また或る日のこと。<私>はバルベックのカジノのダンスホールでアルベルチーヌやアンドレたちのグループと一緒にいたところ、ブロックの妹とその従妹(いとこ)がやって来た。この従妹はレア嬢という女優と同棲していることで有名だった。レア嬢についてはそもそもブロックの父親が何年も前から女優としての才能を高く評価していた。
<私>はアルベルチーヌたちのグループとブロックたちユダヤ人のグループとが仲良くしないのを知っていたからブロックの妹とその従妹(いとこ)が入ってきたことに気づきはしたが知らないふりをした。その時のアルベルチーヌの身振りに注目しよう。
「アルベルチーヌはといえば、私といっしょに長椅子に腰かけておしゃべりをはじめたとき、素行の怪しいふたりの娘には背を向けていた。しかし私は、そうして背を向ける前、ブロック嬢とその従妹がはいってきたとき、私の恋人であるアルベルチーヌの目に、突然、多大な関心の色があらわれたのに気づいていた。このいたずら好きの娘の顔をときにまじめで深刻ともいえる表情にしたあと、悲しげな表情に変えてしまう、多大な関心の色である。もっともアルベルチーヌはすぐに私のほうを向いたが、それでもまなざしだけは奇妙なまでにじっと動かず、まるで夢でも見ているようであった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.449~450」岩波文庫 二〇一五年)
アルベルチーヌは明らかに「ブロック嬢とその従妹がはいってきた」ことに気づいたばかりか「突然、多大な関心」を示した。そこでアルベルチーヌに、たった今目撃したはずの「ブロンドの小娘(女優の恋人だという娘)」について訊ねてみた。アルベルチーヌはまるで知らないという。「『あら!わかんないわ』とアルベルチーヌは言って、『ブロンドの女の子がいたの?だって、あたし、あの子たちにはあまり興味がないし、よく見たこともないわ。ブロンドの子がいたの?』」と。
「私はアルベルチーヌに、あのブロンドの小娘(女優の恋人だという娘)は、その前日、花馬車レースで賞をとったのと同じ娘ではないかと訊ねた。『あら!わかんないわ』とアルベルチーヌは言って、『ブロンドの女の子がいたの?だって、あたし、あの子たちにはあまり興味がないし、よく見たこともないわ。ブロンドの子がいたの?』といぶかしげな冷めた口調で三人の女友だちに訊ねた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.450」岩波文庫 二〇一五年)
そうアルベルチーヌが言うので<私>はもしもの事態を危惧し、この「知らんぷり」をきっかけにアルベルチーヌとブロック嬢の従妹との間を確実に切断しておこうとこう言った。「あの子たちも、あまりぼくらのほうを見なかったね」。すると途端にアルベルチーヌは「ついうっかり」反撃に出た。なぜアルベルチーヌの「まなざしだけは奇妙なまでにじっと動かず、まるで夢でも見ているようであった」か、次の会話で明らかになる。
「『あの子たちが、あたしたちを見つめていなかったというの?』とアルベルチーヌはついうっかり答えた、『しょっちゅうあたしたちを眺めてたわよ』。『だって、きみにはわかりようがないだろう』と私は言った、『あの子たちに背を向けていたんだから』。『じゃあ、あれはなんなの?』とアルベルチーヌは答えて、私たちの正面の壁にはめ込まれた大きな鏡を指し示した。そのときまでその鏡に気づかなかった私は、わが恋人が私に話しかけながら、気がかりに満ちた美しい目をじっと注いでいたのがその鏡であることを今になって悟ったのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.450~451」岩波文庫 二〇一五年)
アルベルチーヌは自分自ら異性愛者であるだけでなく同性愛者でもあることを告白したに等しい。しかしだからといって<私>がただちにアルベルチーヌと別れるということにはならない。医師コタールが述べた「あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ」という言葉の効果ばかりがまたしても延長されたに過ぎないと言えばなるほどそれだけのことだからである。とはいえ延長されたぶん、同時にアルベルチーヌに対する疑念(異性愛者かつ同性愛者)も確実に増殖しているし増殖しないわけにはいかない。その証拠として次に続く文章が否応なく打刻される。
「私にはアルベルチーヌがもはや同じ女とは思われず、そのすがたを見ると腹が立った。アルベルチーヌが別人に見えたのと同様、私自身も変わり果てたのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.451」岩波文庫 二〇一五年)
そしてまた「私自身も変わり果てた」とあるのは、プルーストの理論上、まったく正しい。「小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべき」と、ずっと以前に述べているからである。
「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)
自己愛でさえ「変動」するのは例外ではなく逆に当り前だとニーチェはいう。多元性ゆえに。
「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)
多元性ゆえに分裂があるわけだが、だからこそ「統一」はいつも「妄想」に終わるほかない。
「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)
だから単純にアルベルチーヌには「罪がある」と言えない事情があり、それら多種多様な世界について<私>はますます多くの場所移動を果たしていくことになる。
BGM1
BGM2
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<私>はアルベルチーヌたちのグループとブロックたちユダヤ人のグループとが仲良くしないのを知っていたからブロックの妹とその従妹(いとこ)が入ってきたことに気づきはしたが知らないふりをした。その時のアルベルチーヌの身振りに注目しよう。
「アルベルチーヌはといえば、私といっしょに長椅子に腰かけておしゃべりをはじめたとき、素行の怪しいふたりの娘には背を向けていた。しかし私は、そうして背を向ける前、ブロック嬢とその従妹がはいってきたとき、私の恋人であるアルベルチーヌの目に、突然、多大な関心の色があらわれたのに気づいていた。このいたずら好きの娘の顔をときにまじめで深刻ともいえる表情にしたあと、悲しげな表情に変えてしまう、多大な関心の色である。もっともアルベルチーヌはすぐに私のほうを向いたが、それでもまなざしだけは奇妙なまでにじっと動かず、まるで夢でも見ているようであった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.449~450」岩波文庫 二〇一五年)
アルベルチーヌは明らかに「ブロック嬢とその従妹がはいってきた」ことに気づいたばかりか「突然、多大な関心」を示した。そこでアルベルチーヌに、たった今目撃したはずの「ブロンドの小娘(女優の恋人だという娘)」について訊ねてみた。アルベルチーヌはまるで知らないという。「『あら!わかんないわ』とアルベルチーヌは言って、『ブロンドの女の子がいたの?だって、あたし、あの子たちにはあまり興味がないし、よく見たこともないわ。ブロンドの子がいたの?』」と。
「私はアルベルチーヌに、あのブロンドの小娘(女優の恋人だという娘)は、その前日、花馬車レースで賞をとったのと同じ娘ではないかと訊ねた。『あら!わかんないわ』とアルベルチーヌは言って、『ブロンドの女の子がいたの?だって、あたし、あの子たちにはあまり興味がないし、よく見たこともないわ。ブロンドの子がいたの?』といぶかしげな冷めた口調で三人の女友だちに訊ねた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.450」岩波文庫 二〇一五年)
そうアルベルチーヌが言うので<私>はもしもの事態を危惧し、この「知らんぷり」をきっかけにアルベルチーヌとブロック嬢の従妹との間を確実に切断しておこうとこう言った。「あの子たちも、あまりぼくらのほうを見なかったね」。すると途端にアルベルチーヌは「ついうっかり」反撃に出た。なぜアルベルチーヌの「まなざしだけは奇妙なまでにじっと動かず、まるで夢でも見ているようであった」か、次の会話で明らかになる。
「『あの子たちが、あたしたちを見つめていなかったというの?』とアルベルチーヌはついうっかり答えた、『しょっちゅうあたしたちを眺めてたわよ』。『だって、きみにはわかりようがないだろう』と私は言った、『あの子たちに背を向けていたんだから』。『じゃあ、あれはなんなの?』とアルベルチーヌは答えて、私たちの正面の壁にはめ込まれた大きな鏡を指し示した。そのときまでその鏡に気づかなかった私は、わが恋人が私に話しかけながら、気がかりに満ちた美しい目をじっと注いでいたのがその鏡であることを今になって悟ったのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.450~451」岩波文庫 二〇一五年)
アルベルチーヌは自分自ら異性愛者であるだけでなく同性愛者でもあることを告白したに等しい。しかしだからといって<私>がただちにアルベルチーヌと別れるということにはならない。医師コタールが述べた「あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ」という言葉の効果ばかりがまたしても延長されたに過ぎないと言えばなるほどそれだけのことだからである。とはいえ延長されたぶん、同時にアルベルチーヌに対する疑念(異性愛者かつ同性愛者)も確実に増殖しているし増殖しないわけにはいかない。その証拠として次に続く文章が否応なく打刻される。
「私にはアルベルチーヌがもはや同じ女とは思われず、そのすがたを見ると腹が立った。アルベルチーヌが別人に見えたのと同様、私自身も変わり果てたのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.451」岩波文庫 二〇一五年)
そしてまた「私自身も変わり果てた」とあるのは、プルーストの理論上、まったく正しい。「小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべき」と、ずっと以前に述べているからである。
「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)
自己愛でさえ「変動」するのは例外ではなく逆に当り前だとニーチェはいう。多元性ゆえに。
「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)
多元性ゆえに分裂があるわけだが、だからこそ「統一」はいつも「妄想」に終わるほかない。
「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)
だから単純にアルベルチーヌには「罪がある」と言えない事情があり、それら多種多様な世界について<私>はますます多くの場所移動を果たしていくことになる。
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