白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・愛と嫉妬における有罪性(原罪)のからくり<暴露・冒瀆>/アルベルチーヌとオデットとの決定的違い

2022年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストは愛している側の人間が陥りがちな傾向について或る種の病気の症状に喩えている。一時的に快方に向かっても何か些細なきっかけで再び重症に陥ってしまう状態にあるような病状として語る。「治ったとたん、疑念はべつの形でぶりかえす」というような。

「きっとアルベルチーヌは、アンドレをそそのかして、一線を越えずとも罪なきものとは言えぬ戯れをしたにちがいない。私はそんな疑念にさいなまれたあげく、ようやくその疑念を追い払うことができる。ところが治ったとたん、疑念はべつの形でぶりかえす」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.452」岩波文庫 二〇一五年)

愛する気持ちが強ければ強いほど愛されている側の人間に対する「疑念」の度合いが乱高下するのは当り前といえばこれほど当り前のこともそうないだろう。だがこのセンテンスでプルーストが問題にしているのは恋愛に付きものの悲喜劇的な右往左往ではまるでない。「罪なきものとは言えぬ戯れ」というただならぬフレーズが差し挟まれている点に注目しよう。アルベルチーヌとアンドレとの同性愛疑惑について、もしそれが本当なら、<私>は二人に共通する有罪性を見ないわけにはいかないという論理であり、この種の有罪性は同性愛において最も顕著に現れるに違いないと<私>が考えている点である。ところがプルーストが出してくる例は、同性愛以前であろうと以後であろうと関係なく、そもそも異性愛という次元に問題を絞り込んでみたとしてもなお、異性愛至上主義というイデオロギー的ナショナリズムに陥ってしまうのではないかという根本的問いかけから始まっている。

次の文章は<私>がアルベルチーヌを<幽閉・監禁>し、同性愛はもちろん<私>以外の男性との異性愛も不可能な状態に封鎖し、完全な<監視下>に置いた後になって、プルーストが述べる言葉だ。キリスト教圏ゆえプルーストは「女の原罪」という語彙をあえて用いる。すると今度は「女の原罪」という語彙こそが実は<男性優位社会>の側からの珍妙なロジックとして出現してきたことが明るみに出される。

「おまけにわれわれが愛している期間中に女が犯した過ち以上に、われわれと知り合う以前に女が犯した過ちも存在し、そんな過ちの最初のものとして女の本性がある。かくして愛を苦しいものにするのは、実際その愛に先立って女の原罪とでも言うべきもの、つまりこちらの愛をそそる罪が存在するからで、その結果、その原罪を忘れてしまうと、われわれはさほど女を必要としなくなり、ふたたび愛するようになるには、ふたたび苦しむことをはじめなければならないのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.337」岩波文庫 二〇一六年)

異性愛における性別を置き換えてもなお同じくこう言える。愛する側を苦痛に叩き込むのは愛される側に「こちらの愛をそそる罪が存在するからで」あり、「その原罪を忘れてしまうと、われわれはさほど女(もしくは男)を必要としなくな」る。前提として、愛は苦痛とともにでしか出現せず、苦痛を伴わない愛などどこにもない。そんな苦痛に耐えられない人間は愛から苦痛のみを要領よく厄介払いしようとして苦痛を与える相手の中に「原罪」という観念を押し付け押し込みレッテル貼りする。しかし相手に対してどれほど過酷にレッテル貼りしてみても苦痛はどこへも行かない。苦痛を感じているのは愛されている側ではなく愛している側、自分自身だからである。

それゆえ、苦痛を感じなくなった時というのはもはや相手に何の感情も持たなくなった時、まるで相手を愛さなくなったことを意味する。その瞬間、それまでは愛する相手に「ある」と感じていた有罪性(原罪)の意識はすっかり消滅してしまう。ところがしばらくして再び誰かを愛するようになった時、愛に伴って出現する苦痛が、愛される相手に否応なく有罪性(原罪)の烙印を押し付けてしまう。だからこそ「ふたたび愛するようになるには、ふたたび苦しむことをはじめなければならない」とプルーストはいうのである。

その意味で有罪性(原罪)という観念は単なるロジックでしかないと<暴露>するとともに、それが宗教的観念に過ぎないという点で<冒瀆>というプルースト的テーマをも浮上させる。

しかしアルベルチーヌに対する愛と嫉妬に燃えている<私>はそんなことを冷静に考えている余裕がない。<私>の頭の中では次のような場面がどんどん湧き起こってくる。だがそれら様々な場面を<私>の脳内で発生させたのはそもそもアルベルチーヌが同性愛者か異性愛者かという問いではなく、アルベルチーヌが見せた幾つかの身振りがきっかけになっていることを忘れないようにしよう。

「いまやアンドレが持ち前の優雅なしぐさで甘えるように頭をアルベルチーヌの肩にもたせかけ、なかば目を閉じて相手の首筋に接吻するさまが目にうかぶ。あるいは、ふたりは目配せを交わしたところだ。あるはだれかの口から、ふたりきりで海水浴に行くところを見たということばが漏れたりする。なんの変哲もないそんな些事など、ふだん空気中にいくらでも漂っていて、たいていの人はそれを一日じゅう吸いこんでもなんら健康を損なわれず気分も害されないのに、あらかじめ素地を備えた人にはそれが病気の元凶となり、あらたな苦痛を生みだすのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.452」岩波文庫 二〇一五年)

このような愛の「狂気」をさまよう<私>は「スワンがいかにオデットを愛したか、生涯にわたっていかに欺かれたかについて、聞きおよんでいたことをすべて想いうかべた」。アルベルチーヌとオデット(スワン夫人)との混同が生じている。

「そのとき私は、スワンがいかにオデットを愛したか、生涯にわたっていかに欺かれたかについて、聞きおよんでいたことをすべて想いうかべた。結局いまになって思い返してみると、私がすこしずつアルベルチーヌの性格の全体像をつくりあげ、私には完全に統御できないひとりの女の生涯の各時期について痛ましい解釈をしたときの仮説とは、畢竟(きっきょう)、私が聞かされていたスワン夫人の性格の想い出であり、その固定観念であった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.453」岩波文庫 二〇一五年)

だからといって、それは「私が聞かされていたスワン夫人の性格の想い出であり、その固定観念であった」と書かれているように、プルーストはアルベルチーヌとオデット(スワン夫人)との違いを思い出すよう、ところどころで読者に働きかけている。一方に「スワン・オデット(スワン夫人)・ジルベルト嬢」の系列(メゼグリーズ、コンブレー)があり、もう一方に「アルベルチーヌ・『未知の女』」の系列がある。そして前者は「ヴァントゥイユの小楽節」の内部で完結するが、後者は決して完結しない未知の音楽「ヴァントゥイユの七重奏曲」へと延長されている。

(1)「突如として私は、正真正銘のジルベルトとは、正真正銘のアルベルチーヌとは、前者はバラ色のカンザシの垣根の前で、後者は浜辺で、それぞれ最初に出会った瞬間、そのまなざしのなかに心の内を明かした女がそうだったのかもしれないと想い至った」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.28」岩波文庫 二〇一八年)

(2)「そのあいだにもピアニストは、ふたりのために、ふたりの愛の国家ともいうべきヴァントゥイユの小楽節を弾いてくれる。ピアニストが始めるのは、ヴァイオリンのトレモロがつづく箇所からで、数小節のあいだはそれだけが聞こえて前面に陣どっている」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.85」岩波文庫 二〇一一年)

(3)「ヴァントゥイユのソナタを想い出してもその合奏曲を想いうかべることができなかったのと同じく、ジルベルトを手がかりにしても、アルベルチーヌを想いうかべて自分が愛する女だと想像することなどできなかったであろう」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.194」岩波文庫 二〇一七年)

(4)「そうこうするうち、ふたたび始まっていた七重奏曲も終わりに近づいた。ソナタのあれこれのフレーズが何度もくり返しあらわれ、そのたびに以前とは違うリズムと伴奏をともなって様変わりし、同一でありながら異なるのは、人生にさまざまなものごとが再来するさまを想わせる。この手のフレーズは、いかなる親近性ゆえにその唯一の必然的な住まいとしてある音楽家の過去を指定するのかは理解できないものの、その音楽家の作品にしか見出せず、その作品には始終あらわれて、その作品の妖精となり、森の精となり、馴染みの神々となるのだ。まず私は、七重奏曲のなかで、ソナタを想起させるそうした二、三のフレーズに気づいた。やがて私が認めたのはソナタのべつのフレーズでーーーそれはヴァントゥイユの最晩年の作品から立ちのぼる紫色をおびた霧につつまれていたので、ヴァントゥイユがそのどこかに踊りのリズムをさし挟んでも、踊りまでが乳白色のなかに閉じこめられていたーーー、まだ遠くにとどまって、はっきりとは見分けられない。それはためらいがちに近づくと、おびえたようにすがたを消し、やおら戻ってきては私があとで知ったところによるとべつの作品から到来したとおぼしいべつのフレーズとからみ合い、さらにまたべつのフレーズを呼ぶと、そのフレーズもそこへ馴染んですぐさま今度はみずから牽引力と説得力を身につけ、輪舞(ロンド)のなかへはいってゆく。その輪舞(ロンド)は神々しくはあったが、たいていの聴衆の目には見えず、茫漠としたベールが目の前にかかるだけなので、その向こうになにひとつ認めることのできない聴衆は、死ぬほどやりきれない退屈が連綿とつづく合間に、ときどきいい加減な賞賛の歓声をあげた。やがてそれらのフレーズは遠ざかったが、なかにひとつだけ、私にはその顔が見えないのに五回も六回も戻ってくる、やさしく愛撫するような、それでいてーーースワンにとってはきっとソナタの小楽節がそうであったようにーーーどんな女性にかき立てられたものともまるで異なるフレーズがあった。じつに優しい声で真に手に入れる価値のあるものだと私に幸福を差しだしてくれるそのフレーズは、もしかするとーーーこの目に見えない女性は、私がそのことばを解さないのに心底から理解できるのだからーーー私が出会うことを許されたただひとりの『未知の女』だったのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.157~159」岩波文庫 二〇一七年)

だが<私>はまだアルベルチーヌとオデット(スワン夫人)とを混同したままだ。

「そして私は、万一そんな女を愛するはめになったら、どんな苦しみが待ち受けていることかと考えていたのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.453」岩波文庫 二〇一五年)

スワンがしばしば味わったような<どこまでも延長される苦痛>という苦い思いが<私>の脳裏から離れてくれない。

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