白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・親友の死とトラウマの行方「鳥をとるやなぎ」

2021年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム
慶次郎(けいじろう)はだしぬけに<私>に言う。「煙山(けむやま)にエレッキのやなぎの木があるよ」。作品「鳥をとるやなぎ」はニーチェのいう「原因と結果との取り違え」から始まる。それは二点ある。その第一。<私>は慶次郎に詳細を尋ねてみる。

「『さっきの楊の木ね、煙山の楊の木ね、どうしたって云うの』。慶次郎はいつものように、白い歯を出して笑いながら答えました。『今朝権兵衛(ごんべえ)茶屋のとこで、馬をひいた人がそう云っていたよ。煙山の野原に鳥を吸い込(こ)む楊の木があるって。エレキらしいって云ってたよ』。『行こうじゃないか。見に行こうじゃないか。どんなだろう。きっと古い木だね』」(宮沢賢治「鳥をとるやなぎ」『風の又三郎・P.228』新潮文庫 一九八九年)

慶次郎のいう「鳥を吸い込(こ)む楊の木」の話の出どころについて、<私>の意識は「権兵衛(ごんべえ)茶屋」で慶次郎が耳にした会話から始まったと思い込む。なるほどそうかも知れない。少なくとも慶次郎個人にとっては「権兵衛茶屋」で耳にした会話が原因であることは確かだ。しかし「馬をひいた人がそう云っていた」のは「権兵衛茶屋」でだけに限った話だったのだろうか。むしろ「馬をひいた人がそう云っていた」のは「権兵衛茶屋」だけではなく複数の人間が集まって対話可能なあちこちで語った話の一つだったかも知れない。

さらに「取り違え」の第二。言語の置き換えに関わる。慶次郎の話では「馬をひいた人がそう云っていた」とされているけれども、そもそも「馬をひいた人」は煙山にあるという「鳥が集まる楊の木」について、ただ単に「鳥を吸い込(こ)む楊の木」という比喩を用いて気軽に語ったに過ぎなかったのかも知れない。ところが<私>も慶次郎もともに「鳥が集まる楊の木」ではなく「鳥を吸い込(こ)む楊の木」というフレーズの側へ一方的に「吸い込まれて」しまっている。とすると「鳥を吸い込(こ)む楊の木」の話は<私>と慶次郎との対話を接点として立ちどころに「神話化」されたことになる。都市伝説というものはいつも必ず大都市から発生して地方へ広がると限ったわけではまるでなく、いつどこでも複数の人間が集まる場所、作品「鳥をとるやなぎ」では二箇所、(1)「権兵衛茶屋」での対話と(2)「学校の教室」での対話との二箇所から生じている。そしてまた「原因と結果との取り違え」は一旦発生するやどれが原因でどれが結果なのか、さっぱりわからなくなるまでに組み合わされ組み換えられつつたちまち合体・解体・再合体していく傾向を持つ。そもそもを言えば「原因」はいつもすでに複数ある。にもかかわらず唯一絶対《であるに違いない》という人間自身の《思い込み》が人間社会全体を見誤らせてしまうに至る。南方熊楠はいう。

「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫 一九九一年)

またなぜ人間は「唯一絶対的な原因」という<錯覚>の側を愛し求めたがるのか。ニーチェはいう。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

さて、<私>は慶次郎と二人でその日の午後、煙山(けむやま)の楊を木を探しに出かける。けれども鳥の群れはなかなか見つからない。鳥の群れが見つからなければ鳥が一本の楊の木に吸い込まれていく光景を見ることはできない。しかし。

「そして水に足を入れたとき、私たちは思わずばあっと棒立ちになってしまいました。向うの楊の木から、まるでまるで百疋(ぴき)ばかりの百舌(もず)が、一ぺんに飛び立って、一かたまりになって北の方へかけて行くのです。その塊(かたまり)は波のようにゆれて、ぎらぎらする雲の下を行きましたが、俄かに向うの五本目の大きな楊の上まで行くと、本当に磁石に吸い込まれたように、一ぺんにその中に落ち込みました。みんなその梢(こずえ)の中に入ってしばらくがあがあがあがあ鳴いていましたが、まもなくしいんとなってしまいました。私は実際変な気がしてしまいました。なぜならもずがかたまって飛んで行って、木におりることは、決してめずらしいことではなかったのですが、今日のはあんまり俄かに落ちたし事によると、あの馬を引いた人のはなしの通り木に吸い込まれたのかも知れないというのですから、まったくなんだか本当のような偽(うそ)のような変な気がして仕方なかったのです」(宮沢賢治「鳥をとるやなぎ」『風の又三郎・P.232~233』新潮文庫 一九八九年)

<私>も慶次郎も同じ光景を目にしたはずだ。ところが<私>はなぜか「本当のような偽(うそ)のような変な気がして仕方なかった」。<私>の意識は夢かうつつか区別のつかない境界領域へ入っていく。その時慶次郎は川の底の石を拾い上げて投げてみる。びっくりして鳥が飛び立つかもしれない。

「慶次郎はそれを両手で起して、皮へバチャンと投げました。石はすぐ沈(しず)んで水の底へ行き、ことにまっ白に少し青白く見えました。私はそれが又何とも云えず悲しいように思ったのです」(宮沢賢治「鳥をとるやなぎ」『風の又三郎・P.234』新潮文庫 一九八九年)

山の中で二人きりの場面。<私>は「ほんとうにさびしくなってもう帰ろう」と思う。そう思いながら<私>の口をついて出る言葉はまるで逆だ。

「『どこかに、けれど、ほんとうの木はあるよ』。慶次郎は云いました。私もどこかにあるとは思いましたが、この川には決してないと思ったのです。『外(ほか)へ行って見よう。野原のうち、どこか外の処(とこ)だよ。外へ行って見よう』私は云いました」(宮沢賢治「鳥をとるやなぎ」『風の又三郎・P.235』新潮文庫 一九八九年)

山中の森林の中。二人のほかに人間の気配はまったくしてこない。というより、作者=賢治の実体験がそう書かせたといえる。慶次郎のモデルは盛岡中学(今の盛岡第一高等学校)で親友だった藤原健次郎。健次郎は二年生の時に病気で死去。賢治が妹トシ子の死に直面したのは二十六歳の時だが親友健次郎の死に直面したのはそれより十年以上も前の十四歳のこと。妹トシ子の死については「青森挽歌」に代表されるような詩形式を用いて昇華させることに成功している。フロイトのいう「喪の作業」に十分な期間と文学的実践力とを持つことができた。一方、十代半ばに失った健次郎の死は中学時代に当たっており、とりわけ親友でありなおかつ寄宿舎で同室でもあった賢治は、思いがけずやって来て「もろに」直面するほかなかったショックに対して上手く向き合うことができなかったと思われる。以後それはずっと賢治の脳裡を離れることはなくトラウマ化し、のちに「慶次郎もの」に分類される作品「谷」でも、この「鳥をとるやなぎ」でも一様に不気味な雰囲気を漂わせる内容として残ってしまうしかなかったのではなかろうか。また「慶次郎もの」に共通して見られる同性愛的傾向にも思春期特有の匂いがあると指摘しておきたい。

さらに「どこかに、けれど、ほんとうの木はあるよ」という言葉を慶次郎に言わせている点。幻であってもよい。しかしなければならないはずだという強烈な思いが込められている点にも注意を要するだろう。賢治が心酔した「法華経」にこうある。

「譬如五百由旬。險難悪道。曠絶無人。怖畏之處。若有多衆。欲過此道。至珍寶處。有一導師。聡慧明達。善知險道。通塞之相。將導衆人。欲過此難。所將人衆。中路懈退。白導師言。我等疲極。而復怖畏。不能復進。前路猶遠。今欲退還。導師多諸方便。而作是念。此等可愍。云何捨大珍寶。而欲退還。作是念已。以方便力。於險道中。過三百由旬。化作一城。告衆人言。汝等勿怖。莫得退還。今此大城。可於中止。随意所作。若入是城。快得安穏。若能前至寶所。亦可得去。是時疲極之衆。心大歓喜。歎未曾有。我等今者。免斯悪道。快得安穏。於是衆人。前入化城。生已度想。生安穏想。爾時導師。知此人衆。既得止息。無復疲惓。即滅化城。語衆人言。汝等去来。寶處在近。向者大城。我所化作。爲止息耳。

(書き下し)譬えば、五百由旬の険難なる悪道の、曠(むな)しく絶えて人なき怖畏(ふい)の処あるが如し。若し多くの衆(ひとびと)ありて、この道を過ぎて、珍宝の処に至らんと欲するに、一(ひとり)の導師の、聡慧(そうえ)・明達(みょうだつ)にして、善く險道(けんどう)の通塞(つうそく)の相を知れるものあり。衆人(もろびと)を将(ひき)い導(みちび)きて、この難を過ぎんと欲するに、将(ひき)いらるる人衆(にんしゆ)は中路に懈退(けたい)して、導師に、白(もう)して言わく「われ等は疲(つか)れ極まりて、また怖畏す。また進むこと能わず。前路はなお遠し。今、退(しりぞ)きかえらんと欲す」と。導師は、諸(もろもろ)の方便多くして、この念をなす「これ等は愍むべし。いかんぞ大いなる珍宝を捨てて、退きかえらんと欲するや」と。この念を作しおわりて、方便力(ほうべんりき)をもって、険道(けんどう)の中において、三百由旬を過ぎて、一城を化作して、衆人(もろびと)に告げていわく、「汝等よ、怖るることなかれ。退きかえることを得ることなかれ。今、この大城は、中において止(とど)まりて、意(こころ)のなす所に随うべし。若しこの城に入らば、快(こころよ)く安穏(あんのん)なることを得ん。若しよく前(すす)みて、宝所(ほうしょ)に至らば、また去ることを得べし」と。このとき、疲れ極まりし衆(ひとびと)は、心大いに歓喜(かんぎ)して、未曽有なりと歎じ「われ等、いまこの悪道をまぬかれて、快く安穏なることを得たり」といえり。ここにおいて、衆人(もろびと)は、前(すす)みて化城(けじょう)に入りて、すでに度(こえ)たりとの想(おもい)を生じ、安穏の想(おもい)を生ぜり。そのとき、導師は、この人衆の、すでに止息(しそく)することを得、また疲惓(ひけん)なきを知りて、すなわち、化城を滅して、衆人(もろびと)に語りて言わく「汝等よ去来(いざ)や、宝所は近きにあり。さきの大城は、われの化作せるところにして、止息のためなるのみ」と。

(サンスクリット原典からの邦訳)例えば、僧たちよ、ここに広さ五百ヨージャナの人跡未到の密林があって、そこに大勢の人々が到着したとしよう。ラトナ=ドゥヴィーパに行くために、賢明で学識があり、敏捷で精神力があり、密林の難路に通じていて隊商を案内して密林を通過さすことのできる、一人の案内人がいるとしよう。ところで、かの大勢の人々は途中で疲れ果てた上に、密林の不気味さに怖れおののいて、このように言うとしよう。「君、案内人よ、われわれは疲れ果てて、不安に怖れおののいているんだ。引き返そうじゃないか。人跡未到の密林は非常な遠くまで広がっている」と。そのとき、僧たちよ、巧妙な手段に通暁しているかの案内人は、人々が引き返そうと思っていることを知り、このように考えるとしよう。「これは駄目だ。あこの憐れな連中は、このままではラトナ=ドゥヴィーパに行けないであろう」と。彼はかれらを憐れんで、巧妙な手段を用いるとしよう。その密林の真中に、百ヨージャナあるいは二百ヨージャナないし三百ヨージャナの向こうに、彼が神通力で都城を造るとしよう。こうして、彼は、人々にこのように言うとしよう。「諸君、怖れてはならぬ。怖れてはいけない。あそこに大きな町がある。あそこで休もう。諸君たちがしなければならないことがあるなら、あそこで用を足しなさい。安心して、あそこに滞在するがよろしい。あそこで休んで、仕事のある人はラトナ=ドゥヴィーパに行くがよい」と。そこで、僧たちよ、密林に入りこんだ人々は不思議に思い、いぶかりながらも、「われわれは人跡未踏の密林を通り抜けたのだ。安心して、ここに逗留しよう」と思うであろう。また、助かったと思うであろう。「われわれは安心した。気分が爽快になった」と思うであろう。そこで、かの案内人は人々の疲れがなくなったことを知ると、神通力で造った都城を消して、人々にこのように言うとしよう。「諸君、こちらへ来てください。ラトナ=ドゥヴィーパは直ぐ近くだ。この都城は、君たちを休憩させるために、わたしが造ったのだ」と」(「法華経・中・巻第三・化城喩品・第七・P.572~75」岩波文庫 一九六四年)

所詮は<幻の城>に過ぎないのかもしれない。だがそれが「ほんとう」に思えるような世界へ連れて行ってやりたいというだけでなく、それがまさしく「ほんとう」に実現されるような社会活動に身を捧げたいとする欲望が賢治の創作活動を駆り立てる原動力として作用したと十分考えられよう。さらに親友の死をめぐるトラウマは作品のラストに至ってなお独特の不気味さを伴って再び繰り返される。

「私もふり向きました。もずが、まるで千疋ばかりも飛びたって、野原をずうっと向うへかけて行くように見えましたが、今度も又、俄かに一本の楊の木に落ちてしまいました。けれども私たちはもう何も云いませんでした。鳥を吸い込む楊の木があるとも思えず、又鳥の落ち込みようがあんまりひどいので、そんなことが全くないとも思えず、ほんとうに気持ちが悪くなったのでした」(宮沢賢治「鳥をとるやなぎ」『風の又三郎・P.236』新潮文庫 一九八九年)

なお、二人が歩いた場所を順を追って列挙してみよう。

<権兵衛茶屋><蕎麦(そば)ばたけ><松林(まつばやし)><煙山の野原>。さらにその向うには<毒ヵ森><南晶山(なんしょうざん)>が見える。そこには風が吹いている。だけでなく様々な動物が生きている。賢治作品によく出てくる「猫」や「狐」も暮らしているだろう。賢治にとってそれら様々な森林のそよぎや動物が発する<音>はどれも「ただ単なる騒音やノイズ」には聴こえないばかりか「ただ単なる騒音やノイズ」では決してありえない。逆に実に身近で親しい協奏曲に聴こえていたと言えそうだ。荘子にこうある。

「子游曰、敢問其方、子綦曰、夫大塊噫気其名爲風、是唯无作、作則萬竅怒号、而獨不聞之翏翏乎、山陵之畏佳、大木百圍竅穴、似鼻、似口、似耳、似枅、似圈、似臼、似洼、似汚、激者、号者、叱者、吸者、叫者、号者、深者、咬者、前者唱于、而隨者唱喁、泠風則小和、飄風則大和、厲風濟則衆竅爲虚、而獨不見之調調之刀刀乎

(書き下し)子游(しゆう)曰わく、敢(あ)えて其の方(さま=状)を問わんと。子綦曰わく、夫(そ)れ大塊(たいかい)の噫気(あいき)は其の名を風と為(な)す。是(こ)れ唯(ただ)作(お=起)こるなし、作これば則(すなわ)ち万竅怒号(ばんきょうどごう)す。而(なんじ)は独(まさ)にこの翏翏(りゅうりゅう)たるを聞かざるか。山陵の畏佳(いし)たる、大木百囲の竅穴(きょうけつ)は、鼻に似、口に似、耳に似、枅(さけつぼ)に似、圈(さかずき)に似、臼(うす)に似、洼(あ)に似、汚(お)に似たり。激(ほ=噭)ゆる者あり、号(よ)ぶ者あり、叱(しか)る者あり、吸(す)う者あり、叫(さけ)ぶ者あり、号(なきさけ)ぶ者あり、深(ふか)き者あり、咬(かなし)き者あり、前なる者は于(う)と唱(とな)え、而して随(したが)う者は喁(ぎょう)と唱う。泠(零)風は則ち小和し、飄風は則ち大和す。厲風濟(や=止)めば則ち衆竅も虚と為る。而(なんじ)独(まさ)に之(こ)の調調(ちょうちょう)たると之の刀刀(とうとう)たるを見ざるかと。

(現代語訳)子游がいった、『ぜひとも、そのことについてお教え下さい』。子綦は答える、『そもそも大地のあくびで吐き出された息、それが風というものだ。これはいつも起こるわけではないが、起こったとなると、すべての穴という穴はどよめき叫ぶ。お前はいったいあのひゅうひゅうと鳴る〔遥かな風〕音を聞いたことがないか。山の尾根がうねうねと廻(めぐ)っているところ、百囲(ひゃくかか)えもある大木の穴は、鼻の穴のような、口のような、耳の穴のような、細長い酒壺の口のような、杯(さかずき)のような、臼(うす)のような、深い池のような、狭い窪地(くぼち)のような、さまざまな形である〔が、さて風が吹きわたると、それが鳴りひびく〕。吼(ほ)えたてるもの、高々と呼ぶもの、低く叱りつけるもの、細々と吸いこむもの、叫(さけ)ぶもの、号泣するもの、深々とこもったもの、悲しげなもの。前のものが<ううっ>とうなると、後のものは<ごおっ>と声をたてる。微風(そよかぜ)のときは軽やかな調和(ハーモニー)、強風のときは壮大な調和(ハーモニー)。そしてはげしい風が止むと、もろもろの穴はみなひっそりと静まりかえる。お前はいったいあの〔風の中の樹々が〕ざわざわと動きゆらゆらと揺れるさまを見たことがないか』」(「荘子(第一冊)・内篇・斉物論篇・第二・一・P.42~44」岩波文庫 一九七一年)

一見したところただ単なる「雑音・ノイズ」に過ぎないものが、賢治の身体には自然生態系が織りなし変奏されていく《音楽》として聴こえていたろうことは論をまたないだろう。

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