帰り際、スワンは<私>にいう。「ジルベルトにぜひ会いに来てください」。しかし<私>の気持ちはもうジルベルトから離れてしまっている。なるほど愛していた時期はあった。「愛していたときは、愛さなくなったらもう会いたいとも思わぬことを見せつけてやると毎日心に誓っていた」ほどに。しかし今や「そんな気持すら消えていた」。
「『お友だちのジルベルトにぜひ会いに来てください。ほんとに大きくなって変わりましたよ。お会いになっても本人だとはわからないでしょう。来てくだされば、あの子がどれほど喜ぶことか!』。私はもはやジルベルトを愛してはいなかった。私にとってジルベルトは死んだも同然の存在で、長いことその死を悼んで泣き暮らしたが、そのあと忘却がやって来て、今ではたとえ生き返っても、本人がもはや入る余地のない私の人生のなかに組み込まれることはないだろう。私からはジルベルトに会いたい気持が消滅したばかりか、愛していたときは、愛さなくなったらもう会いたいとも思わぬことを見せつけてやると毎日心に誓っていたが、そんな気持すら消えていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.260」岩波文庫 二〇一五年)
一人の人間にとって欲望の対象は無数に入れ換わっていく。プルーストはいう。「最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく」、そして「われわれ自身の特徴のひとつ」として、忘却を条件として「また新たな恋をはじめることができる」と。
「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)
忘却について語ることは歴史について語ることでもある。といえば大袈裟に聞こえるかも知れない。しかし決して大袈裟でないのはニーチェが喝破した通りだ。
「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・第二篇・P.127~128」ちくま学芸文庫 一九九三年)
<私>の欲望にはジルベルトへ向かう系列とアルベルチーヌへ向かう系列とがあるわけだが、作品の終盤で「ゲルマントのほう」と「メゼグリーズのほう」とを横断する幾つもの「横道」について言及されるまで、両者は決して交わることがない。
「突如として私は、正真正銘のジルベルトとは、正真正銘のアルベルチーヌとは、前者はバラ色のカンザシの垣根の前で、後者は浜辺で、それぞれ最初に出会った瞬間、そのまなざしのなかに心の内を明かした女がそうだったのかもしれないと想い至った」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.28」岩波文庫 二〇一八年)
ジルベルトへ向かう系列は「メゼグリーズのほう」へ伸びていて「ゲルマントのほう」の対極に位置する。
「このような区別がいっそう揺るぎない絶対のものになったのは、一日の一度の散歩でけっしてふたつの方向に出かけることがなく、あるときはメゼグリーズのほうだけに出かけ、あるときはゲルマントのほうだけに出かけるのが習慣になっていたからである。ふたつの方向はたがいに遠く隔てられ、相手を知らないまま、相異なる午後のたがいに交流のない閉ざされた器のなかに封じこめられたも同然だった」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.298」岩波文庫 二〇一〇年)
さらにコンブレー時代の<私>にとってメゼグリーズはそこで育み培われた<私>の性的欲望を指し示す<記号>でもある。早熟なジルベルトはそんなメゼグリーズを代表する。「ジルベルトは当時、私が思っていたよりもずっと完璧にメゼグリーズのほうの娘だった」というように。
「私の散歩中、木々が動きだし両側へよけてくれる気がして、帰る決心がつかないほど昂奮して欲したもの、つまるところジルベルトはそうした欲望のいっさいを体現していたのである。当時の私が熱に浮かされたように求めていたもの、せめてそれを理解し、見出すすべさえ心得ていたら、ジルベルトは早くも思春期の私にそれを味わわせてくれるところだったのだ。ジルベルトは当時、私が思っていたよりもずっと完璧にメゼグリーズのほうの娘だったのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.34」岩波文庫 二〇一八年)
ジルベルトはスワンとオデット(元-粋筋の女性)の娘なのでスワン家の系列ということもできる。芸術を愛し性愛にも美的価値を見出す系列。またスワンがヴァントゥイユのソナタの「小楽節」にこれ以上ない美を感じ取っていた場面は以前に引用した。ところがスワンはヴァントゥイユの「七重奏曲」を知る前に死んでしまう。だからスワン=ジルベルトの系列はヴァントゥイユの「小楽節」と共鳴・共振することはあってもヴァントゥイユの「七重奏曲」と共鳴・共振することはない。
「『これだったのか、ソナタの小楽節がスワンに提示していた幸福とは。ところがスワンは勘違いして、この幸福を恋の喜びと同一視してしまい、この幸福を芸術創造のなかに見出すすべを知らなかった。これだったのか、ソナタの小楽節にもまして七重奏曲の赤味を帯びた神秘的な呼びかけが、私にこの世を超えるものとして予感させてくれた幸福とは。ところがスワンはこの七重奏曲を知ることができなかった。自分のために用意された真実が明らかになる前に世を去った多くの人と同じように、死んでしまったからだ。もっともこの真実は、スワンの役に立つことはなかっただろう』」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.453」岩波文庫 二〇一八年)
ではヴァントゥイユの「七重奏曲」が共鳴・共振を発生させるのはどこでか。アルベルチーヌとその周辺である。アルベルチーヌはアンドレ、ロズモンド、ジゼルたちと隈なく置き換えられる。バルベックの浜辺で始めて彼女たちと出会った時、彼女たちは「一団の娘」として出現しており、一つに融合し合った<力>のイメージの中から徐々に個別化された一人一人である。そのため、個別化される前はアルベルチーヌもアンドレもロズモンドもジゼルも、そもそも一つの<力の塊>へ遡行・還元される。そして再び出てくる時にはアルベルチーヌだったりアンドレだったりするので、<私>は両者を好きなように置き換えて楽しみに耽溺することができる。
「そもそもアルベルチーヌといい、アンドレといい、その実態は何なのか?それを知るには、乙女たちよ、きみたちを固定しなければなるまい。つねにすがたを変えるきみたちを不断に待ち受けて生きるのをやめなくてはなるまい。もはやきみたちを愛してはいけないのだ。きみたちを固定するには、際限なくつねに戸惑わせるすがたであらわれるきみたちを知ろうとしないことが重要なのだ。乙女たちよ、渦のなかにつぎつぎと射す一条の光よ、その渦のなかできみたちがあらわれまいかと心をときめかせながら、われわれは光の速さに目がくらんできみたちのすがたをほとんど認めることができない。つねに千変万化してこちらの期待を超越する黄金の滴(しずく)よ、性的魅力に惹かれてきみたちのほうへ駆け寄ることさえしなければ、そんな速さを知らずにすませられるかもしれず、そうなればすべてが不動の相を帯びるだろう。乙女はあらわれるたびに前に見たすがたとはまるで似ていないので(そのすがたを認めたとたん、われわれがいだいていた想い出や思い定めた欲望は粉々にうち砕かれる)、われわれが乙女に期待する変わらぬ本性など、ただの絵空ごと、お題目にすぎなくなる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.139~140」岩波文庫 二〇一六年)
したがって、「ヴァントゥイユのソナタを想い出してもその合奏曲(七重奏曲)を想いうかべることができなかった」というのは、ソナタの側はスワン=ジルベルトの系列に割り振られており、合奏曲(七重奏曲)の側はアルベルチーヌたちの系列に割り振られていることを物語る。プルーストはこう書いている。
「ヴァントゥイユのソナタを想い出してもその合奏曲を想いうかべることができなかったのと同じく、ジルベルトを手がかりにしても、アルベルチーヌを想いうかべて自分が愛する女だと想像することなどできなかったであろう」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.194」岩波文庫 二〇一七年)
ところで話題はシャルリュスとゲルマント大公妃に戻る。或る一つの身振りが同時に二つの意味を出現させるし出現させないわけにはいかない事情について。(1)はシャルリュスにありがちな隠蔽の身振りがかえって暴露へ変換されるケース。(2)はゲルマント大公妃の身振りの意味が両極に分裂して受け取られざるを得ないケース。
(1)「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)
(2)「私はその日、大公妃とふたりきりで馬車に乗っていた。私たちが郵便局の前を通りかかったとき、大公妃は馬車を停めさせた。従僕を連れていなかった大公妃は、マフからのぞかせた一通の手紙を投函すべく、みずから馬車を降りようとしていた。私は大公妃をひきとめ、大公妃は私を軽くふり払おうとしたが、早くもふたりとも互いの最初の身動きが、大公妃のそれはある秘密を守るかに見えてそれが秘密だと漏らすしぐさであり、私のそれは相手の防御の邪魔をする不躾(ぶしつけ)なしぐさだと悟っていた。さきに冷静さをとり戻したのは、大公妃のほうである。大公妃は急に顔を真っ赤にして手紙を渡したので、私は受けとらないわけにはゆかなかった。だが投函するとき、盗み見る気はなかったのに、手紙の宛て先がシャルリュス氏であることが見えてしまったのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.265」岩波文庫 二〇一五年)
(1)シャルリュスの場合、「あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとする」その身振りが、隠匿を目指して逆に自己暴露へ転倒するパターン。(2)ゲルマント大公妃の場合、「大公妃は、マフからのぞかせた一通の手紙を投函すべく、みずから馬車を降りようとしていた」ところ、「私は大公妃をひきとめ、大公妃は私を軽くふり払おうとした」瞬間、誰の目にも明らかなように、「大公妃のそれはある秘密を守るかに見えてそれが秘密だと漏らすしぐさ」だと露呈してしまうパターン。
このことはいずれも人間は政治的であるということを言っているわけではなく、誰のどのような<身振り>も、両義性(医薬かつ毒薬・隠すと同時に現わす)から逃げ去ることは決してできないという政治性について述べられたものだ。
BGM1
BGM2
BGM3
「『お友だちのジルベルトにぜひ会いに来てください。ほんとに大きくなって変わりましたよ。お会いになっても本人だとはわからないでしょう。来てくだされば、あの子がどれほど喜ぶことか!』。私はもはやジルベルトを愛してはいなかった。私にとってジルベルトは死んだも同然の存在で、長いことその死を悼んで泣き暮らしたが、そのあと忘却がやって来て、今ではたとえ生き返っても、本人がもはや入る余地のない私の人生のなかに組み込まれることはないだろう。私からはジルベルトに会いたい気持が消滅したばかりか、愛していたときは、愛さなくなったらもう会いたいとも思わぬことを見せつけてやると毎日心に誓っていたが、そんな気持すら消えていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.260」岩波文庫 二〇一五年)
一人の人間にとって欲望の対象は無数に入れ換わっていく。プルーストはいう。「最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく」、そして「われわれ自身の特徴のひとつ」として、忘却を条件として「また新たな恋をはじめることができる」と。
「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)
忘却について語ることは歴史について語ることでもある。といえば大袈裟に聞こえるかも知れない。しかし決して大袈裟でないのはニーチェが喝破した通りだ。
「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・第二篇・P.127~128」ちくま学芸文庫 一九九三年)
<私>の欲望にはジルベルトへ向かう系列とアルベルチーヌへ向かう系列とがあるわけだが、作品の終盤で「ゲルマントのほう」と「メゼグリーズのほう」とを横断する幾つもの「横道」について言及されるまで、両者は決して交わることがない。
「突如として私は、正真正銘のジルベルトとは、正真正銘のアルベルチーヌとは、前者はバラ色のカンザシの垣根の前で、後者は浜辺で、それぞれ最初に出会った瞬間、そのまなざしのなかに心の内を明かした女がそうだったのかもしれないと想い至った」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.28」岩波文庫 二〇一八年)
ジルベルトへ向かう系列は「メゼグリーズのほう」へ伸びていて「ゲルマントのほう」の対極に位置する。
「このような区別がいっそう揺るぎない絶対のものになったのは、一日の一度の散歩でけっしてふたつの方向に出かけることがなく、あるときはメゼグリーズのほうだけに出かけ、あるときはゲルマントのほうだけに出かけるのが習慣になっていたからである。ふたつの方向はたがいに遠く隔てられ、相手を知らないまま、相異なる午後のたがいに交流のない閉ざされた器のなかに封じこめられたも同然だった」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.298」岩波文庫 二〇一〇年)
さらにコンブレー時代の<私>にとってメゼグリーズはそこで育み培われた<私>の性的欲望を指し示す<記号>でもある。早熟なジルベルトはそんなメゼグリーズを代表する。「ジルベルトは当時、私が思っていたよりもずっと完璧にメゼグリーズのほうの娘だった」というように。
「私の散歩中、木々が動きだし両側へよけてくれる気がして、帰る決心がつかないほど昂奮して欲したもの、つまるところジルベルトはそうした欲望のいっさいを体現していたのである。当時の私が熱に浮かされたように求めていたもの、せめてそれを理解し、見出すすべさえ心得ていたら、ジルベルトは早くも思春期の私にそれを味わわせてくれるところだったのだ。ジルベルトは当時、私が思っていたよりもずっと完璧にメゼグリーズのほうの娘だったのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.34」岩波文庫 二〇一八年)
ジルベルトはスワンとオデット(元-粋筋の女性)の娘なのでスワン家の系列ということもできる。芸術を愛し性愛にも美的価値を見出す系列。またスワンがヴァントゥイユのソナタの「小楽節」にこれ以上ない美を感じ取っていた場面は以前に引用した。ところがスワンはヴァントゥイユの「七重奏曲」を知る前に死んでしまう。だからスワン=ジルベルトの系列はヴァントゥイユの「小楽節」と共鳴・共振することはあってもヴァントゥイユの「七重奏曲」と共鳴・共振することはない。
「『これだったのか、ソナタの小楽節がスワンに提示していた幸福とは。ところがスワンは勘違いして、この幸福を恋の喜びと同一視してしまい、この幸福を芸術創造のなかに見出すすべを知らなかった。これだったのか、ソナタの小楽節にもまして七重奏曲の赤味を帯びた神秘的な呼びかけが、私にこの世を超えるものとして予感させてくれた幸福とは。ところがスワンはこの七重奏曲を知ることができなかった。自分のために用意された真実が明らかになる前に世を去った多くの人と同じように、死んでしまったからだ。もっともこの真実は、スワンの役に立つことはなかっただろう』」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.453」岩波文庫 二〇一八年)
ではヴァントゥイユの「七重奏曲」が共鳴・共振を発生させるのはどこでか。アルベルチーヌとその周辺である。アルベルチーヌはアンドレ、ロズモンド、ジゼルたちと隈なく置き換えられる。バルベックの浜辺で始めて彼女たちと出会った時、彼女たちは「一団の娘」として出現しており、一つに融合し合った<力>のイメージの中から徐々に個別化された一人一人である。そのため、個別化される前はアルベルチーヌもアンドレもロズモンドもジゼルも、そもそも一つの<力の塊>へ遡行・還元される。そして再び出てくる時にはアルベルチーヌだったりアンドレだったりするので、<私>は両者を好きなように置き換えて楽しみに耽溺することができる。
「そもそもアルベルチーヌといい、アンドレといい、その実態は何なのか?それを知るには、乙女たちよ、きみたちを固定しなければなるまい。つねにすがたを変えるきみたちを不断に待ち受けて生きるのをやめなくてはなるまい。もはやきみたちを愛してはいけないのだ。きみたちを固定するには、際限なくつねに戸惑わせるすがたであらわれるきみたちを知ろうとしないことが重要なのだ。乙女たちよ、渦のなかにつぎつぎと射す一条の光よ、その渦のなかできみたちがあらわれまいかと心をときめかせながら、われわれは光の速さに目がくらんできみたちのすがたをほとんど認めることができない。つねに千変万化してこちらの期待を超越する黄金の滴(しずく)よ、性的魅力に惹かれてきみたちのほうへ駆け寄ることさえしなければ、そんな速さを知らずにすませられるかもしれず、そうなればすべてが不動の相を帯びるだろう。乙女はあらわれるたびに前に見たすがたとはまるで似ていないので(そのすがたを認めたとたん、われわれがいだいていた想い出や思い定めた欲望は粉々にうち砕かれる)、われわれが乙女に期待する変わらぬ本性など、ただの絵空ごと、お題目にすぎなくなる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.139~140」岩波文庫 二〇一六年)
したがって、「ヴァントゥイユのソナタを想い出してもその合奏曲(七重奏曲)を想いうかべることができなかった」というのは、ソナタの側はスワン=ジルベルトの系列に割り振られており、合奏曲(七重奏曲)の側はアルベルチーヌたちの系列に割り振られていることを物語る。プルーストはこう書いている。
「ヴァントゥイユのソナタを想い出してもその合奏曲を想いうかべることができなかったのと同じく、ジルベルトを手がかりにしても、アルベルチーヌを想いうかべて自分が愛する女だと想像することなどできなかったであろう」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.194」岩波文庫 二〇一七年)
ところで話題はシャルリュスとゲルマント大公妃に戻る。或る一つの身振りが同時に二つの意味を出現させるし出現させないわけにはいかない事情について。(1)はシャルリュスにありがちな隠蔽の身振りがかえって暴露へ変換されるケース。(2)はゲルマント大公妃の身振りの意味が両極に分裂して受け取られざるを得ないケース。
(1)「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)
(2)「私はその日、大公妃とふたりきりで馬車に乗っていた。私たちが郵便局の前を通りかかったとき、大公妃は馬車を停めさせた。従僕を連れていなかった大公妃は、マフからのぞかせた一通の手紙を投函すべく、みずから馬車を降りようとしていた。私は大公妃をひきとめ、大公妃は私を軽くふり払おうとしたが、早くもふたりとも互いの最初の身動きが、大公妃のそれはある秘密を守るかに見えてそれが秘密だと漏らすしぐさであり、私のそれは相手の防御の邪魔をする不躾(ぶしつけ)なしぐさだと悟っていた。さきに冷静さをとり戻したのは、大公妃のほうである。大公妃は急に顔を真っ赤にして手紙を渡したので、私は受けとらないわけにはゆかなかった。だが投函するとき、盗み見る気はなかったのに、手紙の宛て先がシャルリュス氏であることが見えてしまったのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.265」岩波文庫 二〇一五年)
(1)シャルリュスの場合、「あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとする」その身振りが、隠匿を目指して逆に自己暴露へ転倒するパターン。(2)ゲルマント大公妃の場合、「大公妃は、マフからのぞかせた一通の手紙を投函すべく、みずから馬車を降りようとしていた」ところ、「私は大公妃をひきとめ、大公妃は私を軽くふり払おうとした」瞬間、誰の目にも明らかなように、「大公妃のそれはある秘密を守るかに見えてそれが秘密だと漏らすしぐさ」だと露呈してしまうパターン。
このことはいずれも人間は政治的であるということを言っているわけではなく、誰のどのような<身振り>も、両義性(医薬かつ毒薬・隠すと同時に現わす)から逃げ去ることは決してできないという政治性について述べられたものだ。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/d1/04872a624125b2dd8e9647a6b81750e8.jpg)