わざわざ数頁を割いて作品の中へ盛り込む必然性を必ずしも感じないエピソードが続いている。この種の必然性は読者には感じられなくてもプルーストにとってはのっぴきならない命題だった。例えば、グランドホテルのエレベーターボーイの一人が用いる珍妙な癖が上げられている。
そのボーイは「私がなにを言っても、『もちろんです!』とか『そうでしょ!』といった合いの手を入れて話をさえぎる」。この場合「その合いの手は、私の指摘が当たり前でだれだってそう考えたにちがいないという意味にも、その点を私に注意したのは自分であるとして手柄にしたいのだとも受けとれる」。しかし「もちろんです!」とか「そうでしょ!」といった言葉は、ただそれ自体では単なる無機物でしかない。それこそプルースト自身が最もよく知っていることだ。けれどもだからといってただちに納得できるはずもなく、「もちろんです!」とか「そうでしょ!」と何度も聞かされた<私>は、一つの言葉が一度に相反する二つの意味を意味してしまうことに「いらいら」する。そこで<私>は<第二の主張>を立ててボーイをやり込めようとするが、ボーイは再び「もちろんです!」とか「そうでしょ!」と応じる。するとまたしても「その合いの手は、私の指摘が当たり前でだれだってそう考えたにちがいないという意味にも、その点を私に注意したのは自分であるとして手柄にしたいのだとも受けとれる」という相反する両義的意味を反復させてなおのこと<私>を「いらいら」させることになる。
「このエレベーターボーイには、こちらの神経をひどく逆なでするところがあった。それは私がなにを言っても、『もちろんです!』とか『そうでしょ!』といった合いの手を入れて話をさえぎることで、その合いの手は、私の指摘が当たり前でだれだってそう考えたにちがいないという意味にも、その点を私に注意したのは自分であるとして手柄にしたいのだとも受けとれる。この『もちろんです!』や『そうでしょ!』は、おそろしく勢いよく発声され、本人がけっして思いつかなかったはずの事柄にかんしても二分に一度は口をついて出てくるので、いらいらした私はすぐに反対のことを言いはじめ、相手がなにもわかっていないことを思い知らせてやろうとする。ところが相手はこうした私の第二の主張にも、それが最初の主張と相容れないことなどいっこうにお構いなく、これが不可避のことばだと言わんばかりに、やはり『もちろんです!』とか『そうでしょ!』とか答えるのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.425~426」岩波文庫 二〇一五年)
さらに「こちらの神経をひどく逆なでする」例として次の状況が上げられる。
「この男が自分の仕事にかかわる専門用語のいくつかを、本来の意味で使えばなんら不都合はないのに、ひたすら比喩的な意味で使うことで、そのせいでひどく幼稚な洒落(しゃれ)を口にしたように聞こえた。たとえばペダルを踏むという動詞がその一例である。男はこの動詞を自転車で用足しに行ったときにはけっして使わない。そうではなく徒歩で、しかも時間に間に合うようひどく急いだときに、速く歩いたという意味でこう使うのだ。『もちろんです、そりゃもう懸命にペダルを踏みましたからね!』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.426~427」岩波文庫 二〇一五年)
とはいえ、一度落ち着こう。そもそも<私>は「ペダルを踏む」という言葉が「速く歩いた」という意味で使われているとなぜわかるのか。このエレベーターボーイと<私>との間で、ウィトゲンシュタインの提出した「言語ゲーム」が成立しているからである。
「次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それはわれわれの言語における『石版!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい!』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石版!』という文の《ひきのばし》であると言っては、なぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは、『石板!』と《言い》ながら《そのようなこと》〔『石版をもってこい!』ということ〕《をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石版!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』といいうことをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことをわたくしは欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分の言う文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。
ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起こっている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。
ーーー文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・十九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店 一九七六年)
というふうに様々に違った文章であってもその適用に通じていて意味を取り違えることのない言語的同一集団のことを指してウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼んだ。したがって<私>がボーイに「いらいら」をつのらせるためには両者が共に同一の「言語ゲーム」を構成する構成員になっていなければならない。そうでなければ言葉の意味はまるで通じ合わず、誤解しているのかいないのかもさっぱりわからず、<私>がボーイに「いらいら」をつのらせることさえ始めから不可能だからである。
ところで<私>はリフトに、おそらくエプリヴィルにいると思われるアルベルチーヌを呼んできてほしいと頼んだ。しばらくして戻ってきたリフトとのやりとり。
「リフトが『《ご存じでしょうが》見つからなかったんです』と言ったのは、ほんとうに私がすでにそのことを知っていると思っていたからではない。むしろその逆で、私がそれを知らないことをつゆ疑わず、なによりもそのことでおびえていたのだ。それゆえリフトは『ご存じでしょうが』と断っておいて、私に見つからなかったと知らせる文言を口にするときにわが身を貫くはずの苦悶を避けようとしたのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.431」岩波文庫 二〇一五年)
リフトはアルベルチーヌを連れてくることができなかったことを自分の重大な過失だと思ってしまう。そこで「わが身を貫くはずの苦悶を避けようと」あえて先手を打ち「ご存じでしょうが」と挿入することで、アルベルチーヌが「見つからなかった」という事実の意味をずらした。そしてこの「ご存じでしょうが」の一言が、意味をずらされるとともに別の意味を帯びた「見つからなかった」という言葉を新しく出現させたのである。
このように同じ言葉であってもまるで違う意味を出現させることで場の空気を素早く置き換え、その後は置き換えられた後者の意味で強引に代理させることができるのはなぜか。ラカンは欲望の対象「a」について「結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっている」と述べる。
「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・18・P.327」岩波書店 二〇〇〇年)
さて、ウクライナ関連報道の前景化で後景に退いてしまっている感があるものの、実は依然として世界で最も熾烈な争いを繰り広げているデジタルネットワークを用いた「管理社会」を巡る覇権主義について。ジジェクはこれまで通用してきた古い意味での女性の社会進出とはまるで異なる、新しい資本主義が要請する管理権力像として、資本主義にとって「理想的な女性像」がどんどん作り出されていると警告する。
「男とは対照的に、女は今日どんどん早熟になり、小さな大人として扱われ、自ら生活を管理し、キャリアを設定するよう期待される。この新しい性差の形においては、男は遊び好きな青年で無法者であり、女は毅然とし成熟して、真面目で、合法的で、懲罰的であるように見える。女性は今日支配的なイデオロギーによって従属せよと呼びかけられてはいない。彼女たちは裁判官たれ、経営者たれ、大臣たれ、CEOたれ、教師たれ、警官たれ、兵士たれと呼びかけられーーー求められ、期待されーーーているのである。セキュリティ関連の組織で日々起こっている典型的な光景は、女性の教師/判事/心理学者が、未成熟で社会性のない非行青年の面倒を見るというものである。新たな女らしさの形象がこうして立ち現れてくる。冷酷で競争力があり権力を握る行為主体であり、誘惑的で操作が上手く、『資本主義の条件下では、〔女は〕男よりもうまくやれる』というパラドクスを実証するのだ。これはもちろん、女を資本主義の手先だと疑うことではない。それが表しているのは単に、現代の資本主義は自らにとって理想的な女性像を、人間の顔をした冷淡な管理権力像を、作りだしているということだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.277~278」青土社 二〇二二年)
もはや無効化した剥き出しの家父長制に代わって、そしてまたどの先進国でも同様に剥き出しの家父長制を大急ぎでかなぐり捨ててまで、管理主義的デジタルネットワークの覇権競争が戦われている。新たな帝国主義的統制のネットワーク構築のために新たな資本主義は、資本主義のためにのみ「理想的な女性像」を極めて冷笑的な態度で生産しつつあるのである。
BGM1
BGM2
BGM3
そのボーイは「私がなにを言っても、『もちろんです!』とか『そうでしょ!』といった合いの手を入れて話をさえぎる」。この場合「その合いの手は、私の指摘が当たり前でだれだってそう考えたにちがいないという意味にも、その点を私に注意したのは自分であるとして手柄にしたいのだとも受けとれる」。しかし「もちろんです!」とか「そうでしょ!」といった言葉は、ただそれ自体では単なる無機物でしかない。それこそプルースト自身が最もよく知っていることだ。けれどもだからといってただちに納得できるはずもなく、「もちろんです!」とか「そうでしょ!」と何度も聞かされた<私>は、一つの言葉が一度に相反する二つの意味を意味してしまうことに「いらいら」する。そこで<私>は<第二の主張>を立ててボーイをやり込めようとするが、ボーイは再び「もちろんです!」とか「そうでしょ!」と応じる。するとまたしても「その合いの手は、私の指摘が当たり前でだれだってそう考えたにちがいないという意味にも、その点を私に注意したのは自分であるとして手柄にしたいのだとも受けとれる」という相反する両義的意味を反復させてなおのこと<私>を「いらいら」させることになる。
「このエレベーターボーイには、こちらの神経をひどく逆なでするところがあった。それは私がなにを言っても、『もちろんです!』とか『そうでしょ!』といった合いの手を入れて話をさえぎることで、その合いの手は、私の指摘が当たり前でだれだってそう考えたにちがいないという意味にも、その点を私に注意したのは自分であるとして手柄にしたいのだとも受けとれる。この『もちろんです!』や『そうでしょ!』は、おそろしく勢いよく発声され、本人がけっして思いつかなかったはずの事柄にかんしても二分に一度は口をついて出てくるので、いらいらした私はすぐに反対のことを言いはじめ、相手がなにもわかっていないことを思い知らせてやろうとする。ところが相手はこうした私の第二の主張にも、それが最初の主張と相容れないことなどいっこうにお構いなく、これが不可避のことばだと言わんばかりに、やはり『もちろんです!』とか『そうでしょ!』とか答えるのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.425~426」岩波文庫 二〇一五年)
さらに「こちらの神経をひどく逆なでする」例として次の状況が上げられる。
「この男が自分の仕事にかかわる専門用語のいくつかを、本来の意味で使えばなんら不都合はないのに、ひたすら比喩的な意味で使うことで、そのせいでひどく幼稚な洒落(しゃれ)を口にしたように聞こえた。たとえばペダルを踏むという動詞がその一例である。男はこの動詞を自転車で用足しに行ったときにはけっして使わない。そうではなく徒歩で、しかも時間に間に合うようひどく急いだときに、速く歩いたという意味でこう使うのだ。『もちろんです、そりゃもう懸命にペダルを踏みましたからね!』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.426~427」岩波文庫 二〇一五年)
とはいえ、一度落ち着こう。そもそも<私>は「ペダルを踏む」という言葉が「速く歩いた」という意味で使われているとなぜわかるのか。このエレベーターボーイと<私>との間で、ウィトゲンシュタインの提出した「言語ゲーム」が成立しているからである。
「次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それはわれわれの言語における『石版!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい!』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石版!』という文の《ひきのばし》であると言っては、なぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは、『石板!』と《言い》ながら《そのようなこと》〔『石版をもってこい!』ということ〕《をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石版!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』といいうことをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことをわたくしは欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分の言う文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。
ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起こっている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。
ーーー文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・十九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店 一九七六年)
というふうに様々に違った文章であってもその適用に通じていて意味を取り違えることのない言語的同一集団のことを指してウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼んだ。したがって<私>がボーイに「いらいら」をつのらせるためには両者が共に同一の「言語ゲーム」を構成する構成員になっていなければならない。そうでなければ言葉の意味はまるで通じ合わず、誤解しているのかいないのかもさっぱりわからず、<私>がボーイに「いらいら」をつのらせることさえ始めから不可能だからである。
ところで<私>はリフトに、おそらくエプリヴィルにいると思われるアルベルチーヌを呼んできてほしいと頼んだ。しばらくして戻ってきたリフトとのやりとり。
「リフトが『《ご存じでしょうが》見つからなかったんです』と言ったのは、ほんとうに私がすでにそのことを知っていると思っていたからではない。むしろその逆で、私がそれを知らないことをつゆ疑わず、なによりもそのことでおびえていたのだ。それゆえリフトは『ご存じでしょうが』と断っておいて、私に見つからなかったと知らせる文言を口にするときにわが身を貫くはずの苦悶を避けようとしたのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.431」岩波文庫 二〇一五年)
リフトはアルベルチーヌを連れてくることができなかったことを自分の重大な過失だと思ってしまう。そこで「わが身を貫くはずの苦悶を避けようと」あえて先手を打ち「ご存じでしょうが」と挿入することで、アルベルチーヌが「見つからなかった」という事実の意味をずらした。そしてこの「ご存じでしょうが」の一言が、意味をずらされるとともに別の意味を帯びた「見つからなかった」という言葉を新しく出現させたのである。
このように同じ言葉であってもまるで違う意味を出現させることで場の空気を素早く置き換え、その後は置き換えられた後者の意味で強引に代理させることができるのはなぜか。ラカンは欲望の対象「a」について「結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっている」と述べる。
「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・18・P.327」岩波書店 二〇〇〇年)
さて、ウクライナ関連報道の前景化で後景に退いてしまっている感があるものの、実は依然として世界で最も熾烈な争いを繰り広げているデジタルネットワークを用いた「管理社会」を巡る覇権主義について。ジジェクはこれまで通用してきた古い意味での女性の社会進出とはまるで異なる、新しい資本主義が要請する管理権力像として、資本主義にとって「理想的な女性像」がどんどん作り出されていると警告する。
「男とは対照的に、女は今日どんどん早熟になり、小さな大人として扱われ、自ら生活を管理し、キャリアを設定するよう期待される。この新しい性差の形においては、男は遊び好きな青年で無法者であり、女は毅然とし成熟して、真面目で、合法的で、懲罰的であるように見える。女性は今日支配的なイデオロギーによって従属せよと呼びかけられてはいない。彼女たちは裁判官たれ、経営者たれ、大臣たれ、CEOたれ、教師たれ、警官たれ、兵士たれと呼びかけられーーー求められ、期待されーーーているのである。セキュリティ関連の組織で日々起こっている典型的な光景は、女性の教師/判事/心理学者が、未成熟で社会性のない非行青年の面倒を見るというものである。新たな女らしさの形象がこうして立ち現れてくる。冷酷で競争力があり権力を握る行為主体であり、誘惑的で操作が上手く、『資本主義の条件下では、〔女は〕男よりもうまくやれる』というパラドクスを実証するのだ。これはもちろん、女を資本主義の手先だと疑うことではない。それが表しているのは単に、現代の資本主義は自らにとって理想的な女性像を、人間の顔をした冷淡な管理権力像を、作りだしているということだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.277~278」青土社 二〇二二年)
もはや無効化した剥き出しの家父長制に代わって、そしてまたどの先進国でも同様に剥き出しの家父長制を大急ぎでかなぐり捨ててまで、管理主義的デジタルネットワークの覇権競争が戦われている。新たな帝国主義的統制のネットワーク構築のために新たな資本主義は、資本主義のためにのみ「理想的な女性像」を極めて冷笑的な態度で生産しつつあるのである。
BGM1
BGM2
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