いちじるしく砂漠化している地域はいくらもある。その一つが「流沙(るさ)」=「タクラマカン砂漠」。砂漠の南に「楊(やなぎ)で囲まれた小さな泉」があった。<私>は泉のうしろに小さな祠(ほこら)があるのを見つけた。その祠は「まだ全くあたらしい黄いろと赤のペンキさえ塗(ぬ)られていかにも異様」に見える。なぜここにこんなふうな祠があるのかさっぱり不明。そこでたまたま出会った一人の巡礼の老人が語って教えてくれた。老人は「まるでこの頃(ごろ)あった昔(むかし)ばなしのよう」だという。読者の頭はいきなりこんがらがる。ともかく聞いてみることにした。
沙車(さしゃ)=ヤルカンドに「須利耶圭(すりやけい)」という仏教徒がおり、或る日の明け方、一緒に歩いている従弟(いとこ)が鉄砲で雁を仕留めるのを見ていた。六発の弾丸が六疋の雁に命中、五疋はほぼ即死で落下してきた。残りの子どもの雁だけは少しも傷つかず後を追って降りてくる。空から地面へ向って落下してくる雁の列はまったく乱れない。須利耶の眼にはそれがこう見えた。
「いつか雁がみな空を飛ぶ人の形に変って居(お)りました」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.152』新潮文庫 一九八九年)
六疋の雁がすべて地上へ落ちた時、その中で一番老齢と思われる「白い鬚(ひげ)の老人」は瀕死の状態。須利耶の足元でこういう。
「私共は天の眷属(けんぞく)でございます。罪があってただいままで雁の形を受けて居りました。只今(ただいま)報(むく)いを果しました。私共は天に帰ります。ただ私の一人の孫はまだ帰れません。これはあなたとは縁(えん)のあるものでございます。どうぞあなたの子にしてお育てを願います。おねがいでございます」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.153~154』新潮文庫 一九八九年)
須利耶(すりや)は「判(わか)った。引き受けた」、だから安心してほしいと答えた。子どもの雁はすっかり人間の童子姿になっている。それから須利耶はその子を育てることにした。話の広がるのは速い。沙車の町ではもうその子のことを「雁(かり)の童子」と呼んでいた。そのうち童子は六歳になった。或る春の夕方、須利耶が童子を連れて沙車の町を歩いていたところ、町の子どもたちが珍しがって童子を取り囲み嘲笑まじりにはやし立てる。そしてまた雁は春になると北方へ帰っていくことを子どもたちはよく知っている。始めは「空からおりて来た雁の子・雁童子」というばかりのからかい方だったが次には言葉が変わる。
「雁のすてご、雁のすてご、春になってもまだ居るか」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.156』新潮文庫 一九八九年)
意地悪や嫌味というものは繰り返されるうちに飽きられるのが常だが、繰り返されている最中に或る種の語彙や別の意味を増殖させることで刷新される傾向を持つ。この時、子どもたちは一斉に「どっと」笑った。笑いにまぎれてどこかから小石が飛んできて童子の顔面に命中した。須利耶は怒ったが童子は笑って許していた。須利耶が怒るのはもっともだが童子の側はやけにませて見える。それがかえって不気味に思える。
また或る晩のこと。童子は高熱を発して幻覚を見、随分うなされているようだった。須利耶(すりや)の妻は心配でたまらなくなったが須利耶は童子を連れて外へ散歩に出かけた。一面の星空の下で童子はふと水の流れる音を聞いた。水の流れているところには雁の巣がしばしばある。童子はそれを知ってか知らないのかわからないが、「水は夜でも流れるのか」と尋ねた。須利耶は答える。
「水は夜でも流れるよ。水は夜でも昼でも、平らな所ででさえなかったら、いつ迄(まで)もいつ迄も流れるのだ」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.158』新潮文庫 一九八九年)
そう聞くと童子はすっかり熱が下がったようでさっさと家に帰りぐっすり眠り込んだ。さらに或る日の食事時。食卓に「蜜(みつ)で煮(に)た二つの鮒(ふな)」が出た。童子は食べたくないと言い出した。須利耶の妻は食べさせないわけにもいかないので箸で鮒を小さくほぐしてやった。童子は黙って母が魚をほぐす横顔を見ていた。すると童子の意識が急変し家の外へ走り出た。そして大声で泣き出す。
「俄(にわ)かに胸が変な工合(ぐあい)に迫(せま)って来て気の毒なような悲しいような何とも堪(たま)らなくなりました。くるっと立って鉄砲玉(てっぽうだま)のように外へ走って出られました。そしてまっ白な雲の一杯に充(み)ちた空に向って、大きな声で泣き出しました」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.158~159』新潮文庫 一九八九年)
後を追って外へ出た母が童子を見つけると童子はもうすっかり泣きやんで微笑みすら見せていた。さらに話はつづく。須利耶が童子を連れて町の市場を歩いていたところ、馬市で仔馬が母馬から離れてほかの場所へ連れて行かれるのが見えた。童子をそれを見て泣いていた。市場を通り過ぎてから須利耶は「なぜ泣いたのか」と童子にたずねると童子はいう。
「みんながあのお母さんの馬にも子供の馬にもあとで荷物を一杯つけてひどい山を連れて行くんだ。それから食べ物がなくなると殺して食べてしまうんだろう」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.160』新潮文庫 一九八九年)
須利耶はまったく成人(おとな)が考えるようなことを言う子だなと何気ない様子を見せていたが、内心では童子のことを少し恐ろしく感じた。そのうち童子は十二歳になった。子どもたちにとっては勉強が始まる年頃だ。須利耶夫婦は童子を首都の塾に入れた。賢治はその塾について「外道(げどう)の塾」と書いている。須利耶は仏教徒。だからおそらく道教・儒教・イスラム教のうちいずれかだろうと考えられる。単純にいえば「空」=「天」から舞い降りた子なので道教ではないかと思うわけだが、はっきりどの宗教に属するとは書かれていない。また勉強といってもほんの初歩的学習がメインになるためちょっとした文字を教わったりするばかり。その点ではどこも違わない。むしろどこでも構わないように思う。問題は首都の塾にいるはずの童子が突然家に帰ってきた時の言動だ。母を見つけてこう言う。
「『私、もうお母さんと一緒(いっしょ)に働らこうと思います。勉強している暇(ひま)はないんです。ーーーだっておっかさん。おっかさんの手はそんなにガサガサしているのでしょう。それだのに私の手はこんななんでしょう』」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.161』新潮文庫 一九八九年)
冬が近く天山はすっかり真っ白に雪化粧しており、村の樹々は晩秋で枯れ葉をカサカサ鳴らしていた。天山は「天山(テンシャン)山脈」のこと。タクラマカン砂漠の北を取り巻き今のウイグル自治区を東西に横切る。雁の童子はなかなか塾に戻ろうとしない。母は仕方なく近くの沼地まで童子を送って出て、沼の蘆(あし)を引き抜いて小さな笛(ふえ)を作ってやり童子に持たせた。そこで童子はようやく一人でとぼとぼと歩きだした。本格的な冬が訪れさらに春がやってきた。その頃。
「ちょうどそのころ沙車(さしゃ)の町はずれの砂の中から、古い沙車大寺のあとが掘(ほ)り出されたとのことでございました。一つの壁(かべ)がまだそのままで見附(みつ)けられ、そこには三人の天道子が描(えが)かれ、ことにその一人はまるで生きたようだとみんなが評判しましたそうです」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.162』新潮文庫 一九八九年)
賢治は唐突に作品の中へ事実を割り込ませる。一九〇七年、イギリス人スタインが崑崙(こんろん)山脈北端に位置するミーランの仏教寺院跡から<有翼の天使像>の壁画(部分)を発見。須利耶たちが暮らす「沙車(さしゃ=ヤルカンド)」は「流沙(るさ=タクラマカン砂漠」を中心に見た場合ミーランの西側対極に位置する。そして今から約二〇〇〇年前のミーランはすぐ南から崑崙山脈の湧水が豊富に流れ込んでいたため砂漠の中のオアシス都市だったと考えられている。幾つかの仏教寺院跡がある程度広範囲に重なって建造された遺跡群だが、古くから交易範囲は広大で西方向へは地中海にまで及んでいたようだ。その中継地点として重要だったのだろう。須利耶は童子を連れてそこを訪れる。もっとも、実際の地理的距離は途方もなく遠いが小説という形式を用いればその困難をあっけなく突破することができる。そしてその途中、童子は須利耶に尋ねる。
「『お父さん。私はどこへも行きたくありません。そして誰(たれ)もどこへも行かないでいいのでしょうか』という云う不思議なお尋(たず)ねでございます。『誰もどこへも行かないでいいかってどう云うことだ』。『誰もね、ひとりで離れてどこへも行かないでいいのでしょうか』。『うん。それは行かないでいいだろう』と須利耶さまは何の気もなくぼんやりと斯(こ)うお答えでした」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.163』新潮文庫 一九八九年)
二人は広場を通り抜けて郊外へおもむく。発掘現場が見えてきた。すでに大勢の人だかりができている。二人も現場を見ようと中へ降りてみた。色あせてはいるが三人の天の童子が描かれていた。
「須利耶さまは思わずどきっとなりました。何か大きな重いものが、遠くの空からばったりかぶさったように思われましたのです」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.164』新潮文庫 一九八九年)
須利耶が振り返った時すでに童子は倒れていた。何か最後の言葉をつぶやいている。けれどもその内容はよく聞き取れない。現場に来ていた人々は「雁の童子だ。雁の童子だ」と口々に叫んだ。
ところで第一の問いが出現している。作品「雁の童子」はどこから始まったか。先に引いた一節。「ちょうどそのころ沙車(さしゃ)の町はずれの砂の中から、古い沙車大寺のあとが掘(ほ)り出されたとのことでございました。一つの壁(かべ)がまだそのままで見附(みつ)けられ、そこには三人の天道子が描(えが)かれ、ことにその一人はまるで生きたようだとみんなが評判しましたそうです」。間違いなくそこが起点である。この点を小説前半へ向けて遡行すると最初の「楊(やなぎ)で囲まれた小さな泉」へたどりつく。ニーチェのいう「原因と結果の転倒」。
「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四七九・P.23~24」ちくま学芸文庫 一九九三年)
そこで<わたし>は或る見知らぬ老人から謎の「小さな祠」について説明を受ける。その泉は別の箇所で「沙漠(さばく)のへりの泉」とも書かれている。古代都市でオアシスは人々が集まる日常生活の中心地でありなおかつ交易の中心地だった。「今昔物語」を見ても登場する村落共同体の真ん中にはほとんどいつも「井戸」がある。言葉はそこで発生し翻訳(交換)されさらに幾つもの遠方へ流通していったに違いない。
第二の問い。この小説は折口信夫のいう「貴種流離譚」形式を取っている点。童子は村落共同体の中で「いじめられっ子・排除される側の項」を演じている。
第三の問い。しかし童子は人間の子どもではなく「雁」の子どもである点。従って還っていくべき場所は地上ではなくあくまでも天上でなくてはならない。
第四に須利耶に向けて童子が尋ねる「誰もね、ひとりで離れてどこへも行かないでいいのでしょうか」という不安に満ちた質問。逆にいえば、その応答も含めて次のようになる。作品「マリヴロンと少女」から引こう。
「『ええ、それをわたくしはのぞみます。けれどもそれはあなたはいよいよそうでしょう。正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向うの青いそらのなかを一羽の鵠(こう)がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでしょうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です』。『けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべての草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います。わたくしはたれにも知られず巨(おお)きな森のなかで朽(く)ちてしまうのです』。『それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与(あた)えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈(おく)られます』。『私を教えて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします』。『いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考えるそこに居(お)ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすすむ人人は、いつでもいっしょにいるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう』」(宮沢賢治「マリヴロンと少女」『銀河鉄道の夜・P.109~110』新潮文庫 一九八九年)
こうある。「いっしょにすすむ人人は、いつでもいっしょにいる」。それこそまるで如来的実践(菩薩的無償性)でありまた同時に賢治自身が目指した理想像でもあった。
第五に通称「雁の童子」はほかならぬ<童子>でなければならない点。フロイトはいう。
「遊ぶ子供はこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、それは誤りである。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいるのである。そして遊びの反対は真剣ではない。ーーー現実である」(フロイト「詩人と空想すること」『フロイト著作集3・P.82』人文書院 一九六九年)
だがしかし作者としての宮沢賢治はもはや二度と少年時代を通り抜けることができない立場にいる。その意味で、かつてあったに違いない過去の自画像としての「読み」も十分に許される作品として間違いなく特記されてよいだろう。
BGM1
BGM2
BGM3
沙車(さしゃ)=ヤルカンドに「須利耶圭(すりやけい)」という仏教徒がおり、或る日の明け方、一緒に歩いている従弟(いとこ)が鉄砲で雁を仕留めるのを見ていた。六発の弾丸が六疋の雁に命中、五疋はほぼ即死で落下してきた。残りの子どもの雁だけは少しも傷つかず後を追って降りてくる。空から地面へ向って落下してくる雁の列はまったく乱れない。須利耶の眼にはそれがこう見えた。
「いつか雁がみな空を飛ぶ人の形に変って居(お)りました」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.152』新潮文庫 一九八九年)
六疋の雁がすべて地上へ落ちた時、その中で一番老齢と思われる「白い鬚(ひげ)の老人」は瀕死の状態。須利耶の足元でこういう。
「私共は天の眷属(けんぞく)でございます。罪があってただいままで雁の形を受けて居りました。只今(ただいま)報(むく)いを果しました。私共は天に帰ります。ただ私の一人の孫はまだ帰れません。これはあなたとは縁(えん)のあるものでございます。どうぞあなたの子にしてお育てを願います。おねがいでございます」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.153~154』新潮文庫 一九八九年)
須利耶(すりや)は「判(わか)った。引き受けた」、だから安心してほしいと答えた。子どもの雁はすっかり人間の童子姿になっている。それから須利耶はその子を育てることにした。話の広がるのは速い。沙車の町ではもうその子のことを「雁(かり)の童子」と呼んでいた。そのうち童子は六歳になった。或る春の夕方、須利耶が童子を連れて沙車の町を歩いていたところ、町の子どもたちが珍しがって童子を取り囲み嘲笑まじりにはやし立てる。そしてまた雁は春になると北方へ帰っていくことを子どもたちはよく知っている。始めは「空からおりて来た雁の子・雁童子」というばかりのからかい方だったが次には言葉が変わる。
「雁のすてご、雁のすてご、春になってもまだ居るか」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.156』新潮文庫 一九八九年)
意地悪や嫌味というものは繰り返されるうちに飽きられるのが常だが、繰り返されている最中に或る種の語彙や別の意味を増殖させることで刷新される傾向を持つ。この時、子どもたちは一斉に「どっと」笑った。笑いにまぎれてどこかから小石が飛んできて童子の顔面に命中した。須利耶は怒ったが童子は笑って許していた。須利耶が怒るのはもっともだが童子の側はやけにませて見える。それがかえって不気味に思える。
また或る晩のこと。童子は高熱を発して幻覚を見、随分うなされているようだった。須利耶(すりや)の妻は心配でたまらなくなったが須利耶は童子を連れて外へ散歩に出かけた。一面の星空の下で童子はふと水の流れる音を聞いた。水の流れているところには雁の巣がしばしばある。童子はそれを知ってか知らないのかわからないが、「水は夜でも流れるのか」と尋ねた。須利耶は答える。
「水は夜でも流れるよ。水は夜でも昼でも、平らな所ででさえなかったら、いつ迄(まで)もいつ迄も流れるのだ」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.158』新潮文庫 一九八九年)
そう聞くと童子はすっかり熱が下がったようでさっさと家に帰りぐっすり眠り込んだ。さらに或る日の食事時。食卓に「蜜(みつ)で煮(に)た二つの鮒(ふな)」が出た。童子は食べたくないと言い出した。須利耶の妻は食べさせないわけにもいかないので箸で鮒を小さくほぐしてやった。童子は黙って母が魚をほぐす横顔を見ていた。すると童子の意識が急変し家の外へ走り出た。そして大声で泣き出す。
「俄(にわ)かに胸が変な工合(ぐあい)に迫(せま)って来て気の毒なような悲しいような何とも堪(たま)らなくなりました。くるっと立って鉄砲玉(てっぽうだま)のように外へ走って出られました。そしてまっ白な雲の一杯に充(み)ちた空に向って、大きな声で泣き出しました」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.158~159』新潮文庫 一九八九年)
後を追って外へ出た母が童子を見つけると童子はもうすっかり泣きやんで微笑みすら見せていた。さらに話はつづく。須利耶が童子を連れて町の市場を歩いていたところ、馬市で仔馬が母馬から離れてほかの場所へ連れて行かれるのが見えた。童子をそれを見て泣いていた。市場を通り過ぎてから須利耶は「なぜ泣いたのか」と童子にたずねると童子はいう。
「みんながあのお母さんの馬にも子供の馬にもあとで荷物を一杯つけてひどい山を連れて行くんだ。それから食べ物がなくなると殺して食べてしまうんだろう」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.160』新潮文庫 一九八九年)
須利耶はまったく成人(おとな)が考えるようなことを言う子だなと何気ない様子を見せていたが、内心では童子のことを少し恐ろしく感じた。そのうち童子は十二歳になった。子どもたちにとっては勉強が始まる年頃だ。須利耶夫婦は童子を首都の塾に入れた。賢治はその塾について「外道(げどう)の塾」と書いている。須利耶は仏教徒。だからおそらく道教・儒教・イスラム教のうちいずれかだろうと考えられる。単純にいえば「空」=「天」から舞い降りた子なので道教ではないかと思うわけだが、はっきりどの宗教に属するとは書かれていない。また勉強といってもほんの初歩的学習がメインになるためちょっとした文字を教わったりするばかり。その点ではどこも違わない。むしろどこでも構わないように思う。問題は首都の塾にいるはずの童子が突然家に帰ってきた時の言動だ。母を見つけてこう言う。
「『私、もうお母さんと一緒(いっしょ)に働らこうと思います。勉強している暇(ひま)はないんです。ーーーだっておっかさん。おっかさんの手はそんなにガサガサしているのでしょう。それだのに私の手はこんななんでしょう』」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.161』新潮文庫 一九八九年)
冬が近く天山はすっかり真っ白に雪化粧しており、村の樹々は晩秋で枯れ葉をカサカサ鳴らしていた。天山は「天山(テンシャン)山脈」のこと。タクラマカン砂漠の北を取り巻き今のウイグル自治区を東西に横切る。雁の童子はなかなか塾に戻ろうとしない。母は仕方なく近くの沼地まで童子を送って出て、沼の蘆(あし)を引き抜いて小さな笛(ふえ)を作ってやり童子に持たせた。そこで童子はようやく一人でとぼとぼと歩きだした。本格的な冬が訪れさらに春がやってきた。その頃。
「ちょうどそのころ沙車(さしゃ)の町はずれの砂の中から、古い沙車大寺のあとが掘(ほ)り出されたとのことでございました。一つの壁(かべ)がまだそのままで見附(みつ)けられ、そこには三人の天道子が描(えが)かれ、ことにその一人はまるで生きたようだとみんなが評判しましたそうです」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.162』新潮文庫 一九八九年)
賢治は唐突に作品の中へ事実を割り込ませる。一九〇七年、イギリス人スタインが崑崙(こんろん)山脈北端に位置するミーランの仏教寺院跡から<有翼の天使像>の壁画(部分)を発見。須利耶たちが暮らす「沙車(さしゃ=ヤルカンド)」は「流沙(るさ=タクラマカン砂漠」を中心に見た場合ミーランの西側対極に位置する。そして今から約二〇〇〇年前のミーランはすぐ南から崑崙山脈の湧水が豊富に流れ込んでいたため砂漠の中のオアシス都市だったと考えられている。幾つかの仏教寺院跡がある程度広範囲に重なって建造された遺跡群だが、古くから交易範囲は広大で西方向へは地中海にまで及んでいたようだ。その中継地点として重要だったのだろう。須利耶は童子を連れてそこを訪れる。もっとも、実際の地理的距離は途方もなく遠いが小説という形式を用いればその困難をあっけなく突破することができる。そしてその途中、童子は須利耶に尋ねる。
「『お父さん。私はどこへも行きたくありません。そして誰(たれ)もどこへも行かないでいいのでしょうか』という云う不思議なお尋(たず)ねでございます。『誰もどこへも行かないでいいかってどう云うことだ』。『誰もね、ひとりで離れてどこへも行かないでいいのでしょうか』。『うん。それは行かないでいいだろう』と須利耶さまは何の気もなくぼんやりと斯(こ)うお答えでした」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.163』新潮文庫 一九八九年)
二人は広場を通り抜けて郊外へおもむく。発掘現場が見えてきた。すでに大勢の人だかりができている。二人も現場を見ようと中へ降りてみた。色あせてはいるが三人の天の童子が描かれていた。
「須利耶さまは思わずどきっとなりました。何か大きな重いものが、遠くの空からばったりかぶさったように思われましたのです」(宮沢賢治「雁の童子」『風の又三郎・P.164』新潮文庫 一九八九年)
須利耶が振り返った時すでに童子は倒れていた。何か最後の言葉をつぶやいている。けれどもその内容はよく聞き取れない。現場に来ていた人々は「雁の童子だ。雁の童子だ」と口々に叫んだ。
ところで第一の問いが出現している。作品「雁の童子」はどこから始まったか。先に引いた一節。「ちょうどそのころ沙車(さしゃ)の町はずれの砂の中から、古い沙車大寺のあとが掘(ほ)り出されたとのことでございました。一つの壁(かべ)がまだそのままで見附(みつ)けられ、そこには三人の天道子が描(えが)かれ、ことにその一人はまるで生きたようだとみんなが評判しましたそうです」。間違いなくそこが起点である。この点を小説前半へ向けて遡行すると最初の「楊(やなぎ)で囲まれた小さな泉」へたどりつく。ニーチェのいう「原因と結果の転倒」。
「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四七九・P.23~24」ちくま学芸文庫 一九九三年)
そこで<わたし>は或る見知らぬ老人から謎の「小さな祠」について説明を受ける。その泉は別の箇所で「沙漠(さばく)のへりの泉」とも書かれている。古代都市でオアシスは人々が集まる日常生活の中心地でありなおかつ交易の中心地だった。「今昔物語」を見ても登場する村落共同体の真ん中にはほとんどいつも「井戸」がある。言葉はそこで発生し翻訳(交換)されさらに幾つもの遠方へ流通していったに違いない。
第二の問い。この小説は折口信夫のいう「貴種流離譚」形式を取っている点。童子は村落共同体の中で「いじめられっ子・排除される側の項」を演じている。
第三の問い。しかし童子は人間の子どもではなく「雁」の子どもである点。従って還っていくべき場所は地上ではなくあくまでも天上でなくてはならない。
第四に須利耶に向けて童子が尋ねる「誰もね、ひとりで離れてどこへも行かないでいいのでしょうか」という不安に満ちた質問。逆にいえば、その応答も含めて次のようになる。作品「マリヴロンと少女」から引こう。
「『ええ、それをわたくしはのぞみます。けれどもそれはあなたはいよいよそうでしょう。正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向うの青いそらのなかを一羽の鵠(こう)がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでしょうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です』。『けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべての草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います。わたくしはたれにも知られず巨(おお)きな森のなかで朽(く)ちてしまうのです』。『それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与(あた)えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈(おく)られます』。『私を教えて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします』。『いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考えるそこに居(お)ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすすむ人人は、いつでもいっしょにいるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう』」(宮沢賢治「マリヴロンと少女」『銀河鉄道の夜・P.109~110』新潮文庫 一九八九年)
こうある。「いっしょにすすむ人人は、いつでもいっしょにいる」。それこそまるで如来的実践(菩薩的無償性)でありまた同時に賢治自身が目指した理想像でもあった。
第五に通称「雁の童子」はほかならぬ<童子>でなければならない点。フロイトはいう。
「遊ぶ子供はこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、それは誤りである。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいるのである。そして遊びの反対は真剣ではない。ーーー現実である」(フロイト「詩人と空想すること」『フロイト著作集3・P.82』人文書院 一九六九年)
だがしかし作者としての宮沢賢治はもはや二度と少年時代を通り抜けることができない立場にいる。その意味で、かつてあったに違いない過去の自画像としての「読み」も十分に許される作品として間違いなく特記されてよいだろう。
BGM1
BGM2
BGM3
