白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<幽閉・監禁・監視>へ接近する<私>/左翼反省会・「どっちもひどい!」

2022年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>の部屋を訪問すると約束したアルベルチーヌは大幅に遅刻した。なぜ大幅遅刻なのか。アルベルチーヌはその理由を<フェードル>観劇「なんかに行かなければよかったわ、こんな面倒なことになるってわかっていたら」という。しかし<フェードル>観劇を勧めたのはもとより<私>だ。それが終わる時間は明確にわかっている。にもかかわらずなぜこんなにも大幅遅刻なのか。<私>が求めているのは遅刻の理由であって<フェードル>観劇それ自体ではまるでない。アルベルチーヌは話の論点をずらして明らかに嘘を付いている。「あることで過ちを犯しておきながら、べつのことで咎められたと信じるふりをするあらゆる人間と同じだった」というふうに。

「『承知しましたとは言ったけど、なにを承知したのかよく憶えてなかったの。でも、あなた怒ってるのね、困ったわ。<フェードル>なんかに行かなければよかったわ、こんな面倒なことになるってわかっていたらーーー』と言い添えたアルベルチーヌは、あることで過ちを犯しておきながら、べつのことで咎められたと信じるふりをするあらゆる人間と同じだった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.298」岩波文庫 二〇一五年)

噛み合わない会話を続けているうちにふと、幼少期の頃コンブレーで感じた母親の思い出が浮上してきた。「私はコンブレーで、ひとりの人を狂おしく追いもとめる欲求を母を通じて学んだ経験があり、それは母から二階にはあがって来られないとフランソワーズの口づてで告げられたら死ぬしかないとまで思いつめた欲求」だ。直接欲求を満たすことを阻止する阻害要素を含んだ「古い感情」が、今度は、決して噛み合わないという阻害要素を含んだ「はるかに新しいもうひとつの感情と結びついて一体化し、ただひとつの要素になろうとしていた」。新しいもうひとつの感情は「浜辺の花のバラ色に彩られた表面の肌だけを官能の対象とする」もので「浜辺の花のバラ」=アルベルチーヌへの欲望を意味する。この二つの感情は形式的にはどちらもシニフィアン(意味するもの)でありシニフェエ(意味されるもの・内容)は欲望である。古いシニフィアンと新しいシニフィアンとが「結びついて一体化し、ただひとつの要素になろうとしていたが、そうした合体の作業は」成立せず、「離ればなれのまま」通過してしまう。

「私はコンブレーで、ひとりの人を狂おしく追いもとめる欲求を母を通じて学んだ経験があり、それは母から二階にはあがって来られないとフランソワーズの口づてで告げられたら死ぬしかないとまで思いつめた欲求であった。この古い感情は、浜辺の花のバラ色に彩られた表面の肌だけを官能の対象とするはるかに新しいもうひとつの感情と結びついて一体化し、ただひとつの要素になろうとしていたが、そうした合体の作業はたいてい、ほんの数刻しか存続しない新たな物質(化学的な意味での物質)をつくるだけで終わってしまう。すくなくともその夜、またその後も長らく、このふたつの要素は離ればなれのままであった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.299」岩波文庫 二〇一五年)

そこで、新しい感情はアルベルチーヌに対する欲望だが、不意に古い感情である母親への欲望が意識にのぼってきたことでただちにアルベルチーヌに対する欲望を母親に対する欲望へと還元するのは安易な短絡である。両者はプルーストの言葉通り「ふたつの要素」であって、別々の<諸断片>であり、当然「離ればなれ」なのだ。

作品の中でアルベルチーヌについてしばしば「未知の女」というフレーズが当てられるが、次の文章ではそれが<私>にとって加速的にあらわになり、或る種の覚悟を決めるよう迫られる。「アルベルチーヌの生活」は「野戦の要塞、いや、さらに念入りに後に『カムフラージュした』と呼びならわされる要塞のように組み立てられていること」をようやく思い知らされる。

「アルベルチーヌの生活は私のはるかかなたにあって(もとより物理的にそうだというのではない)、それを見出すにはつねに骨の折れる探索を必要とすること、おまけにその生活は野戦の要塞、いや、さらに念入りに後に『カムフラージュした』と呼びならわされる要塞のように組み立てられていることをすでに悟りはじめていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.299」岩波文庫 二〇一五年)

それでも<私>はその「正体を知ろう」とするだろう。だがそうすればするほど「真実の細部と虚偽の事実とを何度も何度もないまぜにした迷路のなかにはいりこみ、けっしてそこから逃げ出せな」くなるに違いない。「そして相手を囚人のように閉じこめないかぎり(それでも逃げ出すのだが)、そんな事態は際限なくつづくだろう」と<私>は考える。読者はすでにこの先で<幽閉・監禁・監視>が行われることを知ってはいる。そしてそれがプルーストの三大テーマの一つをなすことも。

「要するに逃げ道を五つも六つも用意している生活で、当の女に会おうとして、あるいはその女の正体を知ろうとして訪ねても、右とか左とか前とか後ろとかへ行きすぎるばかりで、何ヶ月も、何年も、なにひとつ知らずじまいになりかねない。アルベルチーヌにかんするかぎり、私はけっしてなにひとつ知ることはないだろう、真実の細部と虚偽の事実とを何度も何度もないまぜにした迷路のなかにはいりこみ、けっしてそこから逃げ出せないだろう、そして相手を囚人のように閉じこめないかぎり(それでも逃げ出すのだが)、そんな事態は際限なくつづくだろう、私にはそんな気がした」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.300」岩波文庫 二〇一五年)

ところがどれほど<幽閉・監禁・監視>してみてもアルベルチーヌの何がどれほどわかるわけでもない。むしろ逆に眠っている時のアルベルチーヌは植物へ生成変化したり、その規則正しい寝息は楽器へ生成変化するのだ。しかしなぜ<監禁>にまで立ち至ったのか。「ソドムとゴモラ」について、横断的性愛について、読者はまだ半分も読んでいない。

さて、先日の参院選の結果について。結果は結果だとして受け止めないといけないにしても、この納得感のなさはどうしてだろう。政権与党の側がひどい場合、では野党の側を選択すればよかったのか。問題はそう簡単でない。ジジェクはいう。「どっちもひどい!」と。

「あるシステムが自らの暗い側面と向き合うのを目の前にしたとき、わたしたちはただ善良な側を応援しているだけではだめだということだ。この良い面が悪い面を生んでしまったのはなぜ、一九二〇年代後半、スターリンはあるジャーナリストに、右への偏向(ブハーリンとその一派)と、左への偏向(トロツキーとその一派)、どちらの方がよりひどいかと問われて、『どちらもひどい!』と言い返した。わたしたちの苦境をしめす悲しい証拠は、政治的選択を前にしてまだましな方でいいからどちらにつくか選べと言われるとき、しばしば『でもどっちもひどいんですよ!』という答えを出さざるをえないということだ。だからといって、当然のことながら、どちらの選択肢を選んでも同じことになるというわけではない。具体的な状況のなかで、例えばフランスの『イエロー・ベスト』の抗議活動を暫定的に支持したり、われわれの自由に対する原理主義者の脅威を封じるために(原理主義者が中絶の権利を制限しようとしたり、あからさまに人種差別的な政策を推し進めたりするときに)リべラルと戦略的な協定を結んだりすることはある。しかしこのことが示すのは、巨大メディアによってわれわれに押し付けられる選択肢のほとんどが偽の選択肢だということだーーーそれは真の選択肢を隠す機能を果たしてしまうのである。ここから導かれる悲しい教訓はこうだ。対立する一方がだめな場合に、もう一方がよいとは限らない」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・16・P.123~124」青土社 二〇二二年)

ジジェクはアメリカのトランプ政権と民主党との関係についても「どっちもひどい!」と答えるべきだと述べる。トランプのポピュリズムが「ひどい」のはわかりきった話だ。しかしトランプを大統領にしたのは「民主党体制自体の失敗だった」。なぜ失敗したか。民主党支持者たちが民主党体制を「ラディカルに批判すること」をやってこなかったからだ。政権の座の上にあぐらをかかせてしまっていた。だから「トランプを倒すための最初の一歩は、民主党体制をラディカルに批判することなのだ」。

「そしてわたしたちは、同じ論理を、西洋の民主主義を特徴づけるポピュリストと体制派リベラルの戦いにも臆せず当てはめなければならない。米国の政治に関していえば、『トランプとクリントン(あるいは今だとペローシ)、どっちの方がひどい?』に対する答えは、『どっちもひどい!』であるべきだということだ。トランプの方が『ひどい』、それは当たり前だ。彼は『富裕層のための社会主義』の担い手であり、洗練された政治生活の規範を意図的にそこない、マノリティから権利を剥奪し、環境への脅威を無視している。しかし別の意味では、民主党体制もまた『ひどい』のだ。忘れてはいけないのは、トランプのポピュリズムのための場所を開いたのは、民主党体制自体の失敗だったということである。したがってトランプを倒すための最初の一歩は、民主党体制をラディカルに批判することなのだ。トランプや他のポピュリストが一般市民の恐怖や不満につけ込むことができるのはなぜなのか。それは人々が権力者に裏切られたと感じているからである」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・16・P.124~125」青土社 二〇二二年)

しかし「ラディカルである」とはどういうことか。

「ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.85』岩波文庫 一九七四年)

批判がラディカルであるためには人間自身のラディカルな把握が必要である。政治家や評論家たちのおしゃべりをただ単なる茶番劇に終わらせないために、問われているのは自分自身なのだ。

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