白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・個別事象としての社交界から多元的トランス性愛の世界へ

2022年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
社交界の中でたびたび起こる個人的地位の上昇と下降とについて<私>はこれまで社交界自体の変化ではなくあくまで個人的価値の上昇・下降に過ぎないと考えてきた。例えば「だれひとり知り合いのいなかった同じ婦人がみなの館を訪れるようになったり、主導的な高い地位についていたべつの婦人が見向きもされなくなったりすると、それは同じ交際社会でときに生じる純粋に個人的な浮き沈みにすぎず、株への投資で派手な破産や望外の儲けが生じるようなものだ」と。

「だれひとり知り合いのいなかった同じ婦人がみなの館を訪れるようになったり、主導的な高い地位についていたべつの婦人が見向きもされなくなったりすると、それは同じ交際社会でときに生じる純粋に個人的な浮き沈みにすぎず、株への投資で派手な破産や望外の儲けが生じるようなものだと考えたくなる」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.317」岩波文庫 二〇一五年)

だがかならずしもそれだけではないとプルーストはいう。ただ単に観察する態度に留まっている限り動的思考は起動しない。社交界の中で見られる個人的地位〔価値〕の上昇・下降は社交界内部だけで起こる各々の個別事象にしか見えてこない。しかし実際はまるで違っている。むしろ個別事象のように見えている現象は、社交界を内部に含む「広範な動きの、遠い、屈折した、不確かなぼやけた、移ろいやすい反映」の一種でしかない。

「社交界のさまざまな動向は(芸術上の運動や政治上の危機、つまり世間の人びとの嗜好を思想劇へ、ついで印象派の絵画へ、ついで複雑なドイツ音楽へ、ついで単純なロシア音楽へ、あるいは社会思想、正義の思想、、宗教的反動、愛国心の高まりなどへ導く変化に比べると、ひどく下等なものではあるが)、やはりこうした広範な動きの、遠い、屈折した、不確かなぼやけた、移ろいやすい反映なのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.317」岩波文庫 二〇一五年)

社交界が社交界単独で自立・成立しているものとみなしている以上、観察という態度は、前もってその中に含まれている或る種の構造を、さも重大な発見であるかのように、おもむろに取り出して見せるということにしかならない。これまで<私>が報告してきた社交界というものは社会=歴史的動向から意図的に切り離された静的構造をただ単に再現して見せているに過ぎなかった。しかしプルーストはもはや「サロンなるものも、静止した不動の状態で描くわけにはいかない」。というのも「これまではこうした不動の状態が人間のさまざまな性格の研究には好都合だったかもしれないが、その人間の性格もまた、ほとんど歴史的ともいえる動向のなかにいわば巻きこまれてゆく」ほかないからである。

「したがってサロンなるものも、静止した不動の状態で描くわけにはいかない。これまではこうした不動の状態が人間のさまざまな性格の研究には好都合だったかもしれないが、その人間の性格もまた、ほとんど歴史的ともいえる動向のなかにいわば巻きこまれてゆくのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.317~319」岩波文庫 二〇一五年)

ニーチェは社会的<身体>が恐ろしく多様な無限の生成変化過程であることに気づいていた。次の二箇所。とりわけ(2)にあるように「これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」と述べる。

(1)「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫 一九七三年)

(2)「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫 一九九四年)

社交界のサロンで旧時代と新時代とを画するのは、社交界の性質上、常に女性であり、「最新の好奇心を刺激するものと密接に結びついたその女性たちは、まるで最後の大洪水から生まれた未知の種の生物のように、そのときはじめてその衣装をまとってあらわれたように見え」る。そしてその傾向は「新たな執政政府時代や総裁政府時代が出現するたびに更新される抗しがたい魅力をそなえた美女」として忽然と出現したかのように見える。

「こうして各時代は、新たな女性や女性グループのなかに体現されるものらしく、最新の好奇心を刺激するものと密接に結びついたその女性たちは、まるで最後の大洪水から生まれた未知の種の生物のように、そのときはじめてその衣装をまとってあらわれたように見えて、じつは新たな執政政府時代や総裁政府時代が出現するたびに更新される抗しがたい魅力をそなえた美女なのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.319」岩波文庫 二〇一五年)

忽然と出現して新時代を切り開いたかのように見える理由はプルーストがルノワールの絵画について述べているように、ルノワールと同時代の人々が「十九世紀」に活躍したルノワールのことを「十八世紀」の大画家として百年もの的外れを犯しているのと同様である。

「ある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には書いていることがほとんど理解できなかった。たとえばその作家はこう書く、『撒水管はみごとに手入れされたもろもろの街道に感嘆していた』(これはさして難しくないので、その街道沿いにすいすい進んでゆくと)『それらの街道は五分ごとにブリアンやクローデルから出てきた』。こうなるともはや私には理解できなかった。町の名が出てくるはずだと思っていたのに、人名が出てきたからである。ただし私は、出来の悪いのはこの文ではなく、私のほうに最後までゆき着くだけの体力も敏捷さも備わっていない気がした。そこでもう一度はずみをつけて、手脚も駆使して、ものとものとの新たな関係が見える地点にまで到達しようとした。そのたびに私は、文の中ほどまで来ると、のちに軍隊で梁木(りょうぼく)と呼ばれる訓練をしたときのように、ふたたび落伍した。それでもやはり私は、その新進作家にたいして、体操の成績にゼロをもらう不器用な子がずっと上手(じょうず)な子に向けるような賞賛の念をいだいた。そのころから私はベルゴットにさほど関心しなくなった。その明快さがもの足りなく思えたのだ。その昔には、フロマンタンが描くありとあらゆるものがだれにもそれとわかり、ルノワールの筆になるとなにを描いたものかわからない、といった時代もあったのである。趣味のいい人たちは、現在、ルノワールは十八世紀の大画家だと言う。しかしそう言うとき、人びとは『時間』の介在を忘れている。ルノワールが、十九世紀のさかなでさえ、大画家として認められるのにどれほど多くの時間を要したかを忘れているのである。そのように認められるのに、独創的な画家や芸術家は、眼科医と同じ方法をとる。絵画や散文によるその療法は、かならずしも快くはないが、治療が終わると、それを施した者は『さあ見てごらんなさい』と言う。すると世界は(一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される)、昔の世界とはまるで異なるすがたであらわれ、すっかり明瞭に見える。通りを歩く女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、昔はそんなものは女ではないと言われていたルノワールの描いた女だからにほかならない。馬車もルノワールの描いたものだし、水も空も同様である。われわれは、その画を最初に見たときには、どうしても森にだけは思えず、たとえばさまざまな色合いを含んではいるが森に固有の色合いだけは欠いたタピスリーに思えたものだが、そんな森と今やそっくりの森を散歩したい欲求に駆られる。創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.339~342」岩波文庫 二〇一三年)

プルーストが新時代の到来を告げる新しい女性の出現について「新たな執政政府時代や総裁政府時代が出現するたびに更新される」と書いているのは、芸術の場合、「創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」というのと変わらない。しかしいきなり出現したかのように見えるのはどうしてだろう。人々が「『時間』の介在を忘れている」からだ。記憶錯誤というわけではなく新しい女性や新しい芸術が俗世間の間で浸透するまでの長い過程が、逆説的なことに、その新しさゆえかえって忘却され自分で自分の歩んできた過程を覆い隠してしまうのである。

「人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。それは、あとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果から始まるのである。労働生産物に商品という極印を押す、したがって商品流通に前提されている諸形態は、人間たちが、自分たちにはむしろすでに不変なものと考えられるこの諸形態の歴史的な性格についてではなくこの諸形態の内実について解明を与えようとする前に、すでに社会的生活の自然形態の固定性をもっているのである。このようにして、価値量の規定に導いたものは商品価値の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、まさに商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.140~141」国民文庫 一九七二年)

そしてさらに同性愛において古代ギリシアの男性優位主義こそ「真実」であると信じられてきた世界は、プルースト「ソドムとゴモラ」篇後半の中で、そもそも唯一絶対的「真実」というものはなく、あるのは逆にトランス記号論的横断性愛なのだということが嫉妬のあまり<私>を狂気に陥れつつ立ち現れることになる。

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