アンカルヴィルのカジノでアルベルチーヌとアンドレとが踊っている光景をただ単に眺めていた<私>にコタールが告げた言葉「あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ」。その瞬間、<私>は二人の踊りをただ単純素朴に眺めているのではなく二人の同性愛を<覗き見>る位置へと移動した。コタールの言葉が<私>の内面にさらに新しい<覗き見>という場所を出現させた。
そういわれてみれば、と二度目のバルベック滞在を最初から振り返ってみる。ホテルのリフトに頼んでアルベルチーヌを呼びにやらせた夜、アルベルチーヌは来るとリフトに伝えたのだが結局いつまで待ってもやって来なかった。アルベルチーヌは嘘を伝えさせたことになる。そこでプルーストは興味深い考察を行っている。嘘かどうかは別として。
「そもそも往々にして愛が生まれる原因になるのは、相手の肉体的魅力よりも、むしろつぎのようなたぐいのことばである、『だめ、わたし今夜はふさがってるの』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.438」岩波文庫 二〇一五年)
生まれたのが愛であろうと憎悪であろうと、そもそも<生ませた>のは何か。「だめ、わたし今夜はふさがってるの」という言葉である。すると「だめ、わたし今夜はふさがってるの」というシニフィアン(意味するもの)はシニフィエ(意味されるもの・意味内容)をただちに発生させる。例えば「だめ、わたし今夜はほかの男と会うの」とか男女逆の場合なら「だめ、おれは今夜はほかの女と会うんだ」とか。次にこのシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの・意味内容)との繋がりが一つのシニフィアン(意味するもの)になり、さらなるシニフィエ(意味されるもの・意味内容)を生み出し、限りないコノテーションの連鎖を発生させていく。だからといって限度を忘れたコノテーションの苦痛から解放されようと思い、その「原因」を突き止めようとしても「なんの役にも立たない」とプルーストはいう。
「ところが苦しんでいる本人が解釈を間違え、やって来ない相手のせいで不安に駆られるのだと想いこむ。このような場合、恋心はある種の神経症と同じで、辛い不快感をいかにも不正確に解釈するところから生じる。そんな解釈の誤りを正しても、すくなくとも愛にかんするかぎり、なんの役にも立たない。愛とは(その原因がなんであれ)つねに誤った感情だからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.439~440」岩波文庫 二〇一五年)
しかしなぜ「(その原因がなんであれ)つねに誤った感情だからである」ということができるのか。ニーチェはこう述べる。
「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下・四七九・P.23~24」ちくま学芸文庫 一九九三年)
遠近法的倒錯の発生を目撃するばかりで唯一絶対の「原因」究明はいつも的外れに終わるというわけだ。そこで<私>はアルベルチーヌと知り合った最初の頃からしばしば目にしていた軽薄な言動の数々に「見せかけにすぎないのではないか」との疑念を抱く。
「こんどの二度目のバルベック滞在で、私は、この軽薄さは見せかけにすぎないのではないか、ガーデン・パーティーもつくり話ではないにしても隠れ蓑(みの)にすぎないのではないか、という疑念にとらえられた。さまざまな形でつぎのような事態が生じたからである(事態といっても、あくまでも私から見た事態、レンズのこちら側から見た事態という意味で、そのレンズもけっして透明ではなく、向こう側の本当の事態を私は知るよしもなかった)」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.440~441」岩波文庫 二〇一五年)
ところが「見せかけ」かそうでないかという問いはもはや無効である。マルクスは労働について必要労働と剰余労働との区別があることは確かだが、どこまでが必要労働でありどこからが剰余労働なのか、「だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」という。
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫 一九七二年)
ドゥルーズ=ガタリはそこから「資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示している」と指摘している。
「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・14・平滑と条理・P.281~282」河出文庫 二〇一〇年)
そして<私>が疑念に捉えられた「つぎのような事態」の一つ。アルベルチーヌがしきりにアンフルヴィル在住の或る婦人を訪れなくてはならないと主張した時のこと。プルーストは次の会話を通して浮上させている。
「『だけど一度ぐらい行かなくたって構わないだろう』。『それがダメなの、なによりも礼儀正しくしなければいけないって、叔母から教わったのよ』。『でも、きみが礼儀正しくしなかったのはこれまで何度も見たけど』。『それとこれとはべつよ、そうなるとあの人、あたしを恨んで、あたしのことで叔母にああだこうだと騒ぎたてるわ。それでなくてもあの人とはうまくいっていないのに。一度ぐらいあたしが会いに来ても当然と思ってるのよ』。『だけど毎日お客をもてなすんだろ』。そこでアルベルチーヌは、うっかり『辻褄の合わないこと』を言ってしまったと感じたのだろう、理由を変更した。『もちろん毎日お客をもてなすのよ。でもきょうは、あたし、あの人のおうちで何人かの女友だちと会う約束をしたの。そうしておけば、それほど退屈しないですむでしょ』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.441~442」岩波文庫 二〇一五年)
アルベルチーヌは「うっかり『辻褄の合わないこと』を言ってしま」う。慌てて修正しはするものの、その理由がさらに『辻褄の合わないこと』を出現させる。
「『ただこれは、お友だちのためには嫌なことでもやらなくてはという気持なのよ。あとであたしの軽二輪馬車で連れて帰ることになっていて、そうでないと、お友だちはみな帰れなくなってしまうわ』。私はアルベルチーヌに、アンフルヴィルからであれば夜の十時まで汽車があると指摘した」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.442」岩波文庫 二〇一五年)
そこで<私>はこちらから提案してみる。「きみがどうしてもその婦人を見捨てられないというのだから、ぼくがアンフルヴィルまでいっしょに行ってやろう。いや、心配は無用、ぼくはエリザベート塔(その婦人の別荘)までは行かない、その婦人にも、きみの友だちにも会わないから」と。するとアルベルチーヌは不意打ちを食らったかのように「その発言はとぎれとぎれになった」。そして<私>は「ぼくがついて行ったら困るのかい?」と痛いところを突く。と、思いもよらぬ返事が返ってきた。「『あら、どうしてそんなこと言うの?よくわかってるでしょ、あたしの一番の楽しみはあなたと出かけることだって』」と。これではもう「突然、意見が変わっていた」と受け取るしかない。
「『ねえ、アルベルチーヌ、こうしよう、簡単なことさ。外の空気にあたったほうが気分がよくなりそうだ。きみがどうしてもその婦人を見捨てられないというのだから、ぼくがアンフルヴィルまでいっしょに行ってやろう。いや、心配は無用、ぼくはエリザベート塔(その婦人の別荘)までは行かない、その婦人にも、きみの友だちにも会わないから』。アルベルチーヌは手ひどい打撃を食らったようで、その発言はとぎれとぎれになった。そして、海水浴はどうも自分には合わない、などと言った。『ぼくがついて行ったら困るのかい?』。『あら、どうしてそんなこと言うの?よくわかってるでしょ、あたしの一番の楽しみはあなたと出かけることだって』。突然、意見が変わっていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.443」岩波文庫 二〇一五年)
理由を二転三転させるアルベルチーヌ。だが<私>はここで、それ以上追求することを一旦やめる。なぜなら、こうある。
「しかし私は、人を悲しませたくもなければ、自分で苦労をしょいこみたくもなく、あれこれ捜査し、多岐にわたっておびただしい監視をするという恐ろしい道には踏みこみたくもなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.445」岩波文庫 二〇一五年)
にもかかわらず<私>は逆に、なおかつ徐々に、「多岐にわたっておびただしい監視をするという恐ろしい道に」踏みこんでいく。<私>が愛するアルベルチーヌに対する「おびただしい監視」を避けるためには「おびただしい監視」をしなくて済む証拠集めに奔走しなくてはならないという逆説に突き当たらざるを得ない。すると決着(決済)を延々と引き延ばす言動ばかりが次々と出現してくる。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫 一九七二年)
決着を付けないこと。資本の流れは決済を延々と引き延ばすことで自転車操業ばかりを必然的に増殖させてしまう。一方、プルースト作品は作品を構成する言語(身振り)の意味をどんどん増殖させていくし、増殖させていく過程ばかりを夥しく繁殖させる。そうなるともはや言語作用と手形流通との関係はおそろしく似てくる。だがプルーストは言語(身振り)の不可避的増殖について、それは紛れもなくその都度出現するほかない<生産>であると読者に教えているのではないだろうか。
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そういわれてみれば、と二度目のバルベック滞在を最初から振り返ってみる。ホテルのリフトに頼んでアルベルチーヌを呼びにやらせた夜、アルベルチーヌは来るとリフトに伝えたのだが結局いつまで待ってもやって来なかった。アルベルチーヌは嘘を伝えさせたことになる。そこでプルーストは興味深い考察を行っている。嘘かどうかは別として。
「そもそも往々にして愛が生まれる原因になるのは、相手の肉体的魅力よりも、むしろつぎのようなたぐいのことばである、『だめ、わたし今夜はふさがってるの』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.438」岩波文庫 二〇一五年)
生まれたのが愛であろうと憎悪であろうと、そもそも<生ませた>のは何か。「だめ、わたし今夜はふさがってるの」という言葉である。すると「だめ、わたし今夜はふさがってるの」というシニフィアン(意味するもの)はシニフィエ(意味されるもの・意味内容)をただちに発生させる。例えば「だめ、わたし今夜はほかの男と会うの」とか男女逆の場合なら「だめ、おれは今夜はほかの女と会うんだ」とか。次にこのシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの・意味内容)との繋がりが一つのシニフィアン(意味するもの)になり、さらなるシニフィエ(意味されるもの・意味内容)を生み出し、限りないコノテーションの連鎖を発生させていく。だからといって限度を忘れたコノテーションの苦痛から解放されようと思い、その「原因」を突き止めようとしても「なんの役にも立たない」とプルーストはいう。
「ところが苦しんでいる本人が解釈を間違え、やって来ない相手のせいで不安に駆られるのだと想いこむ。このような場合、恋心はある種の神経症と同じで、辛い不快感をいかにも不正確に解釈するところから生じる。そんな解釈の誤りを正しても、すくなくとも愛にかんするかぎり、なんの役にも立たない。愛とは(その原因がなんであれ)つねに誤った感情だからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.439~440」岩波文庫 二〇一五年)
しかしなぜ「(その原因がなんであれ)つねに誤った感情だからである」ということができるのか。ニーチェはこう述べる。
「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下・四七九・P.23~24」ちくま学芸文庫 一九九三年)
遠近法的倒錯の発生を目撃するばかりで唯一絶対の「原因」究明はいつも的外れに終わるというわけだ。そこで<私>はアルベルチーヌと知り合った最初の頃からしばしば目にしていた軽薄な言動の数々に「見せかけにすぎないのではないか」との疑念を抱く。
「こんどの二度目のバルベック滞在で、私は、この軽薄さは見せかけにすぎないのではないか、ガーデン・パーティーもつくり話ではないにしても隠れ蓑(みの)にすぎないのではないか、という疑念にとらえられた。さまざまな形でつぎのような事態が生じたからである(事態といっても、あくまでも私から見た事態、レンズのこちら側から見た事態という意味で、そのレンズもけっして透明ではなく、向こう側の本当の事態を私は知るよしもなかった)」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.440~441」岩波文庫 二〇一五年)
ところが「見せかけ」かそうでないかという問いはもはや無効である。マルクスは労働について必要労働と剰余労働との区別があることは確かだが、どこまでが必要労働でありどこからが剰余労働なのか、「だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」という。
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫 一九七二年)
ドゥルーズ=ガタリはそこから「資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示している」と指摘している。
「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・14・平滑と条理・P.281~282」河出文庫 二〇一〇年)
そして<私>が疑念に捉えられた「つぎのような事態」の一つ。アルベルチーヌがしきりにアンフルヴィル在住の或る婦人を訪れなくてはならないと主張した時のこと。プルーストは次の会話を通して浮上させている。
「『だけど一度ぐらい行かなくたって構わないだろう』。『それがダメなの、なによりも礼儀正しくしなければいけないって、叔母から教わったのよ』。『でも、きみが礼儀正しくしなかったのはこれまで何度も見たけど』。『それとこれとはべつよ、そうなるとあの人、あたしを恨んで、あたしのことで叔母にああだこうだと騒ぎたてるわ。それでなくてもあの人とはうまくいっていないのに。一度ぐらいあたしが会いに来ても当然と思ってるのよ』。『だけど毎日お客をもてなすんだろ』。そこでアルベルチーヌは、うっかり『辻褄の合わないこと』を言ってしまったと感じたのだろう、理由を変更した。『もちろん毎日お客をもてなすのよ。でもきょうは、あたし、あの人のおうちで何人かの女友だちと会う約束をしたの。そうしておけば、それほど退屈しないですむでしょ』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.441~442」岩波文庫 二〇一五年)
アルベルチーヌは「うっかり『辻褄の合わないこと』を言ってしま」う。慌てて修正しはするものの、その理由がさらに『辻褄の合わないこと』を出現させる。
「『ただこれは、お友だちのためには嫌なことでもやらなくてはという気持なのよ。あとであたしの軽二輪馬車で連れて帰ることになっていて、そうでないと、お友だちはみな帰れなくなってしまうわ』。私はアルベルチーヌに、アンフルヴィルからであれば夜の十時まで汽車があると指摘した」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.442」岩波文庫 二〇一五年)
そこで<私>はこちらから提案してみる。「きみがどうしてもその婦人を見捨てられないというのだから、ぼくがアンフルヴィルまでいっしょに行ってやろう。いや、心配は無用、ぼくはエリザベート塔(その婦人の別荘)までは行かない、その婦人にも、きみの友だちにも会わないから」と。するとアルベルチーヌは不意打ちを食らったかのように「その発言はとぎれとぎれになった」。そして<私>は「ぼくがついて行ったら困るのかい?」と痛いところを突く。と、思いもよらぬ返事が返ってきた。「『あら、どうしてそんなこと言うの?よくわかってるでしょ、あたしの一番の楽しみはあなたと出かけることだって』」と。これではもう「突然、意見が変わっていた」と受け取るしかない。
「『ねえ、アルベルチーヌ、こうしよう、簡単なことさ。外の空気にあたったほうが気分がよくなりそうだ。きみがどうしてもその婦人を見捨てられないというのだから、ぼくがアンフルヴィルまでいっしょに行ってやろう。いや、心配は無用、ぼくはエリザベート塔(その婦人の別荘)までは行かない、その婦人にも、きみの友だちにも会わないから』。アルベルチーヌは手ひどい打撃を食らったようで、その発言はとぎれとぎれになった。そして、海水浴はどうも自分には合わない、などと言った。『ぼくがついて行ったら困るのかい?』。『あら、どうしてそんなこと言うの?よくわかってるでしょ、あたしの一番の楽しみはあなたと出かけることだって』。突然、意見が変わっていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.443」岩波文庫 二〇一五年)
理由を二転三転させるアルベルチーヌ。だが<私>はここで、それ以上追求することを一旦やめる。なぜなら、こうある。
「しかし私は、人を悲しませたくもなければ、自分で苦労をしょいこみたくもなく、あれこれ捜査し、多岐にわたっておびただしい監視をするという恐ろしい道には踏みこみたくもなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.445」岩波文庫 二〇一五年)
にもかかわらず<私>は逆に、なおかつ徐々に、「多岐にわたっておびただしい監視をするという恐ろしい道に」踏みこんでいく。<私>が愛するアルベルチーヌに対する「おびただしい監視」を避けるためには「おびただしい監視」をしなくて済む証拠集めに奔走しなくてはならないという逆説に突き当たらざるを得ない。すると決着(決済)を延々と引き延ばす言動ばかりが次々と出現してくる。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫 一九七二年)
決着を付けないこと。資本の流れは決済を延々と引き延ばすことで自転車操業ばかりを必然的に増殖させてしまう。一方、プルースト作品は作品を構成する言語(身振り)の意味をどんどん増殖させていくし、増殖させていく過程ばかりを夥しく繁殖させる。そうなるともはや言語作用と手形流通との関係はおそろしく似てくる。だがプルーストは言語(身振り)の不可避的増殖について、それは紛れもなくその都度出現するほかない<生産>であると読者に教えているのではないだろうか。
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