アンドレを愛していることにしつつ、<私>は、アンドレの大親友アルベルチーヌに問いかける、というより大芝居を打ってみる。「その暮らしぶりについて人からどんなうわさ話を聞いたかを伝え、同じ悪徳に染まる女たちには深い嫌悪を覚えるとはいえ、きみの共犯者の名前を聞くまではそんなことは気にもならかなったが、アンドレを愛しているだけにぼくがそのうわさにどんなに苦痛を感じているか、きみには容易にわかるはずだ」と。
「私はとうとう思いきってアルベルチーヌに、その暮らしぶりについて人からどんなうわさ話を聞いたかを伝え、同じ悪徳に染まる女たちには深い嫌悪を覚えるとはいえ、きみの共犯者の名前を聞くまではそんなことは気にもならかなったが、アンドレを愛しているだけにぼくがそのうわさにどんなに苦痛を感じているか、きみには容易にわかるはずだ、と言ってみた。ほかの女たちの名前を聞いたけれど、そんな女たちのことはどうでもよかった、と言い添えたほうが、もっとうまいやりかただったかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.517~518」岩波文庫 二〇一五年)
ところで<私>にこれほど手の込んだ役割を熱演せざるを得なくさせているものは何なのか。<私>が「同じ悪徳に染まる女たち」と呼んでいる限りではアルベルチーヌとアンドレとが女性同士の同性愛に耽り込んで<私>を忘れ去っているかもしれないことに対する単なる嫉妬の力である。そして<私>に限らずとも一般的に嫉妬は、自分の自尊心が高ければ高いほど自分で自分自身を傷つけ、自分の内面にこれ以上ないほど惨めな思いに打ちひしがれた精神状態を出現させる。さらに同性愛が表面上は「悪徳」とされていた当時ーーーもっとも、上流社交界には幾らでも同性愛者がおり周囲からの公認さえ堂々と得ているケースがあったことをプルーストは知っているわけだがーーー<私>もまた「悪徳」という言葉を利用して同性愛の疑いのあるアルベルチーヌをどんどん問い詰めることができた。
だがしかし、アルベルチーヌが同性愛者ではなくただ単にどこにでもいる異性愛者だったとしたらどうだったか。<私>以外に愛人がいる身振りが目に付けばただちに<私>は道徳的見地からアルベルチーヌに「悪徳」のレッテルを貼り付けて問い詰めていたに違いない。愛する相手が異性愛者であろうと同性愛者であろうとニーチェがいうように「愛」という名の「所有欲」がそうさせるのだ。
またさらに重要なのは、というよりもっと遥かに注意深く問題にしなければならないテーマは、「悪徳」という否定的な観念を<私>に振り回させて止まないものは何かという点である。<私>の場合、次にあるようにコタールの指摘「あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ」という<言葉>こそが直接のきっかけになっている。
「しかし私の心にはいりこんで私をひき裂いたのは、あのコタールの指摘による突然の耐えがたい暴露であって、それが全面的に効果を及ぼしたのであり、それ以外の原因ではなかった。もしもワルツを踊るふたりの姿勢についてコタールから指摘されなかったら、アルベルチーヌがアンドレを愛しているとか、すくなくともアンドレと愛撫しあい戯れたことがあるとか、そんなことを以前の私が自分で考えることはけっしてなかっただろう。それと同じで、そんな考えから、私にとってはそれとずいぶんことなる、アルベルチーヌがアンドレ以外の女たちとも愛情というだけでは言い訳にならないような関係をもつことがありうるという考えに移行することも、以前の私にはできなかったであろう。アルベルチーヌは、そのうわさは本当ではないと誓う前に、そんなうわさを聞かされた者ならだれもがそうするように怒りと悲しみをあらわにし、義憤に駆られた好奇心をむき出しにして、中傷をした未知の男がだれなのか知りたい、その男と対決してやっつけると息巻いた。とはいえアルベルチーヌは、すくなくとも私のことを恨んでいないと請け合った」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.518」岩波文庫 二〇一五年)
そこで始めてアルベルチーヌの言葉は<私>にとって「よく効く鎮静剤」としての効果を発揮する。患部そのものが消滅したわけでは全然ない。アルベルチーヌの言葉はあくまで「もっとも効率よく私の心を鎮めてくれた」だけに過ぎず、病根自体が断たれた「証拠」はまるでない。にもかかわらず「よく効く鎮静剤」として作用したのは「嫉妬というものは病的疑念なる範疇に属するもので、その疑念は、断言の真実味よりも、むしろ断言の力強さによって解消されるからである」。なお、すぐ後に続く文章は愛するということに関するいつもの逆説。プルースト作品ではしょっちゅう繰り返し反復される。愛すれば愛するほど苦痛は増大し、逆に苦痛からの解放はもはや相手を愛していないことの証拠になるというパラドックスである。
「アルベルチーヌが私に与えてくれたのは誓いのことばだけであり、それは断言ではあるが証拠に裏づけられたことばではなかった。しかし、ほかでもない、そのことばがもっとも効率よく私の心を鎮めてくれた。嫉妬というものは病的疑念なる範疇に属するもので、その疑念は、断言の真実味よりも、むしろ断言の力強さによって解消されるからである。そもそも恋愛の特性は、われわれをいっそう疑い深くすると同時に、いっそう信じやすくする点にあり、愛する女にはほかの女よりも真っ先に嫌疑をかけるとともに、愛する女が否認すればたやすくそれを信じてしまう。世の中には貞淑な女だけがいるわけではないことが気になるには、つまりそれに気づくためには、恋をしてみなくてはならないのと同じで、貞淑な女が存在することを願うにも、つまりそれを確かめるためにも、恋をしてみる必要がある。みずから苦痛を求めながら、すぐに苦痛からの解放を求めるのもまた人間である。それゆえ苦痛から解放してくれる提案は、えてしてどれも真実味を帯びて見える。人はよく効く鎮静剤に文句を言ったりはしない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.519」岩波文庫 二〇一五年)
次のセンテンスでプルーストは一人の人間について「ふたつの人格」の実在を前提に論理を進めている。
「そもそもわれわれが愛する相手は、どんなに多種多様であろうと、その相手がわれわれのものと見えるか、欲望をべつの人に向けていると見えるかによって、主たるふたつの人格を提示する可能性がある。第一の人格は、われわれが第二の人格の実在を信じるのを妨げる格別な力をもち、第二の人格によってひきおこされる苦痛を鎮める特殊な秘訣を備えている。愛する対象は、苦痛になるかと思えば薬にもなり、その薬は苦痛を止めもすれば悪化もさせる」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.519~520」岩波文庫 二〇一五年)
この「第二の人格によってひきおこされる苦痛を鎮め」ようとして、大変多くの人々は自分が「愛する対象」に特有のパルマコン(医薬/毒薬)性に依存するのだが、そもそも自分が「愛する対象」に特有のパルマコン(医薬/毒薬)性があるとはどういうことか。それこそ自分が「愛する対象」は、その身体を見る限りなるほど一つであるにもかかわらず、実をいうと、内的には多元的(少なくとも二元的)であると認めている何よりの証拠なのではないだろうか。そしてこの多元性はもちろん性的多様性を含んでいる。
「エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。英語の小説におけるエクリチュールに女性が台頭して以来、いかなる男性作家もこの問題に無関心ではいられなくなった。ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.242」河出文庫 二〇一〇年)
それら名だたる世界文学の中に自分の鏡像を見る人々がどれほど大量にいることか。狭い意味での同性愛や昨今話題のLGBTに関する認識はあまりにも粗雑過ぎる。一時的な感情ではなく事実をもっと直視しなければならないし、事実を根拠に法律も時代に合ったものへ修正していかなくてはならない。グローバル資本主義がようやく果たした局地的文学から世界文学への広がり。もはや同性愛どころか<動物への生成変化><植物への生成変化>など幾らでも見つけることができる。またアルベルチーヌのように異性愛かつ同性愛、さらには植物になり、なおかつ楽器にさえなっていく終わりなき過程。それについてはガタリのいう「トランス主体性」という言葉が当てはまる。これから少しずつ見ていくことになるだろう。
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「私はとうとう思いきってアルベルチーヌに、その暮らしぶりについて人からどんなうわさ話を聞いたかを伝え、同じ悪徳に染まる女たちには深い嫌悪を覚えるとはいえ、きみの共犯者の名前を聞くまではそんなことは気にもならかなったが、アンドレを愛しているだけにぼくがそのうわさにどんなに苦痛を感じているか、きみには容易にわかるはずだ、と言ってみた。ほかの女たちの名前を聞いたけれど、そんな女たちのことはどうでもよかった、と言い添えたほうが、もっとうまいやりかただったかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.517~518」岩波文庫 二〇一五年)
ところで<私>にこれほど手の込んだ役割を熱演せざるを得なくさせているものは何なのか。<私>が「同じ悪徳に染まる女たち」と呼んでいる限りではアルベルチーヌとアンドレとが女性同士の同性愛に耽り込んで<私>を忘れ去っているかもしれないことに対する単なる嫉妬の力である。そして<私>に限らずとも一般的に嫉妬は、自分の自尊心が高ければ高いほど自分で自分自身を傷つけ、自分の内面にこれ以上ないほど惨めな思いに打ちひしがれた精神状態を出現させる。さらに同性愛が表面上は「悪徳」とされていた当時ーーーもっとも、上流社交界には幾らでも同性愛者がおり周囲からの公認さえ堂々と得ているケースがあったことをプルーストは知っているわけだがーーー<私>もまた「悪徳」という言葉を利用して同性愛の疑いのあるアルベルチーヌをどんどん問い詰めることができた。
だがしかし、アルベルチーヌが同性愛者ではなくただ単にどこにでもいる異性愛者だったとしたらどうだったか。<私>以外に愛人がいる身振りが目に付けばただちに<私>は道徳的見地からアルベルチーヌに「悪徳」のレッテルを貼り付けて問い詰めていたに違いない。愛する相手が異性愛者であろうと同性愛者であろうとニーチェがいうように「愛」という名の「所有欲」がそうさせるのだ。
またさらに重要なのは、というよりもっと遥かに注意深く問題にしなければならないテーマは、「悪徳」という否定的な観念を<私>に振り回させて止まないものは何かという点である。<私>の場合、次にあるようにコタールの指摘「あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ」という<言葉>こそが直接のきっかけになっている。
「しかし私の心にはいりこんで私をひき裂いたのは、あのコタールの指摘による突然の耐えがたい暴露であって、それが全面的に効果を及ぼしたのであり、それ以外の原因ではなかった。もしもワルツを踊るふたりの姿勢についてコタールから指摘されなかったら、アルベルチーヌがアンドレを愛しているとか、すくなくともアンドレと愛撫しあい戯れたことがあるとか、そんなことを以前の私が自分で考えることはけっしてなかっただろう。それと同じで、そんな考えから、私にとってはそれとずいぶんことなる、アルベルチーヌがアンドレ以外の女たちとも愛情というだけでは言い訳にならないような関係をもつことがありうるという考えに移行することも、以前の私にはできなかったであろう。アルベルチーヌは、そのうわさは本当ではないと誓う前に、そんなうわさを聞かされた者ならだれもがそうするように怒りと悲しみをあらわにし、義憤に駆られた好奇心をむき出しにして、中傷をした未知の男がだれなのか知りたい、その男と対決してやっつけると息巻いた。とはいえアルベルチーヌは、すくなくとも私のことを恨んでいないと請け合った」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.518」岩波文庫 二〇一五年)
そこで始めてアルベルチーヌの言葉は<私>にとって「よく効く鎮静剤」としての効果を発揮する。患部そのものが消滅したわけでは全然ない。アルベルチーヌの言葉はあくまで「もっとも効率よく私の心を鎮めてくれた」だけに過ぎず、病根自体が断たれた「証拠」はまるでない。にもかかわらず「よく効く鎮静剤」として作用したのは「嫉妬というものは病的疑念なる範疇に属するもので、その疑念は、断言の真実味よりも、むしろ断言の力強さによって解消されるからである」。なお、すぐ後に続く文章は愛するということに関するいつもの逆説。プルースト作品ではしょっちゅう繰り返し反復される。愛すれば愛するほど苦痛は増大し、逆に苦痛からの解放はもはや相手を愛していないことの証拠になるというパラドックスである。
「アルベルチーヌが私に与えてくれたのは誓いのことばだけであり、それは断言ではあるが証拠に裏づけられたことばではなかった。しかし、ほかでもない、そのことばがもっとも効率よく私の心を鎮めてくれた。嫉妬というものは病的疑念なる範疇に属するもので、その疑念は、断言の真実味よりも、むしろ断言の力強さによって解消されるからである。そもそも恋愛の特性は、われわれをいっそう疑い深くすると同時に、いっそう信じやすくする点にあり、愛する女にはほかの女よりも真っ先に嫌疑をかけるとともに、愛する女が否認すればたやすくそれを信じてしまう。世の中には貞淑な女だけがいるわけではないことが気になるには、つまりそれに気づくためには、恋をしてみなくてはならないのと同じで、貞淑な女が存在することを願うにも、つまりそれを確かめるためにも、恋をしてみる必要がある。みずから苦痛を求めながら、すぐに苦痛からの解放を求めるのもまた人間である。それゆえ苦痛から解放してくれる提案は、えてしてどれも真実味を帯びて見える。人はよく効く鎮静剤に文句を言ったりはしない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.519」岩波文庫 二〇一五年)
次のセンテンスでプルーストは一人の人間について「ふたつの人格」の実在を前提に論理を進めている。
「そもそもわれわれが愛する相手は、どんなに多種多様であろうと、その相手がわれわれのものと見えるか、欲望をべつの人に向けていると見えるかによって、主たるふたつの人格を提示する可能性がある。第一の人格は、われわれが第二の人格の実在を信じるのを妨げる格別な力をもち、第二の人格によってひきおこされる苦痛を鎮める特殊な秘訣を備えている。愛する対象は、苦痛になるかと思えば薬にもなり、その薬は苦痛を止めもすれば悪化もさせる」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.519~520」岩波文庫 二〇一五年)
この「第二の人格によってひきおこされる苦痛を鎮め」ようとして、大変多くの人々は自分が「愛する対象」に特有のパルマコン(医薬/毒薬)性に依存するのだが、そもそも自分が「愛する対象」に特有のパルマコン(医薬/毒薬)性があるとはどういうことか。それこそ自分が「愛する対象」は、その身体を見る限りなるほど一つであるにもかかわらず、実をいうと、内的には多元的(少なくとも二元的)であると認めている何よりの証拠なのではないだろうか。そしてこの多元性はもちろん性的多様性を含んでいる。
「エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。英語の小説におけるエクリチュールに女性が台頭して以来、いかなる男性作家もこの問題に無関心ではいられなくなった。ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.242」河出文庫 二〇一〇年)
それら名だたる世界文学の中に自分の鏡像を見る人々がどれほど大量にいることか。狭い意味での同性愛や昨今話題のLGBTに関する認識はあまりにも粗雑過ぎる。一時的な感情ではなく事実をもっと直視しなければならないし、事実を根拠に法律も時代に合ったものへ修正していかなくてはならない。グローバル資本主義がようやく果たした局地的文学から世界文学への広がり。もはや同性愛どころか<動物への生成変化><植物への生成変化>など幾らでも見つけることができる。またアルベルチーヌのように異性愛かつ同性愛、さらには植物になり、なおかつ楽器にさえなっていく終わりなき過程。それについてはガタリのいう「トランス主体性」という言葉が当てはまる。これから少しずつ見ていくことになるだろう。
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