白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・フランソワーズの「言い間違い」とプルースト神話の解体/左翼反省会・「時代おくれとなった」《習慣・因習》について

2022年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
余りにも夜遅く訪ねてきたアルベルチーヌについて、その服装にも「軽蔑と愚弄」を意味する笑いを付け加えて<私>に告げたフランソワーズ。<私>はアルベルチーヌが馬鹿にされたと感じ、思い切ってフランソワーズに言い返す。

「フランソワーズにつぎのような残忍なことばを投げかけた。『お前はよくできた人だね』と私はさも優しげに言った、『親切だし、長所だって数えきれないほどある。ただし、おしゃれな服装にかんしては、ことばをちゃんと発音して言い間違いをしないことと同じで、パリに着いた日からちっとも進歩していないなあ』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.305~306」岩波文庫 二〇一五年)

しかし<私>自身、「ことばをちゃんと発音して言い間違いをしないことと同じで、パリに着いた日からちっとも進歩していない」という穏やな非難を込めた反論に、<私>の言い分こそ、それこそ馬鹿げていると思った。なぜだろう。<私>が口にした「フランス語の正確な発音」。実はそんなもの全然ないというフランス語の生成過程における歴史的事実だ。「フランス語の単語はどれも、ラテン語やザクセン語を訛って発音したガリア人の口が犯した『言い間違い』にほかならず、われわれの言語はいくつかの他の言語を誤って発音したものだからである」だけでなく「生きた状態の言語の真髄、フランス語の過去と未来、これこそフランソワーズの間違いのなかで私の興味を惹いて然るべき問題であった」からだ。

「というのも、われわれが正確な発音をこれほど誇りにしているフランス語の単語はどれも、ラテン語やザクセン語を訛って発音したガリア人の口が犯した『言い間違い』にほかならず、われわれの言語はいくつかの他の言語を誤って発音したものだからである。生きた状態の言語の真髄、フランス語の過去と未来、これこそフランソワーズの間違いのなかで私の興味を惹いて然るべき問題であった。『かけはぎ屋』のことを『<い>かけはぎ屋』と言うのは、大昔から生き残って動物の生命がたどった諸段階を示してくれるクジラやキリンのような動物と同じほど、興味ぶかいことではないか?」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.306」岩波文庫 二〇一五年)

ところがこの箇所でプルーストは、もっと重大な事実をまともに<暴露>してはいないだろうか。というのは、恐ろしく長いあいだ信じ込まれてきたプルースト文学に対する一般的評価「意識の流れ」という命題はまるで的外れだと作品自体が語っているとともに、プルーストがやっていることは、それぞれ新しく出現する様々な記号(身振り・言葉)がさらなる新しい記号(身振り・言葉)を次々と呼び込み増殖させていく絶えざる生産過程だからである。

しかしもし「意識の流れ」というのであればどう考えてもジョイスの長編「ユリシーズ」、「フィネガンズ・ウェイク」がそれであって逆にプルーストは「『かけはぎ屋』のことを『<い>かけはぎ屋』と言うのは、大昔から生き残って動物の生命がたどった諸段階を示してくれるクジラやキリンのような動物と同じほど、興味ぶかいことではないか?」と読者に疑問を投げかけることでプルーストの方法を作者自身の側から指示してはいないだろうか。露悪趣味といえば聞こえは悪いかもしれない。だが社交界内部で飛び交うてんでばらばらであちこち脈略を脱線させてはさらなる嘲笑・侮蔑・冒瀆を繰り返し反復する「諸段階」のモザイクが雄弁に物語っているように、露悪趣味的<諸断片>のモザイクの生産こそ、プルーストが実際にやって見せていることではないだろうか。その意味でもはや「プルースト作品=意識の流れ」というステレオタイプ(紋切型)な<神話>の解体を見ないわけにはいかない。すでにこう述べられていた。

「ところが心の豊かさは、社交界の無為のなかでは使いようがなく、ときにはけ口を求めてあふれ出し、はかないがゆえにそれだけ不安げな真情の吐露となる。ゲルマント夫人の口から出るとそれは、愛情と受けとられかねないものになるのであった。もっとも夫人は、そんな真情を溢れさせるとき、心底から愛情を感じていた。そのときの夫人は、男であれ女であれいっしょにいる友人にたいして、けっして官能的なものではなく音楽がある種の人びとに与えるのにも似た一種の陶酔をおぼえていたのである。夫人は、胴衣から花やメダイヨンをとりはずし、その夜もっといっしょにいたいと思う相手にそれを与えることもあるが、そのように引き延ばしたところで、空しいおしゃべり以外にゆき着くものはなく、そこでは神経の快楽や一時的な昂奮からはなにも生じないのを感じると、はじめて訪れた春の暖かさがけだるくもの悲しい印象を残すだけなのにも似て、憂鬱になるのだ。相手をする友人のほうは、この貴婦人たちが口にした約束、かつて耳にしたことどんな約束よりも陶然とさせられる約束をあまり真に受けてはならない。こうした貴婦人たちは、このいっときをきわめて心地よく感じたので、並の女性なら持ちえない心遣いと気品をこめてこのいっときを優雅な真情でほろりとさせる傑作に仕立てあげるのであるが、べつのいっときが来たら、もはや自分から与えるものなどなにひとつ残っていない。貴婦人たちの愛情は、それを表明させる昂奮が冷めたあとにまで生き残ることはない。そして相手が聞きたいと願うことをことごとく察知し、それを相手に言ってやるのに駆使された鋭い才気は、数日後には、同じように鋭く相手の滑稽な言動をとらえ、それを種にべつの客人をおもしろがらせ、こんどはその相手といとも短い『楽興の時』を満喫することになるのだ」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.446~447」岩波文庫 二〇一四年)

さて、ジジェク。つい最近話題になっただけでなく今なお毀誉褒貶に見舞われている人気ドラマシリーズ「ゲーム・オブ・スローンズ」について述べている。ジジェクは端的に問いを立てることで「リベラル保守の教え」を炙り出し、そこにいつも出現してやまない「物分かりがよく、頭の回転もよく、しばしばチャーミングな女性」という大欺瞞を俎上に乗せる。

「圧政への反乱は、階級秩序は変えずにより思いやり深かった昔のありようを取り戻すことを目指して戦うべきなのか、それとも、必要とされる新たな秩序の探究へと発展するべきなのか。不満を感じた視聴者は、この最後の戦いが気にいらなかった。当然のことだ。なぜなら最後の戦いは、ラディカルな変化の拒否と、ヘーゲル、シェリング、ワーグナーに見られるおなじみの反フェミニズムのモチーフとを結び合わせたものだからだ。『精神現象学』においてヘーゲルは、『共同体にとっての永遠のイロニー』としての女性性という悪名高い概念を導入する。女性は『そのたくらみをつうじて、統治にぞくする普遍的な目的を私的な目的に変化させ、統治の普遍的な活動をこの特定の個体がおこなう仕事に転換し、国家の普遍的な所有を顛倒させて、家族に帰する占有と装飾品としてしまうのだ』。この一節はワーグナーの『ローエングリン』に出てくるオートルートという人物に完璧に当てはまる。ワーグナーにとって、権力欲に駆られ政治生活に介入してくる女ほど恐ろしく不快な存在はない。女が権力を求めるのは、男の野望とちがい、偏狭な家族の利益を増進するためだったり、ひどいときには、国家政治の普遍的な次元は理解できないのに個人的な気まぐれで動いたりする。F.W.L.シェリングの『それが活動し出すと、われわれを焼き尽くし破壊し去るであろうこと、しかしその同じ原理が、活動していないときには、われわれを担い支えているということ』という言葉を思い出さないわけにはいかないだろうーーー適切な位置にいれば害がなく平和をもたらすはずの権力が、一段高次のレベル、自らの領分でないレベルに介入した瞬間に、真逆のものに、ほかの何よりも破壊的な狂騒に反転してしまう。家庭生活の閉じた輪の中では庇護の愛の力だった女性性が、公の国事のレベルで発揮されると卑しい狂乱に転じてしまうのだ。登場人物間のやりとりがもっとも下劣になるのは、デナーリスがジョンにこう告げるときである。あなたが女王としてのわたしを愛してくれないのなら、恐怖が支配することになるだろう、とーーーこれは性的に満たされない女が破壊的な怒りを爆発させるという、目も当てられないほど下卑たモチーフである」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.117~118」青土社 二〇二二年)

しかしジジェクはヘーゲル哲学を駆使するラカン派批評家ではなかったか。もちろんそうだ。だからこそヘーゲル弁証法に則れば当然ヘーゲル批判が出てくる。ジジェクはそんなこと恐れない。弁証法という方法にではなく、ヘーゲルがあからさまにしたヘーゲル自身のロジックに含まれる家族=国家主義的イデオロギーについて、それはそれで批判を立てる。問題部分。

「国家共同体は、一般的なもののなかに、家族の幸福を破壊し去り、自己意識を解体してしまうことによってのみ、自ら存在しているのだから、自らが抑圧しながらも、同時に自らにとって本質的なものでもあるものにおいて、つまり女性において、本来、自分の内面の敵をつくり出しているわけである。この女性ーーー国家共同体の永遠の反語ーーーは、たくらみによって、統治という一般的な目的を私的な目的に変え、その一般的な活動をこの一定の個人の仕事に転換し、国家の公の財産を、家族の私有物や装飾品に顛倒させてしまう」(ヘーゲル「精神現象学・下・D精神・六・A・P.58~59」平凡社ライブラリー 一九九七年)

そこでマルクスを引用しなければならない。

「弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は、彼が弁証法の一般的な諸運動形態をはじめて包括的で意識的な仕方で述べたということを、けっして妨げるものではない」(マルクス「資本論・第二版後記・P.41」国民文庫 一九七二年)

だがそれだけでいいのか。方法を手に入れた人々は多い。大量にいる。人々の手から手へ相続された。ジジェクの手にも渡った。だからジジェクは、マルクスが「時代おくれとなっている」部分は「あらてめなくてはならない」という言葉に従う。

「最近二十五年間に情勢がどんなにひどくかわったとしても、この『宣言』のなかにのべられている一般的な諸原則は、だいたいにおいて、今日もなお完全な正しさをたもっている。細部の点ではところどころあらためなければならないところがあろう。これらの原則の実際の適用は、『宣言』自身がいっているように、どこでも、またいつでも、歴史上の当面する情勢によるであろう。だから、第二章の終りに提案している革命的諸方策には、たいして重きをおいてはいない。この箇所は、今日書くとすれば、多くの点でちがったものになるであろう。最近二十五年間における大工業の巨大な進歩や、それにともなって進展しつつある労働者階級の党組織から見れば、また最初は二月革命の、つぎにはそれ以上に、はじめてプロレタリアートが二ヵ月間政治権力をにぎったパリ・コンミューンの実際の経験にてらして見れば、この綱領は、今日ではところどころ時代おくれになっている。とくにパリ・コンミューンは、『労働者階級は、できあいの国家機関を単にその手ににぎり、それを自分自身の目的のためにつかうことはできない』ということを証明した。さらに、社会主義文献の批判(第三章)は、一八四七年までしかふくんでいないから、いうまでもなく、今日では不十分である。同様に、種々の反政府党に対する共産主義者の立場について述べたところ(第四章)は、基本的には今日でもなお正しいとしても、その実行においては、政治情勢がまったく一変しているし、歴史の発展がそこにあげた諸党派の大部分を一掃してしまったというだけでも、いまではもう時代おくれになっている。けれども、この『宣言』は歴史的な文書であって、われわれにはもうそれを変更する権利がない」(マルクス=エンゲルス「共産党宣言・一八七二年のドイツ語版序文」『共産党宣言 共産主義の原理・P.8〜9』国民文庫 一九五二年)

というように。後は順次列挙。

(1)「しかしーーーここで酸っぱいりんごをかじろうではないかーーーデナーリスの大殺戮はどうなのだろう。キングズランディングで何千人という一般人を無慈悲に殺したことは、普遍的な自由にむけた必要不可欠な一歩として、本当に正当化されうるのだろうか。もちろんそれは許されないーーーしかしここで、シナリオを書いたのが二人の男性だったことを思い出す必要がある。マッド・クイーンとしてのデナーリスはまったくもって男の幻想であり、彼女が狂気に囚われたことは心理的に妥当とはいえないという批判者たちの指摘は正しかったのだ。怒り狂った表情でドラゴンに乗って飛び回り家や人々を焼き尽くすというデナーリスのイメージは、ただ単に強い政治的な女を恐れる父権主義イデオロギーのあらわれなのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.119」青土社 二〇二二年)

(2)「『ゲーム・オブ・スローンズ』で指導的立場にある女性たちの最終的な運命は、この枠組みにきれいに当てはまる。中心に位置するのは力をもつ二人の女サーセイとデナーリスの対立であり、この対立のメッセージは明確である。かりに善良な側が勝ったとしても、権力は女を堕落させるというわけだ。アリア(単独で夜の王を殺し、二人を救った)も(アメリカを植民地化しに行くかのように)西へ西へと船出していなくなってしまう。(北の独立王国の女王として)残るのはサンサだが、彼女は今日の資本主義に愛されそうなタイプの女性だ。女性的なやわらかさと物分かりのよさに加え、いくらか人心操作の心得を兼ね備えることで、新時代の権力関係にぴったりの人物となっている。女をこのように周縁化することは、このエンディングにふくまれる一般的なリベラル保守の教えの鍵となる要素である。革命は道を踏みはずす運命にあり、かならず新たな圧政を生むことになるという教えだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.119」青土社 二〇二二年)

(3)「リベラル保守の教えは、デナーリスに対するジョンの以下の言葉がもっとも的確に表現している。『ドラゴンが存在するなんて考えたこともなかった。誰もそんなこと思わなかった。きみについていく人は、きみが不可能を実現したと知っている。だからみんな、きみなら他の不可能も実現できると信じるかもしれない。ずっと昔からの腐った世界とは違う世界を築けるはずだと。でもドラゴンをつかって城を溶かし街を燃やしてしまうなら同じことだ。やつらと変わらない』」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.120」青土社 二〇二二年)

(4)「結果として、ジョンは愛するがために殺す(昔からある男性優越主義の定式に則るなら、呪われた女を彼女自身から救いだす)。シリーズ中で唯一、いまだかつてない世界を、旧来の不正義に終止符を打つ新たな世界を求めて戦った社会的主体を。だから最終エピソードは好意的に受け止められたのも驚くに値しない。正義が勝ったのだーーーどんな正義が?すべての人物がそれぞれ適切な場所に配置され、既成の秩序を揺るがしたデナーリスは殺されて、最後に残ったドラゴンに永遠の世界へと運ばれていく。新たに王になるのはブランだ。不具で、なんでも知っており、何も望まないーーー最良の君主は権力を望まない者だというつまらない格言を思い出させる。この上なく政治的に正しいエンディングにおいては、障害を追った王が支配し、小人が補佐し、新しい賢明なエリートが王を選出するのだ(気の利いた細部がある。王の選出をより民主的に行ってはどうかという提案が出ると笑いが起こるのである)。しかし見逃せないのは、デナーリスに最後まで忠実だった者は民族的に多様であるのに対し、新たな統治者たちは明らかに白人の北部人であるということだ。社会的地位や人種にかかわらずすべての人により大きな自由を求めた革新的な女王は消され、物事はもとの状態にもどり、人々の悲惨な状況に諦観が漂う(あたらしい統治議会が計画している最初の立法が軍隊と売春宿の復活であることを思い出してみればいい)」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.121」青土社 二〇二二年)

とあるように「正義が勝ったのだーーーどんな正義が?すべての人物がそれぞれ適切な場所に配置され、既成の秩序を揺るがしたデナーリスは殺されて、最後に残ったドラゴンに永遠の世界へと運ばれていく」ばかりではない。さらに「社会的地位や人種にかかわらずすべての人により大きな自由を求めた革新的な女王は消され、物事はもとの状態にもどり、人々の悲惨な状況に諦観が漂う」。結局のところ「既成の秩序」へ舞い戻ったに過ぎず「旧来の不正義に終止符」は打たれなかったのである。

ニーチェなら言うだろう。

「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫 一九九四年)

もはやすでに「時代おくれとなった」《習慣・因習》が、なぜか、またしても舞い戻ってくるばかりなのだ。

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