九月一日の早朝。他の生徒の誰よりも早い時間、「おかしな赤い髪(かみ)の子供がひとり一番前の机にちゃんと座(すわ)っていた」。さらにその姿形について。
「変てこな鼠(ねずみ)いろのマントを着て水晶(すいしょう)かガラスか、とにかくきれいなすきとおった沓(くつ)をはいていました。それに顔と云ったら、まるで熟した苹果(りんご)のよう殊(こと)に眼はまん円でまっくろなのでした」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.88』新潮文庫 一九九五年)
これからは「もうです秋」と先生はいう。新学期の初日。しかし生徒たちの関心はもっぱら「さっきの見知らぬ子供」のこと。そこであれは一体誰なのか生徒たちが先生に質問すると先生はまったく困惑してしまった。先生には「赤髪の鼠色のマントを着た変な子」の姿がまったく見えないのだった。
九月二日。午後の授業を終えた六年生の一郎と五年生の耕一は前日に見た赤毛の子のことが気になって仕方ない。そこで川を渡り丘をぐんぐん登った。栗の木を見上げると赤髪の鼠色のマントを着た変な子供がいる。声をかけてみるとその子は「風野又三郎」だと名乗った。一郎たちが岩手山へ行ったかと尋ねるともちろんだともと答える。両者の問答は一方的なモノローグ〔独白〕ではなくもうダイアローグ〔対話〕に入っている。又三郎は岩手山についていかにも楽しそうに語ってみせる。「谷底」を見つけた又三郎は自分で自分のことを<僕>というのだが、谷底のように「少しでも、空いているところを見たら、すぐ走って行かないといけない」性質を持っている点については<僕ら>と複数形を用いる。そして又三郎の兄も父も叔父(おじ)も名前はまったく同じ「風野又三郎」である。また「今朝少し明るくなるとその崖がまるで火が燃えているようにまっ赤」に見えるのは他の作品同様、山岳地帯の大きな崖について語られる文章と違わない。そしてもう陽がのぼるかのぼらないかという微妙な瞬間、又三郎は或る悪戯(いたずら)をしたという。
「『夜中の一時に岩手山の丁度三合目についたろう。あすこの小屋にはもう人が居ないねえ。僕は小屋のまわりを一ぺんぐるっとまわったんだよ。そしてまっくろな地面をじっと見おろしていたら何だか足もとがふらふらするんだ。見ると谷の底がだいぶ空(あ)いてるんだ。僕らは、もう、少しでも、空いているところを見たら、すぐ走って行かないといけないんだからね、僕はどんどん下りて行ったんだ。谷底はいいねえ。僕は三本の白樺(しらかば)の木のかげへはいってじっとしずかにしていたんだ。朝までお星さまを数えたりいろいろこれからの面白いことを考えたりしていたんだ。あすこの谷底はいいねえ。そんなにしずかじゃないんだけれど。それは僕の前にまっ黒な崖(がけ)があってねえ、そこから一晩中ころころかさかさ石かけや火山灰のかたまったのやが崩(くず)れて落ちて来るんだ。けれどもじっとその音を聞いてるとね、なかなか面白いんだよ。そして今朝少し明るくなるとその崖がまるで火が燃えているようにまっ赤なんだろう。そうそう、まだ明るくならないうちにね、谷の上の方をまっ赤な火がちらちらちらちら通って行くんだ。楢(なら)の木や樺の木が火にすかし出されてまるで烏瓜(からすうり)の燈籠(とうろう)のように見えたぜ』。『そうだ。おら去年烏瓜の燈火(あかし)拵(こさ)えた。そして縁側(えんがわ)へ吊(つる)して置いたら風吹いて落ちた』と耕一が言いました。すると又三郎は噴(ふ)き出してしまいました。『僕お前の烏瓜の燈籠を見たよ。あいつは奇麗(きれい)だったねい、だから僕はいきなり衝(つ)き当って落してやったんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.95~96』新潮文庫 一九九五年)
そう聞かされた耕一は怒った。怒る耕一を見た又三郎は空に向かい咽喉(のど)を波打たせて大きく笑った。そして「きれいなこやなぎの木を五本」持って来てあげるからという。すると耕一の怒りは溶けた。又三郎に吹き飛ばされ衝(つ)き落とされた耕一の「烏瓜(からすうり)の燈籠(とうろう)」は衝(つ)き落とされた耕一のショックを含め「五本のきれいなこやなぎの木」と等価交換されることで両者は一致し同意し合った。先生にその姿は見えないが、小学校の生徒たちにはそれが見える。又三郎の特徴の一つがそれでありなおかつ生徒たちは又三郎と等価交換に入ることができるという第二の特徴が出現している。それにしても又三郎の語りはたいへん面白い。一郎も耕一もいろいろな話が聞けそうに思い、又三郎にまた会えるかと尋ねる。なお又三郎のいう「タスカロラ海床(かいしょう)」は千島カムチャッカ海溝の中央部で水深八〇〇〇メートルほど。
「『又三郎さん。お前(まい)はまだここらに居るのか』。一郎がたずねました。又三郎はじっと空を見ていましたが、『そうだねえ。もう五、六日は居るだろう。歩いたってあんまり遠くへは行かないだろう。それでももう九日たつと二百二十日だからね。その日は、事によると僕はタスカロラ海床(かいしょう)のすっかり北のはじまで行っちまうかも知れないぜ。今日もこれから一寸向うまで行くんだ。僕たちお友達になろうかねえ』。『はじめから友だちだ』。一郎が少し顔を赤くしながら云いました。『あした僕は又どっかであうよ。学校から帰る時もし僕がここに居たようならすぐおいで』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.99』新潮文庫 一九九五年)
九月三日。噂は小学校の生徒たちみんなの知るところとなり、昼過ぎには十人ばかりが丘にかけ上がって又三郎を呼ぶ。掛け声はこうだ。
「『又三郎、又三郎、どうどっと吹(ふ)いで来(こ)』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.100』新潮文庫 一九九五年)
又三郎が語るエピソードは小学生にとってはとても楽しい。昨年は東京のなんとか大将の家の障子をはずしたり庭のざくろを落としたり電信ばしらの針金も切ってやったという。去年もここを通っていて、高洞山(たかぼらやま)の蛇紋岩(じゃもんがん)に雪を叩きつけて行ったらしい。今年もまた二百二十日が来たら遠く北方へ一挙に飛んでいく予定だ。生徒たちは口々に又三郎さんたちは「いいなあ」とうらめしげに洩らす。と、又三郎は真面目になってこう述べる。なぜ自分と他人とをくらべてばかりいるのかと。その声は少し怒気を含んでいる。
「『お前たちはだめだねえ。なぜ人のことをうらやましがるんだい。僕だってつらいことはいくらでもあるんだい。お前たちにもいいことはたくさんあるんだい。僕は自分のことは一向考えもしないで人のことばかりうらやんだり馬鹿(ばか)にしてるやつらを一番いやなんだぜ。僕たちの方ではね、自分を外(ほか)のものとくらべることが一番はずかしいことになっているんだ。僕たちはみんな一人一人なんだよ。さっきも云ったような僕たちの一年に一ぺんか二へんの大演習の時にね、いくら早くばかり行ったって、うしろをふりむいたり並(なら)んで行くものの足なみを見たりするものがあると、もう誰(たれ)も相手にしないんだぜ。やっぱりお前たちはだめだねえ。外の人とくらべることばかり考えているんじゃないか。僕はそこへ行くとさっき空で遭(あ)った鷹がすきだねえ。あいつは天気の悪い日なんか、ずいぶん意地の悪いこともあるけれども空をまっすぐに馳けてゆくから、僕はすきなんだ。銀色の羽をひらりひらりとさせながら、空の青光の中や空の影(かげ)の中を、まっすぐにまっすぐに、まるでどこまで行くかわからない不思議な矢のように馳けて行くんだ。だからあいつは意地悪で、あまりいい気持ちはしないけれども、さっきも、よう、あんまり空の青い石を突っつかないでくれっ、て挨拶したんだ。するとあいつが云ったねえ、ふん、青い石に穴があいたら、お前にも向うの世界を見物させてやろうって云うんだ。云うことはずいぶん生意気だけれども僕は悪い気がしなかったねえ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.104~105』新潮文庫 一九九五年)
又三郎から見た鷹の行動は意地悪に見える。空の青い部分を砕くのはやめてほしいというわけだが、鷹は逆にもし「青い石に穴があいたら、お前にも向うの世界を見物させてやろう」と言っている。風野又三郎の立場から見えないものが鷹の立場からは見える。それは又三郎にとっておそらくまったく新鮮な世界だろう。さらに人間の鷹派では考えられないことだが動物の鷹はまっすぐに空を突っ切って飛翔していく。その姿は又三郎にとってさえ<美>の一つとして映っている。又三郎の透明なマントはぎらぎら光りガラスの沓(くつ)はカチッカチッと音を立てて生徒たちを魅了する。一昨日(おととい)の峠(とおげ)での出来事などを語ったあと、「急に向うが空(あ)いちまった。僕は向うへ行く」といってたちまち姿を消した。
九月四日。なぜ「空(あ)いたところ」へ一挙に移動するのかがはっきりする。又三郎は生徒たちに<サイクルホール>の話をした。次の文章は<サイクルホール>を「やった」時のエピソード。これまでに何度もやったことがあるという。明治維新頃の話まで出てくる。又三郎の年齢はいったい幾つなのか不明になる。
「甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八(やつ)ヵ岳(たけ)の麓(ふもと)の野原でやすんでたろう。曇(くも)った日でねえ、すると向うの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろうが上っていたんだ。それでも僕はまあやすんでいた。そして夕方になったんだ。するとあちこちから『おいサイクルホールをやろうじゃないか。どうもやらなけぁ、いけない様だよ』ってみんなの云うのが聞えたんだ。『やろう』僕たちはたち上って叫(さけ)んだねえ、『やろう』『やろう』声があっちこっちから聞えたね。『いいかい、じゃ行くよ』僕はその平地をめがけてピーッと飛んで行った。するといつでもそうなんだが、まっすぐに平地に行かさらないんだ。急げば急ぐほど右へまがるよ、尤もそれがサイクルホールになるんだよ。さあ、みんながつづいたらしいんだ。僕はもうまるで、汽車よりも早くなっていた。下に富士川の白い帯を見てかけて行った。けれども間もなく、僕はずっと高いところにのぼって、しずかに歩いていたねえ。サイクルホールはだんだん向うへ移って行って、だんだんみんなもはいって行って、、ずいぶん大きな音をたてながら、東京の方へ行ったんだ。きっと東京でもいろいろ面白いことをやったねえ。それから海へ行ったろう。海へ行ってこんどは竜巻(たつまき)をやったにちがいないんだ。竜巻はねえ、ずいぶん凄(すご)いよ。海のには僕はいったことはないんだけれど、小さいのを沼でやったことがあるよ。丁度お前達の方のご維新(いしん)前ね、日詰(ひづめ)の近くに源五沼という沼があったんだ。そのすぐ隣(とな)りの草はらで、僕等は五人でサイクルホールをやった。ぐるぐるひどくまわっていたら、まるで木も折れるくらい烈(はげ)しくなってしまった。丁度雨も降るばかりのところだった。一人の僕の友だちがね、沼を通る時、とうとう機(はず)みで水を掬(すく)っちゃったんだ。さあ僕等はもう黒雲の中に突き入ってまわって馳けたねえ、水が丁度漏斗(じょうご)の尻(しり)のようになって来るんだ。下から見たら本当にこわかったろう。『ああ竜(りゅう)だ、竜だ』。みんなは叫んだよ。実際、下から見たら、さきの水はぎらぎら白く光って黒雲の中にはいって、竜のしっぽのように見えたのかも知れない。その時友だちがまわるのをやめたもんだから、水はざあっと一ぺんに日詰の町に落ちかかったんだ。その時は僕はもうまわるのをやめて、少し下に降りて見ていたがね、さっきの水の中にいた鮒(ふな)やなまずが、ばらばらと往来や屋根に降っていたんだ。みんなは外へ出て恭恭(うやうや)しく僕等の方を拝んだり、降って来た魚を押し戴(いただ)いていたよ。僕等は竜じゃないんだけども拝まれるとやっぱりうれしいからね、友だち同志にこにこしながらゆっくりゆっくり北の方へ走って行ったんだ」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.111~113』新潮文庫 一九九五年)
とすると<サイクルホール>は要するに「低気圧」のことにほかならない。なかでも強烈なケースでは竜巻が巻き起こるという。ちなみに江戸時代の日記「甲子夜話」には次のように描かれている。
「明和元年大火の後、堀和州の臣、川手九郎兵衛と云(いふ)人、其君の庫の焼残りしに庇(ひさし)をかけて、勤番ながら住居たり。其頃大風雨せしこと有しに、夜中燈燭も吹消したれば、燧箱(ひうちばこ)をさがす迚、戸外を視れば、小挑灯の如き火二つ雙で邸北の方より来たり。この深夜且風雨はげしきに人来るべきようもなしと、怪(あやしく)思ひながら火を打居たるに、頓(やが)て其前を行過る時、見れば、火一つなり。いよいよ不審に思ふ内、そのあとに松の大木を横たへる如きもの地上四尺余を行く。其長さ二十余間とも覚えしが、その大木と見ゆるものの中より、石火の如き光時々発したり。其通行の際は別(べつし)て風雨烈しく有りし。かかれば先きに雙灯と見えしは両眼、近くなれば一方計見ゆるより一つとなり。大木は其躬(み)にして竜ならんと云しと。又同じとき下谷煉塀小路の御徒押(おかちおさへ)、林部善太左衛門の子善十郎年十六なるが、屋上に登り雨漏(あまもり)を防ぎゐたるに、これも空中に小挑灯の如き雙火の飛行するを見たるとなり。彼(かの)竜の空を行しときならん。又奥州庄内藩の某語(かたり)しと聞く。某人かの藩の城下に居しとき、迅雷烈(はげしく)風雨せしが、夏のことゆゑほどなく晴たり。此とき家辺を往来するもの何か噪(さわがし)く言ふゆゑ出て空を仰見たれば、長(た)け三丈余もあらん、蛇形の頭に黒き髪長く生下り、両角は見へざれど、絵に描く竜の如くなるが蜿蜒(ゑんえん)す。視るもの言には、今や地に落来たらん。さあらば何ごとをか引出さんと人人惧(おそ)れ合たり。此時鳥海山の方より一条の薄黒き雲あしはやく来りしが、かの空中に蜿蜒せるものの尾にとどくと等しく、一天墨の如くなりて大雨傾盆す。暫(しばらく)して又晴たり。そのときは蛇形も見へざりしと云。如此きもの洋人の著書〔書名ヨンストンス〕に見えし。又仙波喜多院の側に小池あり。一年旱(ひでり)して雩(う)せしとき、其池中より一条の水気起騰(たちのぼ)りて、遂に一天に覆ひ大雨そそぎ、大木三十六株捲倒せしことあり。所謂たつまきならん。其竜を観ん迚、野村与兵衛と云(いふ)小普請衆、天をよく視居たれど、ただ飆風旋転して竜のかたちは少しも見ずと予に語れり」(「甲子夜話1・巻十一・十四・P.186~187」東洋文庫 一九七七年)
冬になると逆に南下する。日本の場合なら空気が乾燥して咽喉(のど)を痛めることはよくあることだが又三郎はいう。「それは僕等の知ったことじゃない」。人間にとって風はそれがどんな烈しいものであっても自然現象である以上、又三郎から見ればなるほど「それは僕等の知ったことじゃない」。もっともな発言だろう。ついでに「梅雨(つゆ)」の説明だが、梅雨についても又三郎はいう。「日本が丁度それにあたるんだからね、仕方がないや」。発言はいちいちもっともだ。
「『冬は僕等は大抵シベリヤに行ってそれをやったり、そっちからこっちに走って来たりするんだ。僕たちがこれをやってる間はよく晴れるんだ。冬ならば咽喉(のど)を痛くするものがたくさん出来る。けれどもそれは僕等の知ったことじゃない。それから五月から六月には、南の方では、大抵支那(しな)の揚子江(ようすこう)の野原で大きなサイクルホールがあるんだよ。その時丁度北のタスカロラ海床(かいしょう)の上では、別に大きな逆サイクルホールがある。両方だんだんぶっつかるとそこが梅雨(つゆ)になるんだ。日本が丁度それにあたるんだからね、仕方がないや』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.113』新潮文庫 一九九五年)
ただ、原発の温排水を含めた地球温暖化が危機的なレベルまで明確にならなかった時代のことである。ゆえに又三郎の発言は実にもっとも「だった」と、作品「風野又三郎」は、今ではもはや過去形になってしまっている点をあからさまに浮上させる。さらに九月五日。東京上空と上海上空を通過する時のエピソード。
「『僕たちの仲間はみんな上海と東京を通りたがるよ。どうしてって東京には日本の中央気象台があるし上海には支那の中華(ちゅうか)大気象台があるだろう。どっちだって偉(えら)い人がたくさん居るんだ。本当は気象台の上をかけるときは僕たちはみんな急ぎたがるんだ。どうしてって風力計がくるくるくるくる廻(まわ)っていて僕たちのレコードはちゃんと下の機械に出て新聞にも載(の)るんだろう。誰だっていいレコードを作りたいからそれはどうしても急ぐんだよ。けれども僕たちの方のきめでは気象台や測候所の近くへ来たからって俄(にわか)に急いだりすることは大へん卑怯(ひきょう)なことにされてあるんだ。お前たちだってきっとそうだろう、試験の時ばかりむやみに勉強したりするのはいけないことなってるだろう。だから僕たちも急ぎたくってわざと急がないんだ。そのかわりほんとうに一生けん命かけてる最中に気象台へ通りかかるときはうれしいねえ、風力計をまるでのぼせるくらいにまわしてピーッとかけぬけるだろう。胸もすっとなるんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.115』新潮文庫 一九九五年)
上海上空を通過中の又三郎の語りは<博士と助手とのダイアローグ〔対話〕が風刺ヘ変化する。次のとおり四段階を経る。
(1)「子供の助手はいつでも何か言っているんだ。そいつは頭をくりくり芥子坊主(けしぼうず)にしてね、着物だって袖(そで)の広い支那服だろう、沓(くつ)もはいてるねえ、大へんかあいらしいんだよ、一番はじめの日僕がそこを通ったら斯(こ)う言っていた。『これはきっと颶風(ぐふう)ですね。ずいぶんひどい風ですね』。すると支那人の博士が葉巻をくわえたままふんふん笑って『家が飛ばないじゃないか』と云(い)うと子供の助手はまるで口を尖(とが)らせて、『だって向うの三角旗や何かぱたぱた云ってます』というんだ。博士は笑って相手にしないで壇(だん)を下りて行くねえ」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.116』新潮文庫 一九九五年)
(2)「子供の助手がやっぱり云っているんだ。『この風はたしかに颶風(ぐふう)ですね』。支那人の博士はやっぱりわらって気がないように、『瓦(かわら)も石も舞(ま)い上らんじゃないか』と答えながらもう壇を下りかかるんだ。子供の助手はまるで一生けん命になって『だって木の枝(えだ)が動いてますよ』と云うんだ。それでも博士はまるで相手にしないねえ」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.117』新潮文庫 一九九五年)
(3)「気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出ていた。『こいつはもう本とうの暴風ですね』、又(また)あの子供の助手が尤(もっとも)らしい顔つきで腕(うで)を拱いてそう云っているだろう。博士はやっぱり鼻であしらうといった風で『だって木が根こそぎにならんじゃないか』と云うんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ』と云うんだ」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.118』新潮文庫 一九九五年)
(4)「子供は高い処(ところ)なもんだからもうぶるぶる顫(ふる)えて手すりにとりついているんだ。雨も幾(いく)つぶか落ちたよ。そんなにこわそうにしながらまだ斯う云っているんだ。『これは本当の暴風ですね、林ががあがあ云ってますよ、枝も折れてますよ』。ところが博士は落ちついてからだを少しめげながら海の方へ手をかざして云ったねえ、『うん、けれどもまだ暴風というわけじゃないな。もう降りよう』。僕はその語(ことば)をきれぎれに聴(き)きながらそこをはなれたんだそれからもうかけてかけて林を通るときは木をみんな狂人(きょうじん)のようにゆすぶらせ丘を通るときは草も花もめっちゃめっちゃにたたきつけたんだ、そしてその夕方までに上海(シャンハイ)から八十里も南西の方の山の中に行ったんだ」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.118~119』新潮文庫 一九九五年)
又三郎たちは水沢の緯度観測所(今の国立天文台水沢観測所)を通りたがるという話もする。水沢で記録を出せば世界中に知れ渡るからなのだが。初代所長・木村栄がテニスに興じていた時、又三郎は木村栄が上げたサーヴのボールを空中でふいに「途方もない遠くへけとばしてやった」と語っている。
九月六日。耕一は学校帰りに又三郎の不意打ちに合う。家までは川沿いに十五町ばかり、窪地や谷に沿ってぬかるんだまわり道を遡(さかのぼ)る。路(みち)の上を楢(なら)や樺(かば)の木が覆いかぶさっている箇所も幾つかある。耕一がひとりでかばんと傘を持ってその下を歩いていた時、俄(にわか)に頭上の樹木がぐらっと揺れてつめたい雫(しずく)が一度にざっと落ちてきて耕一を襲った。いっぺんに背中へ水を注ぎ込まれた気がした。次の木のトンネルをくぐり抜けようとした時もまたざっと雫が落ちてきて耕一を襲った。水のつめたさが身に沁みる。さらに次の木のトンネルの下を通ろうとした時、今度はざあっとさらに雫が落ちてきた。泣きたくなるほど冷たい。それでも我慢して少し歩くとまたざあっと降ってきた。耕一は思わず「誰だ」と叫んでいた。用心して持っていた傘を開いた。すると急に風に襲われせっかく開いた傘はきのこみたいに開いて壊れた。笑い声が響いた。声のする方角を見るとそこに風野又三郎がいた。湯気を立てて大笑いしている。怒った耕一は壊れた傘を捨ててとっとと家に帰った。口惜しくてたまらない。しかし家に着いて縁側を見ると捨ててきたはずの傘が干してある。
「縁側(えんがわ)から入ろうとしてふと見ましたらさっきの傘がひろげて干してあるのです。照井耕一という名もちゃんと書いてありましたし、さっきはなれた処もすっかりくっつききれた糸も外(ほか)の糸でつないでありました」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.125』新潮文庫 一九九五年)
この場合、又三郎の悪戯(いたずら)は又三郎自身の善戯で贖(あがな)われている。学校から家までの十五町はただ単なる物理的観点からいう「山あり谷あり」だけではなく、耕一にとってまたとない精神的「山あり谷あり」というべき<経験>を含んで増大した。言い換えれば<利子>を付けて回帰した。しかし精神的な贈物は目に見えない。その点で贈り与えるということの困難性は逆に可視化されるわけだが。
九月七日。耕一は又三郎に文句のひとつも言ってやろうと日曜日の学校で直談判を覚悟する。出現した又三郎にいう。汝(うな)のやることはどれも悪戯(いたずら)ばかりだと。「樹を伐る、稲を倒す、家を壊す、砂を飛ばす、電信ばしらや塔も倒す」。しかし又三郎は落ちついて問う。ほかにないか?と。言葉に詰まった耕一は「風車(かざぐるま)もぶっ壊(か)さな」と答えたがどう考えてもトーン・ダウンした返事でしかない。笑われてしまった。又三郎はいう。実に皮肉な内容だ。とりわけ人間社会全体にとって。
「『風車なら僕を悪く思っちゃいないんだよ。勿論(もちろん)時々壊すこともあるけれども廻(まわ)してやるときの方がずうっと多いんだ。風車ならちっとも僕を悪く思っちゃいないんだ。うそと思ったら聴(き)いてごらん。お前たちはまるで勝手だねえ、僕たちがちっとばっかしいたずらすることは大業(おおぎょう)に悪口を云っていいとこはちっとも見ないんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.129』新潮文庫 一九九五年)
風車へトーン・ダウンせざるを得なかった恥ずかしい耕一に向かって又三郎はさらに重ねてこうつづける。しかしその内容はたいへん丁寧な分析に基づく教訓の次元に達しておりまるで<おとな>だ。
「『ね、そら、僕たちのやるいたずらで一番ひどいことは日本ならば稲を倒すことだよ、二百十日から二百二十日ころまで、昔(むかし)はその頃ほんとうに僕たちはこわがられたよ。なぜってその頃は丁度稲に花のかかるときだろう。その時僕たちにかけられたら花がみんな散ってしまってまるで実にならないだろう、だから前はこわがったんだ、僕たちだってわざとするんじゃない、どうしてもその頃かけなくちゃいかないからかけるんだ、もう三、四日たてばきっと又そうなるよ。けれどもいまはもう農業が進んでお前たちの家の近くなどでは二百十日のころになど花の咲いている稲なんか一本もないだろう、大抵もう柔(やわ)らかな実になってるんだ。早い稲はもうよほど硬(かた)くさえなってるよ、僕らがかけてあるいて少し位倒れたってそんなにひどくとりいれが減りはしないんだ。だから結局何でもないさ。それからも一つは木を倒すことだよ。家を倒すなんてそんなことはほんの少しだからね、木を倒すことだよ、これだって悪戯(いたずら)じゃないんだよ。倒れないようにして置けぁいいんだ。葉の濶(ひろ)い樹なら丈夫(じょうぶ)だよ。僕たちが少しぐらいひどくぶっつかっても仲々倒れやしない。それに林の樹が倒れるなんかそれは林の持主が悪いんだよ。林を伐(き)るときはね、よく一年中の強い風向を考えてその風下の方からだんだん伐って行くんだよ。林の外側の木は強いけれども中の方の木はせいばかり高くて弱いからよくそんなことも気をつけなけぁいけないんだ。だからまず僕たちのこと悪く云う前によく自分の方に気をつけりゃいいんだよ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.130~131』新潮文庫 一九九五年)
すると耕一の機嫌はすっかり良くなった。又三郎はいう。「悪い空気も持って行っていい空気も運んで来る」。しかしそれは今やもはや加速的に過去形でしかなくなりつつある。耕一は又三郎のことを「東京育ちだろう、一年中うろうろして」となじる。ところが又三郎の側にはいつも歴然たる答えがある。
「『もちろん僕は東京なんかじゃないさ。一年中旅中さ。旅行の方が東京よりは偉(えら)いんだよ。旅行たって僕のはうろうろじゃないや。かけるときはきぃっとかけるんだ。赤道から北極まで大循環(だいじゅんかん)さえやるんだ。東京なんかよりいくらいいか知れない』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.134』新潮文庫 一九九五年)
冒頭で先生の目に風野又三郎の姿は見えないが生徒たちには見えると明記されていた。しかし生徒たちでさえ見えないが、又三郎たちには見えるものが赤道と北極付近にあるという。
(1)「『赤道には僕たちが見るとちゃんと白い指導標が立っているよ。お前たちが見たんじゃわかりゃしない。大循環志願者出発線、これより北極に至る八千九百ベェスター南極に至る八千七百ベェスターと書いてあるんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.135』新潮文庫 一九九五年)
(2)「あちこちの氷山に、大循環到着者(とうちゃくしゃ)はこの附近(ふきん)に於(おい)て数日間休養すべし、帰路は各人の任意なるも障碍(しょうがい)は来路に倍するを以(もっ)て充分(じゅうぶん)の覚悟(かくご)を要す。海洋は摩擦(まさつ)少きも却(かえ)って速度は大ならず。最も愚鈍(ぐどん)なるもの最も賢(かしこ)きものなり、という白い杭(くい)が立っている」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.141』新潮文庫 一九九五年)
特に注目したいのは(2)。文章中に「最も愚鈍(ぐどん)なるもの最も賢(かしこ)きものなり」とある。作品「どんぐりと山猫」に出てくるように<賢者と愚者と>を区別できるような絶対的基準の無効化が宣言されている。ニーチェの言葉に置き換えるともはや「神は死んだ」のだ。また賢治作品の多くで観察できる、独特の目線移動について触れておこう。
(1)「『ひるすぎの二時頃になったろう。島で銅羅(どら)がだるそうにぼんぼんと鳴り椰子の木もパンの木も一ぱいにからだをひろげてだらしなくねむっているよう、赤い魚も水の中でもうふらふら泳いだりじっととまったりして夢(ゆめ)を見ているんだ。その夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでいるんだ。青ぞらをぷかぷか泳いでいると思っているんだ。魚というものは生意気なもんだねえ、ところがほんとうは、その時、空を騰(のぼ)って行くのは僕たちなんだ、魚じゃないんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.136』新潮文庫 一九九五年)
最初、又三郎の目線はどこに位置しているのかわからない。次に「夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでいる」と、魚とともに又三郎の目線も海中に据えられている。その次は「青ぞらをぷかぷか泳いでいると思っている」とあり、たちまち距離が置かれる。第三に「空を騰(のぼ)って行くのは僕たちなんだ、魚じゃない」と、目線はそのまま<上昇気流>として語るのである。
(2)「『咽喉(のど)もかわき息もつかずまるで矢のようにどんどんどんどんかける。それでも少しも疲(つか)れぁしない、ただ北極へ北極へとみんな一生けん命なんだ。下の方はまっ白な雲になっていることもあれば海か陸かただ蒼黝(あおぐろ)く見えることもある。昼はお日さまの下を夜はお星さまたちの下をどんどんどんどんかけて行くんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.137』新潮文庫 一九九五年)
又三郎たちの目線は自分が前へ前へと走っているのかそれとも周囲が後ろへ後ろへと滑って行くのかどちらかわからなくなっている。どちらでもあると言うことも可能だ。そこで思い起こされるのは賢治が夢中になった法華経とは少し違い、道元「正法眼蔵」に見える言葉である。
「山中とは世界裏の花開(けかい)なり。山外人(さんげにん)は不覚不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覚不知、不見不聞、遮箇道理(しやこだうり)なり。もし山の運歩を疑著(ぎぢや)するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。青山すでに有情(うじやう)にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま青山の運歩を疑著(ぎぢや)せんことうべからず」(「正法眼蔵2・第二十九・山水経・P.185~186」岩波文庫 一九九〇年)
現代語訳はこう。
「山中とは世界のうちに花開く場である。山中の人は世界の花開と場をともにしている。山の外にいる人は山の歩みを覚らず知らずである。山を見ることのない人は、覚ることなく知ることなく、見ることなく聞くこともない、いずれにせよ存在とはこうした道理のなかにある。もし山が歩んでいることに疑いを持つならば、自分が歩んでいることを知らないのだ。自分が歩んでいないのではない、自分が歩んでいることに気がつかないのだ。自己とは歩むものだと知るならば、そのとき、青山で歩んでいることを知るはずである。自然存在としての青山はもとより有情でもない、非情でもない、眼耳鼻舌身意など六根の作用とは無縁である、自己もまたもともとの自然存在としては有情でもない、非情でもない。青山とは大自然そのものを意味するのであるから、青山が歩んでいることに疑いを持つことはできない」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十九・山水経・P.219~220」河出文庫 二〇〇四年)
自分は止まっているわけではない。確実に移動している。一方、自分が歩いている。だが自然界の側が同時に転回していることもまた確実であると。さらにこの事情は精神的内面においてなおさら確実だというわけである。
九月九日。大循環の話題で満たされている。そして九月十日。一郎は夢の中で覚えたての歌を聴く。
「どっどどどどうど どどうど、どどう、ああまいざくろも吹きとばせ すっぱいざくろもふきとばせ どっどどどどうど どどうど どどう」。
びっくりしてはね起きた一郎。風はひどく吹きまくり裏の林は咆哮を上げている。栗の木の行列は一斉に風雨に打たれ烈しくもまれている。空を見上げると銀色の雲がどんどん北方へ吹き飛ばされていく。「ごとんごとん」とか「ざあ」とか湧き起こり響いてくる音の嵐はまるで海が荒れているかのようだ。しかし一郎は別のことに思い当たり胸を焦がされそうになってしまう。
「昨日まで丘や野原の空の底に澄(す)みきってしんとしていた風どもが今朝夜あけ方に一斉(いっせい)に斯う動き出してどんどんどんどんタスカロラ海床(かいしょう)の北のはじをめがけて行くことを考えますともう一郎は顔がほてり息もはあ、はあ、なって自分までが一緒に空を翔(か)けて行くように胸を一杯にはり手をひろげて叫(さけ)びました。『ドッドドドドウドドドウドドドウ、あまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ、ドッドドドドウドドドウドドドウ、ドッドドドドウドドドードドドウ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.148』新潮文庫 一九九五年)
応答だろうか。幾つかの断片がちぎれちぎれにこう聞こえる。
「『ドッドドドドウドドドウドドドウ、楢(なら)の木の葉も引っちぎれ とちもくるみもふきおとせ ドッドドドドウドドドウドドドウ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.148~149』新潮文庫 一九九五年)
透明なガラスのマントがぎらりと光り、ばさばさの赤毛が見えたかと思うともうすっと消えてしまって何一つ見えない。猛烈な速度で空を駆けていく雲の群れ。一郎は背中いっぱいに風をうけながら思わず知らず空へ手を伸ばして立ち尽くすばかり。だがしかしその姿を読者から見れば、あたかも一郎が風に向かって何か祈っているかのように思われないだろうか。東北地方に残る「風童神」神話。それはこんなふうにして立ち現れ今なお残されているのかも知れない。
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「変てこな鼠(ねずみ)いろのマントを着て水晶(すいしょう)かガラスか、とにかくきれいなすきとおった沓(くつ)をはいていました。それに顔と云ったら、まるで熟した苹果(りんご)のよう殊(こと)に眼はまん円でまっくろなのでした」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.88』新潮文庫 一九九五年)
これからは「もうです秋」と先生はいう。新学期の初日。しかし生徒たちの関心はもっぱら「さっきの見知らぬ子供」のこと。そこであれは一体誰なのか生徒たちが先生に質問すると先生はまったく困惑してしまった。先生には「赤髪の鼠色のマントを着た変な子」の姿がまったく見えないのだった。
九月二日。午後の授業を終えた六年生の一郎と五年生の耕一は前日に見た赤毛の子のことが気になって仕方ない。そこで川を渡り丘をぐんぐん登った。栗の木を見上げると赤髪の鼠色のマントを着た変な子供がいる。声をかけてみるとその子は「風野又三郎」だと名乗った。一郎たちが岩手山へ行ったかと尋ねるともちろんだともと答える。両者の問答は一方的なモノローグ〔独白〕ではなくもうダイアローグ〔対話〕に入っている。又三郎は岩手山についていかにも楽しそうに語ってみせる。「谷底」を見つけた又三郎は自分で自分のことを<僕>というのだが、谷底のように「少しでも、空いているところを見たら、すぐ走って行かないといけない」性質を持っている点については<僕ら>と複数形を用いる。そして又三郎の兄も父も叔父(おじ)も名前はまったく同じ「風野又三郎」である。また「今朝少し明るくなるとその崖がまるで火が燃えているようにまっ赤」に見えるのは他の作品同様、山岳地帯の大きな崖について語られる文章と違わない。そしてもう陽がのぼるかのぼらないかという微妙な瞬間、又三郎は或る悪戯(いたずら)をしたという。
「『夜中の一時に岩手山の丁度三合目についたろう。あすこの小屋にはもう人が居ないねえ。僕は小屋のまわりを一ぺんぐるっとまわったんだよ。そしてまっくろな地面をじっと見おろしていたら何だか足もとがふらふらするんだ。見ると谷の底がだいぶ空(あ)いてるんだ。僕らは、もう、少しでも、空いているところを見たら、すぐ走って行かないといけないんだからね、僕はどんどん下りて行ったんだ。谷底はいいねえ。僕は三本の白樺(しらかば)の木のかげへはいってじっとしずかにしていたんだ。朝までお星さまを数えたりいろいろこれからの面白いことを考えたりしていたんだ。あすこの谷底はいいねえ。そんなにしずかじゃないんだけれど。それは僕の前にまっ黒な崖(がけ)があってねえ、そこから一晩中ころころかさかさ石かけや火山灰のかたまったのやが崩(くず)れて落ちて来るんだ。けれどもじっとその音を聞いてるとね、なかなか面白いんだよ。そして今朝少し明るくなるとその崖がまるで火が燃えているようにまっ赤なんだろう。そうそう、まだ明るくならないうちにね、谷の上の方をまっ赤な火がちらちらちらちら通って行くんだ。楢(なら)の木や樺の木が火にすかし出されてまるで烏瓜(からすうり)の燈籠(とうろう)のように見えたぜ』。『そうだ。おら去年烏瓜の燈火(あかし)拵(こさ)えた。そして縁側(えんがわ)へ吊(つる)して置いたら風吹いて落ちた』と耕一が言いました。すると又三郎は噴(ふ)き出してしまいました。『僕お前の烏瓜の燈籠を見たよ。あいつは奇麗(きれい)だったねい、だから僕はいきなり衝(つ)き当って落してやったんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.95~96』新潮文庫 一九九五年)
そう聞かされた耕一は怒った。怒る耕一を見た又三郎は空に向かい咽喉(のど)を波打たせて大きく笑った。そして「きれいなこやなぎの木を五本」持って来てあげるからという。すると耕一の怒りは溶けた。又三郎に吹き飛ばされ衝(つ)き落とされた耕一の「烏瓜(からすうり)の燈籠(とうろう)」は衝(つ)き落とされた耕一のショックを含め「五本のきれいなこやなぎの木」と等価交換されることで両者は一致し同意し合った。先生にその姿は見えないが、小学校の生徒たちにはそれが見える。又三郎の特徴の一つがそれでありなおかつ生徒たちは又三郎と等価交換に入ることができるという第二の特徴が出現している。それにしても又三郎の語りはたいへん面白い。一郎も耕一もいろいろな話が聞けそうに思い、又三郎にまた会えるかと尋ねる。なお又三郎のいう「タスカロラ海床(かいしょう)」は千島カムチャッカ海溝の中央部で水深八〇〇〇メートルほど。
「『又三郎さん。お前(まい)はまだここらに居るのか』。一郎がたずねました。又三郎はじっと空を見ていましたが、『そうだねえ。もう五、六日は居るだろう。歩いたってあんまり遠くへは行かないだろう。それでももう九日たつと二百二十日だからね。その日は、事によると僕はタスカロラ海床(かいしょう)のすっかり北のはじまで行っちまうかも知れないぜ。今日もこれから一寸向うまで行くんだ。僕たちお友達になろうかねえ』。『はじめから友だちだ』。一郎が少し顔を赤くしながら云いました。『あした僕は又どっかであうよ。学校から帰る時もし僕がここに居たようならすぐおいで』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.99』新潮文庫 一九九五年)
九月三日。噂は小学校の生徒たちみんなの知るところとなり、昼過ぎには十人ばかりが丘にかけ上がって又三郎を呼ぶ。掛け声はこうだ。
「『又三郎、又三郎、どうどっと吹(ふ)いで来(こ)』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.100』新潮文庫 一九九五年)
又三郎が語るエピソードは小学生にとってはとても楽しい。昨年は東京のなんとか大将の家の障子をはずしたり庭のざくろを落としたり電信ばしらの針金も切ってやったという。去年もここを通っていて、高洞山(たかぼらやま)の蛇紋岩(じゃもんがん)に雪を叩きつけて行ったらしい。今年もまた二百二十日が来たら遠く北方へ一挙に飛んでいく予定だ。生徒たちは口々に又三郎さんたちは「いいなあ」とうらめしげに洩らす。と、又三郎は真面目になってこう述べる。なぜ自分と他人とをくらべてばかりいるのかと。その声は少し怒気を含んでいる。
「『お前たちはだめだねえ。なぜ人のことをうらやましがるんだい。僕だってつらいことはいくらでもあるんだい。お前たちにもいいことはたくさんあるんだい。僕は自分のことは一向考えもしないで人のことばかりうらやんだり馬鹿(ばか)にしてるやつらを一番いやなんだぜ。僕たちの方ではね、自分を外(ほか)のものとくらべることが一番はずかしいことになっているんだ。僕たちはみんな一人一人なんだよ。さっきも云ったような僕たちの一年に一ぺんか二へんの大演習の時にね、いくら早くばかり行ったって、うしろをふりむいたり並(なら)んで行くものの足なみを見たりするものがあると、もう誰(たれ)も相手にしないんだぜ。やっぱりお前たちはだめだねえ。外の人とくらべることばかり考えているんじゃないか。僕はそこへ行くとさっき空で遭(あ)った鷹がすきだねえ。あいつは天気の悪い日なんか、ずいぶん意地の悪いこともあるけれども空をまっすぐに馳けてゆくから、僕はすきなんだ。銀色の羽をひらりひらりとさせながら、空の青光の中や空の影(かげ)の中を、まっすぐにまっすぐに、まるでどこまで行くかわからない不思議な矢のように馳けて行くんだ。だからあいつは意地悪で、あまりいい気持ちはしないけれども、さっきも、よう、あんまり空の青い石を突っつかないでくれっ、て挨拶したんだ。するとあいつが云ったねえ、ふん、青い石に穴があいたら、お前にも向うの世界を見物させてやろうって云うんだ。云うことはずいぶん生意気だけれども僕は悪い気がしなかったねえ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.104~105』新潮文庫 一九九五年)
又三郎から見た鷹の行動は意地悪に見える。空の青い部分を砕くのはやめてほしいというわけだが、鷹は逆にもし「青い石に穴があいたら、お前にも向うの世界を見物させてやろう」と言っている。風野又三郎の立場から見えないものが鷹の立場からは見える。それは又三郎にとっておそらくまったく新鮮な世界だろう。さらに人間の鷹派では考えられないことだが動物の鷹はまっすぐに空を突っ切って飛翔していく。その姿は又三郎にとってさえ<美>の一つとして映っている。又三郎の透明なマントはぎらぎら光りガラスの沓(くつ)はカチッカチッと音を立てて生徒たちを魅了する。一昨日(おととい)の峠(とおげ)での出来事などを語ったあと、「急に向うが空(あ)いちまった。僕は向うへ行く」といってたちまち姿を消した。
九月四日。なぜ「空(あ)いたところ」へ一挙に移動するのかがはっきりする。又三郎は生徒たちに<サイクルホール>の話をした。次の文章は<サイクルホール>を「やった」時のエピソード。これまでに何度もやったことがあるという。明治維新頃の話まで出てくる。又三郎の年齢はいったい幾つなのか不明になる。
「甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八(やつ)ヵ岳(たけ)の麓(ふもと)の野原でやすんでたろう。曇(くも)った日でねえ、すると向うの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろうが上っていたんだ。それでも僕はまあやすんでいた。そして夕方になったんだ。するとあちこちから『おいサイクルホールをやろうじゃないか。どうもやらなけぁ、いけない様だよ』ってみんなの云うのが聞えたんだ。『やろう』僕たちはたち上って叫(さけ)んだねえ、『やろう』『やろう』声があっちこっちから聞えたね。『いいかい、じゃ行くよ』僕はその平地をめがけてピーッと飛んで行った。するといつでもそうなんだが、まっすぐに平地に行かさらないんだ。急げば急ぐほど右へまがるよ、尤もそれがサイクルホールになるんだよ。さあ、みんながつづいたらしいんだ。僕はもうまるで、汽車よりも早くなっていた。下に富士川の白い帯を見てかけて行った。けれども間もなく、僕はずっと高いところにのぼって、しずかに歩いていたねえ。サイクルホールはだんだん向うへ移って行って、だんだんみんなもはいって行って、、ずいぶん大きな音をたてながら、東京の方へ行ったんだ。きっと東京でもいろいろ面白いことをやったねえ。それから海へ行ったろう。海へ行ってこんどは竜巻(たつまき)をやったにちがいないんだ。竜巻はねえ、ずいぶん凄(すご)いよ。海のには僕はいったことはないんだけれど、小さいのを沼でやったことがあるよ。丁度お前達の方のご維新(いしん)前ね、日詰(ひづめ)の近くに源五沼という沼があったんだ。そのすぐ隣(とな)りの草はらで、僕等は五人でサイクルホールをやった。ぐるぐるひどくまわっていたら、まるで木も折れるくらい烈(はげ)しくなってしまった。丁度雨も降るばかりのところだった。一人の僕の友だちがね、沼を通る時、とうとう機(はず)みで水を掬(すく)っちゃったんだ。さあ僕等はもう黒雲の中に突き入ってまわって馳けたねえ、水が丁度漏斗(じょうご)の尻(しり)のようになって来るんだ。下から見たら本当にこわかったろう。『ああ竜(りゅう)だ、竜だ』。みんなは叫んだよ。実際、下から見たら、さきの水はぎらぎら白く光って黒雲の中にはいって、竜のしっぽのように見えたのかも知れない。その時友だちがまわるのをやめたもんだから、水はざあっと一ぺんに日詰の町に落ちかかったんだ。その時は僕はもうまわるのをやめて、少し下に降りて見ていたがね、さっきの水の中にいた鮒(ふな)やなまずが、ばらばらと往来や屋根に降っていたんだ。みんなは外へ出て恭恭(うやうや)しく僕等の方を拝んだり、降って来た魚を押し戴(いただ)いていたよ。僕等は竜じゃないんだけども拝まれるとやっぱりうれしいからね、友だち同志にこにこしながらゆっくりゆっくり北の方へ走って行ったんだ」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.111~113』新潮文庫 一九九五年)
とすると<サイクルホール>は要するに「低気圧」のことにほかならない。なかでも強烈なケースでは竜巻が巻き起こるという。ちなみに江戸時代の日記「甲子夜話」には次のように描かれている。
「明和元年大火の後、堀和州の臣、川手九郎兵衛と云(いふ)人、其君の庫の焼残りしに庇(ひさし)をかけて、勤番ながら住居たり。其頃大風雨せしこと有しに、夜中燈燭も吹消したれば、燧箱(ひうちばこ)をさがす迚、戸外を視れば、小挑灯の如き火二つ雙で邸北の方より来たり。この深夜且風雨はげしきに人来るべきようもなしと、怪(あやしく)思ひながら火を打居たるに、頓(やが)て其前を行過る時、見れば、火一つなり。いよいよ不審に思ふ内、そのあとに松の大木を横たへる如きもの地上四尺余を行く。其長さ二十余間とも覚えしが、その大木と見ゆるものの中より、石火の如き光時々発したり。其通行の際は別(べつし)て風雨烈しく有りし。かかれば先きに雙灯と見えしは両眼、近くなれば一方計見ゆるより一つとなり。大木は其躬(み)にして竜ならんと云しと。又同じとき下谷煉塀小路の御徒押(おかちおさへ)、林部善太左衛門の子善十郎年十六なるが、屋上に登り雨漏(あまもり)を防ぎゐたるに、これも空中に小挑灯の如き雙火の飛行するを見たるとなり。彼(かの)竜の空を行しときならん。又奥州庄内藩の某語(かたり)しと聞く。某人かの藩の城下に居しとき、迅雷烈(はげしく)風雨せしが、夏のことゆゑほどなく晴たり。此とき家辺を往来するもの何か噪(さわがし)く言ふゆゑ出て空を仰見たれば、長(た)け三丈余もあらん、蛇形の頭に黒き髪長く生下り、両角は見へざれど、絵に描く竜の如くなるが蜿蜒(ゑんえん)す。視るもの言には、今や地に落来たらん。さあらば何ごとをか引出さんと人人惧(おそ)れ合たり。此時鳥海山の方より一条の薄黒き雲あしはやく来りしが、かの空中に蜿蜒せるものの尾にとどくと等しく、一天墨の如くなりて大雨傾盆す。暫(しばらく)して又晴たり。そのときは蛇形も見へざりしと云。如此きもの洋人の著書〔書名ヨンストンス〕に見えし。又仙波喜多院の側に小池あり。一年旱(ひでり)して雩(う)せしとき、其池中より一条の水気起騰(たちのぼ)りて、遂に一天に覆ひ大雨そそぎ、大木三十六株捲倒せしことあり。所謂たつまきならん。其竜を観ん迚、野村与兵衛と云(いふ)小普請衆、天をよく視居たれど、ただ飆風旋転して竜のかたちは少しも見ずと予に語れり」(「甲子夜話1・巻十一・十四・P.186~187」東洋文庫 一九七七年)
冬になると逆に南下する。日本の場合なら空気が乾燥して咽喉(のど)を痛めることはよくあることだが又三郎はいう。「それは僕等の知ったことじゃない」。人間にとって風はそれがどんな烈しいものであっても自然現象である以上、又三郎から見ればなるほど「それは僕等の知ったことじゃない」。もっともな発言だろう。ついでに「梅雨(つゆ)」の説明だが、梅雨についても又三郎はいう。「日本が丁度それにあたるんだからね、仕方がないや」。発言はいちいちもっともだ。
「『冬は僕等は大抵シベリヤに行ってそれをやったり、そっちからこっちに走って来たりするんだ。僕たちがこれをやってる間はよく晴れるんだ。冬ならば咽喉(のど)を痛くするものがたくさん出来る。けれどもそれは僕等の知ったことじゃない。それから五月から六月には、南の方では、大抵支那(しな)の揚子江(ようすこう)の野原で大きなサイクルホールがあるんだよ。その時丁度北のタスカロラ海床(かいしょう)の上では、別に大きな逆サイクルホールがある。両方だんだんぶっつかるとそこが梅雨(つゆ)になるんだ。日本が丁度それにあたるんだからね、仕方がないや』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.113』新潮文庫 一九九五年)
ただ、原発の温排水を含めた地球温暖化が危機的なレベルまで明確にならなかった時代のことである。ゆえに又三郎の発言は実にもっとも「だった」と、作品「風野又三郎」は、今ではもはや過去形になってしまっている点をあからさまに浮上させる。さらに九月五日。東京上空と上海上空を通過する時のエピソード。
「『僕たちの仲間はみんな上海と東京を通りたがるよ。どうしてって東京には日本の中央気象台があるし上海には支那の中華(ちゅうか)大気象台があるだろう。どっちだって偉(えら)い人がたくさん居るんだ。本当は気象台の上をかけるときは僕たちはみんな急ぎたがるんだ。どうしてって風力計がくるくるくるくる廻(まわ)っていて僕たちのレコードはちゃんと下の機械に出て新聞にも載(の)るんだろう。誰だっていいレコードを作りたいからそれはどうしても急ぐんだよ。けれども僕たちの方のきめでは気象台や測候所の近くへ来たからって俄(にわか)に急いだりすることは大へん卑怯(ひきょう)なことにされてあるんだ。お前たちだってきっとそうだろう、試験の時ばかりむやみに勉強したりするのはいけないことなってるだろう。だから僕たちも急ぎたくってわざと急がないんだ。そのかわりほんとうに一生けん命かけてる最中に気象台へ通りかかるときはうれしいねえ、風力計をまるでのぼせるくらいにまわしてピーッとかけぬけるだろう。胸もすっとなるんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.115』新潮文庫 一九九五年)
上海上空を通過中の又三郎の語りは<博士と助手とのダイアローグ〔対話〕が風刺ヘ変化する。次のとおり四段階を経る。
(1)「子供の助手はいつでも何か言っているんだ。そいつは頭をくりくり芥子坊主(けしぼうず)にしてね、着物だって袖(そで)の広い支那服だろう、沓(くつ)もはいてるねえ、大へんかあいらしいんだよ、一番はじめの日僕がそこを通ったら斯(こ)う言っていた。『これはきっと颶風(ぐふう)ですね。ずいぶんひどい風ですね』。すると支那人の博士が葉巻をくわえたままふんふん笑って『家が飛ばないじゃないか』と云(い)うと子供の助手はまるで口を尖(とが)らせて、『だって向うの三角旗や何かぱたぱた云ってます』というんだ。博士は笑って相手にしないで壇(だん)を下りて行くねえ」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.116』新潮文庫 一九九五年)
(2)「子供の助手がやっぱり云っているんだ。『この風はたしかに颶風(ぐふう)ですね』。支那人の博士はやっぱりわらって気がないように、『瓦(かわら)も石も舞(ま)い上らんじゃないか』と答えながらもう壇を下りかかるんだ。子供の助手はまるで一生けん命になって『だって木の枝(えだ)が動いてますよ』と云うんだ。それでも博士はまるで相手にしないねえ」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.117』新潮文庫 一九九五年)
(3)「気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出ていた。『こいつはもう本とうの暴風ですね』、又(また)あの子供の助手が尤(もっとも)らしい顔つきで腕(うで)を拱いてそう云っているだろう。博士はやっぱり鼻であしらうといった風で『だって木が根こそぎにならんじゃないか』と云うんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ』と云うんだ」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.118』新潮文庫 一九九五年)
(4)「子供は高い処(ところ)なもんだからもうぶるぶる顫(ふる)えて手すりにとりついているんだ。雨も幾(いく)つぶか落ちたよ。そんなにこわそうにしながらまだ斯う云っているんだ。『これは本当の暴風ですね、林ががあがあ云ってますよ、枝も折れてますよ』。ところが博士は落ちついてからだを少しめげながら海の方へ手をかざして云ったねえ、『うん、けれどもまだ暴風というわけじゃないな。もう降りよう』。僕はその語(ことば)をきれぎれに聴(き)きながらそこをはなれたんだそれからもうかけてかけて林を通るときは木をみんな狂人(きょうじん)のようにゆすぶらせ丘を通るときは草も花もめっちゃめっちゃにたたきつけたんだ、そしてその夕方までに上海(シャンハイ)から八十里も南西の方の山の中に行ったんだ」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.118~119』新潮文庫 一九九五年)
又三郎たちは水沢の緯度観測所(今の国立天文台水沢観測所)を通りたがるという話もする。水沢で記録を出せば世界中に知れ渡るからなのだが。初代所長・木村栄がテニスに興じていた時、又三郎は木村栄が上げたサーヴのボールを空中でふいに「途方もない遠くへけとばしてやった」と語っている。
九月六日。耕一は学校帰りに又三郎の不意打ちに合う。家までは川沿いに十五町ばかり、窪地や谷に沿ってぬかるんだまわり道を遡(さかのぼ)る。路(みち)の上を楢(なら)や樺(かば)の木が覆いかぶさっている箇所も幾つかある。耕一がひとりでかばんと傘を持ってその下を歩いていた時、俄(にわか)に頭上の樹木がぐらっと揺れてつめたい雫(しずく)が一度にざっと落ちてきて耕一を襲った。いっぺんに背中へ水を注ぎ込まれた気がした。次の木のトンネルをくぐり抜けようとした時もまたざっと雫が落ちてきて耕一を襲った。水のつめたさが身に沁みる。さらに次の木のトンネルの下を通ろうとした時、今度はざあっとさらに雫が落ちてきた。泣きたくなるほど冷たい。それでも我慢して少し歩くとまたざあっと降ってきた。耕一は思わず「誰だ」と叫んでいた。用心して持っていた傘を開いた。すると急に風に襲われせっかく開いた傘はきのこみたいに開いて壊れた。笑い声が響いた。声のする方角を見るとそこに風野又三郎がいた。湯気を立てて大笑いしている。怒った耕一は壊れた傘を捨ててとっとと家に帰った。口惜しくてたまらない。しかし家に着いて縁側を見ると捨ててきたはずの傘が干してある。
「縁側(えんがわ)から入ろうとしてふと見ましたらさっきの傘がひろげて干してあるのです。照井耕一という名もちゃんと書いてありましたし、さっきはなれた処もすっかりくっつききれた糸も外(ほか)の糸でつないでありました」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.125』新潮文庫 一九九五年)
この場合、又三郎の悪戯(いたずら)は又三郎自身の善戯で贖(あがな)われている。学校から家までの十五町はただ単なる物理的観点からいう「山あり谷あり」だけではなく、耕一にとってまたとない精神的「山あり谷あり」というべき<経験>を含んで増大した。言い換えれば<利子>を付けて回帰した。しかし精神的な贈物は目に見えない。その点で贈り与えるということの困難性は逆に可視化されるわけだが。
九月七日。耕一は又三郎に文句のひとつも言ってやろうと日曜日の学校で直談判を覚悟する。出現した又三郎にいう。汝(うな)のやることはどれも悪戯(いたずら)ばかりだと。「樹を伐る、稲を倒す、家を壊す、砂を飛ばす、電信ばしらや塔も倒す」。しかし又三郎は落ちついて問う。ほかにないか?と。言葉に詰まった耕一は「風車(かざぐるま)もぶっ壊(か)さな」と答えたがどう考えてもトーン・ダウンした返事でしかない。笑われてしまった。又三郎はいう。実に皮肉な内容だ。とりわけ人間社会全体にとって。
「『風車なら僕を悪く思っちゃいないんだよ。勿論(もちろん)時々壊すこともあるけれども廻(まわ)してやるときの方がずうっと多いんだ。風車ならちっとも僕を悪く思っちゃいないんだ。うそと思ったら聴(き)いてごらん。お前たちはまるで勝手だねえ、僕たちがちっとばっかしいたずらすることは大業(おおぎょう)に悪口を云っていいとこはちっとも見ないんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.129』新潮文庫 一九九五年)
風車へトーン・ダウンせざるを得なかった恥ずかしい耕一に向かって又三郎はさらに重ねてこうつづける。しかしその内容はたいへん丁寧な分析に基づく教訓の次元に達しておりまるで<おとな>だ。
「『ね、そら、僕たちのやるいたずらで一番ひどいことは日本ならば稲を倒すことだよ、二百十日から二百二十日ころまで、昔(むかし)はその頃ほんとうに僕たちはこわがられたよ。なぜってその頃は丁度稲に花のかかるときだろう。その時僕たちにかけられたら花がみんな散ってしまってまるで実にならないだろう、だから前はこわがったんだ、僕たちだってわざとするんじゃない、どうしてもその頃かけなくちゃいかないからかけるんだ、もう三、四日たてばきっと又そうなるよ。けれどもいまはもう農業が進んでお前たちの家の近くなどでは二百十日のころになど花の咲いている稲なんか一本もないだろう、大抵もう柔(やわ)らかな実になってるんだ。早い稲はもうよほど硬(かた)くさえなってるよ、僕らがかけてあるいて少し位倒れたってそんなにひどくとりいれが減りはしないんだ。だから結局何でもないさ。それからも一つは木を倒すことだよ。家を倒すなんてそんなことはほんの少しだからね、木を倒すことだよ、これだって悪戯(いたずら)じゃないんだよ。倒れないようにして置けぁいいんだ。葉の濶(ひろ)い樹なら丈夫(じょうぶ)だよ。僕たちが少しぐらいひどくぶっつかっても仲々倒れやしない。それに林の樹が倒れるなんかそれは林の持主が悪いんだよ。林を伐(き)るときはね、よく一年中の強い風向を考えてその風下の方からだんだん伐って行くんだよ。林の外側の木は強いけれども中の方の木はせいばかり高くて弱いからよくそんなことも気をつけなけぁいけないんだ。だからまず僕たちのこと悪く云う前によく自分の方に気をつけりゃいいんだよ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.130~131』新潮文庫 一九九五年)
すると耕一の機嫌はすっかり良くなった。又三郎はいう。「悪い空気も持って行っていい空気も運んで来る」。しかしそれは今やもはや加速的に過去形でしかなくなりつつある。耕一は又三郎のことを「東京育ちだろう、一年中うろうろして」となじる。ところが又三郎の側にはいつも歴然たる答えがある。
「『もちろん僕は東京なんかじゃないさ。一年中旅中さ。旅行の方が東京よりは偉(えら)いんだよ。旅行たって僕のはうろうろじゃないや。かけるときはきぃっとかけるんだ。赤道から北極まで大循環(だいじゅんかん)さえやるんだ。東京なんかよりいくらいいか知れない』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.134』新潮文庫 一九九五年)
冒頭で先生の目に風野又三郎の姿は見えないが生徒たちには見えると明記されていた。しかし生徒たちでさえ見えないが、又三郎たちには見えるものが赤道と北極付近にあるという。
(1)「『赤道には僕たちが見るとちゃんと白い指導標が立っているよ。お前たちが見たんじゃわかりゃしない。大循環志願者出発線、これより北極に至る八千九百ベェスター南極に至る八千七百ベェスターと書いてあるんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.135』新潮文庫 一九九五年)
(2)「あちこちの氷山に、大循環到着者(とうちゃくしゃ)はこの附近(ふきん)に於(おい)て数日間休養すべし、帰路は各人の任意なるも障碍(しょうがい)は来路に倍するを以(もっ)て充分(じゅうぶん)の覚悟(かくご)を要す。海洋は摩擦(まさつ)少きも却(かえ)って速度は大ならず。最も愚鈍(ぐどん)なるもの最も賢(かしこ)きものなり、という白い杭(くい)が立っている」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.141』新潮文庫 一九九五年)
特に注目したいのは(2)。文章中に「最も愚鈍(ぐどん)なるもの最も賢(かしこ)きものなり」とある。作品「どんぐりと山猫」に出てくるように<賢者と愚者と>を区別できるような絶対的基準の無効化が宣言されている。ニーチェの言葉に置き換えるともはや「神は死んだ」のだ。また賢治作品の多くで観察できる、独特の目線移動について触れておこう。
(1)「『ひるすぎの二時頃になったろう。島で銅羅(どら)がだるそうにぼんぼんと鳴り椰子の木もパンの木も一ぱいにからだをひろげてだらしなくねむっているよう、赤い魚も水の中でもうふらふら泳いだりじっととまったりして夢(ゆめ)を見ているんだ。その夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでいるんだ。青ぞらをぷかぷか泳いでいると思っているんだ。魚というものは生意気なもんだねえ、ところがほんとうは、その時、空を騰(のぼ)って行くのは僕たちなんだ、魚じゃないんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.136』新潮文庫 一九九五年)
最初、又三郎の目線はどこに位置しているのかわからない。次に「夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでいる」と、魚とともに又三郎の目線も海中に据えられている。その次は「青ぞらをぷかぷか泳いでいると思っている」とあり、たちまち距離が置かれる。第三に「空を騰(のぼ)って行くのは僕たちなんだ、魚じゃない」と、目線はそのまま<上昇気流>として語るのである。
(2)「『咽喉(のど)もかわき息もつかずまるで矢のようにどんどんどんどんかける。それでも少しも疲(つか)れぁしない、ただ北極へ北極へとみんな一生けん命なんだ。下の方はまっ白な雲になっていることもあれば海か陸かただ蒼黝(あおぐろ)く見えることもある。昼はお日さまの下を夜はお星さまたちの下をどんどんどんどんかけて行くんだ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.137』新潮文庫 一九九五年)
又三郎たちの目線は自分が前へ前へと走っているのかそれとも周囲が後ろへ後ろへと滑って行くのかどちらかわからなくなっている。どちらでもあると言うことも可能だ。そこで思い起こされるのは賢治が夢中になった法華経とは少し違い、道元「正法眼蔵」に見える言葉である。
「山中とは世界裏の花開(けかい)なり。山外人(さんげにん)は不覚不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覚不知、不見不聞、遮箇道理(しやこだうり)なり。もし山の運歩を疑著(ぎぢや)するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。青山すでに有情(うじやう)にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま青山の運歩を疑著(ぎぢや)せんことうべからず」(「正法眼蔵2・第二十九・山水経・P.185~186」岩波文庫 一九九〇年)
現代語訳はこう。
「山中とは世界のうちに花開く場である。山中の人は世界の花開と場をともにしている。山の外にいる人は山の歩みを覚らず知らずである。山を見ることのない人は、覚ることなく知ることなく、見ることなく聞くこともない、いずれにせよ存在とはこうした道理のなかにある。もし山が歩んでいることに疑いを持つならば、自分が歩んでいることを知らないのだ。自分が歩んでいないのではない、自分が歩んでいることに気がつかないのだ。自己とは歩むものだと知るならば、そのとき、青山で歩んでいることを知るはずである。自然存在としての青山はもとより有情でもない、非情でもない、眼耳鼻舌身意など六根の作用とは無縁である、自己もまたもともとの自然存在としては有情でもない、非情でもない。青山とは大自然そのものを意味するのであるから、青山が歩んでいることに疑いを持つことはできない」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十九・山水経・P.219~220」河出文庫 二〇〇四年)
自分は止まっているわけではない。確実に移動している。一方、自分が歩いている。だが自然界の側が同時に転回していることもまた確実であると。さらにこの事情は精神的内面においてなおさら確実だというわけである。
九月九日。大循環の話題で満たされている。そして九月十日。一郎は夢の中で覚えたての歌を聴く。
「どっどどどどうど どどうど、どどう、ああまいざくろも吹きとばせ すっぱいざくろもふきとばせ どっどどどどうど どどうど どどう」。
びっくりしてはね起きた一郎。風はひどく吹きまくり裏の林は咆哮を上げている。栗の木の行列は一斉に風雨に打たれ烈しくもまれている。空を見上げると銀色の雲がどんどん北方へ吹き飛ばされていく。「ごとんごとん」とか「ざあ」とか湧き起こり響いてくる音の嵐はまるで海が荒れているかのようだ。しかし一郎は別のことに思い当たり胸を焦がされそうになってしまう。
「昨日まで丘や野原の空の底に澄(す)みきってしんとしていた風どもが今朝夜あけ方に一斉(いっせい)に斯う動き出してどんどんどんどんタスカロラ海床(かいしょう)の北のはじをめがけて行くことを考えますともう一郎は顔がほてり息もはあ、はあ、なって自分までが一緒に空を翔(か)けて行くように胸を一杯にはり手をひろげて叫(さけ)びました。『ドッドドドドウドドドウドドドウ、あまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ、ドッドドドドウドドドウドドドウ、ドッドドドドウドドドードドドウ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.148』新潮文庫 一九九五年)
応答だろうか。幾つかの断片がちぎれちぎれにこう聞こえる。
「『ドッドドドドウドドドウドドドウ、楢(なら)の木の葉も引っちぎれ とちもくるみもふきおとせ ドッドドドドウドドドウドドドウ』」(宮沢賢治「風野又三郎」『ポラーノの広場・P.148~149』新潮文庫 一九九五年)
透明なガラスのマントがぎらりと光り、ばさばさの赤毛が見えたかと思うともうすっと消えてしまって何一つ見えない。猛烈な速度で空を駆けていく雲の群れ。一郎は背中いっぱいに風をうけながら思わず知らず空へ手を伸ばして立ち尽くすばかり。だがしかしその姿を読者から見れば、あたかも一郎が風に向かって何か祈っているかのように思われないだろうか。東北地方に残る「風童神」神話。それはこんなふうにして立ち現れ今なお残されているのかも知れない。
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