白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・プルーストが上げる<ソドム(男性同性愛)><ゴモラ(女性同性愛)><トランス性愛>/嫉妬を越えた<私>の狂気

2022年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>にとって「よく効く鎮静剤」としての「誓いの言葉」。その効果を永続的なものにするためには「私はその夜のうちに発って、二度とアルベルチーヌに会わずにいるべきであった」。とすれば<私>にとって、次の二箇所で述べられていることは確実であるように思えた。

(1)「私はその夜のうちに発って、二度とアルベルチーヌに会わずにいるべきであった。そのときから私は、相思相愛ではない恋においてーーー多くの人にとって相愛の恋など存在しない以上、たんに恋においてと言ってもいいーーー人が味わえるのは、今のようなまたとない瞬間に私に授けられた見せかけの幸福にすぎず、そんな瞬間には、女の好意ゆえか、あるいは女の気まぐれゆえか、はたまた単なる偶然ゆえか、あたかもわれわれが心から愛されているかのように、そうした場合と同様の女のことばや行為とわれわれの欲望とがたまたまぴったり一致するのだと予感していた。私がこの幸福のかけらに出会わなければ、私ほど気むずかしくない人たち、あるいは私よりも恵まれた人たちにとって幸福がいかなるものでありうるのかに私は気づかずに死んでいたのだから、賢明なのはこの小さな幸福のかけらを興味ぶかくうち眺め、それを陶然として味わっておくことであっただろう」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.522」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「賢明なのは、私にはこの局面でのみすがたをあらわしたこの幸福のかけらは、ずっと広大で永続的な幸福の一部だと考えておくことであっただろう。さらに賢明なのは、この幸福の見せかけが翌日に否定されることがないように、いっときの例外的な偶然の作為によってのみ授けられた好意のあかしを、あらためてもう一度求めようとしないことであっただろう。私はバルベックを発って孤独のうちに閉じこもり、私がいっとき愛をこもらせることのできた声の最後の残響とハーモニーを奏でつづけているべきで、その声にはもはやそれ以上私に話しかけないことだけを求めるべきであっただろう。その声が、今後はべつのものになるほかない新たなことばを発して、その不協和音によって感覚の沈黙がかき乱されるのを怖れたからで、その沈黙のなかでこそ、まるでピアノのペダルを踏みこんだときのように、私の内部で長いあいだ幸福の調性が保たれたにちがいないからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.522~523」岩波文庫 二〇一五年)

しかしこの二箇所の記述は根も葉もないただ単なる希望的観測でしかない。ほどなくバルベックにリゾート地のシーズン最盛期がやって来た。<私>の楽観的憶測はあっけない妄想としてたちどころに崩壊する。「浜辺はいまや娘たちであふれかえ」っていた。<私>はアルベルチーヌに頼まれてもいないのに次の提案を口にする。「若い女がバルベックにやって来るたびに心配で落ち着かず、アルベルチーヌがその娘と知り合いにならぬよう、できればその新たな到着客に気づかぬよう、いっしょにできるだけ遠くへ出かける提案をした」。

「浜辺はいまや娘たちであふれかえり、コタールから聞かされた見解のせいで、私は新たな疑念をいだかないまでも、この点にかんして敏感で傷つきやすくなり、そんな疑念が心中に生じないように用心し、若い女がバルベックにやって来るたびに心配で落ち着かず、アルベルチーヌがその娘と知り合いにならぬよう、できればその新たな到着客に気づかぬよう、いっしょにできるだけ遠くへ出かける提案をした」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.534~535」岩波文庫 二〇一五年)

しかし「浜辺はいまや娘たちであふれかえ」っているとしても、そして続々と出現する娘たちについて「アルベルチーヌがその娘と知り合いにならぬよう、できればその新たな到着客に気づかぬよう、いっしょにできるだけ遠くへ出かける」ことができたとしても、<私>の恐怖は収まらない。<私>が遥かに恐れているのは「アルベルチーヌは倒錯者と関係を結ぼうとしているのではないか、私のせいでそれができず残念に思っているのではないか、あるいは実例が多いという理由で、これほど広まった悪徳は非難してはいけないと信じているのではないか」という、ほとんど箇条書きのように整理整頓された<言葉>の列挙に依存している限り止めることができない不安の奔流である。

「もちろん私がそれ以上に恐れていたのは、素行の悪さが目立ったり悪いうわさを聞いたりする女たちであった。私はそんなうわさは事実無根の中傷なのだとアルベルチーヌに言い聞かせようとしたが、もしかするとそんなことをしたのは、まだ意識していなかった心配ではあるが、アルベルチーヌは倒錯者と関係を結ぼうとしているのではないか、私のせいでそれができず残念に思っているのではないか、あるいは実例が多いという理由で、これほど広まった悪徳は非難してはいけないと信じているのではないか、などと心配したせいかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.535」岩波文庫 二〇一五年)

<私>が「倒錯者」とか「罪深い女の悪徳」とかいうのはゴモラ(女性同性愛)に憧れる女性全般のことだ。ところがソドム(男性同性愛)についてだけでなくゴモラ(女性同性愛)についてだけでもなくトランス性愛についてもプルーストは次に上げるようにもっと早いうちに無罪判決を下している。長いので便宜上三箇所に分けて引こう。

(1)「われわれはこの男の顔のなかに、心を打つさまざまな気遣い、ほかの男たちには見られぬ気品ある自然な愛想のよさを見出して感嘆するのだから、この青年が求めているのはボクサーだと知ってどうして嘆くことがあろう?これらは同じひとつの現実の、相異なる局面なのだ。さらに言えば、これらの局面のうちわれわれに嫌悪の情をいだかせる局面こそ、いちばん心を打つ局面であり、どんなに繊細な心遣いよりも感動的なのである。というのもそれは、自然が無意識のうちにおこなう感嘆すべき努力のあらわれにほかならないからだ。性をめぐるさまざまな欺瞞にもかかわらずこうして性がみずから企てる自己認識は、社会の当初の誤謬のせいで遠くに追いやられていたものへと忍び寄ろうとする密かな企てに見える」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.66」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「おそらくきわめて内気な少年期をすごした男のなかには、快楽をひとりの男の顔に結びつけることさえできれば満足して、どのような肉体的快楽を享受できるかについてはさして感心を向けない者もいる。これにたいして、おそらくもっと激しい欲望をいだくせいであろう、自分の肉体的快楽の対象をなんとしても限定する男たちもいる。こんな男たちが自分の想いを告白すれば、世間一般の顰蹙(ひんしゅく)を買うだろう。ところがこの男たちもサトゥルヌスの星のもとでのみ暮らしているとはかぎらない。前者の男たちにとっては女性が完全に排除されているが、この後者の男たちにとってはそうではないのだ。前者の男たちにとって、おしゃべりや媚のような頭のなかの恋愛がなければ女性なるものは存在しないに等しいが、後者の男たちは、女を愛する女性を探し求め、その女性から若い男を手に入れてもらったり、若い男とすごす快楽をその女性に増幅させてもらったりする。おまけにこの男たちは、それと同じやりかたで、男と味わうのと同じ快楽をその女性たちを相手に味わうこともできる」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.66~67」岩波文庫 二〇一五年)

(3)「そんなわけで前者の男を愛する男たちからすると、嫉妬をかき立てられるのは相手の男がべつの男と味わう快楽だけで、それだけが自分には裏切りに思える。なぜならその男たちは、女と愛情をわかち合うことはなく、そうしているように見えても慣習として結婚の可能性を残しておくためにすぎず、女との愛情から与えられる快楽をまるで想像できないので、耐えがたく思えるのは自分の愛する男が味わう快楽だけだからである。ところが後者の男たちは、しばしば女性との嫉妬をかき立てられる。というのもこの男たちは、女性と結ぶ関係において、女を愛する女性からすると相手の女役を演じているうえ、同時にその女性もこの男たちが愛する男に見出すのとほとんど同じ快楽を与えてくれるので、嫉妬する男は、自分の愛する男がまるで男にも等しい女に首っ丈になっているように感じると同時に、その男がそんな女にとっては自分の知らない存在、つまり一種の女になっていると感じて、その男がまるで自分から逃れてゆくような気がするのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.67~68」岩波文庫 二〇一五年)

だからプルーストは始めから知っていたのだ。ガタリの言葉ではこうなる。「おそらくわれわれは一般的な説明を必要としないような事実データに直面しているのかもしれない」と。

「ここに問われている唯一の問題は、プルーストの女性生成ーーー《乙女たち》を通じて表明されるーーーと、彼の想像家生成によって巻き込まれるような諸地層の脱属領化作用、諸顔面、諸人物、諸風景のリトルネロ化作用との間の関係を明らかにすることである。おそらくわれわれは一般的な説明を必要としないような事実データに直面しているのかもしれない」(ガタリ「機械状無意識・第2部・第3章・P.355」法政大学出版局 一九九〇年)

一方、<私>は「同性愛=悪徳」という言葉の短絡的かつ宗教的観念に囚われるばかりで、嫉妬を通り越し、「もうどんな女にもバルベックには来てもらいたくなかった」とさえ考えるようになる。

「私としては罪深い女の悪徳をことごとく否定することで、やはり女の同性愛は存在しないのだと主張しようとしていたらしい。アルベルチーヌは、私があれやこれやの女の悪徳を信じないことを受け入れた。『そうね、あれはあの人がそう見せかけている好みだと思うわ、ちょっと気取るためなのよ』。しかしそれを聞いた私は、女性の潔白を主張したことを後悔しそうになった。以前はあれほど厳格だったアルベルチーヌが、その種の趣味をもたない女でもそれを気取ろうとするほど、その『嗜好』がなにやら心をそそる有益なものと信じているように見え、それが私には不愉快だったのである。私は、もうどんな女にもバルベックには来てもらいたくなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.535~536」岩波文庫 二〇一五年)

アルベルチーヌの愛の身振りは<私>を狂気というテーマ系へ叩き込んでいく。

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