳蜋も獲物だけを見てわが体のことを忘れている。さきの奇妙な鵲が螳蜋をねらってものにしようとしているのだが、この鳥も利益だけを見てその本来のあり方を忘れている。荘周はぞっとして、『ああ、もともと物はすべてたがいに害しあうものだ。そして利と害とはたがいによびあうのだ』というと、弾弓を投げ棄てて身をひるがえして逃げ出した。禁苑の番人があやしんで追いかけ、彼をきびしく詮議(せんぎ)した」(「荘子(第三冊)・外篇・山木篇・第二十・八・P.99~101」岩波文庫 一九八二年)
ちなみに荘子のこのエピソードは「今昔物語・巻第十・第十三話」前半部の原典になっている。
さてそこへ蛙たちの地域社会の大物の娘・ルラ蛙が「おむこさん探し」にやって来た。ブン蛙ベン蛙ともに自分で自分自身を自己推薦する。ところが「ゴム靴」姿で現れたカン蛙を見るやルラ蛙はいう。
「『あら、あたしもうきめたわ』」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.101』新潮文庫 一九八九年)
この瞬間、「カン蛙/ブン蛙ベン蛙/ルラ蛙」という三角関係が出現した。ブン蛙ベン蛙はルサンチマン(怨恨・劣等感・復讐心)の塊へ変化する。ニーチェはいう。
「道徳上の奴隷一揆が始まるのは、《怨恨(ルサンチマン)》そのものが創造的になり、価値を生み出すようになった時である。ここに《怨恨=反感》というのは、本来の《反作用=反動》、すなわち行動上の反動が禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の《怨恨》である。すべての高貴な道徳はそれ自身に向かう高らかな自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は『外のもの』『他のもの』、『自分とは異なるもの』を頭から否定する。そして《この》否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。評価を定める眼差しがこのように逆立ちしていることーーーすなわち、自分自身に向かい合うよりもむしろ、つねに外へと向かうこの《必然的な》方向ーーーこれこそはまさしく《怨恨》の本性である。奴隷道徳が成立するためには、常にまず一つの対立、一つの外界を必要とする。生理学的に言えば、奴隷道徳は一般に、動き、行動を起こすための外的刺激を必要とする。ーーーだから奴隷道徳の行動は根本的に反動である」(ニーチェ「道徳の系譜・第一論文・十・P.36~37」岩波文庫 一九四〇年)
さらに。
「《差異は憎悪を生む》」(ニーチェ「善悪の彼岸・二六三・P.280」岩波文庫 一九七〇年)
カン蛙ブン蛙ベン蛙の三疋はルラ蛙をめぐって始めからいがみ合っていたわけでは何らない。むしろ逆に年齢も大きさも容貌も同じ仲間同志だった。ところがいつものカン蛙ではなく「ゴム靴」姿のカン蛙が「おむこさん探し」にやって来たルラ蛙の前を歩いたことから「『あら、あたしもうきめたわ』」という言葉がほとばしった。彼らの世界は一挙に転倒する。第一にカン蛙が「ゴム靴」を手に入れたこと。第二にルラ蛙が自分の「おむこさん」として「ゴム靴」姿のカン蛙を指名したこと。この二点が重なった瞬間、それが条件となって「カン蛙/ブン蛙ベン蛙/ルラ蛙」というのっぴきならない三角関係が始めて出現したわけである。もはやブン蛙ベン蛙は嫉妬のあまり、カン蛙を「何とかひどい目にあわしてやりたい」と隠れて相談し合う。二つの方法で一致した。
(1)「『僕がうまいこと考えたよ。明日の朝ね、雨がはれたら結婚式の前に一寸散歩しようと云ってあいつを引っぱり出して、あそこの萱(かや)の刈跡(かりあと)をあるくんだよ。僕らも少しは痛いだろうがまあ我慢(がまん)してさ。するとあいつのゴム靴がめちゃめちゃになるだろう』」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.105』新潮文庫 一九八九年)
(2)「『うん。それはいいね。しかし僕はまだそれ位じゃ腹が癒(い)えないよ。結婚式がすんだらあいつらを引っぱり出して、あの畑の麦をほした杭(くい)の穴に落してやりたいね。上に何か木の葉でもかぶせて置こう。それは僕がやって置くよ。面白(おもしろ)いよ』」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.105~106』新潮文庫 一九八九年)
このうち結婚式当日の式の直前に行うことにきめた(1)は、かなり無理矢理な暴力的連れ出しを伴ってではあるものの、ともかく成功する。結果はこうだ。
「ゴム靴はもうボロボロになって、カン蛙の足からあちこちにちらばって、無くなりました」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.108』新潮文庫 一九八九年)
しかし「ゴム靴」なきカン蛙ということになると今度はカン蛙とブン蛙ベン蛙との<あいだ>に生じていた<差異>はたちまち消え失せてしまいもはや見分けがつかない。<差異>の消滅。すると「三疋とも口が大きくて、うすぐろくて、眼(め)の出た工合(ぐあい)も実によく似ている」という事態が生じてくる。三疋の蛙はかつてのようにどれも「一般化・均質化・平板化」され直して以前の姿形に舞い戻るしかない。資本主義が押し進める一般化作用と同じことがここでも起きている。ルラ蛙は困惑する。そこでカン蛙は「パクッと口をあけて、一足前に出ておじぎをし」た。そこでようやくルラ蛙は「『あの方よ』」と指名することができた。カン蛙は何をしたのか。三疋揃って平板化・均質化されてしまった中で、あえて<差異〔凸凹〕>を出現させたわけである。
「三疋とも口が大きくて、うすぐろくて、眼(め)の出た工合(ぐあい)も実によく似ているのです。これにはいよいよどうも困ってしまったのでした。ところが、そのうちに、一番右はじに居たカン蛙がパクッと口をあけて、一足前に出ておじぎをしました。そこでルラ蛙もやっと安心して、『あの方よ』と云いました」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.109~110』新潮文庫 一九八九年)
カン蛙が実践した<再=差異化>の作業。もっとも、小説作品ではカン蛙があえてそう行ったことで事態は進展を見たわけだが、そうしなくても実際のところ、「差異性・数多性・無秩序」の循環=永遠回帰なしに世界の循環=回帰はあり得ないとニーチェはいう。
「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)
宇宙論的テーマのように思えるかもしれないが、むしろ同時に大変身近な今日的課題の一つに過ぎない。なぜなら、この種の永遠回帰=循環のないところではどんな百兆円も百一兆円として手元に回帰してくることは不可能だからである。
ところで結婚式当日の式の直後に行うことにきめた(2)は、半分成功したが半分失敗した。決定稿「蛙のゴム靴」では成功のあとでルラ蛙が宴会ですっかり酔っ払ってぐうぐう眠りこけている父蛙とその部下たちを起こしに事故現場との間を往復する。三日目に目を覚ました父蛙たちはカン蛙ブン蛙ベン蛙の三疋とも救出する。しかしおそらく最初の原稿「蛙の消滅」あたりではカン蛙とブン蛙ベン蛙とが揉み合っているうちに「三疋とも、杭穴の底の泥水(どろみず)の中に陥(お)ちて」死ぬことになっている。「注文の多い料理店」や「なめとこ山の熊」、「蜘蛛となめくじと狸」、さらには「よだかの星」を書いた賢治はなぜこのような全面的改稿を加えたのか。今なお謎だ。
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そんな折、人間たちの住む都市部では「ゴム靴」が流行っているという話が林の中でも聞かれるようになった。カン蛙・ブン蛙・ベン蛙たちは「雲見」のついでに「ゴム靴」の実用性を口にしながら是非手に入れたいものだと欲しがる。家に帰ったカン蛙はしばらく考えていたが畑に出かけた。もう外は夜で暗い。訪れたのは畑に住んでいる野鼠(のねずみ)の家。「ゴム靴」を一足用意できないかとの相談。野鼠は答える。
「『去年の秋、僕が蕎麦団子(そばだんご)を食べて、チブスになって、ひどいわずらいをしたときに、あれほど親身の介抱(かいほう)を受けながら、その恩を何でわすれてしまうもんかね』」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.98』新潮文庫 一九八九年)
ところが野鼠はカン蛙の依頼を二つ返事で簡単に承諾したものの、実際に「ゴム靴」を手に入れるまでは「ひどい難儀(なんぎ)をし」、「大へんな手数をし」、「命がけで心配した」という。カン蛙が野鼠に施した「親身の介抱(かいほう)」がここでは人間社会でいう「労働力」として取り扱われ、次のような経過をたどり、「ゴム靴」一足となってカン蛙の手元に環流したことになる。
「まず野鼠は、ただの鼠にゴム靴をたのむ、ただの鼠は猫(ねこ)にたのむ、猫は犬にたのむ、犬は馬にたのむ、馬は自分の金沓(かなぐつ)を貰(もら)うとき、何とかかんとかごまかして、ゴム靴をもう一足受け取る、それから、馬がそれを犬に渡(わた)す、犬が猫に渡す、猫がただの鼠に渡す、ただの鼠が野鼠に渡す、その渡しようもいずれあとでお礼をよこせとか何とか、気味の悪い語(ことば)がついていたのでしょう、そのほか馬はあとでゴム靴をごまかしたことがわかったら、人間からよほどひどい目にあわされるのでしょう。それ全体を野鼠が心配して考えるのですから、とても命にさわるほどつらい訳です」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.99』新潮文庫 一九八九年)
翌日、ブン蛙とベン蛙は「雲見」の時間がやって来たといって、いつものようにカン蛙を誘いに来た。見るとカン蛙は「ゴム靴」を履いている。ブン蛙とベン蛙は一体どこから出したのかと尋ねる。カン蛙の返事は小説という形式上、メタ・レベルに立つことが可能なので、次のように省略された説明を取る。
「『これはひどい難儀をして大へんな手数をしてそれから命がけほど頭を痛くして取って来たんだ』」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.100』新潮文庫 一九八九年)
またカン蛙の依頼を受けた野鼠が「ゴム靴」一足を携えて再び野鼠の手に戻ってくるまでの経過について、野鼠はその全体像を次のように想定できていなければならない。またその間の事情が想定通りに進行したこともすでに明らかになっている。荘子にこうある。
「荘周遊乎雕陵之樊、覩一異鵲自南方来者、翼廣七尺、目大運寸、感周之顙而集於栗林、荘周曰、此何鳥哉、翼殷不逝、目大不覩、蹇裳躊歩、執弾而留之、覩一蟬方得美蔭而忘其身、螳蜋執翳而搏之、見得而忘其形、異鵲從而利之、見利而忘其眞、荘周怵然曰、噫、物固相累、二類相召也、捐弾而反走、虞人逐而責之
(書き下し)荘周、雕陵(ちょうりょう)の樊(はん)に遊び、一異鵲(いちいじゃく)の南方より来たる者を覩(み)る。翼の広さ七尺、目の大いさ運(径)寸、周の顙(ひたい)を感(かす)めて栗林(りつりん)に集(とま)る。荘周曰わく、此れ何の鳥ぞや。翼殷(おお)いなるも逝(ゆ)かず、目大いなるも覩(み)ずと。裳(しょう)を蹇(かか)げて躊歩(かくほ)し、弾(だん)を執(と)りてこれを留(ひ)く。一蟬(いちぜん)を覩(み)るに、方(まさ)に美蔭(びいん)を得て其の身を忘る。螳蜋(とうろう)翳(かげ)を執(まも)りてこれを搏(とら)えんとし、得(とく)をのみ見て其の形を忘る。異鵲、従(したが)いてこれを利とし、利をのみ見て其の真を忘る。荘周、怵然(じゅつぜん)として曰わく、噫(ああ)、物は固(もと)より相い累(るい)し、二類は相い召(まね)くなりと。弾を捐(す)てて反(かえ)り走る。虞人(ぐじん)逐(お)いてこれを責(せ)む。
(現代語訳)荘周は雕陵(ちょうりょう)という禁苑のなかに入って遊んだ。そのとき一羽の奇妙な鵲(かささぎ)に似た鳥が南の方から飛んでくるのを認めた。翼のはばは七尺もあり、目の大きさは直径一寸もあって、それが荘周の額(ひたい)をかすめて飛びすぎると栗林のなかにとまった。荘周はつぶやいた、『これは何という鳥だろう。翼は大きいが飛び去ろうともせず、目は大きいがものを見ようともしていない』。着物の裾(すそ)をまくりあげて静かに歩みより、弾弓(はじきゆみ)を手にとるとそれを引きしぼって射とめようとした。ふと見ると、一匹の蟬(せみ)がちょうど快い木蔭(こかげ)に満足してわが身のことを忘れている。螳蜋が葉蔭にひそんでこの蟬をとらえようとしているのだが、その螳蜋も獲物だけを見てわが体のことを忘れている。さきの奇妙な鵲が螳蜋をねらってものにしようとしているのだが、この鳥も利益だけを見てその本来のあり方を忘れている。荘周はぞっとして、『ああ、もともと物はすべてたがいに害しあうものだ。そして利と害とはたがいによびあうのだ』というと、弾弓を投げ棄てて身をひるがえして逃げ出した。禁苑の番人があやしんで追いかけ、彼をきびしく詮議(せんぎ)した」(「荘子(第三冊)・外篇・山木篇・第二十・八・P.99~101」岩波文庫 一九八二年)
ちなみに荘子のこのエピソードは「今昔物語・巻第十・第十三話」前半部の原典になっている。
さてそこへ蛙たちの地域社会の大物の娘・ルラ蛙が「おむこさん探し」にやって来た。ブン蛙ベン蛙ともに自分で自分自身を自己推薦する。ところが「ゴム靴」姿で現れたカン蛙を見るやルラ蛙はいう。
「『あら、あたしもうきめたわ』」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.101』新潮文庫 一九八九年)
この瞬間、「カン蛙/ブン蛙ベン蛙/ルラ蛙」という三角関係が出現した。ブン蛙ベン蛙はルサンチマン(怨恨・劣等感・復讐心)の塊へ変化する。ニーチェはいう。
「道徳上の奴隷一揆が始まるのは、《怨恨(ルサンチマン)》そのものが創造的になり、価値を生み出すようになった時である。ここに《怨恨=反感》というのは、本来の《反作用=反動》、すなわち行動上の反動が禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の《怨恨》である。すべての高貴な道徳はそれ自身に向かう高らかな自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は『外のもの』『他のもの』、『自分とは異なるもの』を頭から否定する。そして《この》否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。評価を定める眼差しがこのように逆立ちしていることーーーすなわち、自分自身に向かい合うよりもむしろ、つねに外へと向かうこの《必然的な》方向ーーーこれこそはまさしく《怨恨》の本性である。奴隷道徳が成立するためには、常にまず一つの対立、一つの外界を必要とする。生理学的に言えば、奴隷道徳は一般に、動き、行動を起こすための外的刺激を必要とする。ーーーだから奴隷道徳の行動は根本的に反動である」(ニーチェ「道徳の系譜・第一論文・十・P.36~37」岩波文庫 一九四〇年)
さらに。
「《差異は憎悪を生む》」(ニーチェ「善悪の彼岸・二六三・P.280」岩波文庫 一九七〇年)
カン蛙ブン蛙ベン蛙の三疋はルラ蛙をめぐって始めからいがみ合っていたわけでは何らない。むしろ逆に年齢も大きさも容貌も同じ仲間同志だった。ところがいつものカン蛙ではなく「ゴム靴」姿のカン蛙が「おむこさん探し」にやって来たルラ蛙の前を歩いたことから「『あら、あたしもうきめたわ』」という言葉がほとばしった。彼らの世界は一挙に転倒する。第一にカン蛙が「ゴム靴」を手に入れたこと。第二にルラ蛙が自分の「おむこさん」として「ゴム靴」姿のカン蛙を指名したこと。この二点が重なった瞬間、それが条件となって「カン蛙/ブン蛙ベン蛙/ルラ蛙」というのっぴきならない三角関係が始めて出現したわけである。もはやブン蛙ベン蛙は嫉妬のあまり、カン蛙を「何とかひどい目にあわしてやりたい」と隠れて相談し合う。二つの方法で一致した。
(1)「『僕がうまいこと考えたよ。明日の朝ね、雨がはれたら結婚式の前に一寸散歩しようと云ってあいつを引っぱり出して、あそこの萱(かや)の刈跡(かりあと)をあるくんだよ。僕らも少しは痛いだろうがまあ我慢(がまん)してさ。するとあいつのゴム靴がめちゃめちゃになるだろう』」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.105』新潮文庫 一九八九年)
(2)「『うん。それはいいね。しかし僕はまだそれ位じゃ腹が癒(い)えないよ。結婚式がすんだらあいつらを引っぱり出して、あの畑の麦をほした杭(くい)の穴に落してやりたいね。上に何か木の葉でもかぶせて置こう。それは僕がやって置くよ。面白(おもしろ)いよ』」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.105~106』新潮文庫 一九八九年)
このうち結婚式当日の式の直前に行うことにきめた(1)は、かなり無理矢理な暴力的連れ出しを伴ってではあるものの、ともかく成功する。結果はこうだ。
「ゴム靴はもうボロボロになって、カン蛙の足からあちこちにちらばって、無くなりました」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.108』新潮文庫 一九八九年)
しかし「ゴム靴」なきカン蛙ということになると今度はカン蛙とブン蛙ベン蛙との<あいだ>に生じていた<差異>はたちまち消え失せてしまいもはや見分けがつかない。<差異>の消滅。すると「三疋とも口が大きくて、うすぐろくて、眼(め)の出た工合(ぐあい)も実によく似ている」という事態が生じてくる。三疋の蛙はかつてのようにどれも「一般化・均質化・平板化」され直して以前の姿形に舞い戻るしかない。資本主義が押し進める一般化作用と同じことがここでも起きている。ルラ蛙は困惑する。そこでカン蛙は「パクッと口をあけて、一足前に出ておじぎをし」た。そこでようやくルラ蛙は「『あの方よ』」と指名することができた。カン蛙は何をしたのか。三疋揃って平板化・均質化されてしまった中で、あえて<差異〔凸凹〕>を出現させたわけである。
「三疋とも口が大きくて、うすぐろくて、眼(め)の出た工合(ぐあい)も実によく似ているのです。これにはいよいよどうも困ってしまったのでした。ところが、そのうちに、一番右はじに居たカン蛙がパクッと口をあけて、一足前に出ておじぎをしました。そこでルラ蛙もやっと安心して、『あの方よ』と云いました」(宮沢賢治「蛙のゴム靴」『風の又三郎・P.109~110』新潮文庫 一九八九年)
カン蛙が実践した<再=差異化>の作業。もっとも、小説作品ではカン蛙があえてそう行ったことで事態は進展を見たわけだが、そうしなくても実際のところ、「差異性・数多性・無秩序」の循環=永遠回帰なしに世界の循環=回帰はあり得ないとニーチェはいう。
「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)
宇宙論的テーマのように思えるかもしれないが、むしろ同時に大変身近な今日的課題の一つに過ぎない。なぜなら、この種の永遠回帰=循環のないところではどんな百兆円も百一兆円として手元に回帰してくることは不可能だからである。
ところで結婚式当日の式の直後に行うことにきめた(2)は、半分成功したが半分失敗した。決定稿「蛙のゴム靴」では成功のあとでルラ蛙が宴会ですっかり酔っ払ってぐうぐう眠りこけている父蛙とその部下たちを起こしに事故現場との間を往復する。三日目に目を覚ました父蛙たちはカン蛙ブン蛙ベン蛙の三疋とも救出する。しかしおそらく最初の原稿「蛙の消滅」あたりではカン蛙とブン蛙ベン蛙とが揉み合っているうちに「三疋とも、杭穴の底の泥水(どろみず)の中に陥(お)ちて」死ぬことになっている。「注文の多い料理店」や「なめとこ山の熊」、「蜘蛛となめくじと狸」、さらには「よだかの星」を書いた賢治はなぜこのような全面的改稿を加えたのか。今なお謎だ。
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