アルベルチーヌはすでに数日前からバルベックに到着していた。ところが<私>の側は突如として不可避的に訪れた祖母に関する「喪の作業」に集中することを余儀なくされたため、アルベルチーヌとの再会を先延ばしにしていた。祖母は一年も前に死んでいるわけだがその死が「実感」として自分に襲いかかった時、しばしば人間は途轍もない罪の意識に彩られた苦痛で一杯になる。通例、或る程度の時間をかけてこの苦痛と向き合うことで人々はそれぞれ、死者は死者、それに伴う苦痛は苦痛、として受け止め、さらに苦痛と折り合いをつけることで苦痛を消化し、ようやく「喪の作業」を終える。
しかし身近な人の死から一年以上、時には(結婚・独立や失業をきっかけとして)十年以上も経って突然「実感」として重くのしかかるような場合、事実として理論的にはもはや死んでいる故人に対する正確な認識が大きく動揺するケースがある。すると「実感」と「事実としての正確な理論」とが激しく対立し合い、どちらとも決着のつかない無限の悪循環を起こすことが稀にある。このような矛盾対立があまりに長く引き続くような場合、「喪の作業」どころか結果的に「鬱病・統合失調症」の発病へ繋がることが少なくない。「喪の作業」自体が「うつ状態」を呈することはしばしばあるが、「うつ状態」と「うつ病」との区別はあくまで精神科領域の専門家の役割であって、自分だけで短絡的に判断しないことが大切である。
それはそれとして<私>の場合、「喪の作業」は多少ぎくしゃくした過程を経ながらも、しばらくして終えることができた。すると「喪の作業」終了と相前後する形でアルベルチーヌに会いたい気持ちが湧き起こってきた。
「大海原を背景に浮かびあがるその娘たちは、バルベックとは切り離しえない魅力として、バルベック特有の植物相(フローラ)として私の想い出のなかに残っていたのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.402」岩波文庫 二〇一五年)
ここでアルベルチーヌを始めとする一団の女性たちについてプルーストが「植物相(フローラ)」と喩えている点は注目に値する。これまで上流社交界で交わされる会話の中で何度かバルザックが引用されていたが、バルザック作品はなぜか社交界の中では「動物的」なイメージで語られていた。そんなバルザックにあった動物性は、プルースト文学に至って植物性へ置き換えられたと言える。ドゥルーズ=ガタリがプルーストについていう「横断性・リゾーム・植物」のテーマはそこから出てくる。
(1)「分裂者分析の偉大なる試みとして、『失われた時を求めて』を取りあげることにしたい。すべての局面は、分子的な逃走〔洩出〕線⦅つまり、分裂症的な突破口⦆にまで通じている。だから、接吻においてもそうだ。そこでは、アルベルチーヌの顔は、ひとつの構成局面から別の構成局面に飛躍して、ついには、種々の分子の星雲の中に解体してゆくのだ。読者自身は、ある局面に立ち止り、そこで、<そうだ、プルーストが自分の立場を説明しているのは、ここなのだ>と語る危険にたえずさらされているわけなのだ。ところが、蜘蛛である話者は、自分の形成した蜘蛛の巣や局面をみずから解体しては再び旅行に立ち帰って、種々の機械として働く記号や指標をさぐり求めることをやめないのである。こうした記号や指標は、この蜘蛛である話者をさらに遠くへと進ませるものにほかならない。この運動そのものは、ユーモアである。ブラック・ユーモアである。オイディプスの神経症的な家庭の大地。ここは、全体として人間の姿態をとった人物の種々の接続が確立されている場所である。ああ、だが話者はここには定着しない。ここには立ち止らないのだ。ここを横断し、ここを冒瀆し、ここを突破して、靴の紐を締める機械で自分の祖母をさえ片づけて始末してしまうのだ。同性愛の倒錯した大地。ここは、女性と女性、男性と男性との排他択一的離接が確立されている場所である。この大地も同様に、この大地に坑道を掘る種々の機械的指標の働きに応じて瓦解してゆく。自分自身の連接の働きをその場に具えている精神病的な大地。(だから、シャルリュスは確実に気が狂っている。だから、恐らく、アルベルチーヌもそうだったのだ。)この大地は、こんどは、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦅つまり、そのままの事態で、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦆道が真直ぐに通じている。話者は、《未知の国、未知の大地》に至るまで、かれ自身の仕事をなし続けるというわけなのだ。この未知の大地は、進行中のかれ自身の作品⦅つまり『《進行中の》』『《失われた時を求めて》』⦆によってのみ創造されるものなのである。進行中のかれ自身の作品は、一切の指標を採集して処理することのできる欲望する機械として作用するからである。話者は、こうした新しい領域に進んでゆくのである。この領域においては、接続の働きは常に部分的であって、まとまった姿態をなす人物にかかわることがない。連接の働きは流浪的で多義的である。離接の働きは包含的で、ここでは同性愛と異性愛とを区別する《可能性》さえ閉じられている。ここは、横断的な種々のコミュニケイションの世界であり、ここにおいては、最後に獲得された非人間的な性が、種々の花々と一体をなしているのだ。ここは、欲望がその分子的な要素と流れとに従って作動している新しい大地なのである。ここでの旅行は、必ずしも外延的に広い範囲にわたる運動を意味してはいない。それは、ひとつの部屋の中で、器官なき身体の上で、動かないままなされるのだ。それは、自分が創造する大地のために、ほかの一切の大地を破壊する強度〔内包〕の旅なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第四章・P.378~379」河出書房新社 一九八六年)
(2)「植物たちの智慧ーーーたとえ根をそなえたものであっても、植物には外というものがあり、そこで何かとともにーーー風や、動物や、人間とともにリゾームになる(そしてまた動物たち自身が、さらには人間たちが、リゾームになる局面というものもある)。『われわれの中に植物が圧倒的に侵入するときの陶酔』。そしてつねに切断しながらリゾームを追うこと、逃走線を伸ばし、延長し、中継すること、それをさまざまに変化させること、n次元をそなえ、方法の折れ曲がった、およそ最も抽象的で最もねじれた線を生みだすに至るまで。脱領土化された流れを結び合わせること。植物たちについていくこと」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.31~32」河出文庫 二〇一〇年)
ところで<私>を突然襲った「喪の作業」を描いた「心の間歇」の章は「未曾有の豪華絢爛たる花盛り」を見ながらつつがなく終わる。一方、一年前の祖母の死の場面ではやや唐突に次のセンテンスが差し挟まれていた。顔を覆った両手の隙間から<私>をじっと覗き見る一人の「修道士」の姿だ。
「祖母の義兄弟のひとりに修道士がいて、私には面識のない人だったが、所属する修道会の責任者のいるオーストリアにまで電報を打って特別の計らいで許可を得たからと、その日やってきた。その人は悲しみに打ちひしがれ、ベッドのそばでさまざまな祈禱と瞑想の書を読みあげたが、そのあいだも刺すような鋭い目をいときも病人から離そうとしない。祖母の意識がなくなったとき、この祈る人が悲しむすがたに胸が痛んだ私は、その人をじっと見つめた。相手はそんな私の憐憫に驚いたふうであったが、そのとき奇妙なことがおこった。相手は、辛い想いに沈潜する人のように合掌して顔を覆ったが、私が今にも自分から目をそらすのを見てとると、合わせた両手の指のあいだにわずかの隙間をつくった。そして、私のまなざしが相手から離れようとした瞬間、私は、相手の鋭い目が、両手の影に隠れて、私の悲嘆が真摯なものかどうかを見極めようとしているのに気づいた。まるで告解室の影に隠れるように、そこに潜んでいたのだ。相手は私が見ているのに気づくと、すぐさま、すこしだけ開けていた指の格子窓をぴたりと閉じてしまった。私はのちにこの修道士に再会したが、ふたりのあいだでこの一刻のことが話題になったことは一度もない。修道士が私をのぞき見していたことに私は気づかなかったという暗黙の合意ができていたのである」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.365~366」岩波文庫 二〇一三年)
<私>とひとりの修道士との間で瞬時に形成された「暗黙の合意」。その修道士が持つ男性同性愛嗜好について述べられているのは明らかだが、ただ単に<覗き>のテーマだけが出現しているわけではなく、それが祖母の死という厳粛でプルースト自身かなりのスペースを用いて描いた場面のただなかに、なおかつあらわに置かれている点で<暴露>と<冒瀆>のテーマを合わせてプルーストの三大テーマが出揃っていたことを思い出させる。
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しかし身近な人の死から一年以上、時には(結婚・独立や失業をきっかけとして)十年以上も経って突然「実感」として重くのしかかるような場合、事実として理論的にはもはや死んでいる故人に対する正確な認識が大きく動揺するケースがある。すると「実感」と「事実としての正確な理論」とが激しく対立し合い、どちらとも決着のつかない無限の悪循環を起こすことが稀にある。このような矛盾対立があまりに長く引き続くような場合、「喪の作業」どころか結果的に「鬱病・統合失調症」の発病へ繋がることが少なくない。「喪の作業」自体が「うつ状態」を呈することはしばしばあるが、「うつ状態」と「うつ病」との区別はあくまで精神科領域の専門家の役割であって、自分だけで短絡的に判断しないことが大切である。
それはそれとして<私>の場合、「喪の作業」は多少ぎくしゃくした過程を経ながらも、しばらくして終えることができた。すると「喪の作業」終了と相前後する形でアルベルチーヌに会いたい気持ちが湧き起こってきた。
「大海原を背景に浮かびあがるその娘たちは、バルベックとは切り離しえない魅力として、バルベック特有の植物相(フローラ)として私の想い出のなかに残っていたのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.402」岩波文庫 二〇一五年)
ここでアルベルチーヌを始めとする一団の女性たちについてプルーストが「植物相(フローラ)」と喩えている点は注目に値する。これまで上流社交界で交わされる会話の中で何度かバルザックが引用されていたが、バルザック作品はなぜか社交界の中では「動物的」なイメージで語られていた。そんなバルザックにあった動物性は、プルースト文学に至って植物性へ置き換えられたと言える。ドゥルーズ=ガタリがプルーストについていう「横断性・リゾーム・植物」のテーマはそこから出てくる。
(1)「分裂者分析の偉大なる試みとして、『失われた時を求めて』を取りあげることにしたい。すべての局面は、分子的な逃走〔洩出〕線⦅つまり、分裂症的な突破口⦆にまで通じている。だから、接吻においてもそうだ。そこでは、アルベルチーヌの顔は、ひとつの構成局面から別の構成局面に飛躍して、ついには、種々の分子の星雲の中に解体してゆくのだ。読者自身は、ある局面に立ち止り、そこで、<そうだ、プルーストが自分の立場を説明しているのは、ここなのだ>と語る危険にたえずさらされているわけなのだ。ところが、蜘蛛である話者は、自分の形成した蜘蛛の巣や局面をみずから解体しては再び旅行に立ち帰って、種々の機械として働く記号や指標をさぐり求めることをやめないのである。こうした記号や指標は、この蜘蛛である話者をさらに遠くへと進ませるものにほかならない。この運動そのものは、ユーモアである。ブラック・ユーモアである。オイディプスの神経症的な家庭の大地。ここは、全体として人間の姿態をとった人物の種々の接続が確立されている場所である。ああ、だが話者はここには定着しない。ここには立ち止らないのだ。ここを横断し、ここを冒瀆し、ここを突破して、靴の紐を締める機械で自分の祖母をさえ片づけて始末してしまうのだ。同性愛の倒錯した大地。ここは、女性と女性、男性と男性との排他択一的離接が確立されている場所である。この大地も同様に、この大地に坑道を掘る種々の機械的指標の働きに応じて瓦解してゆく。自分自身の連接の働きをその場に具えている精神病的な大地。(だから、シャルリュスは確実に気が狂っている。だから、恐らく、アルベルチーヌもそうだったのだ。)この大地は、こんどは、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦅つまり、そのままの事態で、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦆道が真直ぐに通じている。話者は、《未知の国、未知の大地》に至るまで、かれ自身の仕事をなし続けるというわけなのだ。この未知の大地は、進行中のかれ自身の作品⦅つまり『《進行中の》』『《失われた時を求めて》』⦆によってのみ創造されるものなのである。進行中のかれ自身の作品は、一切の指標を採集して処理することのできる欲望する機械として作用するからである。話者は、こうした新しい領域に進んでゆくのである。この領域においては、接続の働きは常に部分的であって、まとまった姿態をなす人物にかかわることがない。連接の働きは流浪的で多義的である。離接の働きは包含的で、ここでは同性愛と異性愛とを区別する《可能性》さえ閉じられている。ここは、横断的な種々のコミュニケイションの世界であり、ここにおいては、最後に獲得された非人間的な性が、種々の花々と一体をなしているのだ。ここは、欲望がその分子的な要素と流れとに従って作動している新しい大地なのである。ここでの旅行は、必ずしも外延的に広い範囲にわたる運動を意味してはいない。それは、ひとつの部屋の中で、器官なき身体の上で、動かないままなされるのだ。それは、自分が創造する大地のために、ほかの一切の大地を破壊する強度〔内包〕の旅なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第四章・P.378~379」河出書房新社 一九八六年)
(2)「植物たちの智慧ーーーたとえ根をそなえたものであっても、植物には外というものがあり、そこで何かとともにーーー風や、動物や、人間とともにリゾームになる(そしてまた動物たち自身が、さらには人間たちが、リゾームになる局面というものもある)。『われわれの中に植物が圧倒的に侵入するときの陶酔』。そしてつねに切断しながらリゾームを追うこと、逃走線を伸ばし、延長し、中継すること、それをさまざまに変化させること、n次元をそなえ、方法の折れ曲がった、およそ最も抽象的で最もねじれた線を生みだすに至るまで。脱領土化された流れを結び合わせること。植物たちについていくこと」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.31~32」河出文庫 二〇一〇年)
ところで<私>を突然襲った「喪の作業」を描いた「心の間歇」の章は「未曾有の豪華絢爛たる花盛り」を見ながらつつがなく終わる。一方、一年前の祖母の死の場面ではやや唐突に次のセンテンスが差し挟まれていた。顔を覆った両手の隙間から<私>をじっと覗き見る一人の「修道士」の姿だ。
「祖母の義兄弟のひとりに修道士がいて、私には面識のない人だったが、所属する修道会の責任者のいるオーストリアにまで電報を打って特別の計らいで許可を得たからと、その日やってきた。その人は悲しみに打ちひしがれ、ベッドのそばでさまざまな祈禱と瞑想の書を読みあげたが、そのあいだも刺すような鋭い目をいときも病人から離そうとしない。祖母の意識がなくなったとき、この祈る人が悲しむすがたに胸が痛んだ私は、その人をじっと見つめた。相手はそんな私の憐憫に驚いたふうであったが、そのとき奇妙なことがおこった。相手は、辛い想いに沈潜する人のように合掌して顔を覆ったが、私が今にも自分から目をそらすのを見てとると、合わせた両手の指のあいだにわずかの隙間をつくった。そして、私のまなざしが相手から離れようとした瞬間、私は、相手の鋭い目が、両手の影に隠れて、私の悲嘆が真摯なものかどうかを見極めようとしているのに気づいた。まるで告解室の影に隠れるように、そこに潜んでいたのだ。相手は私が見ているのに気づくと、すぐさま、すこしだけ開けていた指の格子窓をぴたりと閉じてしまった。私はのちにこの修道士に再会したが、ふたりのあいだでこの一刻のことが話題になったことは一度もない。修道士が私をのぞき見していたことに私は気づかなかったという暗黙の合意ができていたのである」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.365~366」岩波文庫 二〇一三年)
<私>とひとりの修道士との間で瞬時に形成された「暗黙の合意」。その修道士が持つ男性同性愛嗜好について述べられているのは明らかだが、ただ単に<覗き>のテーマだけが出現しているわけではなく、それが祖母の死という厳粛でプルースト自身かなりのスペースを用いて描いた場面のただなかに、なおかつあらわに置かれている点で<暴露>と<冒瀆>のテーマを合わせてプルーストの三大テーマが出揃っていたことを思い出させる。
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