アルベルチーヌの「誓い」にもかかわらず疑念の収まらない<私>。ところがこの年、アンドレはロズモンドやジゼルとともにリゾートシーズン最盛期頃にはさっさとバルベックを離れて帰る予定だという。とはいってもそれまでまだ数週間ある。そこで<私>の不安定な心痛を察したかのようにアルベルチーヌは、アンドレとアルベルチーヌとが<私>の知らない間に会うことのないよう「自分の言動をすべてお膳立てして、私に疑念が残っていればそれをうち消し、ふたたびあらたな疑念が生じないようにしてくれた」。しかし「お膳立て」するためにはアルベルチーヌ単独ではもとより不可能である。少なくともアンドレとの間に何らかの「合意」がなくては「お膳立て」できない。普段から毎日のようにごく普通に仲良く会っている娘たちが、或る一定期間に限って会わずに済むようタイミングよく仕組むにはそれなりの段取りを付けておく必要がある。<私>は思う。「ふたりのあいだには見るからに合意があったばかりか、ほかの徴候からしても、アルベルチーヌは私との話し合いをアンドレに打ち明け、私のばかげた疑惑を鎮めてほしいと頼みこんだにちがいなかった」。まるで贈収賄の構造ではないか。
「おまけにその数週のあいだアルベルチーヌは、自分の言動をすべてお膳立てして、私に疑念が残っていればそれをうち消し、ふたたびあらたな疑念が生じないようにしてくれた。けっしてアンドレとふたりきりにならないように気を配り、私とふたりで帰るときは私に戸口まで送ってほしい、ふたりで出かけるときは私に戸口まで迎えに来てほしいと言い張った。そのあいだアンドレも同様に努力して、アルベルチーヌに会うのを避けているように思われた。このようにふたりのあいだには見るからに合意があったばかりか、ほかの徴候からしても、アルベルチーヌは私との話し合いをアンドレに打ち明け、私のばかげた疑惑を鎮めてほしいと頼みこんだにちがいなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一五年)
そこでもし仮に、アルベルチーヌ、アンドレ、ジゼルだけを取り出してみて、三人三様の「嘘のつきかた」を区別してみたところで、むしろ三人とも「嘘のつきかた」が異なることで逆に「たがいにうまくかみ合って一体化していた」のは以前述べた。作品中では後に出てくる記述なのだがそれはもはや既成事実として上げられる。
「ジゼルの嘘のつきかたはアルベルチーヌと同じではなかったし、アンドレとも同じではなかったが、それでもこの娘たちの嘘は、大きな違いを見せながらも、たがいにうまくかみ合って一体化していた」とある部分。
「もとよりジゼルは、アルベルチーヌと同じような嘘のつきかたはしなかった。アルベルチーヌの数々の嘘のほうが、たしかに私にはずっと辛いものだった。しかしなによりもまず、ふたりの嘘にはある共通点があって、それはある場合には嘘だという事実そのものが明々白々な点である。嘘の背後に隠れている現実が明々白々だというわけではない。殺人犯ともなればだれしも万事うまく仕組んだから自分がつかまるはずはないと想いこむが、結局、殺人犯はほぼ間違いなくつかまる。それにひきかえ嘘つきがつかまることはめったにない。なかでもこちらが愛している女はまずつかまらない。女がどこへ行ったのか、そこでなにをしたのか、こちらにはとんと見当もつかない。ところが女がこちらと話している最中に、ふと話をそらし、裏には口にこそ出さないなにかがあるとき、その嘘は即座に察知される。嘘だと感じられるのに、真相を知るに至らないのだから、嫉妬は募るばかりだ。アルベルチーヌの場合、それが嘘だと感知されたのは、この物語のなかで何度も見てきたような多くの特殊な点によってであるが、主としてつぎの点を挙げるべきだろう。それはアルベルチーヌが嘘をつくときは、その話に不充分なところ、言い落としたところ、本当とは思えないところがあるか、それとも反対に、話を本当らしく見せるための些細な事実が過剰に出てくるか、どちらかの欠点があったことである。本当らしさとは、嘘つきがどう考えるにせよ、けっして本当のことではない。本当のことに耳を傾けている最中、なにか本当らしく聞こえるだけのこと、もしかすると本当のことよりも本当らしく聞こえること、もしかするとあまりにも本当らしく聞こえることを耳にすると、多少とも音楽的な耳の持主なら、規則に合わない詩句とか、べつの語と間違えて大声で朗読された語とかを耳にしたときのように、これは違うと感じるものだ。耳がそう感じると、愛する男なら心が動揺する。ある女がベリ通りを通ったのかワシントン通りを通ったのかが判然としないという理由でもって全生涯が一変するのなら、なぜこう考えてみないのだろうか?もし当の女に何年か会わずにいる思慮分別さえあれば、その何メートルかの違いなど、いや、その女自身さえ、何万分の一かに(すなわちこちらの目には見えないほどの大きさに)縮小されてしまい、ガリヴァーよりもずっと巨大であった相手も小人(リリパット)国の女になり果て、いかなる顕微鏡をもってしてもーーー無関心となった記憶の顕微鏡はもっと強力で頑丈だから措くとして、すくなくとも心の顕微鏡では見えなくなるのだ!それはともあれ、アルベルチーヌの嘘とジゼルの嘘のあいだにはーーー嘘だとわかるというーーー共通点が存在したとはいえ、ジゼルの嘘のつきかたはアルベルチーヌと同じではなかったし、アンドレとも同じではなかったが、それでもこの娘たちの嘘は、大きな違いを見せながらも、たがいにうまくかみ合って一体化していたために、その小集団に備わる他人には入りこめない堅固さは、ある種の商社や出版社や新聞雑誌社などと同様の堅固さを想わせた。こうした団体を相手にした哀れな作家は、その構成メンバーである名士たちの多様性にもかかわらず、自分がだまされているのかそうでないのか絶対にわからない。というのも新聞や雑誌の社主がいとも誠実な物腰で嘘をつくからで、それというのも社主としては、他社に反旗を翻し『誠実』の旗幟(きし)を鮮明にした以上、貶(おとし)めてきたほかの新聞や劇場の社主や、ほかの出版社社長らの金儲け主義とまったく同じことを自分がおこない、なんら変わらぬ収益策に走っている事実をことあるごとに覆い隠さなければならないだけに、なおさら勿体(もったい)をつけ誠実そうに嘘をつかざるをえないのだ。嘘をつくのはおぞましいことだと(政党の党首のように出任せででも)宣言してしまうと、往々にしてほかの人たち以上に嘘をつかざるをえなくなるが、だからといって勿体ぶった誠実の仮面や厳かな司教冠を脱ぐことはない。『誠実な人』たる経営協力者は、社主とは違って、もっと無邪気に嘘をつく。自分の妻をだますように、軽演劇(ヴォードヴィル)ふうの仕掛けを使って作家をだますのだ。新聞雑誌の編集責任者はといえば、不作法な正直者と言うべきか、なんの底意(そこい)もなく嘘をつく。建築家が家はこれこれの時期にできあがると約束しておきながら、その時期になってもまだ工事すら始めていないのに似る。編集長ともなると、天使のごときうぶな心の持主で、前述の三人のあいだを飛びまわり、事情がわからずとも仲間としての気遣いと優しい団結心から、その三人に非の打ちどころのない貴重なことばの助け船を出す。これら四人はたえず内輪もめをしているが、作家がやって来るとその内紛はぴたりとやむ。個別の言い争いを越えて、危機に瀕した『部隊』の救援に駆けつけるという、軍人としての重要な義務をだれもが想い出すのだ。私は例の『小集団』にたいして、そうとは気づかぬまま、ずっと以前からこの作家の役割を演じていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.398~401」岩波文庫 二〇一六年)
それでもともかくアルベルチーヌたちは、<私>の気持ちが落ち着くよう動くことにはしてくれた。しかし、だからといって<私>の疑念(ゴモラ)は立ち去るどころか別の人物に置き換えられて目の前を堂々と横行し始める。その一つは友人ブロックの妹と元女優との同性愛関係。この二人の大胆な振る舞いはグランドホテルの中の最も賑やかな場所で演じられる。
「人に見られると自分たちの快楽の背徳性が倍増するように思えたのだろう、恐ろしい愛戯をみなの目にさらしたくなったのである。それはまずゲーム室のバカラのテーブルのまわりで愛撫しあうことから始まったが、それだけなら要するに親しい友情の発露とみなすこともできた。やがてふたりは大胆になった。そしてついにある夜、大きなダンスホールのあまり暗くもない片隅のソファーで、臆面もなく、ベッドに寝ているときにも等しい振る舞いにおよんだのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.538」岩波文庫 二〇一五年)
宿泊客の中には苦情を入れた人たちもちらほらいた。だが宿泊客は文字通りただ単に一日だけホテルに滞在するだけで翌日には消え去ってしまう通りすがりに過ぎない。苦情を入れられたホテルの支配人にしても、さてどうしたものかといった風情。というのもブロック嬢は、毎年バルベックの別荘にやって来る常連客ニッシム・ベルナールの絶大な保護下にあったからである。
そこで<私>はもう一つの疑念(ソドム)が今度はシャルリュスではない人物によって演じられるのを見る。ニッシム・ベルナールはブロックの父親の伯父。毎日グランドホテルにやって来て昼食だけは必ずホテルで取る。その理由はいたって単純で、ホテルに勤める一人のボーイを愛人として囲っていたからだ。男性同性愛者ニッシム・ベルナールにとってグランドホテルの玄関ホールは美しいドアマンやボーイたちが華麗に花咲き乱れる至高の楽園にほかならない。次のように。
「つい『アタリー』の詩句を心のなかでつぶやかずにはいられなかった。というのも十七世紀なら柱廊玄関と呼ばれていたと思われるホテルの玄関ホールにはいったとたん、とくにおやつの時間には、若いドアマンたちの『花咲く一団』がまるでラシーヌ劇で合唱隊を務める若いイスラエルの娘たちのように突っ立っていたからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.388」岩波文庫 二〇一五年)
そんなベルナールが若いボーイとの接触と愛人化とに成功した手順は次の通り。
「若いボーイは、バルベックの『神殿』たる『豪華ホテル』にて『世間から離れて育てられた』がその甲斐はなく、ジョアドのつぎの忠告にも従わなかった。
<富や黄金を頼りにしてはならぬ>
もしかするとボーイは『罪びとたち地上にあふれ』とつぶやき、世間とはそういうものだと自分を正当化していたのかもしれない。それはともかく、ニッシム・ベルナールもこれほど早い手応えを期待していなかったのに、さっそく最初の日から、
<まだおびえているのか、それとも甘えるためか、
その罪のない両腕がまつわりつくのを感じた>
そしてもう二日目から、ニッシム・ベルナール氏はそのボーイを外に連れだし、『毒気を近づけ、その無垢を汚した』のである。そのときから若者の生活は変わってしまった。上司に言われるとおりパンや塩を運んでいても、満面にこんな想いがにじみ出ていた。
<花から花へ、快楽から快楽へと われらが欲望をさまよわせよう。
すぎ去るわれらが歳月の残りは頼りなきもの。
きょうのこの日、急いで人生を楽しもう!
名誉や役職こそ
甘美な盲従の代償。
悲しい無垢な者などに
だれが声をあげてくれよう>」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.539~541」岩波文庫 二〇一五年)
ここで僅かばかり振り返っておきたい。プルーストが描き出している場面の順序である。アルベルチーヌを巡る女性たちの同性愛疑惑。次にブロックの妹と元女優との辺り憚らぬ同性愛関係。第三にニッシム・ベルナールと若いボーイとの男性同性愛関係。第一のゴモラ疑惑が払拭されたかと思う間もなく第二に紛れもないゴモラ関係が出現し、そのゴモラ関係を下位に保護する立場に立ちつつ第三により強力なソドム関係の出現が絶え間なく描かれている。もっとも、異性愛がないわけではない。ところが<私>の目の前に出現するのは非-異性愛の連続ばかりであり異性愛の側はむしろ種々の非-異性愛をかえって引き立てるための脇役としてほとんど霞んでしまっている。そこで問いを立てることができる。異性愛と非-異性愛とで異性愛の側が「正常」だとされる根拠というのは、ただ単に前者の側の数が多いという統計学的な結果に過ぎないのではという問いである。とはいえ、もしそういうことなら人間がそこから生まれてくる「生殖」行為は果たしてどのような位置付けになるのか。ニーチェはいう。
「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上・八九六・P.491」ちくま学芸文庫 一九九四年)
あらためて欲望の観点を導入しなければならないだろう。「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》」からである。
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「おまけにその数週のあいだアルベルチーヌは、自分の言動をすべてお膳立てして、私に疑念が残っていればそれをうち消し、ふたたびあらたな疑念が生じないようにしてくれた。けっしてアンドレとふたりきりにならないように気を配り、私とふたりで帰るときは私に戸口まで送ってほしい、ふたりで出かけるときは私に戸口まで迎えに来てほしいと言い張った。そのあいだアンドレも同様に努力して、アルベルチーヌに会うのを避けているように思われた。このようにふたりのあいだには見るからに合意があったばかりか、ほかの徴候からしても、アルベルチーヌは私との話し合いをアンドレに打ち明け、私のばかげた疑惑を鎮めてほしいと頼みこんだにちがいなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一五年)
そこでもし仮に、アルベルチーヌ、アンドレ、ジゼルだけを取り出してみて、三人三様の「嘘のつきかた」を区別してみたところで、むしろ三人とも「嘘のつきかた」が異なることで逆に「たがいにうまくかみ合って一体化していた」のは以前述べた。作品中では後に出てくる記述なのだがそれはもはや既成事実として上げられる。
「ジゼルの嘘のつきかたはアルベルチーヌと同じではなかったし、アンドレとも同じではなかったが、それでもこの娘たちの嘘は、大きな違いを見せながらも、たがいにうまくかみ合って一体化していた」とある部分。
「もとよりジゼルは、アルベルチーヌと同じような嘘のつきかたはしなかった。アルベルチーヌの数々の嘘のほうが、たしかに私にはずっと辛いものだった。しかしなによりもまず、ふたりの嘘にはある共通点があって、それはある場合には嘘だという事実そのものが明々白々な点である。嘘の背後に隠れている現実が明々白々だというわけではない。殺人犯ともなればだれしも万事うまく仕組んだから自分がつかまるはずはないと想いこむが、結局、殺人犯はほぼ間違いなくつかまる。それにひきかえ嘘つきがつかまることはめったにない。なかでもこちらが愛している女はまずつかまらない。女がどこへ行ったのか、そこでなにをしたのか、こちらにはとんと見当もつかない。ところが女がこちらと話している最中に、ふと話をそらし、裏には口にこそ出さないなにかがあるとき、その嘘は即座に察知される。嘘だと感じられるのに、真相を知るに至らないのだから、嫉妬は募るばかりだ。アルベルチーヌの場合、それが嘘だと感知されたのは、この物語のなかで何度も見てきたような多くの特殊な点によってであるが、主としてつぎの点を挙げるべきだろう。それはアルベルチーヌが嘘をつくときは、その話に不充分なところ、言い落としたところ、本当とは思えないところがあるか、それとも反対に、話を本当らしく見せるための些細な事実が過剰に出てくるか、どちらかの欠点があったことである。本当らしさとは、嘘つきがどう考えるにせよ、けっして本当のことではない。本当のことに耳を傾けている最中、なにか本当らしく聞こえるだけのこと、もしかすると本当のことよりも本当らしく聞こえること、もしかするとあまりにも本当らしく聞こえることを耳にすると、多少とも音楽的な耳の持主なら、規則に合わない詩句とか、べつの語と間違えて大声で朗読された語とかを耳にしたときのように、これは違うと感じるものだ。耳がそう感じると、愛する男なら心が動揺する。ある女がベリ通りを通ったのかワシントン通りを通ったのかが判然としないという理由でもって全生涯が一変するのなら、なぜこう考えてみないのだろうか?もし当の女に何年か会わずにいる思慮分別さえあれば、その何メートルかの違いなど、いや、その女自身さえ、何万分の一かに(すなわちこちらの目には見えないほどの大きさに)縮小されてしまい、ガリヴァーよりもずっと巨大であった相手も小人(リリパット)国の女になり果て、いかなる顕微鏡をもってしてもーーー無関心となった記憶の顕微鏡はもっと強力で頑丈だから措くとして、すくなくとも心の顕微鏡では見えなくなるのだ!それはともあれ、アルベルチーヌの嘘とジゼルの嘘のあいだにはーーー嘘だとわかるというーーー共通点が存在したとはいえ、ジゼルの嘘のつきかたはアルベルチーヌと同じではなかったし、アンドレとも同じではなかったが、それでもこの娘たちの嘘は、大きな違いを見せながらも、たがいにうまくかみ合って一体化していたために、その小集団に備わる他人には入りこめない堅固さは、ある種の商社や出版社や新聞雑誌社などと同様の堅固さを想わせた。こうした団体を相手にした哀れな作家は、その構成メンバーである名士たちの多様性にもかかわらず、自分がだまされているのかそうでないのか絶対にわからない。というのも新聞や雑誌の社主がいとも誠実な物腰で嘘をつくからで、それというのも社主としては、他社に反旗を翻し『誠実』の旗幟(きし)を鮮明にした以上、貶(おとし)めてきたほかの新聞や劇場の社主や、ほかの出版社社長らの金儲け主義とまったく同じことを自分がおこない、なんら変わらぬ収益策に走っている事実をことあるごとに覆い隠さなければならないだけに、なおさら勿体(もったい)をつけ誠実そうに嘘をつかざるをえないのだ。嘘をつくのはおぞましいことだと(政党の党首のように出任せででも)宣言してしまうと、往々にしてほかの人たち以上に嘘をつかざるをえなくなるが、だからといって勿体ぶった誠実の仮面や厳かな司教冠を脱ぐことはない。『誠実な人』たる経営協力者は、社主とは違って、もっと無邪気に嘘をつく。自分の妻をだますように、軽演劇(ヴォードヴィル)ふうの仕掛けを使って作家をだますのだ。新聞雑誌の編集責任者はといえば、不作法な正直者と言うべきか、なんの底意(そこい)もなく嘘をつく。建築家が家はこれこれの時期にできあがると約束しておきながら、その時期になってもまだ工事すら始めていないのに似る。編集長ともなると、天使のごときうぶな心の持主で、前述の三人のあいだを飛びまわり、事情がわからずとも仲間としての気遣いと優しい団結心から、その三人に非の打ちどころのない貴重なことばの助け船を出す。これら四人はたえず内輪もめをしているが、作家がやって来るとその内紛はぴたりとやむ。個別の言い争いを越えて、危機に瀕した『部隊』の救援に駆けつけるという、軍人としての重要な義務をだれもが想い出すのだ。私は例の『小集団』にたいして、そうとは気づかぬまま、ずっと以前からこの作家の役割を演じていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.398~401」岩波文庫 二〇一六年)
それでもともかくアルベルチーヌたちは、<私>の気持ちが落ち着くよう動くことにはしてくれた。しかし、だからといって<私>の疑念(ゴモラ)は立ち去るどころか別の人物に置き換えられて目の前を堂々と横行し始める。その一つは友人ブロックの妹と元女優との同性愛関係。この二人の大胆な振る舞いはグランドホテルの中の最も賑やかな場所で演じられる。
「人に見られると自分たちの快楽の背徳性が倍増するように思えたのだろう、恐ろしい愛戯をみなの目にさらしたくなったのである。それはまずゲーム室のバカラのテーブルのまわりで愛撫しあうことから始まったが、それだけなら要するに親しい友情の発露とみなすこともできた。やがてふたりは大胆になった。そしてついにある夜、大きなダンスホールのあまり暗くもない片隅のソファーで、臆面もなく、ベッドに寝ているときにも等しい振る舞いにおよんだのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.538」岩波文庫 二〇一五年)
宿泊客の中には苦情を入れた人たちもちらほらいた。だが宿泊客は文字通りただ単に一日だけホテルに滞在するだけで翌日には消え去ってしまう通りすがりに過ぎない。苦情を入れられたホテルの支配人にしても、さてどうしたものかといった風情。というのもブロック嬢は、毎年バルベックの別荘にやって来る常連客ニッシム・ベルナールの絶大な保護下にあったからである。
そこで<私>はもう一つの疑念(ソドム)が今度はシャルリュスではない人物によって演じられるのを見る。ニッシム・ベルナールはブロックの父親の伯父。毎日グランドホテルにやって来て昼食だけは必ずホテルで取る。その理由はいたって単純で、ホテルに勤める一人のボーイを愛人として囲っていたからだ。男性同性愛者ニッシム・ベルナールにとってグランドホテルの玄関ホールは美しいドアマンやボーイたちが華麗に花咲き乱れる至高の楽園にほかならない。次のように。
「つい『アタリー』の詩句を心のなかでつぶやかずにはいられなかった。というのも十七世紀なら柱廊玄関と呼ばれていたと思われるホテルの玄関ホールにはいったとたん、とくにおやつの時間には、若いドアマンたちの『花咲く一団』がまるでラシーヌ劇で合唱隊を務める若いイスラエルの娘たちのように突っ立っていたからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.388」岩波文庫 二〇一五年)
そんなベルナールが若いボーイとの接触と愛人化とに成功した手順は次の通り。
「若いボーイは、バルベックの『神殿』たる『豪華ホテル』にて『世間から離れて育てられた』がその甲斐はなく、ジョアドのつぎの忠告にも従わなかった。
<富や黄金を頼りにしてはならぬ>
もしかするとボーイは『罪びとたち地上にあふれ』とつぶやき、世間とはそういうものだと自分を正当化していたのかもしれない。それはともかく、ニッシム・ベルナールもこれほど早い手応えを期待していなかったのに、さっそく最初の日から、
<まだおびえているのか、それとも甘えるためか、
その罪のない両腕がまつわりつくのを感じた>
そしてもう二日目から、ニッシム・ベルナール氏はそのボーイを外に連れだし、『毒気を近づけ、その無垢を汚した』のである。そのときから若者の生活は変わってしまった。上司に言われるとおりパンや塩を運んでいても、満面にこんな想いがにじみ出ていた。
<花から花へ、快楽から快楽へと われらが欲望をさまよわせよう。
すぎ去るわれらが歳月の残りは頼りなきもの。
きょうのこの日、急いで人生を楽しもう!
名誉や役職こそ
甘美な盲従の代償。
悲しい無垢な者などに
だれが声をあげてくれよう>」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.539~541」岩波文庫 二〇一五年)
ここで僅かばかり振り返っておきたい。プルーストが描き出している場面の順序である。アルベルチーヌを巡る女性たちの同性愛疑惑。次にブロックの妹と元女優との辺り憚らぬ同性愛関係。第三にニッシム・ベルナールと若いボーイとの男性同性愛関係。第一のゴモラ疑惑が払拭されたかと思う間もなく第二に紛れもないゴモラ関係が出現し、そのゴモラ関係を下位に保護する立場に立ちつつ第三により強力なソドム関係の出現が絶え間なく描かれている。もっとも、異性愛がないわけではない。ところが<私>の目の前に出現するのは非-異性愛の連続ばかりであり異性愛の側はむしろ種々の非-異性愛をかえって引き立てるための脇役としてほとんど霞んでしまっている。そこで問いを立てることができる。異性愛と非-異性愛とで異性愛の側が「正常」だとされる根拠というのは、ただ単に前者の側の数が多いという統計学的な結果に過ぎないのではという問いである。とはいえ、もしそういうことなら人間がそこから生まれてくる「生殖」行為は果たしてどのような位置付けになるのか。ニーチェはいう。
「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上・八九六・P.491」ちくま学芸文庫 一九九四年)
あらためて欲望の観点を導入しなければならないだろう。「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》」からである。
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