<私>はアルベルチーヌがなぜ「こんな遅い時間に来たのだろう?」と、すっとぼけた口調でフランソワーズに聞いてみた。ところがフランソワーズは<私>の身振り一つ見逃さずその意味を常に正確に理解する人物である。「私は、なんら真実を含まないことばをしばしば口にする一方、むしろ真実を自分の身体や行為によって無意識のうちに告白することが多かったからだ(そんな告白をフランソワーズはじつに正しく理解した)」とあるように。
「フランソワーズに話を戻すと、私が人生で屈辱を味わうたびに、フランソワーズの顔にはあらかじめご愁傷さまとでも言いたげな表情がうかぶのに気づいた。召使いごときに同情されて腹を立てた私は、そうではなくて首尾は上々だったと言い張ろうとしたが、そんな嘘があえなく潰(つい)えるのは、フランソワーズがうやうやしく対応はするものの見るからに信用できないという顔をして自分の判断の無謬(むびゅう)を確信しているからである。フランソワーズは真実を知っていたのだ。しかしそれを口には出さず、おいしいものでまだ口がいっぱいのときにそうするように、ただ口をもごもごさせるだけだった。フランソワーズが真実を口に出さなかったと言ったのは、私が長いことそう信じていたからである。この時期の私は、真実はことばをつうじて他人に伝わるものだと、まだそう想いこんでいた。他人の発することばでさえ私の感じやすい精神に変わりようのない意味を伝えていたから、私を愛していると言った人が私を愛していないことなどありえないと考えていたのである。たとえば郵便で依頼さえすれば、司祭なり紳士なりが、あらゆる病気に効く万能薬なり、こちらの収入を何倍にもする手立てなりを無料で送ってくれると書いてある新聞を見たフランソワーズが、そのことばに疑いを差し挟めないようなものである(ところがそれとは正反対に、わが家のかかりつけの医者から鼻風邪に効くごく単純な軟膏をもらった場合は、どんなにひどい苦痛にも耐えるフランソワーズが、鼻をぐずぐずいわせて息をしなければならないのを嘆き、これでは『鼻がむしられて』どうしたらいいのかわからない、という始末である)。しかしフランソワーズがはじめて範を示して教えてくれたのは(私がそれを想い知るのはずっと後のことで、この書物の最後の数巻で見られるように、私にとってさらに大切な人物からずっと苦痛にみちた新たな範が示されるときである)、真実は公言されなくても顕在化することであり、ことばを待つまでもなく、ことばをなんら考慮しなくても、外にあらわれた無数の兆候から、いや、自然界における大気の変動に相当する人間の性格という領域における目には見えないある種の現象からでも、真実をもっと確実に入手できるかもしれないことである。これは私が自分で気づいてもよかったことかもしれない。なぜなら当時の私は、なんら真実を含まないことばをしばしば口にする一方、むしろ真実を自分の身体や行為によって無意識のうちに告白することが多かったからだ(そんな告白をフランソワーズはじつに正しく理解した)」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.143~144」岩波文庫 二〇一三年)
だからこの時もフランソワーズは<私>のすっとぼけにもかかわらず瞬時に<私>の本当の意図を理解する。そして「生命の宿らぬ衣服と顔の特徴とに雄弁に語らせる技法」で応答する。
「こんなうわべだけの真剣味をとりつくろった疑問を口にした私が目をあげ、この疑問を真(ま)に受けた返事をしてくれるものと期待したフランソワーズを見たとき、生命の宿らぬ衣服と顔の特徴とに雄弁に語らせる技法にかけてはかのラ・ベルマにもひけをとらないフランソワーズが、その胴衣にも、いちばん白いところを表面に集めて出生証明のごとく一目にさらしている髪にも、また疲労と忍従とのせいでたわんだ首にも、それぞれ的確な指示を出す術(すべ)を心得ていたことに気づき、私は感嘆するとともに怒りを禁じえなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.302」岩波文庫 二〇一五年)
フランソワーズは「その胴衣にも、いちばん白いところを表面に集めて出生証明のごとく一目にさらしている髪にも、また疲労と忍従とのせいでたわんだ首にも、それぞれ的確な指示」を与えて答えていた。その応答の見事さに「私は感嘆するとともに怒りを禁じえなかった」。感嘆したのは当然だとしても、なお「怒りを禁じえなかった」のはフランソワーズの身体言語が<私>に憐憫の情を感じさせずにはおかなかったことによる主人としての不覚さを物語る。主人の気まぐれな都合次第で身近な女中に惨めこの上ない態度を取らせてしまうような振る舞いしかできない場合、考えのなさといい、計画性のなさといい、余裕のなさといい、どれを見ても主人としては失格なのだ。
フランソワーズはもう夜が明けるほど遅い時間に到着したアルベルチーヌの言動についてこう述べる。
「『きっといろいろ楽しめる場所にいたんでしょう、だって、旦那さまをお待たせして悪かったとも言わないで、人をばかにしたみたいに答えたんです、<遅くても来ないよりはましでしょ!>って』。そしてフランソワーズはこう言い添えたが、そのことばは私の胸に突きささった。『あの口ぶりじゃ、きっと身を売ってたんですよ。できれば隠れていたかったのかもしれませんが、でもーーー』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.303」岩波文庫 二〇一五年)
一見、<私>に対する当てつけに聞こえる。しかしそうでないことはもとより<私>がよく知っている。フランソワーズは来客時に真っ先に玄関で出迎えなければならない立場ゆえ、一家を代表して対応する形になる。その際、アルベルチーヌが発した「遅くても来ないよりはましでしょ!」という侮辱的返答はフランソワーズの中でただちに「私たち」一家全体に対する侮辱へ変換される。<私>はフランソワーズ特有の癖として処理しようとしているかのように、ともすれば読めてしまうところだが、しかしプルーストは「代表するもの=フランソワーズ」が面罵された、ゆえに「代表されるもの=<私たち>一家」が傷つけられたとしてフランソワーズが<私>に侮辱的態度をそのまま接続した、という回路自体は極めて正確に作動したと言わんとしている点を押さえておきたい。
ところで、さらにジジェクから。ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)の矛盾について。それは往々にして過剰かつ硬直した思想警察と化す危険性を指摘する。もっとも、「オルタナ右翼の堕落形態である下品な人種差別や性差別」は弾劾されるべきである。しかしどちらの側も自分たちの言動について「正しい道徳」の実践であるということを信じて疑っていない。
「オルタナ右翼の堕落形態である下品な人種差別や性差別と、政治的正しさ(ポリティカリー・コレクト)で凝り固まった取り締まりを行う道徳主義との『矛盾』になると、事態は一層複雑だ。解放に向けた漸進的な闘争という観点からすると、この『矛盾』を主要な矛盾とは《考えず》、そのなかに転位し歪んだかたちで絡まっている階級闘争を解きほぐすことが決定的に重要だ。ファシズムのイデオロギーと同じように、右派ポピュリズムによる<敵>という形象(金融エリートと侵入してくる移民の組み合わせ)は社会階層の両極を結び合わせ、そうすることで階級闘争をぼやけさせてしまう。反対側でもほぼ同じで、政治的に正しい反人種差別、反性差別は、その最終的な標的が白人労働者階級による人種差別および性差別であることをほとんど隠していないため、これまた階級闘争を中和してしまう。だからポリティカル・コレクトネスを『文化マルクス主義』と呼ぶのは誤りなのだ。ポリティカル・コレクトネスはその偽りのラディカルさにおいて、むしろマルクス主義の構想から『ブルジョワ的』自由主義を守る最後の砦であり、『主要な矛盾』である階級闘争をうやむやにしたり別のものに置き換えてしまったりする」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・2・P.37~38」青土社 二〇二二年)
ちなみにニーチェは道徳的欺瞞について極めて敏感だった。一見、いずれの政治的立場にも直接関与しないかのように見えている科学者。しかしニーチェに言わせれば「真理〔ロゴス〕に対する信仰という一点においては、彼らほど強く絶対的に拘束されている者は他に誰もいない」。その点で科学もなお或る種の宗教にほかならないというわけだ。
「なるほど彼らはどの点においても格別に拘束されてはいない。だが、真理に対する信仰という一点においては、彼らほど強く絶対的に拘束されている者は他に誰もいない」(ニーチェ「道徳の系譜・第三論文・P.193」岩波文庫 一九四〇年)
だからポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)はその剥き出しの思想警察性において悪質な差別的ナショナリズムの陰鬱な鏡と化す矛盾に陥ってしまう。けれどもジジェクはニーチェではなくヘーゲル哲学を踏まえてそう言っているのであって、なおかつヘーゲル弁証法を用いれば当然そう言える。だがジジェクはただ単にヘーゲルを応用しているだけではない。ヘーゲルに学んだ幾多の思想家をも動員している。ここでは毛沢東「矛盾論」。次のセンテンスにある「副次的な矛盾の重要性」というフレーズはその応用であり、今の中国共産党という名の全体主義的《資本主義》とは何の関係もない。シニフィアン(意味するもの-名称)はなるほど共産党だがシニフィエ(意味されるもの・内容)は鄧小平や習近平がとっとと置き換えてしまった。
ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)の「偽りのラディカルさ」の実例としてジジェクはいう。
「副次的な矛盾の重要性をあらわす究極の事例は、二〇一九年の欧州議会選挙であるーーーそこから学び取るべき教訓はあるのだろうか。時に見世物めいていたあれこれ(イギリスにおける主要二政党の惨敗)に目を曇らされ、本当に驚くべき大きなことは何も起こっていないという基本的な事実を無視してはならない。確かにポピュリズムの新右翼は躍進したが、それが浸透したというわけではまったくない。マントラのように繰り返されている、人々は変化を求めているという言い草は、ひどいまやかしだーーー仮にそうだとしても、一体どんな変化だというのか。それは基本的に『何かが変わればすべてを同じままにしておける』という古い標語の変奏なのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・2・P.39~40」青土社 二〇二二年)
しかしなぜ「副次的な矛盾」への注目が重要なのか。「主要な矛盾」のもとには無数の「副次的な矛盾」の存在が認めらる。ところがしかし(1)「副次的な矛盾」はいつもその順位を変えないかといえばまるでそうではない。(2)は矛盾自体が変化することについて。「矛盾の主要な側面が変化すれば、事物の性質もそれにつれて変化する」点。
(1)「例えば、資本主義社会においては、プロレタリア階級とブルジョア階級という二つの矛盾する勢力が主要な矛盾であり、その他の矛盾する諸勢力、たとえば、残存する封建階級とブルジョア階級との矛盾、小ブルジョアとしての農民とブルジョア階級との矛盾、プロレタリア階級と子ブルジョアとしての農民との矛盾、非独占ブルジョア階級と独占ブルジョア階級との矛盾、ブルジョア民主主義とブルジョワ・ファシズムとの矛盾、資本主義国相互のあいだの矛盾、帝国主義と植民地との矛盾、およびその他すべての矛盾はこの主要な矛盾の力によって規定され、影響される。ーーー中国のような半植民地国では、主要な矛盾と主要でない矛盾との関係が複雑な状況を示している。帝国主義が、このような国にたいして侵略戦争をおこなっているときには、このような国の内部の諸階級は、一部の売国分子(ばいこくぶんし)をのぞいて、すべて一時的に団結して民族戦争をおこない、帝国主義に反対することができる。そのときには、帝国主義とその国とのあいだの矛盾が主要な矛盾となり、その国の内部の各階級のあいだのすべての矛盾(封建制度と人民大衆との矛盾という主要な矛盾をもふくめて)は、いずれも一時的に、第二義的で従属的な地位にさがる。中国の一八四〇年のアヘン戦争、一八九四年の中日戦争(日清戦争)、一九〇〇年の義和団(ぎわだん)戦争、および当面の中日戦争(一九三七年七月七日のいわゆる盧溝橋事件にはじまり、八年間つづいた<訳者註>)には、いずれもこのような状況がみられる。ーーーしかし、別の状況のもとでは、諸矛盾の地位に変化がうまれる。帝国主義が戦争によって圧迫するのではなく、政治、経済、文化などの比較的温和な形式によって圧迫するばあいには、半植民地国の支配階級は帝国主義に投降し、両者が同盟をむすび、共同して人民大衆を圧迫する。こうしたばあいには、人民大衆がしばしば国内戦争の形式をとって、帝国主義と封建階級の同盟に反対するのに対し、帝国主義は、しばしば間接的な方式をもって、半植民地国の反動派が人民を抑圧するのを援助し、直接的な行動をとらないので、内部矛盾の鋭さがあらわれてくる。中国の辛亥革命戦争、一九二四年から一九二七年までの革命戦争、一九二七年以後の十年間の土地革命戦争には、いずれもこのような状況がみられる」(毛沢東「矛盾論・四・P.61~63」岩波文庫 一九五七年)
(2)「われわれは『新陳代謝(しんちんたいしゃ)』という言葉をよく口にする。新陳代謝は宇宙の普遍的な、永遠にそむくことのできない法則である。それぞれの事物が、それ自身の性質と条件にしたがって、異なった飛躍(ひやく)形式をつうじて、他の事物に転化するのが、新陳代謝の過程である。どんな事物の内部にもみな新旧二つの側面の矛盾があり、一系列の曲折した闘争を形づくっている。闘争の結果、新しい側面は、小から大にかわり、支配的なものになる。古い側面は、大から小にかわり、しだいに滅亡するものにかわる。そして、一たび新しい側面が古い側面にたいして支配的な地位をしめている矛盾の主要な側面が変化すれば、事物の性質もそれにつれて変化する」(毛沢東「矛盾論・四・P.65」岩波文庫 一九五七年)
現在の中国政府と日本政府との交渉に当たって、少なくともこの辺りの事情は的確に押さえておかなければ交渉した形にはなっても実質的交渉などどこにもなかったに等しい結果しか出てこない。今や日本中で中国人と結婚し子供をもうけた人々が幾らもいる中で、東大出身者が多数を占める日本の高級官僚に何がどこまで出来るのか。有権者の側としては徹底的に鞭打ってでも熟慮・熟考を重ねてもらわなければ許されない時間帯である。
気分を変えよう。十年くらい前に流行した「マルチチュード」という動きが今どうなっているか、気になっていたところ、貧乏ゆえに遅れてしまったがようやく今年翻訳出版された続編「アセンブリ」を手に入れることができた。まだほどんど読めていないのだが、関心のある項目にのみざっと目を通した限りで、次の二箇所をまずとっかかりにしようと思っている。(1)は序文から。全体のコンセプトについて。(2)は「機械状動的編成(アセンブリッッジ)」という概念について。「機械状動的編成(アセンブリッッジ)」は文字通りドゥルーズ=ガタリを意識したものだが、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの場合、それを踏まえつつ、論旨は<共(コモン)>を主題化したものになっている。
(1)「私たちはこの何十年間かのマルチチュードの抵抗と反乱について探究し、それらを重視することに加え、マルチチュードの民主的な起業家活動という仮説を提示することにする。現状の社会とその社会がなりつつあるもの、すなわち<共(コモン)>をそのさまざまの形態において生み出し、使用する、広く異種混交的な主体性による協働の回路としての社会を想定することによってのみ、私たちは<共(コモン)>の生産に見合った政治的な起業家活動という強力な形象を構築しつつ、解放=自由への生成(リベレーション)というプロジェクトを打ち立てることができるのだ。新自由主義のイデオローグたちが起業家活動(アントレプレナーシップ)の美徳についてしきりと無駄話をしたり、起業家(アントレプレナー)的社会の創出を主張したり、資本主義のリスクを果敢にとる者たちにひれ伏したり、さらには私たち全員に幼稚園から定年まで自分自身の人生の起業家となるように説き勧めたりしているときに、起業家活動を褒め称える私たちの振る舞いが不適当なものと思われるのはもっともなことである。そうした資本主義的な起業家活動の英雄譚が空談にすぎないことを私たちは知っているが、他の場所に目をやれば、現在はいたるところに起業家的な活動ーーー新しい社会的結合を組織することや、新しい社会的協働形態を発明すること、また<共(コモン)>へのアクセスとその使用、そして<共(コモン)>についての意思決定への参加のための民主的メカニズムを生み出すことーーーが満ちあふれていることがわかるだろう。私たち自身のための起業家活動という概念を主張することが重要なのである。実際、政治思想の中心的な任務の一つは概念をめぐって闘争すること、すなわち、概念の意味を明らかにしたり変容させたりすることだ。起業家活動は、社会的生産におけるマルチチュードの協働形態と、政治的な見地から見たマルチチュードの集会=合議体(アセンブリ)とをつなぐ蝶番(ちょうつがい)としての役割を果たすのである」(ネグリ=ハート「アセンブリ・序・P.9」岩波書店 二〇二二年)
(2)「経済的観点からすると、機械状のものは、固定資本が労働力によって再領有されるさいに、すなわち、過去の社会的生産を結晶化させる物質的・非物質的な機械・知識が現在の社会的生産を行う協働的主体性へと再統合されるさいに現出する主体性の中に、明確に現れる。それゆえ機械状動的編成(アセンブリッッジ)は、部分的には『人間生成的生産』という概念によって把握される。ロベール・ボワイエやクリティアン・マラッツィのような、今日の最も聡明なマルクス主義経済学者の一部は、現代の経済的生産の新しさーーーそして、フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行ーーーを、『人間による人間の生産』(“la production de l’homme par l’homme”)を中心に据えるものとして、商品による商品の生産という伝統的な概念との対照において特徴づけている。主体性と生の諸形態の生産はますます資本主義的価値化の中心となり、こうした論理は認知的生産や生政治的生産という概念へと直接つながっている。機械状のものはこうした人間生成的モデルをさらに拡張し、さまざまな非人間的特異性を、生産し生産される諸々の集合体(アセンブリ)へと組み込むのである。具体的には、固定資本が労働主体によって再領有されると私たちが述べるとき、それはたんに、固定資本が彼らの所有物になるということではなく、むしろ、固定資本が機械状動的編成(アセンブリッジ)に主体性の構成要素として統合されるということを意味している。ーーー私たちが述べたように、機械状のものとはつねに動的編成(アセンブリッジ)であり、人間と他の存在者たちの動的合成である。しかし、こうした新しい機械状主体性の力は、それが現勢化されず、また社会的協働と<共(コモン)>へと接合されない限り、潜勢的なものにすぎない。実際のところ、もし固定資本の再領有が、私的所有権をある個人から別の個人に譲渡することで個人的に起きるとすれば、それはたんに、ポールに支払うためにピーターから略奪するということであり、いかなる現実的意味も持たないだろう。対照的に、固定資本の富と生産力が社会的に領有されるなら、それゆえ、固定資本が私有財産から<共(コモン)>へと変容されるなら、そのとき、機械状主体性とその協働ネットワークの力は完全に現勢化されうる。動的編成(アセンブリッジ)という機械状概念、協働の生産的諸形態、そして<共(コモン)>という存在論的基礎は、ここでかつてないほど緊密に織り合わされているのである。ーーー機械状動的編成(アセンブリッジ)に吸収された今日の若者たちを見るとき、私たちは、彼ら/彼女らの存在そのものが抵抗であることを認識するべきだ。自覚していようといまいと、彼ら/彼女らは抵抗の中で生産しているのである。資本は、過酷な真実を認識することを強いられる。資本は、主体性ーーー資本はそこから価値を採取するーーーによって生産される<共(コモン)>の発展を強化しなければならないが、<共(コモン)>は抵抗の諸形態と、固定資本を再領有する過程を通じてのみ構築される。矛盾はかつてないほど明確なものとなる。君自身を搾取せよ、と資本は生産的主体性に告げる。そして生産的主体性は、私たちは自らが生産する<共(コモン)>を統治し、自らを価値化したい、と応答するのである。この過程におけるいかなる障害もーーーそして、潜勢的障害の疑いさえもーーーこの衝突の深化を決定しうる。資本は諸々の主体性の協働からしか価値を収奪=収容できないが、もしそれらの主体性がこうした搾取に抵抗するとすれば、そのとき、資本は指令のレヴェルを上げ、<共(コモン)>からのますます恣意的で暴力的な価値搾取の操作を試みなければならなくなる」(ネグリ=ハート「アセンブリ・第七章・P.171~172」岩波書店 二〇二二年)
なお(2)の後半はマルクス=エンゲルス「共産党宣言」にある有名な一節を思い起こさせないわけにはいかないことは確かだ。
「ブルジョア階級の存在と支配とにとってもっとも本質的な条件は、私人の手中への富の集積、すなわち資本の形成と増殖である。資本の条件は賃金労働である。賃金労働はもっぱら労働者相互のあいだの競争にもとづく。工業の進歩は、競争による労働者の孤立化の代りに、結合による労働者の革命的団結を作り出す。だから、大工業の発展とともに、ブルジョア階級の足もとから、かれらに生産させ、また生産物を取得させていた土台そのものが取り去られる。かれらは何よりも、かれら自身の墓掘人を生産する」(マルクス=エンゲルス「共産党宣言・第一章・P.56」岩波文庫 一九五一年)
しかしまた、別の箇所でドゥルーズ=ガタリの次の言葉が引用されている。いかにして、<もはやすでに>人間は機械=部品となったか。
「ここでは、もはや、機械と人間とを比較対照して、一方と他方との間に相互に対応、延長、代用の関係が可能であるか否かを評定するといったことが問題なのではない。そうではなくて、むしろ、人間と機械との間にコミュニケイションを形成して、人間がどのように機械《と結びついて部品となるのか》、あるいはほかの別のものと結びついて部品となり機械を構成することになるのかといったことを示すことが問題なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・補遺・P.460」河出書房新社 一九八六年)
マルクスを参照するとこうある。
「機械の体系は、織布におけるように同種の作業機の単なる協業にもとづくものであろうと、紡績におけるように異種の作業機の組み合わせにもとづくものであろうと、それが一つの自動的な原動機によって運転されるようになれば、それ自体として一つの大きな自動装置をなすようになる」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.261」国民文庫 一九七二年)
長いあいだ予言的な文章だったのだが遂に本当に出現したばかりか今や世界中を覆い尽くしてしまった事態である。ジジェクは「コモンズ」を強調し、ネグリ=ハートは<共(コモン)>という。両者の思想的立場は多少なりとも異なっていて、これ以上接近するはずは元からないにもかかわらず、なぜ今、両者ともに堂々たる態度を指し示すことができるのか。とはいえ、ただ単なるパワー・ゲームにうつつを抜かしているばかりではもはや世界は立ち行かなくなっていることに余りにも多くの人々が気づいているグローバル資本主義であるがゆえに、こうしたフィード・バック回路がどんどん構築されてくるのは当たり前といえば当たり前なのだ。
BGM1
BGM2
BGM3
「フランソワーズに話を戻すと、私が人生で屈辱を味わうたびに、フランソワーズの顔にはあらかじめご愁傷さまとでも言いたげな表情がうかぶのに気づいた。召使いごときに同情されて腹を立てた私は、そうではなくて首尾は上々だったと言い張ろうとしたが、そんな嘘があえなく潰(つい)えるのは、フランソワーズがうやうやしく対応はするものの見るからに信用できないという顔をして自分の判断の無謬(むびゅう)を確信しているからである。フランソワーズは真実を知っていたのだ。しかしそれを口には出さず、おいしいものでまだ口がいっぱいのときにそうするように、ただ口をもごもごさせるだけだった。フランソワーズが真実を口に出さなかったと言ったのは、私が長いことそう信じていたからである。この時期の私は、真実はことばをつうじて他人に伝わるものだと、まだそう想いこんでいた。他人の発することばでさえ私の感じやすい精神に変わりようのない意味を伝えていたから、私を愛していると言った人が私を愛していないことなどありえないと考えていたのである。たとえば郵便で依頼さえすれば、司祭なり紳士なりが、あらゆる病気に効く万能薬なり、こちらの収入を何倍にもする手立てなりを無料で送ってくれると書いてある新聞を見たフランソワーズが、そのことばに疑いを差し挟めないようなものである(ところがそれとは正反対に、わが家のかかりつけの医者から鼻風邪に効くごく単純な軟膏をもらった場合は、どんなにひどい苦痛にも耐えるフランソワーズが、鼻をぐずぐずいわせて息をしなければならないのを嘆き、これでは『鼻がむしられて』どうしたらいいのかわからない、という始末である)。しかしフランソワーズがはじめて範を示して教えてくれたのは(私がそれを想い知るのはずっと後のことで、この書物の最後の数巻で見られるように、私にとってさらに大切な人物からずっと苦痛にみちた新たな範が示されるときである)、真実は公言されなくても顕在化することであり、ことばを待つまでもなく、ことばをなんら考慮しなくても、外にあらわれた無数の兆候から、いや、自然界における大気の変動に相当する人間の性格という領域における目には見えないある種の現象からでも、真実をもっと確実に入手できるかもしれないことである。これは私が自分で気づいてもよかったことかもしれない。なぜなら当時の私は、なんら真実を含まないことばをしばしば口にする一方、むしろ真実を自分の身体や行為によって無意識のうちに告白することが多かったからだ(そんな告白をフランソワーズはじつに正しく理解した)」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.143~144」岩波文庫 二〇一三年)
だからこの時もフランソワーズは<私>のすっとぼけにもかかわらず瞬時に<私>の本当の意図を理解する。そして「生命の宿らぬ衣服と顔の特徴とに雄弁に語らせる技法」で応答する。
「こんなうわべだけの真剣味をとりつくろった疑問を口にした私が目をあげ、この疑問を真(ま)に受けた返事をしてくれるものと期待したフランソワーズを見たとき、生命の宿らぬ衣服と顔の特徴とに雄弁に語らせる技法にかけてはかのラ・ベルマにもひけをとらないフランソワーズが、その胴衣にも、いちばん白いところを表面に集めて出生証明のごとく一目にさらしている髪にも、また疲労と忍従とのせいでたわんだ首にも、それぞれ的確な指示を出す術(すべ)を心得ていたことに気づき、私は感嘆するとともに怒りを禁じえなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.302」岩波文庫 二〇一五年)
フランソワーズは「その胴衣にも、いちばん白いところを表面に集めて出生証明のごとく一目にさらしている髪にも、また疲労と忍従とのせいでたわんだ首にも、それぞれ的確な指示」を与えて答えていた。その応答の見事さに「私は感嘆するとともに怒りを禁じえなかった」。感嘆したのは当然だとしても、なお「怒りを禁じえなかった」のはフランソワーズの身体言語が<私>に憐憫の情を感じさせずにはおかなかったことによる主人としての不覚さを物語る。主人の気まぐれな都合次第で身近な女中に惨めこの上ない態度を取らせてしまうような振る舞いしかできない場合、考えのなさといい、計画性のなさといい、余裕のなさといい、どれを見ても主人としては失格なのだ。
フランソワーズはもう夜が明けるほど遅い時間に到着したアルベルチーヌの言動についてこう述べる。
「『きっといろいろ楽しめる場所にいたんでしょう、だって、旦那さまをお待たせして悪かったとも言わないで、人をばかにしたみたいに答えたんです、<遅くても来ないよりはましでしょ!>って』。そしてフランソワーズはこう言い添えたが、そのことばは私の胸に突きささった。『あの口ぶりじゃ、きっと身を売ってたんですよ。できれば隠れていたかったのかもしれませんが、でもーーー』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.303」岩波文庫 二〇一五年)
一見、<私>に対する当てつけに聞こえる。しかしそうでないことはもとより<私>がよく知っている。フランソワーズは来客時に真っ先に玄関で出迎えなければならない立場ゆえ、一家を代表して対応する形になる。その際、アルベルチーヌが発した「遅くても来ないよりはましでしょ!」という侮辱的返答はフランソワーズの中でただちに「私たち」一家全体に対する侮辱へ変換される。<私>はフランソワーズ特有の癖として処理しようとしているかのように、ともすれば読めてしまうところだが、しかしプルーストは「代表するもの=フランソワーズ」が面罵された、ゆえに「代表されるもの=<私たち>一家」が傷つけられたとしてフランソワーズが<私>に侮辱的態度をそのまま接続した、という回路自体は極めて正確に作動したと言わんとしている点を押さえておきたい。
ところで、さらにジジェクから。ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)の矛盾について。それは往々にして過剰かつ硬直した思想警察と化す危険性を指摘する。もっとも、「オルタナ右翼の堕落形態である下品な人種差別や性差別」は弾劾されるべきである。しかしどちらの側も自分たちの言動について「正しい道徳」の実践であるということを信じて疑っていない。
「オルタナ右翼の堕落形態である下品な人種差別や性差別と、政治的正しさ(ポリティカリー・コレクト)で凝り固まった取り締まりを行う道徳主義との『矛盾』になると、事態は一層複雑だ。解放に向けた漸進的な闘争という観点からすると、この『矛盾』を主要な矛盾とは《考えず》、そのなかに転位し歪んだかたちで絡まっている階級闘争を解きほぐすことが決定的に重要だ。ファシズムのイデオロギーと同じように、右派ポピュリズムによる<敵>という形象(金融エリートと侵入してくる移民の組み合わせ)は社会階層の両極を結び合わせ、そうすることで階級闘争をぼやけさせてしまう。反対側でもほぼ同じで、政治的に正しい反人種差別、反性差別は、その最終的な標的が白人労働者階級による人種差別および性差別であることをほとんど隠していないため、これまた階級闘争を中和してしまう。だからポリティカル・コレクトネスを『文化マルクス主義』と呼ぶのは誤りなのだ。ポリティカル・コレクトネスはその偽りのラディカルさにおいて、むしろマルクス主義の構想から『ブルジョワ的』自由主義を守る最後の砦であり、『主要な矛盾』である階級闘争をうやむやにしたり別のものに置き換えてしまったりする」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・2・P.37~38」青土社 二〇二二年)
ちなみにニーチェは道徳的欺瞞について極めて敏感だった。一見、いずれの政治的立場にも直接関与しないかのように見えている科学者。しかしニーチェに言わせれば「真理〔ロゴス〕に対する信仰という一点においては、彼らほど強く絶対的に拘束されている者は他に誰もいない」。その点で科学もなお或る種の宗教にほかならないというわけだ。
「なるほど彼らはどの点においても格別に拘束されてはいない。だが、真理に対する信仰という一点においては、彼らほど強く絶対的に拘束されている者は他に誰もいない」(ニーチェ「道徳の系譜・第三論文・P.193」岩波文庫 一九四〇年)
だからポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)はその剥き出しの思想警察性において悪質な差別的ナショナリズムの陰鬱な鏡と化す矛盾に陥ってしまう。けれどもジジェクはニーチェではなくヘーゲル哲学を踏まえてそう言っているのであって、なおかつヘーゲル弁証法を用いれば当然そう言える。だがジジェクはただ単にヘーゲルを応用しているだけではない。ヘーゲルに学んだ幾多の思想家をも動員している。ここでは毛沢東「矛盾論」。次のセンテンスにある「副次的な矛盾の重要性」というフレーズはその応用であり、今の中国共産党という名の全体主義的《資本主義》とは何の関係もない。シニフィアン(意味するもの-名称)はなるほど共産党だがシニフィエ(意味されるもの・内容)は鄧小平や習近平がとっとと置き換えてしまった。
ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)の「偽りのラディカルさ」の実例としてジジェクはいう。
「副次的な矛盾の重要性をあらわす究極の事例は、二〇一九年の欧州議会選挙であるーーーそこから学び取るべき教訓はあるのだろうか。時に見世物めいていたあれこれ(イギリスにおける主要二政党の惨敗)に目を曇らされ、本当に驚くべき大きなことは何も起こっていないという基本的な事実を無視してはならない。確かにポピュリズムの新右翼は躍進したが、それが浸透したというわけではまったくない。マントラのように繰り返されている、人々は変化を求めているという言い草は、ひどいまやかしだーーー仮にそうだとしても、一体どんな変化だというのか。それは基本的に『何かが変わればすべてを同じままにしておける』という古い標語の変奏なのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・2・P.39~40」青土社 二〇二二年)
しかしなぜ「副次的な矛盾」への注目が重要なのか。「主要な矛盾」のもとには無数の「副次的な矛盾」の存在が認めらる。ところがしかし(1)「副次的な矛盾」はいつもその順位を変えないかといえばまるでそうではない。(2)は矛盾自体が変化することについて。「矛盾の主要な側面が変化すれば、事物の性質もそれにつれて変化する」点。
(1)「例えば、資本主義社会においては、プロレタリア階級とブルジョア階級という二つの矛盾する勢力が主要な矛盾であり、その他の矛盾する諸勢力、たとえば、残存する封建階級とブルジョア階級との矛盾、小ブルジョアとしての農民とブルジョア階級との矛盾、プロレタリア階級と子ブルジョアとしての農民との矛盾、非独占ブルジョア階級と独占ブルジョア階級との矛盾、ブルジョア民主主義とブルジョワ・ファシズムとの矛盾、資本主義国相互のあいだの矛盾、帝国主義と植民地との矛盾、およびその他すべての矛盾はこの主要な矛盾の力によって規定され、影響される。ーーー中国のような半植民地国では、主要な矛盾と主要でない矛盾との関係が複雑な状況を示している。帝国主義が、このような国にたいして侵略戦争をおこなっているときには、このような国の内部の諸階級は、一部の売国分子(ばいこくぶんし)をのぞいて、すべて一時的に団結して民族戦争をおこない、帝国主義に反対することができる。そのときには、帝国主義とその国とのあいだの矛盾が主要な矛盾となり、その国の内部の各階級のあいだのすべての矛盾(封建制度と人民大衆との矛盾という主要な矛盾をもふくめて)は、いずれも一時的に、第二義的で従属的な地位にさがる。中国の一八四〇年のアヘン戦争、一八九四年の中日戦争(日清戦争)、一九〇〇年の義和団(ぎわだん)戦争、および当面の中日戦争(一九三七年七月七日のいわゆる盧溝橋事件にはじまり、八年間つづいた<訳者註>)には、いずれもこのような状況がみられる。ーーーしかし、別の状況のもとでは、諸矛盾の地位に変化がうまれる。帝国主義が戦争によって圧迫するのではなく、政治、経済、文化などの比較的温和な形式によって圧迫するばあいには、半植民地国の支配階級は帝国主義に投降し、両者が同盟をむすび、共同して人民大衆を圧迫する。こうしたばあいには、人民大衆がしばしば国内戦争の形式をとって、帝国主義と封建階級の同盟に反対するのに対し、帝国主義は、しばしば間接的な方式をもって、半植民地国の反動派が人民を抑圧するのを援助し、直接的な行動をとらないので、内部矛盾の鋭さがあらわれてくる。中国の辛亥革命戦争、一九二四年から一九二七年までの革命戦争、一九二七年以後の十年間の土地革命戦争には、いずれもこのような状況がみられる」(毛沢東「矛盾論・四・P.61~63」岩波文庫 一九五七年)
(2)「われわれは『新陳代謝(しんちんたいしゃ)』という言葉をよく口にする。新陳代謝は宇宙の普遍的な、永遠にそむくことのできない法則である。それぞれの事物が、それ自身の性質と条件にしたがって、異なった飛躍(ひやく)形式をつうじて、他の事物に転化するのが、新陳代謝の過程である。どんな事物の内部にもみな新旧二つの側面の矛盾があり、一系列の曲折した闘争を形づくっている。闘争の結果、新しい側面は、小から大にかわり、支配的なものになる。古い側面は、大から小にかわり、しだいに滅亡するものにかわる。そして、一たび新しい側面が古い側面にたいして支配的な地位をしめている矛盾の主要な側面が変化すれば、事物の性質もそれにつれて変化する」(毛沢東「矛盾論・四・P.65」岩波文庫 一九五七年)
現在の中国政府と日本政府との交渉に当たって、少なくともこの辺りの事情は的確に押さえておかなければ交渉した形にはなっても実質的交渉などどこにもなかったに等しい結果しか出てこない。今や日本中で中国人と結婚し子供をもうけた人々が幾らもいる中で、東大出身者が多数を占める日本の高級官僚に何がどこまで出来るのか。有権者の側としては徹底的に鞭打ってでも熟慮・熟考を重ねてもらわなければ許されない時間帯である。
気分を変えよう。十年くらい前に流行した「マルチチュード」という動きが今どうなっているか、気になっていたところ、貧乏ゆえに遅れてしまったがようやく今年翻訳出版された続編「アセンブリ」を手に入れることができた。まだほどんど読めていないのだが、関心のある項目にのみざっと目を通した限りで、次の二箇所をまずとっかかりにしようと思っている。(1)は序文から。全体のコンセプトについて。(2)は「機械状動的編成(アセンブリッッジ)」という概念について。「機械状動的編成(アセンブリッッジ)」は文字通りドゥルーズ=ガタリを意識したものだが、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの場合、それを踏まえつつ、論旨は<共(コモン)>を主題化したものになっている。
(1)「私たちはこの何十年間かのマルチチュードの抵抗と反乱について探究し、それらを重視することに加え、マルチチュードの民主的な起業家活動という仮説を提示することにする。現状の社会とその社会がなりつつあるもの、すなわち<共(コモン)>をそのさまざまの形態において生み出し、使用する、広く異種混交的な主体性による協働の回路としての社会を想定することによってのみ、私たちは<共(コモン)>の生産に見合った政治的な起業家活動という強力な形象を構築しつつ、解放=自由への生成(リベレーション)というプロジェクトを打ち立てることができるのだ。新自由主義のイデオローグたちが起業家活動(アントレプレナーシップ)の美徳についてしきりと無駄話をしたり、起業家(アントレプレナー)的社会の創出を主張したり、資本主義のリスクを果敢にとる者たちにひれ伏したり、さらには私たち全員に幼稚園から定年まで自分自身の人生の起業家となるように説き勧めたりしているときに、起業家活動を褒め称える私たちの振る舞いが不適当なものと思われるのはもっともなことである。そうした資本主義的な起業家活動の英雄譚が空談にすぎないことを私たちは知っているが、他の場所に目をやれば、現在はいたるところに起業家的な活動ーーー新しい社会的結合を組織することや、新しい社会的協働形態を発明すること、また<共(コモン)>へのアクセスとその使用、そして<共(コモン)>についての意思決定への参加のための民主的メカニズムを生み出すことーーーが満ちあふれていることがわかるだろう。私たち自身のための起業家活動という概念を主張することが重要なのである。実際、政治思想の中心的な任務の一つは概念をめぐって闘争すること、すなわち、概念の意味を明らかにしたり変容させたりすることだ。起業家活動は、社会的生産におけるマルチチュードの協働形態と、政治的な見地から見たマルチチュードの集会=合議体(アセンブリ)とをつなぐ蝶番(ちょうつがい)としての役割を果たすのである」(ネグリ=ハート「アセンブリ・序・P.9」岩波書店 二〇二二年)
(2)「経済的観点からすると、機械状のものは、固定資本が労働力によって再領有されるさいに、すなわち、過去の社会的生産を結晶化させる物質的・非物質的な機械・知識が現在の社会的生産を行う協働的主体性へと再統合されるさいに現出する主体性の中に、明確に現れる。それゆえ機械状動的編成(アセンブリッッジ)は、部分的には『人間生成的生産』という概念によって把握される。ロベール・ボワイエやクリティアン・マラッツィのような、今日の最も聡明なマルクス主義経済学者の一部は、現代の経済的生産の新しさーーーそして、フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行ーーーを、『人間による人間の生産』(“la production de l’homme par l’homme”)を中心に据えるものとして、商品による商品の生産という伝統的な概念との対照において特徴づけている。主体性と生の諸形態の生産はますます資本主義的価値化の中心となり、こうした論理は認知的生産や生政治的生産という概念へと直接つながっている。機械状のものはこうした人間生成的モデルをさらに拡張し、さまざまな非人間的特異性を、生産し生産される諸々の集合体(アセンブリ)へと組み込むのである。具体的には、固定資本が労働主体によって再領有されると私たちが述べるとき、それはたんに、固定資本が彼らの所有物になるということではなく、むしろ、固定資本が機械状動的編成(アセンブリッジ)に主体性の構成要素として統合されるということを意味している。ーーー私たちが述べたように、機械状のものとはつねに動的編成(アセンブリッジ)であり、人間と他の存在者たちの動的合成である。しかし、こうした新しい機械状主体性の力は、それが現勢化されず、また社会的協働と<共(コモン)>へと接合されない限り、潜勢的なものにすぎない。実際のところ、もし固定資本の再領有が、私的所有権をある個人から別の個人に譲渡することで個人的に起きるとすれば、それはたんに、ポールに支払うためにピーターから略奪するということであり、いかなる現実的意味も持たないだろう。対照的に、固定資本の富と生産力が社会的に領有されるなら、それゆえ、固定資本が私有財産から<共(コモン)>へと変容されるなら、そのとき、機械状主体性とその協働ネットワークの力は完全に現勢化されうる。動的編成(アセンブリッジ)という機械状概念、協働の生産的諸形態、そして<共(コモン)>という存在論的基礎は、ここでかつてないほど緊密に織り合わされているのである。ーーー機械状動的編成(アセンブリッジ)に吸収された今日の若者たちを見るとき、私たちは、彼ら/彼女らの存在そのものが抵抗であることを認識するべきだ。自覚していようといまいと、彼ら/彼女らは抵抗の中で生産しているのである。資本は、過酷な真実を認識することを強いられる。資本は、主体性ーーー資本はそこから価値を採取するーーーによって生産される<共(コモン)>の発展を強化しなければならないが、<共(コモン)>は抵抗の諸形態と、固定資本を再領有する過程を通じてのみ構築される。矛盾はかつてないほど明確なものとなる。君自身を搾取せよ、と資本は生産的主体性に告げる。そして生産的主体性は、私たちは自らが生産する<共(コモン)>を統治し、自らを価値化したい、と応答するのである。この過程におけるいかなる障害もーーーそして、潜勢的障害の疑いさえもーーーこの衝突の深化を決定しうる。資本は諸々の主体性の協働からしか価値を収奪=収容できないが、もしそれらの主体性がこうした搾取に抵抗するとすれば、そのとき、資本は指令のレヴェルを上げ、<共(コモン)>からのますます恣意的で暴力的な価値搾取の操作を試みなければならなくなる」(ネグリ=ハート「アセンブリ・第七章・P.171~172」岩波書店 二〇二二年)
なお(2)の後半はマルクス=エンゲルス「共産党宣言」にある有名な一節を思い起こさせないわけにはいかないことは確かだ。
「ブルジョア階級の存在と支配とにとってもっとも本質的な条件は、私人の手中への富の集積、すなわち資本の形成と増殖である。資本の条件は賃金労働である。賃金労働はもっぱら労働者相互のあいだの競争にもとづく。工業の進歩は、競争による労働者の孤立化の代りに、結合による労働者の革命的団結を作り出す。だから、大工業の発展とともに、ブルジョア階級の足もとから、かれらに生産させ、また生産物を取得させていた土台そのものが取り去られる。かれらは何よりも、かれら自身の墓掘人を生産する」(マルクス=エンゲルス「共産党宣言・第一章・P.56」岩波文庫 一九五一年)
しかしまた、別の箇所でドゥルーズ=ガタリの次の言葉が引用されている。いかにして、<もはやすでに>人間は機械=部品となったか。
「ここでは、もはや、機械と人間とを比較対照して、一方と他方との間に相互に対応、延長、代用の関係が可能であるか否かを評定するといったことが問題なのではない。そうではなくて、むしろ、人間と機械との間にコミュニケイションを形成して、人間がどのように機械《と結びついて部品となるのか》、あるいはほかの別のものと結びついて部品となり機械を構成することになるのかといったことを示すことが問題なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・補遺・P.460」河出書房新社 一九八六年)
マルクスを参照するとこうある。
「機械の体系は、織布におけるように同種の作業機の単なる協業にもとづくものであろうと、紡績におけるように異種の作業機の組み合わせにもとづくものであろうと、それが一つの自動的な原動機によって運転されるようになれば、それ自体として一つの大きな自動装置をなすようになる」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.261」国民文庫 一九七二年)
長いあいだ予言的な文章だったのだが遂に本当に出現したばかりか今や世界中を覆い尽くしてしまった事態である。ジジェクは「コモンズ」を強調し、ネグリ=ハートは<共(コモン)>という。両者の思想的立場は多少なりとも異なっていて、これ以上接近するはずは元からないにもかかわらず、なぜ今、両者ともに堂々たる態度を指し示すことができるのか。とはいえ、ただ単なるパワー・ゲームにうつつを抜かしているばかりではもはや世界は立ち行かなくなっていることに余りにも多くの人々が気づいているグローバル資本主義であるがゆえに、こうしたフィード・バック回路がどんどん構築されてくるのは当たり前といえば当たり前なのだ。
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