帰宅したアパルトマンの「控えの間(ま)」でアルベルチーヌを待ち焦がれる<私>。
「ゲルマント邸での夜会のあいだは三分たりとも想いうかべなかったアルベルチーヌに、今やこれほど激しい不安をおぼえる始末だ!しかも、以前ほかの娘たちにたいして、とりわけなかなかやって来なかったジルベルトにたいして覚えたじりじりと待つ焦燥感が呼び醒まされ、たんに肉体の快楽が得られないかもしれぬと考えるだけなのに、私には辛い精神的苦痛がひきおこされた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.291」岩波文庫 二〇一五年)
しかしなぜ自室でなく「控えの間(ま)」なのか。玄関でそわそわしながら待っている姿をまともに見られるのはアルベルチーヌに優越感を与えるばかりでしゃくにさわるという気持ちもあるのだが、それ以上に、<私>が待つとすれば「控えの間(ま)」でなくてはならない事情がプルーストにはあった。夜間の来客の場合、門衛が電気のボタンを押して階段を照らし出す仕組みになっていて、階段から電気の照明が漏れて映る「隙間」があった。<私>が見張っているのはその「隙間」である。そうすればアルベルチーヌが到着した時、<私>の側からはそれがわかるけれどもアルベルチーヌの側からは誰かが<監視>しているとはまるでわからない。同時にその構造はプルーストの三大テーマの一つ<覗き見>成立の条件である。
ところがいつまで待ってもアルベルチーヌは現れない。すると苦痛としてのアルベルチーヌの不在が<私>の内部にやおら「べつの場所」を出現させる。
「もっとも、あいかわらずやって来ないアルベルチーヌ本人と同じくらい私に辛い想いをさせていたのは、アルベルチーヌがこの瞬間、私の知らない場所をもとよりわが家よりも快適と考えて、そんな『べつの場所』にいることだった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.293」岩波文庫 二〇一五年)
そこで<私>は普段なら門衛所へ繋がれている電話線を切り換え受話器を部屋の中に置いた。他人が見たらこんな夜中にわざわざ何をやっているのか不審に思われることも構わずせっせと作業を終えて連絡を待った。身じろぎ一つせずにいるうち、ようやく呼び出し音が鳴った。<私>は心臓がばくばくするほどの焦燥感を悟られないようわざと無関心な口調を装って対応した。次のように。
「『来るのかい?』と私は無関心な口調で訊ねた。『でもーーーやめとくわ、どうしても来てほしいというのでなければ』。私の一部はすでにアルベルチーヌのなかにあり、その他の部分もこれに合流したがっていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.296」岩波文庫 二〇一五年)
プルーストは書いている。「私の一部はすでにアルベルチーヌのなかにあり、その他の部分もこれに合流したがっていた」と。どういうことか。ドゥルーズ=ガタリのいう「欲望のプロセス」としての「生成変化」が生じている。四箇所引用。
(1)「すべてのプロセスは生成変化であり、生成変化にたいする評価は、生成変化を終わらせる結果ではなく、現に生成変化が進行しているとき、その質はどうか、生成変化が示す継続の力能はどれほどのものか、ということによって決まってくる。たとえば、動物への生成変化や、非=主体的個体化がそうです」(ドゥルーズ「記号と事件・4・P.296」河出文庫 二〇〇七年)
(2)「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分が今<なろう>としているものに最も《近い》ものであり、それによってこそ生成変化が達成されるのである。またその意味でこそ、生成変化は欲望のプロセスだといえるのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.234」河出文庫 二〇一〇年)
(3)「エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。英語の小説におけるエクリチュールに女性が台頭して以来、いかなる男性作家もこの問題に無関心ではいられなくなった。ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.242」河出文庫 二〇一〇年)
(4)「だからこそ、身体を<器官なき身体>に作り換え、身体の非有機性を推進する試みは、少女への生成変化や分子状女性の生産と不可分の関係をもつことにもなる。少女も、確かに器官的、モル的意味における女性になりはするだろう。しかし、逆の見方をすれば、女性への生成変化や分子状女性は少女そのものだとも考えられるのだ。処女性によって少女を規定することはできない。少女は、運動と静止の、速さと遅さの関係によって、また原子の結合や微粒子の放出によって規定されるのである。つまり<此性>である。少女は器官なき身体を駆けめぐる。少女は抽象線、あるいは逃走線なのだ。したがって少女たちは特定の年齢や性別に、あるいは特定の秩序や領界に帰属することがない。むしろあらゆる秩序や行為、あらゆる年齢や性別のはざまに滑り込むというべきだろう。こうして少女たちは、あらゆる二元的機械を自在に横切り、またこの機械との関係において、逃走線上にn個の分子状の性を産み出すのである。二元論を抜け出す唯一の方法は<あいだ>に身を置き、あいだを通り抜けてインテルメッツォに達するところに求められるわけだが、これはヴァージニア・ウルフが不断の生成変化に身をゆだねつつ、その全作品で死力をふりしぼって実践してみせたことにほかならない。少女とは、男性と女性、子供と大人など、二項的に対立するすべての項と同時に存在する、いわば生成変化のブロックである。少女が女性になるのではなく、女性への生成変化が普遍的な少女を作り出すのだ。子供が大人になるのではなく、子供への生成変化が普遍的な少年を作り出すのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.243~244」河出文庫 二〇一〇年)
受話器から「聞こえてくるさまざまな音」。アルベルチーヌの声だけではなくその周囲、「パリのどこかの通りを描き出してくれる飾り気はないが魅惑にみちた特徴」としての「さまざまな音」。それらは「本題とは無関係な、それ自体としては無用の細部でありながら明らかに奇跡の生じたことを示すにはどうしても必要な本物の細部」だという。この場面でなされるはずの会話の「本題」とは無関係だがアルベルチーヌから電話が入ったという「奇跡」の証明としては「本題」を大いに凌ぐ<諸断片>である。そしてまたそれら<諸断片>は「アルベルチーヌが『フェードル』を観た後わが家に来るのを妨げた知られざる夜」の時間、その間にアルベルチーヌは何をやっていたのか、決して可視化されない時間の経過を告げ知らせる「残酷な特徴」を構成する。
「私に聞こえてくるさまざまな音は、アルベルチーヌの耳にも届いてその注意力を妨げているはずで、その音は本題とは無関係な、それ自体としては無用の細部でありながら明らかに奇跡の生じたことを示すにはどうしても必要な本物の細部であり、パリのどこかの通りを描き出してくれる飾り気はないが魅惑にみちた特徴であり、アルベルチーヌが『フェードル』を観た後わが家に来るのを妨げた知られざる夜をかいま見させる残酷な特徴でもある」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.297」岩波文庫 二〇一五年)
なお、ジジェクから、十年ほどであれよという間に世界中に打ち広がり、乱発を重ねて遂に粛清へ転倒したMeToo運動について。アイスランドの国会議員が「女性の同僚および障害者の活動家」を侮蔑する発言が発覚し「辞職勧告を受けた」。それ自体は正当性が認められるとしても、MeToo運動の当初の主旨から遠く隔たっていった経過と、実際は誰を利することになったかという逆説について述べている。
「最近アイスランドの国会議員数人が、女性の同僚および障害者の活動家のことを酷い言葉で語っていた声が録音され、辞職勧告を受けた。それはバーでなされた会話であり、匿名の盗聴者が録音をアイスランド・メディアに送ったのである。ここで思い浮かぶ唯一の類似事例は、革命における粛清の残忍な迅速さであるーーーしかも実際、MeTooに共感をしめす多くの人がこの類比を引き合いにだし、そうした過剰さはラディカルな変化の最初の時期には妥当であると主張している。しかしわたしたちが拒否すべきなのはまさにこの類比そのものなのだ。そうした『過剰な』粛清は、革命の熱意が生きすぎたことを示すのではないーーーむしろ逆で、革命の方向性が変化しラディカルな鋭さを失ってしまったことを示している。MeTooとLGBT+、およびリベラルな反レイシズムが社会のなかでとっている支配的な形態は、権力と抑圧の実際の関係性を揺るがすことなしに、見世物的で表層的な変化を生み出す方法のモデルなのである。例えばNワード〔差別用語。黒人に対する侮蔑語のniggerなどを指す〕を使ったら、その使い方が明確にアイロニー含みだったとしてもクビになることがある。自分のことを『ze』や『they』〔性別を特定しない代名詞〕をつかって呼ぶよう求める人もいる。公共の場所には三つ以上の種類のトイレを作り、ジェンダー二分法に留保をつける。それは大企業が被害者との連帯を示しながら実際にはこれまでと変わらずにいることを可能にする楽園である」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.260~261」青土社 二〇二二年)
しかしなぜ「それは大企業が被害者との連帯を示しながら実際にはこれまでと変わらずにいることを可能にする楽園」を出現させるのか。もともとジジェクはドゥルーズを高く評価していたが、ドゥルーズがガタリとの共著を出版してから反ドゥルーズ=ガタリの立場に立った。とはいえ、「被害者との連帯を示しながら実際にはこれまでと変わらずにいる」ことを可能にする条件についてはドゥルーズ=ガタリによる次の文章が有効な説明たりえている。
「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.303~304」河出書房新社 一九八六年)
世界的に有名な幾つかの巨大多国籍企業は「古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている」。新しい公理を幾つか付け加えたところでもはや世界化した巨大多国籍企業のデジタルネットワークはびくともしない。
さらにジジェクは続ける。
「黒人女性のタラナ・バークは十年以上前にMeToo運動を始めた人物だが、最近の記事でこう述べている。この運動は国際的になって以降、一貫して加害者に執着するようになり、告発、有罪認定、無分別な狂騒の循環になってしまった。『わたしたちはMeTooの一般的な語られ方がいまの状態から変わるよう努めています。ジェンダー戦争だとか、反男性的だとか、女性対男性だとか、一部の人のためだけのものーーー白人、シスジェンダー、ヘテロセクシュアルの有名な女性のためだけのものだとか、そういう語られ方を変えないといけません』。要するにMeTooの焦点を、どうにかして何百万という一般労働者の女性や主婦の日常的な苦しみの方に向けなおすべきだというわけだ。これは絶対にできるーーー例えば韓国では、大勢の一般女性が性的搾取に抗議するデモをおこない、MeTooが急成長した。二つの『矛盾』ーーー性的搾取と経済的搾取ーーーのつながりを通じてしか、多数派を動かすことはできない。男をただ潜在的レイプ魔というイメージで語るのではなく、女性に対する暴力的な支配が、彼ら自身の経済的無力感の経験によって引き起こされていると気づかせなければならない。真にラディカルなMeTooは女性対男性の対立ではなく、同時に両者の連帯の展望を見せるものなのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.261~262」青土社 二〇二二年)
またどの政治政党であっても、今や大声で喚き立てるステレオタイプ(紋切型)な「平等な権利」について、マルクスは厳しく区別していた。
「《平等な》権利は、不平等な労働にとっての不平等な権利である。だれでも他の者と同じように労働者にすぎないのだから、この平等な権利はいかなる階級差別をも認めない。だがそれは労働者の不平等な個人的天分と、したがってまた不平等な給付能力を、生まれつきの特権として暗黙のうちに認めている。《だからそれは、すべての権利と同様に、内容においては不平等の権利である》。権利とはその性質上、同じ尺度を適用する場合にのみなりたちうる。ところが、不平等な諸個人(彼らが不平等でないとしたら、彼らはなにも相異なる個人ではないことになる)も同じ尺度をあてれば測れるのであるが、それはただ、彼らを同じ視点のもとに連れてきて、ある《特定の》一面からだけとらえるかぎりにおいてである」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.37」岩波文庫 一九七五年)
だから今ふたたび「真にラディカルなMeToo」へ、MeTooという名称は変更されるにせよ、立ち返らなければ、一度転倒してしまった事態を廃棄し「連帯の展望」へ引き継いでいくことはますます困難になるのだ。
BGM1
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「ゲルマント邸での夜会のあいだは三分たりとも想いうかべなかったアルベルチーヌに、今やこれほど激しい不安をおぼえる始末だ!しかも、以前ほかの娘たちにたいして、とりわけなかなかやって来なかったジルベルトにたいして覚えたじりじりと待つ焦燥感が呼び醒まされ、たんに肉体の快楽が得られないかもしれぬと考えるだけなのに、私には辛い精神的苦痛がひきおこされた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.291」岩波文庫 二〇一五年)
しかしなぜ自室でなく「控えの間(ま)」なのか。玄関でそわそわしながら待っている姿をまともに見られるのはアルベルチーヌに優越感を与えるばかりでしゃくにさわるという気持ちもあるのだが、それ以上に、<私>が待つとすれば「控えの間(ま)」でなくてはならない事情がプルーストにはあった。夜間の来客の場合、門衛が電気のボタンを押して階段を照らし出す仕組みになっていて、階段から電気の照明が漏れて映る「隙間」があった。<私>が見張っているのはその「隙間」である。そうすればアルベルチーヌが到着した時、<私>の側からはそれがわかるけれどもアルベルチーヌの側からは誰かが<監視>しているとはまるでわからない。同時にその構造はプルーストの三大テーマの一つ<覗き見>成立の条件である。
ところがいつまで待ってもアルベルチーヌは現れない。すると苦痛としてのアルベルチーヌの不在が<私>の内部にやおら「べつの場所」を出現させる。
「もっとも、あいかわらずやって来ないアルベルチーヌ本人と同じくらい私に辛い想いをさせていたのは、アルベルチーヌがこの瞬間、私の知らない場所をもとよりわが家よりも快適と考えて、そんな『べつの場所』にいることだった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.293」岩波文庫 二〇一五年)
そこで<私>は普段なら門衛所へ繋がれている電話線を切り換え受話器を部屋の中に置いた。他人が見たらこんな夜中にわざわざ何をやっているのか不審に思われることも構わずせっせと作業を終えて連絡を待った。身じろぎ一つせずにいるうち、ようやく呼び出し音が鳴った。<私>は心臓がばくばくするほどの焦燥感を悟られないようわざと無関心な口調を装って対応した。次のように。
「『来るのかい?』と私は無関心な口調で訊ねた。『でもーーーやめとくわ、どうしても来てほしいというのでなければ』。私の一部はすでにアルベルチーヌのなかにあり、その他の部分もこれに合流したがっていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.296」岩波文庫 二〇一五年)
プルーストは書いている。「私の一部はすでにアルベルチーヌのなかにあり、その他の部分もこれに合流したがっていた」と。どういうことか。ドゥルーズ=ガタリのいう「欲望のプロセス」としての「生成変化」が生じている。四箇所引用。
(1)「すべてのプロセスは生成変化であり、生成変化にたいする評価は、生成変化を終わらせる結果ではなく、現に生成変化が進行しているとき、その質はどうか、生成変化が示す継続の力能はどれほどのものか、ということによって決まってくる。たとえば、動物への生成変化や、非=主体的個体化がそうです」(ドゥルーズ「記号と事件・4・P.296」河出文庫 二〇〇七年)
(2)「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分が今<なろう>としているものに最も《近い》ものであり、それによってこそ生成変化が達成されるのである。またその意味でこそ、生成変化は欲望のプロセスだといえるのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.234」河出文庫 二〇一〇年)
(3)「エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。英語の小説におけるエクリチュールに女性が台頭して以来、いかなる男性作家もこの問題に無関心ではいられなくなった。ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.242」河出文庫 二〇一〇年)
(4)「だからこそ、身体を<器官なき身体>に作り換え、身体の非有機性を推進する試みは、少女への生成変化や分子状女性の生産と不可分の関係をもつことにもなる。少女も、確かに器官的、モル的意味における女性になりはするだろう。しかし、逆の見方をすれば、女性への生成変化や分子状女性は少女そのものだとも考えられるのだ。処女性によって少女を規定することはできない。少女は、運動と静止の、速さと遅さの関係によって、また原子の結合や微粒子の放出によって規定されるのである。つまり<此性>である。少女は器官なき身体を駆けめぐる。少女は抽象線、あるいは逃走線なのだ。したがって少女たちは特定の年齢や性別に、あるいは特定の秩序や領界に帰属することがない。むしろあらゆる秩序や行為、あらゆる年齢や性別のはざまに滑り込むというべきだろう。こうして少女たちは、あらゆる二元的機械を自在に横切り、またこの機械との関係において、逃走線上にn個の分子状の性を産み出すのである。二元論を抜け出す唯一の方法は<あいだ>に身を置き、あいだを通り抜けてインテルメッツォに達するところに求められるわけだが、これはヴァージニア・ウルフが不断の生成変化に身をゆだねつつ、その全作品で死力をふりしぼって実践してみせたことにほかならない。少女とは、男性と女性、子供と大人など、二項的に対立するすべての項と同時に存在する、いわば生成変化のブロックである。少女が女性になるのではなく、女性への生成変化が普遍的な少女を作り出すのだ。子供が大人になるのではなく、子供への生成変化が普遍的な少年を作り出すのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.243~244」河出文庫 二〇一〇年)
受話器から「聞こえてくるさまざまな音」。アルベルチーヌの声だけではなくその周囲、「パリのどこかの通りを描き出してくれる飾り気はないが魅惑にみちた特徴」としての「さまざまな音」。それらは「本題とは無関係な、それ自体としては無用の細部でありながら明らかに奇跡の生じたことを示すにはどうしても必要な本物の細部」だという。この場面でなされるはずの会話の「本題」とは無関係だがアルベルチーヌから電話が入ったという「奇跡」の証明としては「本題」を大いに凌ぐ<諸断片>である。そしてまたそれら<諸断片>は「アルベルチーヌが『フェードル』を観た後わが家に来るのを妨げた知られざる夜」の時間、その間にアルベルチーヌは何をやっていたのか、決して可視化されない時間の経過を告げ知らせる「残酷な特徴」を構成する。
「私に聞こえてくるさまざまな音は、アルベルチーヌの耳にも届いてその注意力を妨げているはずで、その音は本題とは無関係な、それ自体としては無用の細部でありながら明らかに奇跡の生じたことを示すにはどうしても必要な本物の細部であり、パリのどこかの通りを描き出してくれる飾り気はないが魅惑にみちた特徴であり、アルベルチーヌが『フェードル』を観た後わが家に来るのを妨げた知られざる夜をかいま見させる残酷な特徴でもある」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.297」岩波文庫 二〇一五年)
なお、ジジェクから、十年ほどであれよという間に世界中に打ち広がり、乱発を重ねて遂に粛清へ転倒したMeToo運動について。アイスランドの国会議員が「女性の同僚および障害者の活動家」を侮蔑する発言が発覚し「辞職勧告を受けた」。それ自体は正当性が認められるとしても、MeToo運動の当初の主旨から遠く隔たっていった経過と、実際は誰を利することになったかという逆説について述べている。
「最近アイスランドの国会議員数人が、女性の同僚および障害者の活動家のことを酷い言葉で語っていた声が録音され、辞職勧告を受けた。それはバーでなされた会話であり、匿名の盗聴者が録音をアイスランド・メディアに送ったのである。ここで思い浮かぶ唯一の類似事例は、革命における粛清の残忍な迅速さであるーーーしかも実際、MeTooに共感をしめす多くの人がこの類比を引き合いにだし、そうした過剰さはラディカルな変化の最初の時期には妥当であると主張している。しかしわたしたちが拒否すべきなのはまさにこの類比そのものなのだ。そうした『過剰な』粛清は、革命の熱意が生きすぎたことを示すのではないーーーむしろ逆で、革命の方向性が変化しラディカルな鋭さを失ってしまったことを示している。MeTooとLGBT+、およびリベラルな反レイシズムが社会のなかでとっている支配的な形態は、権力と抑圧の実際の関係性を揺るがすことなしに、見世物的で表層的な変化を生み出す方法のモデルなのである。例えばNワード〔差別用語。黒人に対する侮蔑語のniggerなどを指す〕を使ったら、その使い方が明確にアイロニー含みだったとしてもクビになることがある。自分のことを『ze』や『they』〔性別を特定しない代名詞〕をつかって呼ぶよう求める人もいる。公共の場所には三つ以上の種類のトイレを作り、ジェンダー二分法に留保をつける。それは大企業が被害者との連帯を示しながら実際にはこれまでと変わらずにいることを可能にする楽園である」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.260~261」青土社 二〇二二年)
しかしなぜ「それは大企業が被害者との連帯を示しながら実際にはこれまでと変わらずにいることを可能にする楽園」を出現させるのか。もともとジジェクはドゥルーズを高く評価していたが、ドゥルーズがガタリとの共著を出版してから反ドゥルーズ=ガタリの立場に立った。とはいえ、「被害者との連帯を示しながら実際にはこれまでと変わらずにいる」ことを可能にする条件についてはドゥルーズ=ガタリによる次の文章が有効な説明たりえている。
「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.303~304」河出書房新社 一九八六年)
世界的に有名な幾つかの巨大多国籍企業は「古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている」。新しい公理を幾つか付け加えたところでもはや世界化した巨大多国籍企業のデジタルネットワークはびくともしない。
さらにジジェクは続ける。
「黒人女性のタラナ・バークは十年以上前にMeToo運動を始めた人物だが、最近の記事でこう述べている。この運動は国際的になって以降、一貫して加害者に執着するようになり、告発、有罪認定、無分別な狂騒の循環になってしまった。『わたしたちはMeTooの一般的な語られ方がいまの状態から変わるよう努めています。ジェンダー戦争だとか、反男性的だとか、女性対男性だとか、一部の人のためだけのものーーー白人、シスジェンダー、ヘテロセクシュアルの有名な女性のためだけのものだとか、そういう語られ方を変えないといけません』。要するにMeTooの焦点を、どうにかして何百万という一般労働者の女性や主婦の日常的な苦しみの方に向けなおすべきだというわけだ。これは絶対にできるーーー例えば韓国では、大勢の一般女性が性的搾取に抗議するデモをおこない、MeTooが急成長した。二つの『矛盾』ーーー性的搾取と経済的搾取ーーーのつながりを通じてしか、多数派を動かすことはできない。男をただ潜在的レイプ魔というイメージで語るのではなく、女性に対する暴力的な支配が、彼ら自身の経済的無力感の経験によって引き起こされていると気づかせなければならない。真にラディカルなMeTooは女性対男性の対立ではなく、同時に両者の連帯の展望を見せるものなのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.261~262」青土社 二〇二二年)
またどの政治政党であっても、今や大声で喚き立てるステレオタイプ(紋切型)な「平等な権利」について、マルクスは厳しく区別していた。
「《平等な》権利は、不平等な労働にとっての不平等な権利である。だれでも他の者と同じように労働者にすぎないのだから、この平等な権利はいかなる階級差別をも認めない。だがそれは労働者の不平等な個人的天分と、したがってまた不平等な給付能力を、生まれつきの特権として暗黙のうちに認めている。《だからそれは、すべての権利と同様に、内容においては不平等の権利である》。権利とはその性質上、同じ尺度を適用する場合にのみなりたちうる。ところが、不平等な諸個人(彼らが不平等でないとしたら、彼らはなにも相異なる個人ではないことになる)も同じ尺度をあてれば測れるのであるが、それはただ、彼らを同じ視点のもとに連れてきて、ある《特定の》一面からだけとらえるかぎりにおいてである」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.37」岩波文庫 一九七五年)
だから今ふたたび「真にラディカルなMeToo」へ、MeTooという名称は変更されるにせよ、立ち返らなければ、一度転倒してしまった事態を廃棄し「連帯の展望」へ引き継いでいくことはますます困難になるのだ。
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