白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<詩人>としての<私>の生産/アンティゴネー的態度の再評価

2022年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
二度目のバルベック滞在だが<私>には最初と比べてすっかり変わったところがある。<習慣・因習>に捉われない態度を身につけていたことだ。

「あるいはなによりも、かつて意図的に遠ざけていたさまざまな要素に留意するようエルスチールから教えられた私の目が、最初の年には見るすべも知らずにいたものを長々とうち眺めることができたからかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.410」岩波文庫 二〇一五年)

次の文章。見ているのは最初と同じ「大海原」には違いない。ところが見えている光景はこんなふうにまるで違っている。

「めったにない快晴の日には、灼熱のせいで、大海原のうえに野原を突っきるように一本の白く埃っぽい街道がつくられ、その背後には、漁船の細長い舳先(へさき)がまるで村の鐘塔のようにとび出している。煙突しか見えぬ曳(ひ)き船がはるかかなたで煙を吐いているのは、まるで人里離れて建つ工場に見える一方、水平線上にぽつんと白いものが四角に膨らんでいるのはたしかに帆の描く形ではあるが、にもかかわらず中味のつまった石灰岩のように見えて、一軒だけ離れて建つ病院や学校の一角が陽光に照らし出されたかと想わせる。そして太陽のほかに雲や風も出ている日には、その雲や風が、判断の誤りに輪をかけるとまでは言わないにしても、少なくとも最初にちらっと見たときの錯覚、つまりその一瞥によって想像力が思い描いたものを完成させてしまう。というのも、色彩の違いの際立つ空間が交互にあらわれると、まるで異なる作物の畑がとなり合う野原のように見え、海面が逆立ち、でこぼこして、まるで泥のように黄色くなると、堤防や土手の背後に隠れて見えない小舟のうえで身軽に動きまわる水夫たちが刈り入れをする農夫に見え、これらすべての重なる荒れ模様の日々には、大海原がなにやら多彩で、堅固な、起伏に富んだ、多くの人の住まう土地になり、私がかつて散策に出かけ今後もやがて散歩のできそうな、馬車の通行できる文明の開化した土地になってしまう」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.410~411」岩波文庫 二〇一五年)

海と陸とが少なくとも二重化されて映って見える。言い換えれば、海と陸とを変幻自在に流通させて見せる。<私>はその時始めて、ただ単なるロマン主義者ではない、<詩人>としての目を獲得したと言える。画家のエルスチールが孤独だったように、音楽家のヴァントゥイユが孤独だったように、<私>もまた孤独と引き換えにではあるが。

そしてまた、海と陸とを区別してしか見ることができなかったのは(1)の頃に当たる。「メゼグリーズのほうだけ」か「ゲルマントのほうだけ」かという「交流のない閉ざされた器」を作っていたのは実は<私>自身だった。

(1)「このような区別がいっそう揺るぎない絶対のものになったのは、一日の一度の散歩でけっしてふたつの方向に出かけることがなく、あるときはメゼグリーズのほうだけに出かけ、あるときはゲルマントのほうだけに出かけるのが習慣になっていたからである。ふたつの方向はたがいに遠く隔てられ、相手を知らないまま、相異なる午後のたがいに交流のない閉ざされた器のなかに封じこめられたも同然だった」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.298」岩波文庫 二〇一〇年)

ところが(2)では両者を交流させる横断線が幾つも出来上がっている。

(2)「私があれほど何度も散歩したり夢見たりしたふたつの大きな『方向』ーーー父親のロベール・ド・サン=ルーを通じてゲルマントのほうと、母親のジルベルトを通じてメゼグリーズのほうとも呼ばれる『スワン家のほう』ーーーである。一方の道は、娘の母親とシャンゼリゼを通して、私をスワンへ、コンブレーですごした夜へ、メゼグリーズのほうへと導いてくれる。もう一方の道は、娘の父親を通じて、陽光のふりそそぐ海辺で私がその父親に会ったことが想いうかぶバルベックの午後へと導いてくれる。このふたつの道と交差する横道も、すでに何本も想いうかぶ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.260~261」岩波文庫 二〇一九年)

メゼグリーズのほうとゲルマントのほうとが共鳴・共振し合うのは(1)と(2)との間においてなのだ。

さて、ジジェクから。昨今「わたしたちは設定された制限を超えてどこまでも自由に人生を楽しんでよく、そうするよう求められてさえいる」だけでなく「しかしこの自由の実体は(政治的に正しい)統制の新たなネットワークであり、この統制は多くの点でかつての家父長制による統制よりもはるかに厳格なものである」。とあるように見た目の自由さがかつての「家父長制による統制よりもはるかに厳格」な理由は、右派政党にしろ左派政党にしろ、剥き出しの家父長制よりもデジタルネットワークを用いた場合、管理・監視・排除するに当たってずっとマイルドかつ有効に機能することに気づいているからである。ジジェクは「ジレットの有名な広告」に仕組まれたマイルドかつ有効な、そしておそらく多くの有権者には気づかれずこっそり行われる「排除(厄介払い)の構造」を見てとる。

「今日の寛大な快楽主義の基本原則を思いだそう。わたしたちは設定された制限を超えてどこまでも自由に人生を楽しんでよく、そうするよう求められてさえいる。しかしこの自由の実体は(政治的に正しい)統制の新たなネットワークであり、この統制は多くの点でかつての家父長制による統制よりもはるかに厳格なものである。どういうことか。男を非暴力的で善良にというジレットの有名な広告への共感を表明する声のなかに、あの広告は男性を批判するものではなく、男性性の有害な過剰さのみを批判するものなのだという意見をよく耳にしたーーー要するにあの広告はただ、粗暴な男性性という汚水を捨てさえすればいいと言っているだけだというわけだ。しかし、『有害な男性性』の特徴だとされている要素の一覧ーーー感情を押し殺し苦痛を覆い隠す、助けをもとめたがらない、自分を傷つける危険を冒してでもリスクを取りたがる傾向ーーーをよく見てみるとすぐに、この一覧の何がそれほど『男性性』特有のものなのかという疑問が浮かぶ。これはむしろある困難な状況での勇気ある行動にこそ当てはまるのではないか。その困難な状況とは、正しいことをするために、自分が傷を負うことになったとしても、感情を押し殺したり、助けに頼れずリスクをとって行動したりしなければならないような状況だ。わたしは困難な状況において環境の圧力に屈せずこのように行動する多くの女性をーーー実際のところ男性よりも女性の方が多いーーー知っている。誰もが知っている例を出そう。アンティゴネーがポリュネイケースを埋葬しようと決めたとき、彼女はまさに『有害な男性性』の基本特徴に合致する行動をとったのではないのか。アンティゴネーはまちがいなく感情を押し殺し苦痛を覆い隠し、助けを求めようとはせず、自分を傷つける恐れの大きいリスクをとった。アンティゴネーの行動もある意味では『女性的』だと規定できる以上、それは単一の特徴や態度というよりもむしろ(歴史的に条件づけられる)『女性性』を規定する対立的な二要素のうちの一方ととらえるべきだ。アンティゴネーの場合、その対を規定するのは簡単である。それはアンティゴネーと、一般的とされる人物像(気遣いができ、物分かりがよく、衝突を好まないーーー)にはるかに近い妹イスメーネーとの対比である。どう考えても、政治的正しさに画一的に順応するわれわれの時代はイスメーネーの時代であり、そこではアンティゴネーの態度は脅威となるのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.274~275」青土社 二〇二二年)

ジジェクはいう。「しかし、『有害な男性性』の特徴だとされている要素の一覧ーーー感情を押し殺し苦痛を覆い隠す、助けをもとめたがらない、自分を傷つける危険を冒してでもリスクを取りたがる傾向ーーーをよく見てみるとすぐに、この一覧の何がそれほど『男性性』特有のものなのかという疑問が浮かぶ。これはむしろある困難な状況での勇気ある行動にこそ当てはまるのではないか。その困難な状況とは、正しいことをするために、自分が傷を負うことになったとしても、感情を押し殺したり、助けに頼れずリスクをとって行動したりしなければならないような状況だ」。そして「わたしは困難な状況において環境の圧力に屈せずこのように行動する多くの女性をーーー実際のところ男性よりも女性の方が多いーーー知っている」と。

「有名な広告」一つで印象づけられた「有害な男性性」の特徴。しかしそれがなぜそんなにも「有害」なのかとジジェクは問う。「感情を押し殺し苦痛を覆い隠す、助けをもとめたがらない、自分を傷つける危険を冒してでもリスクを取りたがる傾向」。だが情けないことに、その正反対に位置する政治家が二〇二〇年東京五輪組織委員会会長に就いたことをすべての日本人は知っている。「感情を押し殺さず丸出しにし、苦痛を他人の責任に転嫁し、助けが来るものと信じて疑わず、自分は傷つかず危険ばかり冒してリスクを全体に分かち与える傾向」。ジジェクのいう「困難な状況において環境の圧力に屈せずこのように行動する多くの女性」の象徴として挙げるアンティゴネーとはまるで別次元の人間。しかしジジェクはそんな余りにも下劣な政治家のエピソードについて語っているわけではない。「アンティゴネーがポリュネイケースを埋葬しようと決めたとき、彼女はまさに『有害な男性性』の基本特徴に合致する行動をとったのではないのか」と問うのである。ジジェクがいうのは「態度としてのアンティゴネー」であり、右派政党にも左派政党にも見られる傾向としてアンティゴネー的態度を取る政治家や政治党派が出てくるたびに右派(タカ派含む)も左派(中道派含む)もよってたかってスクラム(連立共闘)を組んで排除してきたではないかと。差別的に用いられる「女々(めめ)しい」という意味では、右派(タカ派含む)も左派(中道派含む)もちっとも変わらないのではないかと。

ジジェクがラディカルな批評家として世界的に有名で人気もあり影響力を持つのはそういう態度、ジジェク自身がアンティゴネー的だからだ。さらに、次の文章にある「徹底した出世第一主義(キャリアイズム)」という言葉に注目しよう。

「『有害な男性性』は、悪趣味なジョークひとつでキャリアが終わってしまうような、新しい政治的に正しい空気のなかで葬り去られたが、徹底した出世第一主義(キャリアイズム)は正常だと思われている。隠微な腐敗した新しい世界がこうして出現しつつあり、そこでは出世御都合主義と同僚を極力非難しないことが高潔な道徳実践とされるのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.275」青土社 二〇二二年)

今の日本で盛んに問題視されている政治政党と統一教会との深過ぎる関係。もう何十年にも及んできたただならぬ関係ゆえ、「知りませんでした」とか「調査中」とか、そういうしかないのだろうとつくづく思う。ところが現時点の内閣の有り様をじっと見つめている次の世代のエリート官僚たちはそこから学んでいるということを、マスコミの大々的報道はともすれば忘れさせてしまう効果がある。有力政治政党の有力政治家たちが犯した大失敗。次世代のエリート官僚たちは馬鹿な先輩たちの致命傷を横目に、より一層狡猾に立ち振る舞う技術を身につけるのだ。現在、各方面から浴びせられている批判の矢面に立っている政治家らの陳腐で文脈破綻した無責任な言動についてはドゥルーズ=ガタリがとっくの昔に分析しておいた。

「資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.294~295」河出書房新社 一九八六年)

ではどうすればいいのか。ニーチェから。

「新しい諸価値を立てる権利をみずからのために獲得することーーーこれは重荷に堪える敬虔(けいけん)な精神にとっては、身の毛のよだつ行為である。まことに、それはかれにとっては強奪であり、強奪を常とする猛獣の行なうことである。

精神はかつて、『汝なすべし』を、自分の奉ずる最も神聖なものとして愛していた。いまかれはこの最も神聖なもののなかにも、迷妄(めいもう)と恣意(しい)を見いださざるをえない。そして自分が愛していたものからの自由を強奪しなければならない。この強奪のために獅子を必要とするのだ。

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。小児は無垢(むく)である。忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、『然(しか)り』という聖なる発語である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・三様の変化・P.39」中公文庫 一九七三年)

ニーチェのいう「獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるもの」。簡単なことだ。「王様は裸だ」。そういえる成熟した<おとな>になることにほかならない。

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