夜会の帰り、同じ馬車に乗るゲルマント侯爵夫人の目の前であるにもかかわらず、<私>の思いはもはや夫人から遠く離れ去ってまるで別の女性たちのことへ移動していた。「売春宿に出入りする高貴な生まれの令嬢と、ピュトビュス男爵夫人の小間使いのこと」で頭が一杯。サン=ルー(ロベール)から聞かされていた話である。
「サン=ルーから、売春宿に出入りする高貴な生まれの令嬢と、ピュトビュス男爵夫人の小間使いのことを聞いて以来、両階級に属する多くの美女に日ごとかき立てられていた私の欲望はまとまってこのふたりに収斂した」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.278」岩波文庫 二〇一五年)
バルベックで始めて知り合った頃のサン=ルー(ロベール)は娼家というだけで露骨に嫌悪の情を見せたものだが今や娼家礼讃派に変身している。
「そのロベールが、こんどは娼家の礼讃までした。『そういうところでしか見つからないんだ、自分の足に合う靴は、つまり軍隊でいう自分に合うサイズはね』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.216」岩波文庫 二〇一五年)
サン=ルー(ロベール)は以前、身の世もあらぬほどラシェルに恋焦がれ悶々たる日々を過ごしていた。<私>がブロックの通っている娼家について話した時、サン=ルー(ロベール)は言ったものだ。「おそろしく惨めな、貧乏人の楽園」にちがいないと。ところがサン=ルー(ロベール)を愛と嫉妬の渦に叩き込んで憔悴させていたラシェルはルイ金貨一枚で身を売っていた娼家の女性で、その娼家こそブロックが通っていてサン=ルー(ロベール)が「おそろしく惨めな、貧乏人の楽園」だと決めつけた娼家だった。サン=ルー(ロベール)はそんなことまるで知らないものだから<私>は対応に困り、サン=ルー(ロベール)が見つけたと絶讃する娼家の女性の話に熱心に耳を傾ける身振りで言葉を濁した。サン=ルー(ロベール)は二人の女性についていう。(1)は「売春宿に出入りする高貴な生まれの令嬢」について。(2)は「ピュトビュス男爵夫人の小間使い」について。
(1)「『若い子もたくさんいるよ』と秘密めかしてつけ加えた、『かわいいお嬢さんもいてーーーたしかドルジュヴィルといったかな、正確に言うと、これ以上はない立派な家柄のお嬢さんで、母親は多少ともラ・クロワ=レヴェックの血を引いているそうで、これは一流の人たちだよ、勘違いでなければ、オリヤーヌ叔母ともいくらか縁つづきらしい。もっとも、本人を見るだけで立派な家柄の子だとわかるんだ(私はロベールの声にいっときゲルマント家の精霊の影が広がるのを感じたが、それは雲のように非常に高いところを通りすぎて立ち止まることはなかった)。あれはすごい掘り出しものに思えるね。両親ともずっと病気らしく、娘の面倒が見られないそうだ。当然、娘のほうは退屈しのぎをするだろう、そこでぜひきみから気晴らしを与えてやってもらいたい、あの子のためにも!』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.217」岩波文庫 二〇一五年)
(2)「『でもきみがどうしてもだれか公爵夫人をというのでなければ(ロベールがそう言いうのは、貴族階級にとって公爵夫人の称号はとびぬけて輝かしい地位を指すただひとつの称号で、庶民にとってのプリンセスに相当するからだ)、べつのたぐいになるけど、ピュトビュス夫人の筆頭小間使いがいるよ』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.217~218」岩波文庫 二〇一五年)
上流社交界にいると外部の情報は友人知人の言葉を通して入ってくるものを頼りにするほかない。<私>はサン=ルーから聞かされた二人の女性のことを想像しながら数ヶ月を過ごした。
「私の欲望がむしろ令嬢たちへと向かう数ヶ月のあいだは、サン=ルーの話してくれた娘がどんな身体をしているか、どんな人物であるかを想いうかべようとしたし、また小間使いのほうが好ましく思われる数ヶ月のあいだは、ピュトビュス夫人の小間使いを同じように想いうかべようと躍起になったが、いずれも無駄であった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.279」岩波文庫 二〇一五年)
<私の欲望>の特徴なのだが一方の女性へ向かう時期があり、しばらくすると忘却とともに、もう一方の女性へ向かう時期がやってくる。
「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)
そこで<私>の思考は次のような経過をたどる。「多くの名前さえ知らぬ逃げ去る存在、どうあっても再会するには困難をきわめ、知り合うのはさらに困難をきわめ、いわんやものにするのは不可能かもしれぬ存在にたいして覚えた不安な欲望にたえずさいなまれた」けれども「そんな移り気ではかなく名もない美人の集合体のなかに、すくなくとも私が望めば確実に手にはいる、人相書きを備えた選り抜きの美女をふたり確保できたことは、なんと安心なこと」か。ゆえに「私はそんな二重の快楽を味わえるときを、まるで仕事にとりかかるときのように後まわしにしたが、いつでも好きなときにその快楽を得られるという確信があるせいで、その快楽を手に入れる必要さえほとんど感じなかった」。
「とはいえ、多くの名前さえ知らぬ逃げ去る存在、どうあっても再会するには困難をきわめ、知り合うのはさらに困難をきわめ、いわんやものにするのは不可能かもしれぬ存在にたいして覚えた不安な欲望にたえずさいなまれたあげく、そんな移り気ではかなく名もない美人の集合体のなかに、すくなくとも私が望めば確実に手にはいる、人相書きを備えた選り抜きの美女をふたり確保できたことは、なんと安心なことだろう!私はそんな二重の快楽を味わえるときを、まるで仕事にとりかかるときのように後まわしにしたが、いつでも好きなときにその快楽を得られるという確信があるせいで、その快楽を手に入れる必要さえほとんど感じなかった。睡眠薬を手元に置くだけで、それを必要とせずに眠れるようなものである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.279~280」岩波文庫 二〇一五年)
<私>は「いつでも好きなときにその快楽を得られるという確信がある」場合、もはやその女性たちを自分の自由にできる余裕のある時、「その快楽を手に入れる必要さえほとんど感じな」くなる。「後まわし」でよいとさえ思う。アルベルチーヌのことを何一つ知らずどうすれば知り合うことができるかさんざん身悶えしていた頃は、アルベルチーヌのことばかりで頭が一杯になっていたが、同棲期間に入ってしばらくすると欲望は変化し、<幽閉・監禁・監視>を主とした<所有>がテーマとして浮上してくるのと同様の流れをすでに眺望することができる箇所だ。また「美人の集合体」とあるけれども別の言葉に置き換えることができる。<諸断片>のモザイクでしかないと。言語によってそれぞれの部位に分割された人間の身体はたった一人の「美人」という場合でさえ、ア・プリオリに存在するものではまるでなく、想像力が「純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすること」で成立するパッチワークの動きだからである。
「それは過去の一瞬、というだけのものであろうか?はるかにそれ以上のものかもしれない。むしろ過去にも現在にも共通し、この両者よりもはるかに本質的なものであろう。これまでの人生において、現実があれほど何度も私を失望させたのは、私が現実を知覚したとき、美を享受しうる唯一の器官である私の想像力が、人は不在のものしか想像できないという避けがたい法則ゆえに、現実にたいしては働かなかったからである。ところが突然、ところが突然、自然のすばらしい便法のおかげで、この厳格な法則が無効とされ、停止され、自然がある感覚ーーーフォークやハンマーの音とか、本の同一のタイトルとかーーーを過去のなかにきらめかせて想像力にその感覚を味わわせると同時に、それを現在のなかにもきらめかせ、音を聞いたり布に触れたりすることによって私の感覚を実際に震わせたことで、想像力の夢に、ふだんは欠けている存在感が付与されたのだ。そしてこの巧妙なからくりのおかげで、わが存在は、ふだんはけっして把握されることのできないもの、すなわち純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすることができたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.442~443」岩波文庫 二〇一八年)
だから<私>は言語の力を根拠として「相当のくつろぎと永続的な休息を授け」られる機会を得ることになった。プルーストがいつもこだわっているのは言語や身振りといった表層であり、ありもしない深層とはまったく関係がないのだ。
「そんなわけでさきのサン=ルーのことばは、私の想像力には過酷な仕事を課すことになったが、私の意志には相当のくつろぎと永続的な休息を授けてくれたのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.280」岩波文庫 二〇一五年)
さて、連日世間で話題になっていて、もう何年に至るのか、どんどん過酷になっていくばかりの日本の医療逼迫について。医療従事者の人員不足が全面に出てきたようだ。中継地点として重要な役割を果たすコールセンターや保健所がパンク状態では救急車の移動・手配がままならなくなるのは当然の注意点として以前から指摘されていた。一般の保健所や精神保健医療センターの医療従事者の多くは公務員である。だが特に問題視されている「大阪都構想」から始まった反公務員ナショナリズムの波は他の都道府県にも波及し、今や隣の京都でも家族の中の親子二人が急に高熱を発したため病院で検査してほしいと片っ端から電話を入れても断られる始末。厚労省のホームページの通りに動いてもこれといった連絡があるわけでもない。反公務員であろうと親公務員であろうとそれがナショナリズムという極めて厄介な政治運動へ転化した場合、さらにその動きをマスコミが助長・増大させた場合、どれほど危険か、政治家たちは今回の医療逼迫を見てどう考えるのだろうか。そこで、医療逼迫ではないが、バルカン半島で、失業・貧困に苦しむ人々が過酷なナショナリズムの圧力を乗り越えて「腐敗したPPP(官民連携)のエリートによって食い物にされるという運命を」をひっくり返した例を見ておこう。
「ボスニアでわたしたちが直面している問題をもっともよく表しているのは、二年前にクロアチアで起こったある出来事だ。二つの公開抗議集会が告知された。労働組合は(一般大衆がはっきり感じるほど)急速に上昇する失業率と貧困水準への抗議を呼びかけた。一方、右派ナショナリストは、ブコバルで(この地区の少数セルビア人のための)キリル文字の再公用語化に抗議する集会を開くと告知した。二百人が一つ目の集会に出席し、二つ目の抗議には十万人以上が参加した。一般人にとって、日々実感されているのはキリル文字の脅威よりはるかに貧困の方なのだが、それでも労働組合は動員に失敗したのだった。物知り顔の評論家はこうした話を引き合いに出して、左派の主張をシニカルに嘲笑したがる。その主張とはわれわれの目標は狭量なナショナリズムを打ち破り、支配層の民族エリートに操作、搾取される人々の超国家的な連合を実現することだというものだ。評論家たちがしつこく説明してくれるのは、特にバルカン地方のような地域では『非理性的な』民族的憎悪があまりに根深く、それが『理性的な』経済的関心によって克服されることはありえないーーー搾取される者の超国家的な連携など、決して実現しない奇跡だということだ。さて、この奇跡がーーーこれと比べればメジュゴリェでの聖母マリア出現もすっかり霞んでしまうーーー去年起きた。若いセルビア系ボスニア人のハッカー、ダヴィド・ドラギチェヴィチが、二〇一八年三月十七日から十八日にかけての夜に失踪し、三月二十四日に遺体がバニャ・ルカ近郊で発見された。ひどく損傷した遺体から、長々とした残忍な拷問で殺されたことは明らかだった。三月二十六日からバニャ・ルカの中央広場で毎日抗議活動が行われ、ダヴィドの父親ダヴォルが組織したこの抗議は『ダヴィドに正義を』という言葉を掲げていた。警察は最初ダヴィドの死を自殺と発表し、民衆からの強い圧力を受けてようやく殺人事件として調査を始めたのだが、まだ結果は出ていない。明らかになったのは、ダヴィドが支配層による汚職や他の犯罪の痕跡を発見しており、それが原因で彼は消されたということだ。継続的につづいた抗議活動は最終的に巨大な集会になって、大勢の人が参加し、何十台ものバスがスルプスカ共和国からバニャ・ルカに人を運んだのだった。支配層エリートはパニックになり、何千人もの警察官が交通を規制して、街への進入を堰き止めた。そして真の奇跡が起きる。思いがけないことに、民族を超えたすばらしい連帯が示されるなかで、同じような集会が、ボスニアのムスリムが多数派の都市でも行われたのだ。ボスニアの首都サラエヴォでは何百人もの人々が、自分たちの都市の似たような事件に関して公正を求めた。それはジェナン・メミチの死亡事件であり、彼は二〇一六年二月八日から九日にかけての夜に失踪したが、遺体が同じように拷問の跡で損傷していたにもかかわらず、本格的に捜査されなかったのだ。サラエヴォのバニャ・ルカとボスニアの他の都市の抗議参加者はメッセージを交わし、民族の分断を超えた連帯を強調した。なぜなら全員が、腐敗したPPP(官民連携)のエリートによって食い物にされるという運命を共有していたからである。最終的に彼らは、真の脅威は他所の民族集団ではなく、自分たちの集団内の腐敗なのだということ、この悪性腫瘍を除去するには一緒に行動するしかないということを完全に認識した。不可能で(シニカルな現実主義者にとっては)『想像できない』ことが実際に起きたのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・24・P.253~254」青土社 二〇二二年)
日本の、特に大阪府で拡大した反公務員ナショナリズム。ばたばた倒れていく公共の医療従事者。なるほど肥大し過ぎた公務員削減は必要ではあったろう。欧米並みにしようと考えるのも一方的に悪いとはいえない。しかし今や人口比でみた公務員の割合はフランスやイギリス、アメリカなど欧米諸国より日本の側が逆に少ない。
(1)「公務員の数の国際比較」
(2)「日本は公務員の数が多いのか?」
マスコミがさんざん持ち上げてきた大阪維新の会の「発信力」。その挙句が今の惨状の温床になっていると、なぜマスコミ自身がとっとと<暴露>しないのか。できないというのならその理由だけでも説明がほしいところなのだが。
BGM1
BGM2
BGM3
「サン=ルーから、売春宿に出入りする高貴な生まれの令嬢と、ピュトビュス男爵夫人の小間使いのことを聞いて以来、両階級に属する多くの美女に日ごとかき立てられていた私の欲望はまとまってこのふたりに収斂した」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.278」岩波文庫 二〇一五年)
バルベックで始めて知り合った頃のサン=ルー(ロベール)は娼家というだけで露骨に嫌悪の情を見せたものだが今や娼家礼讃派に変身している。
「そのロベールが、こんどは娼家の礼讃までした。『そういうところでしか見つからないんだ、自分の足に合う靴は、つまり軍隊でいう自分に合うサイズはね』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.216」岩波文庫 二〇一五年)
サン=ルー(ロベール)は以前、身の世もあらぬほどラシェルに恋焦がれ悶々たる日々を過ごしていた。<私>がブロックの通っている娼家について話した時、サン=ルー(ロベール)は言ったものだ。「おそろしく惨めな、貧乏人の楽園」にちがいないと。ところがサン=ルー(ロベール)を愛と嫉妬の渦に叩き込んで憔悴させていたラシェルはルイ金貨一枚で身を売っていた娼家の女性で、その娼家こそブロックが通っていてサン=ルー(ロベール)が「おそろしく惨めな、貧乏人の楽園」だと決めつけた娼家だった。サン=ルー(ロベール)はそんなことまるで知らないものだから<私>は対応に困り、サン=ルー(ロベール)が見つけたと絶讃する娼家の女性の話に熱心に耳を傾ける身振りで言葉を濁した。サン=ルー(ロベール)は二人の女性についていう。(1)は「売春宿に出入りする高貴な生まれの令嬢」について。(2)は「ピュトビュス男爵夫人の小間使い」について。
(1)「『若い子もたくさんいるよ』と秘密めかしてつけ加えた、『かわいいお嬢さんもいてーーーたしかドルジュヴィルといったかな、正確に言うと、これ以上はない立派な家柄のお嬢さんで、母親は多少ともラ・クロワ=レヴェックの血を引いているそうで、これは一流の人たちだよ、勘違いでなければ、オリヤーヌ叔母ともいくらか縁つづきらしい。もっとも、本人を見るだけで立派な家柄の子だとわかるんだ(私はロベールの声にいっときゲルマント家の精霊の影が広がるのを感じたが、それは雲のように非常に高いところを通りすぎて立ち止まることはなかった)。あれはすごい掘り出しものに思えるね。両親ともずっと病気らしく、娘の面倒が見られないそうだ。当然、娘のほうは退屈しのぎをするだろう、そこでぜひきみから気晴らしを与えてやってもらいたい、あの子のためにも!』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.217」岩波文庫 二〇一五年)
(2)「『でもきみがどうしてもだれか公爵夫人をというのでなければ(ロベールがそう言いうのは、貴族階級にとって公爵夫人の称号はとびぬけて輝かしい地位を指すただひとつの称号で、庶民にとってのプリンセスに相当するからだ)、べつのたぐいになるけど、ピュトビュス夫人の筆頭小間使いがいるよ』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.217~218」岩波文庫 二〇一五年)
上流社交界にいると外部の情報は友人知人の言葉を通して入ってくるものを頼りにするほかない。<私>はサン=ルーから聞かされた二人の女性のことを想像しながら数ヶ月を過ごした。
「私の欲望がむしろ令嬢たちへと向かう数ヶ月のあいだは、サン=ルーの話してくれた娘がどんな身体をしているか、どんな人物であるかを想いうかべようとしたし、また小間使いのほうが好ましく思われる数ヶ月のあいだは、ピュトビュス夫人の小間使いを同じように想いうかべようと躍起になったが、いずれも無駄であった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.279」岩波文庫 二〇一五年)
<私の欲望>の特徴なのだが一方の女性へ向かう時期があり、しばらくすると忘却とともに、もう一方の女性へ向かう時期がやってくる。
「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)
そこで<私>の思考は次のような経過をたどる。「多くの名前さえ知らぬ逃げ去る存在、どうあっても再会するには困難をきわめ、知り合うのはさらに困難をきわめ、いわんやものにするのは不可能かもしれぬ存在にたいして覚えた不安な欲望にたえずさいなまれた」けれども「そんな移り気ではかなく名もない美人の集合体のなかに、すくなくとも私が望めば確実に手にはいる、人相書きを備えた選り抜きの美女をふたり確保できたことは、なんと安心なこと」か。ゆえに「私はそんな二重の快楽を味わえるときを、まるで仕事にとりかかるときのように後まわしにしたが、いつでも好きなときにその快楽を得られるという確信があるせいで、その快楽を手に入れる必要さえほとんど感じなかった」。
「とはいえ、多くの名前さえ知らぬ逃げ去る存在、どうあっても再会するには困難をきわめ、知り合うのはさらに困難をきわめ、いわんやものにするのは不可能かもしれぬ存在にたいして覚えた不安な欲望にたえずさいなまれたあげく、そんな移り気ではかなく名もない美人の集合体のなかに、すくなくとも私が望めば確実に手にはいる、人相書きを備えた選り抜きの美女をふたり確保できたことは、なんと安心なことだろう!私はそんな二重の快楽を味わえるときを、まるで仕事にとりかかるときのように後まわしにしたが、いつでも好きなときにその快楽を得られるという確信があるせいで、その快楽を手に入れる必要さえほとんど感じなかった。睡眠薬を手元に置くだけで、それを必要とせずに眠れるようなものである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.279~280」岩波文庫 二〇一五年)
<私>は「いつでも好きなときにその快楽を得られるという確信がある」場合、もはやその女性たちを自分の自由にできる余裕のある時、「その快楽を手に入れる必要さえほとんど感じな」くなる。「後まわし」でよいとさえ思う。アルベルチーヌのことを何一つ知らずどうすれば知り合うことができるかさんざん身悶えしていた頃は、アルベルチーヌのことばかりで頭が一杯になっていたが、同棲期間に入ってしばらくすると欲望は変化し、<幽閉・監禁・監視>を主とした<所有>がテーマとして浮上してくるのと同様の流れをすでに眺望することができる箇所だ。また「美人の集合体」とあるけれども別の言葉に置き換えることができる。<諸断片>のモザイクでしかないと。言語によってそれぞれの部位に分割された人間の身体はたった一人の「美人」という場合でさえ、ア・プリオリに存在するものではまるでなく、想像力が「純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすること」で成立するパッチワークの動きだからである。
「それは過去の一瞬、というだけのものであろうか?はるかにそれ以上のものかもしれない。むしろ過去にも現在にも共通し、この両者よりもはるかに本質的なものであろう。これまでの人生において、現実があれほど何度も私を失望させたのは、私が現実を知覚したとき、美を享受しうる唯一の器官である私の想像力が、人は不在のものしか想像できないという避けがたい法則ゆえに、現実にたいしては働かなかったからである。ところが突然、ところが突然、自然のすばらしい便法のおかげで、この厳格な法則が無効とされ、停止され、自然がある感覚ーーーフォークやハンマーの音とか、本の同一のタイトルとかーーーを過去のなかにきらめかせて想像力にその感覚を味わわせると同時に、それを現在のなかにもきらめかせ、音を聞いたり布に触れたりすることによって私の感覚を実際に震わせたことで、想像力の夢に、ふだんは欠けている存在感が付与されたのだ。そしてこの巧妙なからくりのおかげで、わが存在は、ふだんはけっして把握されることのできないもの、すなわち純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすることができたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.442~443」岩波文庫 二〇一八年)
だから<私>は言語の力を根拠として「相当のくつろぎと永続的な休息を授け」られる機会を得ることになった。プルーストがいつもこだわっているのは言語や身振りといった表層であり、ありもしない深層とはまったく関係がないのだ。
「そんなわけでさきのサン=ルーのことばは、私の想像力には過酷な仕事を課すことになったが、私の意志には相当のくつろぎと永続的な休息を授けてくれたのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.280」岩波文庫 二〇一五年)
さて、連日世間で話題になっていて、もう何年に至るのか、どんどん過酷になっていくばかりの日本の医療逼迫について。医療従事者の人員不足が全面に出てきたようだ。中継地点として重要な役割を果たすコールセンターや保健所がパンク状態では救急車の移動・手配がままならなくなるのは当然の注意点として以前から指摘されていた。一般の保健所や精神保健医療センターの医療従事者の多くは公務員である。だが特に問題視されている「大阪都構想」から始まった反公務員ナショナリズムの波は他の都道府県にも波及し、今や隣の京都でも家族の中の親子二人が急に高熱を発したため病院で検査してほしいと片っ端から電話を入れても断られる始末。厚労省のホームページの通りに動いてもこれといった連絡があるわけでもない。反公務員であろうと親公務員であろうとそれがナショナリズムという極めて厄介な政治運動へ転化した場合、さらにその動きをマスコミが助長・増大させた場合、どれほど危険か、政治家たちは今回の医療逼迫を見てどう考えるのだろうか。そこで、医療逼迫ではないが、バルカン半島で、失業・貧困に苦しむ人々が過酷なナショナリズムの圧力を乗り越えて「腐敗したPPP(官民連携)のエリートによって食い物にされるという運命を」をひっくり返した例を見ておこう。
「ボスニアでわたしたちが直面している問題をもっともよく表しているのは、二年前にクロアチアで起こったある出来事だ。二つの公開抗議集会が告知された。労働組合は(一般大衆がはっきり感じるほど)急速に上昇する失業率と貧困水準への抗議を呼びかけた。一方、右派ナショナリストは、ブコバルで(この地区の少数セルビア人のための)キリル文字の再公用語化に抗議する集会を開くと告知した。二百人が一つ目の集会に出席し、二つ目の抗議には十万人以上が参加した。一般人にとって、日々実感されているのはキリル文字の脅威よりはるかに貧困の方なのだが、それでも労働組合は動員に失敗したのだった。物知り顔の評論家はこうした話を引き合いに出して、左派の主張をシニカルに嘲笑したがる。その主張とはわれわれの目標は狭量なナショナリズムを打ち破り、支配層の民族エリートに操作、搾取される人々の超国家的な連合を実現することだというものだ。評論家たちがしつこく説明してくれるのは、特にバルカン地方のような地域では『非理性的な』民族的憎悪があまりに根深く、それが『理性的な』経済的関心によって克服されることはありえないーーー搾取される者の超国家的な連携など、決して実現しない奇跡だということだ。さて、この奇跡がーーーこれと比べればメジュゴリェでの聖母マリア出現もすっかり霞んでしまうーーー去年起きた。若いセルビア系ボスニア人のハッカー、ダヴィド・ドラギチェヴィチが、二〇一八年三月十七日から十八日にかけての夜に失踪し、三月二十四日に遺体がバニャ・ルカ近郊で発見された。ひどく損傷した遺体から、長々とした残忍な拷問で殺されたことは明らかだった。三月二十六日からバニャ・ルカの中央広場で毎日抗議活動が行われ、ダヴィドの父親ダヴォルが組織したこの抗議は『ダヴィドに正義を』という言葉を掲げていた。警察は最初ダヴィドの死を自殺と発表し、民衆からの強い圧力を受けてようやく殺人事件として調査を始めたのだが、まだ結果は出ていない。明らかになったのは、ダヴィドが支配層による汚職や他の犯罪の痕跡を発見しており、それが原因で彼は消されたということだ。継続的につづいた抗議活動は最終的に巨大な集会になって、大勢の人が参加し、何十台ものバスがスルプスカ共和国からバニャ・ルカに人を運んだのだった。支配層エリートはパニックになり、何千人もの警察官が交通を規制して、街への進入を堰き止めた。そして真の奇跡が起きる。思いがけないことに、民族を超えたすばらしい連帯が示されるなかで、同じような集会が、ボスニアのムスリムが多数派の都市でも行われたのだ。ボスニアの首都サラエヴォでは何百人もの人々が、自分たちの都市の似たような事件に関して公正を求めた。それはジェナン・メミチの死亡事件であり、彼は二〇一六年二月八日から九日にかけての夜に失踪したが、遺体が同じように拷問の跡で損傷していたにもかかわらず、本格的に捜査されなかったのだ。サラエヴォのバニャ・ルカとボスニアの他の都市の抗議参加者はメッセージを交わし、民族の分断を超えた連帯を強調した。なぜなら全員が、腐敗したPPP(官民連携)のエリートによって食い物にされるという運命を共有していたからである。最終的に彼らは、真の脅威は他所の民族集団ではなく、自分たちの集団内の腐敗なのだということ、この悪性腫瘍を除去するには一緒に行動するしかないということを完全に認識した。不可能で(シニカルな現実主義者にとっては)『想像できない』ことが実際に起きたのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・24・P.253~254」青土社 二〇二二年)
日本の、特に大阪府で拡大した反公務員ナショナリズム。ばたばた倒れていく公共の医療従事者。なるほど肥大し過ぎた公務員削減は必要ではあったろう。欧米並みにしようと考えるのも一方的に悪いとはいえない。しかし今や人口比でみた公務員の割合はフランスやイギリス、アメリカなど欧米諸国より日本の側が逆に少ない。
(1)「公務員の数の国際比較」
(2)「日本は公務員の数が多いのか?」
マスコミがさんざん持ち上げてきた大阪維新の会の「発信力」。その挙句が今の惨状の温床になっていると、なぜマスコミ自身がとっとと<暴露>しないのか。できないというのならその理由だけでも説明がほしいところなのだが。
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