ジルベルトとの関係はもはや破綻している。そしてジルベルトとはまた違った新しい形で出現したアルベルチーヌとの関係に、いずれ訪れるであろう暗い破局の予兆を思い描かずにはいかない<私>。そんな折り、「ある現象が生じた」。プルーストがそれを取り上げる理由は「歴史の重要な時期にきまってあらわれる現象だからである」。
「この時期にある現象が生じた。それをここで採りあげる必要があるのは、ほかでもない、歴史の重要な時期にきまってあらわれる現象だからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.311~312」岩波文庫 二〇一五年)
ゲルマント公爵は三週間の間、自分の健康のためを考えて鉱泉療法に出かけた。出発前は熱心な「反ドレフェス派」だった公爵。パリに帰ってきた時、公爵は熱烈な「ドレフェス派」になっていた。鉱泉療法の地で三人の婦人(さるイタリア人の大公妃とその義理の姉妹)と出会い、その聡明で知性的なセンスに大変魅力を感じ、しばしば会話を交わすようになった。しかしそのたびにゲルマント公爵の主張は「大笑い」され、逆に「滑稽千万な説だと苦もなく証明」されるばかりで、公爵の反ドレフェス主義はもろくも崩壊してしまう。そんな経緯があって三週間後にパリに戻ってきた公爵の「百八十度」転向に周囲は驚いたのである。
だからといってプルーストは「三人の魅力的な婦人」を特権化してゲルマント公爵をからかって見せているのではさらさらない。「歴史の重要な時期」というのはあらかじめ「いつ」と決まっているわけでは勿論なく、それまで重要でありながらも棚上げしてきた諸問題について、これ以上棚上げしておくわけにはいかなくなってきたことに多くの人々が気づき、なおかつ表立って活発に対話し合わないわけにはいかなくなる時期のことだ。そういう対話は形式だけで内容のない「討論」などとはまるで異なり、齟齬や矛盾が雨後の筍のように先鋭化するという意味で本当の<対話=ダイアローグ>というにふさわしい。
「われわれは三人の魅力的な婦人がこの場合かならずしも真実の使者とはいえないなどと主張するつもりはなく、どんなに揺るぎない確信に貫かれた男の場合でも、そのつき合いのなかに十年に一度ぐらいは聡明な夫婦なり魅力的な一婦人なりがやって来て、数ヶ月もするとその男の意見を百八十度転換させてしまうのは、注目すべきことだと言いたいのだ。おまけにこの観点からすると、このまじめな男と同じように振る舞う国は多いもので、ある民族に敵意を燃やしていた多くの国でも、半年後にはその気持を変えて正反対の同盟関係を結ぶことになるのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.314」岩波文庫 二〇一五年)
そんなふうに「歴史の転換点」というのはそれ以前には誰にもわからず、後になって始めて、あの時がそうだったと可視化されるほかない。そしてなぜか、<私>のアルベルチーヌ観が「百八十度転換」するのもこの「ソドムとゴモラ」篇をおいてほかにない。プルーストは続ける。
「しばらく私はアルベルチーヌに会わなかったが、私の想像力をかき立てなくなったゲルマント夫人に会わない代償なのか、ほかの妖精たちとその住処(すみか)を訪ねることはやめなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.314~315」岩波文庫 二〇一五年)
<私>の欲望はしばらくアルベルチーヌに会わないことでゲルマント夫人へ向かうのかといえばそうではなく、むしろ「ゲルマント夫人に会わない代償なのか、ほかの妖精たちとその住処(すみか)」へと移動する。欲望の移動や価値の増減というのは資本主義社会ではいつでも生じているわけだが、今引用した欲望の移動だけでなく、次の文章は、<私>にとってゲルマント夫人が価値の増減を起こした場面。「幻滅」から「感嘆」へ。
「ゲルマント夫人がほかの夫人たちとなんら変わらぬことは、最初のうちは私に幻滅をもたらしたが、やがてその反動から、また極上ワインの酔いも手伝って、まるで感嘆すべきものに格上げされた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.400」岩波文庫 二〇一四年)
また<私>は「ほかの妖精たちとその住処(すみか)を訪ねる」うちに、ある貴婦人の館へ移動中、「館に着く前には辻馬車の幌を下ろさせる必要があるほど太陽は容赦なく照りつけ、その想い出は私の気づかぬうちに全体の印象のなかに組みこまれた」という。
「奥方のひとりは、夏の数ヶ月は毎日きまって昼食後に客を迎えるので、館に着く前には辻馬車の幌を下ろさせる必要があるほど太陽は容赦なく照りつけ、その想い出は私の気づかぬうちに全体の印象のなかに組みこまれた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.315」岩波文庫 二〇一五年)
作品中、何度か記憶の「再編成」という言葉が出てくる。この「組みこ」みもその一つ。多少なりともインパクトのある事態に直面した時、「われわれの心には生まれつき、肉体組織と同様の反応をしたり活動をしたりする機能が備わるらしい」。
「じつに多様な女性のイメージが心のなかに入りこんでくるたびに、忘却がそれを消し去るか競合するほかのイメージがそれを追い出すかしない場合、この未知の女たちを自分と同質のものに変えるまで心の安らぎは得られない。この点、われわれの心には生まれつき、肉体組織と同様の反応をしたり活動をしたりする機能が備わるらしい。体内に異物が入ってきたとき、肉体組織がただちに闖入者を消化吸収する作用を発動せずにいられないのと同じである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.354」岩波文庫 二〇一二年)
ニーチェはそんな状態を次のように語っている。「精神の『消化力』の度合いに応じて」と。
「異他を同化する精神の力は、新しいものを古いものと相似にし、多様を単純にし、全く矛盾するものを看過し、または押し除(の)ける強い傾向のうちに現われる。同様にまた、精神は異他的なもの、『外界』のあらゆるものの特定の画線を勝手に強調したり、際立(きわだ)たせたり、適当に変造したりする。その際に精神の意図するところは、新しい『経験』を消化し、新しい事物を古い系列に編入すること、ーーー従って成長することにある。更に明確に言えば、成長の《感情》、増大した力の感情にある。この同じ意志に、精神の一見して反対の衝動も奉仕する。無知を求め、勝手に閉じ籠(こ)もろうとする突然に勃発する決意とか、自己の窓の閉鎖とか、この或いはあの事物に対する内的な否定的発言とか、近寄ることの禁止とか、多くの知りうるものに対する一種の防御状態とか、暗黒や閉ざされた地平に対する満足とか、無知に対する肯定と是認など、すべて同然である。これらすべては、精神の同化力の程度に応じて、具象的に言えば、精神の『消化力』の度合いに応じて、それぞれ必要なのである。ーーーそれで、実際『精神』は最もよく胃に似たものなのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・二三〇・P.213~214」岩波文庫 一九七〇年)
生涯胃腸の病いに悩まされたニーチェは「精神の『消化力』の度合い」について、それはその都度の胃腸の調子による、その時の身体全体の調子によって決定されるとともに変更されもするというのである。
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「この時期にある現象が生じた。それをここで採りあげる必要があるのは、ほかでもない、歴史の重要な時期にきまってあらわれる現象だからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.311~312」岩波文庫 二〇一五年)
ゲルマント公爵は三週間の間、自分の健康のためを考えて鉱泉療法に出かけた。出発前は熱心な「反ドレフェス派」だった公爵。パリに帰ってきた時、公爵は熱烈な「ドレフェス派」になっていた。鉱泉療法の地で三人の婦人(さるイタリア人の大公妃とその義理の姉妹)と出会い、その聡明で知性的なセンスに大変魅力を感じ、しばしば会話を交わすようになった。しかしそのたびにゲルマント公爵の主張は「大笑い」され、逆に「滑稽千万な説だと苦もなく証明」されるばかりで、公爵の反ドレフェス主義はもろくも崩壊してしまう。そんな経緯があって三週間後にパリに戻ってきた公爵の「百八十度」転向に周囲は驚いたのである。
だからといってプルーストは「三人の魅力的な婦人」を特権化してゲルマント公爵をからかって見せているのではさらさらない。「歴史の重要な時期」というのはあらかじめ「いつ」と決まっているわけでは勿論なく、それまで重要でありながらも棚上げしてきた諸問題について、これ以上棚上げしておくわけにはいかなくなってきたことに多くの人々が気づき、なおかつ表立って活発に対話し合わないわけにはいかなくなる時期のことだ。そういう対話は形式だけで内容のない「討論」などとはまるで異なり、齟齬や矛盾が雨後の筍のように先鋭化するという意味で本当の<対話=ダイアローグ>というにふさわしい。
「われわれは三人の魅力的な婦人がこの場合かならずしも真実の使者とはいえないなどと主張するつもりはなく、どんなに揺るぎない確信に貫かれた男の場合でも、そのつき合いのなかに十年に一度ぐらいは聡明な夫婦なり魅力的な一婦人なりがやって来て、数ヶ月もするとその男の意見を百八十度転換させてしまうのは、注目すべきことだと言いたいのだ。おまけにこの観点からすると、このまじめな男と同じように振る舞う国は多いもので、ある民族に敵意を燃やしていた多くの国でも、半年後にはその気持を変えて正反対の同盟関係を結ぶことになるのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.314」岩波文庫 二〇一五年)
そんなふうに「歴史の転換点」というのはそれ以前には誰にもわからず、後になって始めて、あの時がそうだったと可視化されるほかない。そしてなぜか、<私>のアルベルチーヌ観が「百八十度転換」するのもこの「ソドムとゴモラ」篇をおいてほかにない。プルーストは続ける。
「しばらく私はアルベルチーヌに会わなかったが、私の想像力をかき立てなくなったゲルマント夫人に会わない代償なのか、ほかの妖精たちとその住処(すみか)を訪ねることはやめなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.314~315」岩波文庫 二〇一五年)
<私>の欲望はしばらくアルベルチーヌに会わないことでゲルマント夫人へ向かうのかといえばそうではなく、むしろ「ゲルマント夫人に会わない代償なのか、ほかの妖精たちとその住処(すみか)」へと移動する。欲望の移動や価値の増減というのは資本主義社会ではいつでも生じているわけだが、今引用した欲望の移動だけでなく、次の文章は、<私>にとってゲルマント夫人が価値の増減を起こした場面。「幻滅」から「感嘆」へ。
「ゲルマント夫人がほかの夫人たちとなんら変わらぬことは、最初のうちは私に幻滅をもたらしたが、やがてその反動から、また極上ワインの酔いも手伝って、まるで感嘆すべきものに格上げされた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.400」岩波文庫 二〇一四年)
また<私>は「ほかの妖精たちとその住処(すみか)を訪ねる」うちに、ある貴婦人の館へ移動中、「館に着く前には辻馬車の幌を下ろさせる必要があるほど太陽は容赦なく照りつけ、その想い出は私の気づかぬうちに全体の印象のなかに組みこまれた」という。
「奥方のひとりは、夏の数ヶ月は毎日きまって昼食後に客を迎えるので、館に着く前には辻馬車の幌を下ろさせる必要があるほど太陽は容赦なく照りつけ、その想い出は私の気づかぬうちに全体の印象のなかに組みこまれた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.315」岩波文庫 二〇一五年)
作品中、何度か記憶の「再編成」という言葉が出てくる。この「組みこ」みもその一つ。多少なりともインパクトのある事態に直面した時、「われわれの心には生まれつき、肉体組織と同様の反応をしたり活動をしたりする機能が備わるらしい」。
「じつに多様な女性のイメージが心のなかに入りこんでくるたびに、忘却がそれを消し去るか競合するほかのイメージがそれを追い出すかしない場合、この未知の女たちを自分と同質のものに変えるまで心の安らぎは得られない。この点、われわれの心には生まれつき、肉体組織と同様の反応をしたり活動をしたりする機能が備わるらしい。体内に異物が入ってきたとき、肉体組織がただちに闖入者を消化吸収する作用を発動せずにいられないのと同じである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.354」岩波文庫 二〇一二年)
ニーチェはそんな状態を次のように語っている。「精神の『消化力』の度合いに応じて」と。
「異他を同化する精神の力は、新しいものを古いものと相似にし、多様を単純にし、全く矛盾するものを看過し、または押し除(の)ける強い傾向のうちに現われる。同様にまた、精神は異他的なもの、『外界』のあらゆるものの特定の画線を勝手に強調したり、際立(きわだ)たせたり、適当に変造したりする。その際に精神の意図するところは、新しい『経験』を消化し、新しい事物を古い系列に編入すること、ーーー従って成長することにある。更に明確に言えば、成長の《感情》、増大した力の感情にある。この同じ意志に、精神の一見して反対の衝動も奉仕する。無知を求め、勝手に閉じ籠(こ)もろうとする突然に勃発する決意とか、自己の窓の閉鎖とか、この或いはあの事物に対する内的な否定的発言とか、近寄ることの禁止とか、多くの知りうるものに対する一種の防御状態とか、暗黒や閉ざされた地平に対する満足とか、無知に対する肯定と是認など、すべて同然である。これらすべては、精神の同化力の程度に応じて、具象的に言えば、精神の『消化力』の度合いに応じて、それぞれ必要なのである。ーーーそれで、実際『精神』は最もよく胃に似たものなのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・二三〇・P.213~214」岩波文庫 一九七〇年)
生涯胃腸の病いに悩まされたニーチェは「精神の『消化力』の度合い」について、それはその都度の胃腸の調子による、その時の身体全体の調子によって決定されるとともに変更されもするというのである。
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