白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・プルースト作品の共鳴・共振と時間/スワンに差し迫る死と性

2022年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム
長編にせよ短編にせよ読み終えて始めて作家が用いた作品の方法論に気づくことがある。「失われた時を求めて」では次の箇所がその典型例だと言える。「自分の心をまるでショーウインドーのように自分自身に向けて開いて、他人がとうてい経験しなかったであろう数々の恋愛をひとつまたひとつと眺めてみる」。プルーストは「失われた時」を書き終えた<後になって>、終盤、「見出された時」の中で<私>によって語り直されるという方法論の基本的形態を、この箇所ですでに語っていたと読者は思い当たるようにできていた。プルーストはそれをスワンの言葉で語らせている。

「申しあげたいのは、私は人生をずいぶん愛したし、芸術をずいぶん愛したということです。ところが疲労困憊してもはや他人とともに生きてゆけなくなると、私自身がいだいた非常に個人的なこうした昔の感情がですよ、あらゆる蒐集家の悪い癖かもしれませんが、じつに貴重なものに思えてくる。で、自分の心をまるでショーウインドーのように自分自身に向けて開いて、他人がとうてい経験しなかったであろう数々の恋愛をひとつまたひとつと眺めてみる。そうすると今や他人よりもはるかに大切になったこのコレクションに愛着があって、マザランが自分の蔵書を手放すのを嫌ったように、といっても不安に駆られたりはしませんが、それといっさい別れてしまうのは業腹(ごうはら)だと思うんです」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.237~238」岩波文庫 二〇一五年)

終盤「見出された時」では「作家にあってはそれが後まわしになる」とはっきり書いている。

「作家にとって印象は、科学者にとっての実験に相当するが、ただし科学者にあっては知性の仕事が先に立つのにたいして、作家にあってはそれが後まわしになるという違いがある」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.458~459」岩波文庫 二〇一八年)

その方法論はすでにマルクス「資本論」の中で述べられていた方法論でもある。

「人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。それは、あとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果から始まるのである。労働生産物に商品という極印を押す、したがって商品流通に前提されている諸形態は、人間たちが、自分たちにはむしろすでに不変なものと考えられるこの諸形態の歴史的な性格についてではなくこの諸形態の内実について解明を与えようとする前に、すでに社会的生活の自然形態の固定性をもっているのである。このようにして、価値量の規定に導いたものは商品価値の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、まさに商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.140~141」国民文庫 一九七二年)

マルクス「資本論」の最初に出てくる「価値形態論」は、マルクスがヘーゲルから借りてきた弁証法を用いて論じている限りで、当然、貨幣が出現するや貨幣自体がそれまでの生成過程を一挙に「物的におおい隠す」。一方、プルースト「失われた時を求めて」では「見出された時」が「失われた時」を「おおい隠す」わけではなく<後になって>始めて「見出された時」が「失われた時」と共鳴・共振し合う構造を発生させる。

数十年前の或る出来事と数十年後の別の出来事とが接続し直されるや否や、かつて若かった人物の姿と現在の姿とが同時に浮上する。時間による侵食という点で、年老いた人々の心身にどれくらいの時間がどんなふうに作用したか、その身体の表層において見て取ることができる。数十年前は若々しく生き生きしていた人々が今や白い頬髭をたくわえ小刻みに震える人形に見える。この変容は普段は目に見えない<時間>というものを人間の<身体>の変化という形で可視化して見せる。可視化する点でその効果は絵画や音楽に似る。次のように。

「これらさまざまな人形たち、それを面識のあった人だと認めるには、人形の背後に隠れていて人形に奥行きを与えている多くの側面から同時にその顔を解読する必要がある。この種の年老いた操り人形たちを目の前にすると、そうした多くの側面がわれわれの精神に活動を強いる。なぜならわれわれは、それらの側面を肉眼で見つめると同時に記憶でも眺めざるをえないからである。人形たちが、歳月という非物質的な色合いのなかに浸っているからであり、『時』を外に表出しているからにほかならない。この『時』は、ふだんは目にとまらないが、目に見えるようになるための肉体を求めていて、そんな肉体に出会えばどんな場所でもそれを捉え、その肉体のうえに時間の幻灯を映し出すのだ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.34」岩波文庫 二〇一九年)

また大貴族の称号の場合。称号は言語である。言語は貨幣と同じようにその内容を覆い隠す作用を持つ。例えば「ゲルマント大公妃」は称号であり言語である。すると「つぎからつぎへと途絶えることなく新たなゲルマント大公妃が、いや、より正確に言えば、千年以上にわたり、その時代ごとに、つぎからつぎへと相異なる女性によって演じられるただひとりのゲルマント大公妃があらわれ」るだけでなく「同じひとつの名前が、つぎつぎと崩壊してゆく女たちを、大昔からつねに変わらぬ平静さで覆い尽くす」ことになる。なお逆に、人物や一族の内容(身振り・振る舞い・権力構造)はまるで変わっていないにもかかわらず称号・名称を次々置き換えていく場合もある。後者の場合は称号・名称の変更が内容の同一性を覆い隠してしまうことになる。

「かくして称号と名前とは同一であるから、なおもゲルマント大公妃なる人は現存するが、その人は私をあれほど魅了した人とはなんの関係もなく、いまや亡き人は、称号と名前を盗まれてもどうするすべもない死者であることは、私にとって、その城館をはじめエドヴィージュ大公女が所有していたものをことごとくほかの女が享受しているのを見ることと同じくらい辛いことだった。名前の継承は、すべての継承と同じで、またすべての所有権の簒奪と同じで、悲しいものである。かくしてつねに、つぎからつぎへと途絶えることなく新たなゲルマント大公妃が、いや、より正確に言えば、千年以上にわたり、その時代ごとに、つぎからつぎへと相異なる女性によって演じられるただひとりのゲルマント大公妃があらわれ、この大公妃は死を知らず、移り変わるもの、われわれの心を傷つけるものなどには関心を示さないだろう。同じひとつの名前が、つぎつぎと崩壊してゆく女たちを、大昔からつねに変わらぬ平静さで覆い尽くすからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.98~99」岩波文庫 二〇一九年)

さらに<私>の友人ブロックの場合。現在のブロックと過去のブロックとが共鳴・共振し合うだけでなく、ブロックの過去を覆い隠すと同時に変造・加工しもする。

「ブロックは戦争中には『出かける』ことをやめ、かつて情けないすがたをさらしていた馴染みの集まりには通わなくなっていた。そのかわりに本を出しつづけ、私はそうした本のばかげた詭弁の虜(とりこ)にならぬよう、いまやその詭弁を破壊しようと努めていたが、その独創性のかけらもない本が、若者たちや社交界の多くの婦人に、類を見ない高度な知性の産物であり、天才の作と言っても過言ではないという印象を与えていた。要するにブロックは、昔の社交生活と新たな社交生活とのあいだに完全な断絶を設けたうえで、新たに築いた交際社会のなかに、おのが人生の名誉ある栄光の新局面を拓くために、偉大な人物として登場したのである。若者たちは、ブロックがこの歳になって社交界へデビューしたなどとはもちろん知るよしもなく、ブロックがサン=ルーとのつき合いのおかげで憶えていたごくわずかの名前を挙げて現在の名声をいくらでも過去へさかのぼらせたから、なおのことそうなった。いずれにせよブロックは、どんな時代にも上流社交界でもてはやされていた才能ある男のひとりとみなされ、ブロックが以前べつの社会で暮らしていたと考える人などいなかったのである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.105~106」岩波文庫 二〇一九年)

プルースト作品の錯綜性は登場人物の多さというより、むしろ遥かに(1)時間の作用と(2)トランス記号論的な広がりを持った性愛における組み換え・組み合わせの横断的多数性からやってくる。

ところでゲルマント大公との対話がどのようなものだったか、報告しに来たスワンだったが、その話はしばしば途切れる。というのも、美貌の二人の息子を持つシュルジ夫人の「胸のふくらみ」に衝撃を受けたスワンは「胴衣のうえに、情欲もあらわな大きく見開かれた通人のまなざしを長々と注がずにはいられなかった」からである。

「私たちは腰をおろそうとして、シャルリュス氏とシュルジ家のふたりの若者とその母親からなる一団から遠ざかろうとしたが、その前にスワンは、母親の胴衣のうえに、情欲もあらわな大きく見開かれた通人のまなざしを長々と注がずにはいられなかった。スワンは、もっとよく見ようと片メガネまではめ、私に話しかける最中もときどきその婦人のほうへ視線を投げかけた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.241」岩波文庫 二〇一五年)

間もなく到着し自分を抹消することが決定している死を目前にひかえた高齢のスワン。絶望的な精神状態に陥って歩くのも困難なスワンに自らの性と生とを意識させるのはほかでもないプルーストの三大テーマの一つ、<覗き見>なのだ。「その胸のふくらみを上方から間近に目にしたとたん、注意ぶかく真剣な、無我夢中の、気がかりなまなざしで、しげしげと胴衣の奥までのぞきこんだうえ、夫人の芳香に酔いしれた鼻孔は、目についた花に今にもとまろうとするチョウのように、ぴくぴく震えた」とある。

「侯爵夫人は振りかえり、夫人に挨拶すべく立ちあがっていたスワンに微笑みかけて、手を差し出した。しかしすでに高齢のスワンは、道徳的意志を奪われて、世評に無関心になっていたせいか、肉体の力が奪われて、欲望が昂じる一方でその欲望を隠そうとするバネが緩んでしまったせいか、侯爵夫人の手を握りながらその胸のふくらみを上方から間近に目にしたとたん、注意ぶかく真剣な、無我夢中の、気がかりなまなざしで、しげしげと胴衣の奥までのぞきこんだうえ、夫人の芳香に酔いしれた鼻孔は、目についた花に今にもとまろうとするチョウのように、ぴくぴく震えた。だが突然スワンは、とらわれていた目眩(めまい)をふり払った。するとシュルジ夫人も、困惑しつつ、深い吐息をおし殺した。それほどに欲望というものは、ときに相手に伝染するのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.246~247」岩波文庫 二〇一五年)

シャルリュスがシュルジ夫人の美貌の二人の息子に近づくため、布石としてその母親を絶賛している最中である。だからシャルリュスの大声が響き渡っていてスワンの声はたびたびそれにかき消されていた。だがそこで比較されていたシュルジ夫人の肖像画について、シャルリュスは「ナティエの描いたシャトールー公爵夫人にも匹敵するかという傑作」、「威厳あふれる殺戮(さつりく)の女神」だと言っている。

ジャン=マルク・ナティエ「シャトールー公爵夫人(ルイ・ラ・トゥールネル侯爵夫人)」

ルイ十六世の愛人。戦場に同行し、王から与えられたシャトールー公爵夫人の称号のもとで軍事的指揮権に参与した。シャルリュスが「殺戮(さつりく)の女神」として賞讃するその「威厳」というのは、そんなエピソードから出てくる。

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