<私>がアンフルヴィルまで同行しようという提案はアルベルチーヌの当初の計画を変更させた。アンフルヴィル行きを諦めて<私>と一日を過ごす側を取った。そうすればアルベルチーヌは<私>の前で堂々と開き直って発言できるし実際開き直ってばんばん発言する。そこで<私>はいう。「もういいよ、アルベルチーヌ、きみの楽しみを台なしにしたくない、行ってきたまえ、アンフルヴィルのご婦人のところでも、便宜上そう言っているだけの人のところでも」。さらにこうも付け加える。「きみは、自分じゃ気づいていないが辻褄の合わないことを五回以上も言ったんだよ」。そう指摘されたアルベルチーヌは「自分が口にした数々の矛盾はもしかすると思いのほか重大なものだったのかもしれないと心配になった」。アルベルチーヌは突然、自己批判し始める。「きっと辻褄の合わないことを言ったのでしょうね。ーーー」。
「『もういいよ、アルベルチーヌ、きみの楽しみを台なしにしたくない、行ってきたまえ、アンフルヴィルのご婦人のところでも、便宜上そう言っているだけの人のところでも、ぼくにはどっちだっていいんだ。ぼくがきみといっしょに出かけない本当の理由はね、きみがそれを望んでいないからだ、ぼくとの散歩はきみがしたかったことじゃないからだ、その証拠にきみは、自分じゃ気づいていないが辻褄の合わないことを五回以上も言ったんだよ』。かわいそうにアルベルチーヌは、自分がどんな嘘をついたのかも正確にはわからず、自分が口にした数々の矛盾はもしかすると思いのほか重大なものだったのかもしれないと心配になった。『きっと辻褄の合わないことを言ったのでしょうね。海の空気のせいで頭がちゃんと働かないんですもの。人の名前もしょっちゅうとり違えて言っちゃうし』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.445~446」岩波文庫 二〇一五年)
<私>はアルベルチーヌが突如始めた自己批判の言葉にうろたえ「胸を刺されるような苦痛」に苛まれた。しかしその間も「もういいよ、アルベルチーヌ、きみの楽しみを台なしにしたくない、行ってきたまえ、アンフルヴィルのご婦人のところでも、便宜上そう言っているだけの人のところでも」という言葉は、アルベルチーヌに対する解放の言葉として十分な正当性を持って空間を満たしている。すかさずアルベルチーヌはこういう。
「『仕方ないわ、わかりました、あたし行きますから』と悲痛な口調で言ったアルベルチーヌは、いまや私と夜をすごさなくてもいい口実を与えられて、もうひとりの相手との待ち合わせに遅れはしないかと時計を見ずにはいられなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.446」岩波文庫 二〇一五年)
と同時にアルベルチーヌは<私>に向かっていう。「あなたは疑ってるのよ、あたしのことなんて全然信用してないんだから」と。アルベルチーヌは「嘘をついていない」=「潔白だ」と言っているわけではなく「あたしのことなんて全然信用してない」と非難しているのであって、アルベルチーヌ自身が抱えている事情のすべてがまだ明らかにされていない段階で短絡的にアルベルチーヌの言動に対する是非を決定することはできない。しかしともかく<私>が「もういいよ、アルベルチーヌ、きみの楽しみを台なしにしたくない、行ってきたまえ」と言った以上、アルベルチーヌはもう一刻の猶予も許されないかのように「駆けるように飛び出していった」。しかし「翌日会いに来たときは、そんな別れかたをしたことを謝ったが、おそらくその日はお目当ての相手の予定がふさがっていたのだろう」とある。
「アルベルチーヌは、振り子時計が二十分前を指しているのを見ると、やらなければならないことをやり損なうと心配したのか、いちばん簡単な別れかたを選んだようで『さようなら、永久に』と悲嘆に暮れた表情で言うと、駆けるように飛び出していった(とはいえ翌日会いに来たときは、そんな別れかたをしたことを謝ったが、おそらくその日はお目当ての相手の予定がふさがっていたのだろう)」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.447」岩波文庫 二〇一五年)
ここでもまた強調されているのは「つぎのようなたぐいのことばである」。
「そもそも往々にして愛が生まれる原因になるのは、相手の肉体的魅力よりも、むしろつぎのようなたぐいのことばである、『だめ、わたし今夜はふさがってるの』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.438」岩波文庫 二〇一五年)
言葉(身振り)とその記号論的増殖性。延々と引き延ばされていくばかりでどこまで行っても終着点(唯一絶対的正解)はないということ。にもかかわらず、ではなく、むしろそれゆえに、「嘘つきの心理学」が研究されることにはなるのだが。
第一に、かつてオデットがスワンについた大嘘を思い出そう。オデットは全面的な嘘の中に「事実の断片を組み入れ」た。効果的だと考えたからである。するとオデットの目論見とは逆に、まったくの嘘と断片的事実との間で決して一致しないパズルが出現する。結果的にスワンは気づく。「事実と辻褄が合わない」。
「オデットはいた。さきにスワンが呼び鈴を鳴らしたときは、家にはいたが寝ていたと言う。呼び鈴の音に目が覚め、スワンにちがいないと思ってあとを追ったが、もう帰ったあとだった、窓ガラスを叩く音も聞こえた、と言う。すぐにスワンは、この言い分のなかに、正確な事実の断片が含まれているのに気づいた。不意を突かれた嘘つきが、偽りのない事実をでっちあげるにあたり、気休めにそんな事実の断片を組み入れ、その効力で嘘がいかにも『真実』らしく見えるのを期待するのと同じである。たしかにオデットは、なにか明らかにしたくないことをした場合、それを心の奥底にひた隠しにする。ところが嘘をつくべき相手が目の前にあらわれると、動転するあまり考えていたことはすべて瓦解し、創意工夫をしたり論理的に考えたりする能力は麻痺してしまう。もはや頭のなかは空白なのに、それでもなにか言わなくてはならない。そのときに出くわすのが、手の届くところにあった、ほかでもない隠しておきたいと考えていたことがらで、それは真実であるがゆえにその場に残っていたのである。オデットは、そこからそれ自体なんら重要でない小さな断片をとり出すと、結局これでいいのだ、本物の断片なのだから嘘の断片のような危険はない、と考える。『すくなくともこれならほんとうだわ。どう転んでもこっちのものよ。あの人が調べたってほんとうだとわかるだけで、これであたしが裏切られることは絶対にありえないわ』。ところがそれはオデットの考え違いというべきで、それに裏切られるのだ。オデットには理解できなかったが、この本物の断片なるものの四隅がぴったり合わさるのは、恣意的にそれをとり出した本物の事実と隣接する他の断片だけであり、いかにその断片を嘘でかためた他の断片にはめ込もうとしても、つねにはみ出す部分や足りない部分が残り、その断片がとり出されたのはそこからではないことがばれてしまうのである。スワンはこう思った、『呼び鈴を鳴らす音がして、それから窓ガラスを叩く音も聞こえ、俺だと思って会おうとしたと言っている。ところがそれは、ドアを開けさせなかった事実と辻褄が合わない』」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.212~213」岩波文庫 二〇一一年)
第二に「嘘のつきかた」について。アルベルチーヌとアンドレとジゼルとではそれぞれ「嘘のつきかた」が違っている。これまでの比較において<私>はそれぞれの嘘の特徴をよく把握している。アルベルチーヌの場合なら「その話に不充分なところ、言い落としたところ、本当とは思えないところがあるか、それとも反対に、話を本当らしく見せるための些細な事実が過剰に出てくるか、どちらかの欠点があったことである」。
「もとよりジゼルは、アルベルチーヌと同じような嘘のつきかたはしなかった。アルベルチーヌの数々の嘘のほうが、たしかに私にはずっと辛いものだった。しかしなによりもまず、ふたりの嘘にはある共通点があって、それはある場合には嘘だという事実そのものが明々白々な点である。嘘の背後に隠れている現実が明々白々だというわけではない。殺人犯ともなればだれしも万事うまく仕組んだから自分がつかまるはずはないと想いこむが、結局、殺人犯はほぼ間違いなくつかまる。それにひきかえ嘘つきがつかまることはめったにない。なかでもこちらが愛している女はまずつかまらない。女がどこへ行ったのか、そこでなにをしたのか、こちらにはとんと見当もつかない。ところが女がこちらと話している最中に、ふと話をそらし、裏には口にこそ出さないなにかがあるとき、その嘘は即座に察知される。嘘だと感じられるのに、真相を知るに至らないのだから、嫉妬は募るばかりだ。アルベルチーヌの場合、それが嘘だと感知されたのは、この物語のなかで何度も見てきたような多くの特殊な点によってであるが、主としてつぎの点を挙げるべきだろう。それはアルベルチーヌが嘘をつくときは、その話に不充分なところ、言い落としたところ、本当とは思えないところがあるか、それとも反対に、話を本当らしく見せるための些細な事実が過剰に出てくるか、どちらかの欠点があったことである。本当らしさとは、嘘つきがどう考えるにせよ、けっして本当のことではない。本当のことに耳を傾けている最中、なにか本当らしく聞こえるだけのこと、もしかすると本当のことよりも本当らしく聞こえること、もしかするとあまりにも本当らしく聞こえることを耳にすると、多少とも音楽的な耳の持主なら、規則に合わない詩句とか、べつの語と間違えて大声で朗読された語とかを耳にしたときのように、これは違うと感じるものだ。耳がそう感じると、愛する男なら心が動揺する。ある女がベリ通りを通ったのかワシントン通りを通ったのかが判然としないという理由でもって全生涯が一変するのなら、なぜこう考えてみないのだろうか?もし当の女に何年か会わずにいる思慮分別さえあれば、その何メートルかの違いなど、いや、その女自身さえ、何万分の一かに(すなわちこちらの目には見えないほどの大きさに)縮小されてしまい、ガリヴァーよりもずっと巨大であった相手も小人(リリパット)国の女になり果て、いかなる顕微鏡をもってしてもーーー無関心となった記憶の顕微鏡はもっと強力で頑丈だから措くとして、すくなくとも心の顕微鏡では見えなくなるのだ!それはともあれ、アルベルチーヌの嘘とジゼルの嘘のあいだにはーーー嘘だとわかるというーーー共通点が存在したとはいえ、ジゼルの嘘のつきかたはアルベルチーヌと同じではなかったし、アンドレとも同じではなかったが、それでもこの娘たちの嘘は、大きな違いを見せながらも、たがいにうまくかみ合って一体化していたために、その小集団に備わる他人には入りこめない堅固さは、ある種の商社や出版社や新聞雑誌社などと同様の堅固さを想わせた。こうした団体を相手にした哀れな作家は、その構成メンバーである名士たちの多様性にもかかわらず、自分がだまされているのかそうでないのか絶対にわからない。というのも新聞や雑誌の社主がいとも誠実な物腰で嘘をつくからで、それというのも社主としては、他社に反旗を翻し『誠実』の旗幟(きし)を鮮明にした以上、貶(おとし)めてきたほかの新聞や劇場の社主や、ほかの出版社社長らの金儲け主義とまったく同じことを自分がおこない、なんら変わらぬ収益策に走っている事実をことあるごとに覆い隠さなければならないだけに、なおさら勿体(もったい)をつけ誠実そうに嘘をつかざるをえないのだ。嘘をつくのはおぞましいことだと(政党の党首のように出任せででも)宣言してしまうと、往々にしてほかの人たち以上に嘘をつかざるをえなくなるが、だからといって勿体ぶった誠実の仮面や厳かな司教冠を脱ぐことはない。『誠実な人』たる経営協力者は、社主とは違って、もっと無邪気に嘘をつく。自分の妻をだますように、軽演劇(ヴォードヴィル)ふうの仕掛けを使って作家をだますのだ。新聞雑誌の編集責任者はといえば、不作法な正直者と言うべきか、なんの底意(そこい)もなく嘘をつく。建築家が家はこれこれの時期にできあがると約束しておきながら、その時期になってもまだ工事すら始めていないのに似る。編集長ともなると、天使のごときうぶな心の持主で、前述の三人のあいだを飛びまわり、事情がわからずとも仲間としての気遣いと優しい団結心から、その三人に非の打ちどころのない貴重なことばの助け船を出す。これら四人はたえず内輪もめをしているが、作家がやって来るとその内紛はぴたりとやむ。個別の言い争いを越えて、危機に瀕した『部隊』の救援に駆けつけるという、軍人としての重要な義務をだれもが想い出すのだ。私は例の『小集団』にたいして、そうとは気づかぬまま、ずっと以前からこの作家の役割を演じていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.398~401」岩波文庫 二〇一六年)
第三にシャルリュスの場合。「みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけ」てしまう。
「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)
プルーストがいうように「あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである」。そこで読者は「嘘つきの心理学」というより、プルーストが<暴露>しているのは遥かに次元違いの「嘘つきの<政治学>」だと気づくのだ。
BGM1
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「『もういいよ、アルベルチーヌ、きみの楽しみを台なしにしたくない、行ってきたまえ、アンフルヴィルのご婦人のところでも、便宜上そう言っているだけの人のところでも、ぼくにはどっちだっていいんだ。ぼくがきみといっしょに出かけない本当の理由はね、きみがそれを望んでいないからだ、ぼくとの散歩はきみがしたかったことじゃないからだ、その証拠にきみは、自分じゃ気づいていないが辻褄の合わないことを五回以上も言ったんだよ』。かわいそうにアルベルチーヌは、自分がどんな嘘をついたのかも正確にはわからず、自分が口にした数々の矛盾はもしかすると思いのほか重大なものだったのかもしれないと心配になった。『きっと辻褄の合わないことを言ったのでしょうね。海の空気のせいで頭がちゃんと働かないんですもの。人の名前もしょっちゅうとり違えて言っちゃうし』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.445~446」岩波文庫 二〇一五年)
<私>はアルベルチーヌが突如始めた自己批判の言葉にうろたえ「胸を刺されるような苦痛」に苛まれた。しかしその間も「もういいよ、アルベルチーヌ、きみの楽しみを台なしにしたくない、行ってきたまえ、アンフルヴィルのご婦人のところでも、便宜上そう言っているだけの人のところでも」という言葉は、アルベルチーヌに対する解放の言葉として十分な正当性を持って空間を満たしている。すかさずアルベルチーヌはこういう。
「『仕方ないわ、わかりました、あたし行きますから』と悲痛な口調で言ったアルベルチーヌは、いまや私と夜をすごさなくてもいい口実を与えられて、もうひとりの相手との待ち合わせに遅れはしないかと時計を見ずにはいられなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.446」岩波文庫 二〇一五年)
と同時にアルベルチーヌは<私>に向かっていう。「あなたは疑ってるのよ、あたしのことなんて全然信用してないんだから」と。アルベルチーヌは「嘘をついていない」=「潔白だ」と言っているわけではなく「あたしのことなんて全然信用してない」と非難しているのであって、アルベルチーヌ自身が抱えている事情のすべてがまだ明らかにされていない段階で短絡的にアルベルチーヌの言動に対する是非を決定することはできない。しかしともかく<私>が「もういいよ、アルベルチーヌ、きみの楽しみを台なしにしたくない、行ってきたまえ」と言った以上、アルベルチーヌはもう一刻の猶予も許されないかのように「駆けるように飛び出していった」。しかし「翌日会いに来たときは、そんな別れかたをしたことを謝ったが、おそらくその日はお目当ての相手の予定がふさがっていたのだろう」とある。
「アルベルチーヌは、振り子時計が二十分前を指しているのを見ると、やらなければならないことをやり損なうと心配したのか、いちばん簡単な別れかたを選んだようで『さようなら、永久に』と悲嘆に暮れた表情で言うと、駆けるように飛び出していった(とはいえ翌日会いに来たときは、そんな別れかたをしたことを謝ったが、おそらくその日はお目当ての相手の予定がふさがっていたのだろう)」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.447」岩波文庫 二〇一五年)
ここでもまた強調されているのは「つぎのようなたぐいのことばである」。
「そもそも往々にして愛が生まれる原因になるのは、相手の肉体的魅力よりも、むしろつぎのようなたぐいのことばである、『だめ、わたし今夜はふさがってるの』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.438」岩波文庫 二〇一五年)
言葉(身振り)とその記号論的増殖性。延々と引き延ばされていくばかりでどこまで行っても終着点(唯一絶対的正解)はないということ。にもかかわらず、ではなく、むしろそれゆえに、「嘘つきの心理学」が研究されることにはなるのだが。
第一に、かつてオデットがスワンについた大嘘を思い出そう。オデットは全面的な嘘の中に「事実の断片を組み入れ」た。効果的だと考えたからである。するとオデットの目論見とは逆に、まったくの嘘と断片的事実との間で決して一致しないパズルが出現する。結果的にスワンは気づく。「事実と辻褄が合わない」。
「オデットはいた。さきにスワンが呼び鈴を鳴らしたときは、家にはいたが寝ていたと言う。呼び鈴の音に目が覚め、スワンにちがいないと思ってあとを追ったが、もう帰ったあとだった、窓ガラスを叩く音も聞こえた、と言う。すぐにスワンは、この言い分のなかに、正確な事実の断片が含まれているのに気づいた。不意を突かれた嘘つきが、偽りのない事実をでっちあげるにあたり、気休めにそんな事実の断片を組み入れ、その効力で嘘がいかにも『真実』らしく見えるのを期待するのと同じである。たしかにオデットは、なにか明らかにしたくないことをした場合、それを心の奥底にひた隠しにする。ところが嘘をつくべき相手が目の前にあらわれると、動転するあまり考えていたことはすべて瓦解し、創意工夫をしたり論理的に考えたりする能力は麻痺してしまう。もはや頭のなかは空白なのに、それでもなにか言わなくてはならない。そのときに出くわすのが、手の届くところにあった、ほかでもない隠しておきたいと考えていたことがらで、それは真実であるがゆえにその場に残っていたのである。オデットは、そこからそれ自体なんら重要でない小さな断片をとり出すと、結局これでいいのだ、本物の断片なのだから嘘の断片のような危険はない、と考える。『すくなくともこれならほんとうだわ。どう転んでもこっちのものよ。あの人が調べたってほんとうだとわかるだけで、これであたしが裏切られることは絶対にありえないわ』。ところがそれはオデットの考え違いというべきで、それに裏切られるのだ。オデットには理解できなかったが、この本物の断片なるものの四隅がぴったり合わさるのは、恣意的にそれをとり出した本物の事実と隣接する他の断片だけであり、いかにその断片を嘘でかためた他の断片にはめ込もうとしても、つねにはみ出す部分や足りない部分が残り、その断片がとり出されたのはそこからではないことがばれてしまうのである。スワンはこう思った、『呼び鈴を鳴らす音がして、それから窓ガラスを叩く音も聞こえ、俺だと思って会おうとしたと言っている。ところがそれは、ドアを開けさせなかった事実と辻褄が合わない』」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.212~213」岩波文庫 二〇一一年)
第二に「嘘のつきかた」について。アルベルチーヌとアンドレとジゼルとではそれぞれ「嘘のつきかた」が違っている。これまでの比較において<私>はそれぞれの嘘の特徴をよく把握している。アルベルチーヌの場合なら「その話に不充分なところ、言い落としたところ、本当とは思えないところがあるか、それとも反対に、話を本当らしく見せるための些細な事実が過剰に出てくるか、どちらかの欠点があったことである」。
「もとよりジゼルは、アルベルチーヌと同じような嘘のつきかたはしなかった。アルベルチーヌの数々の嘘のほうが、たしかに私にはずっと辛いものだった。しかしなによりもまず、ふたりの嘘にはある共通点があって、それはある場合には嘘だという事実そのものが明々白々な点である。嘘の背後に隠れている現実が明々白々だというわけではない。殺人犯ともなればだれしも万事うまく仕組んだから自分がつかまるはずはないと想いこむが、結局、殺人犯はほぼ間違いなくつかまる。それにひきかえ嘘つきがつかまることはめったにない。なかでもこちらが愛している女はまずつかまらない。女がどこへ行ったのか、そこでなにをしたのか、こちらにはとんと見当もつかない。ところが女がこちらと話している最中に、ふと話をそらし、裏には口にこそ出さないなにかがあるとき、その嘘は即座に察知される。嘘だと感じられるのに、真相を知るに至らないのだから、嫉妬は募るばかりだ。アルベルチーヌの場合、それが嘘だと感知されたのは、この物語のなかで何度も見てきたような多くの特殊な点によってであるが、主としてつぎの点を挙げるべきだろう。それはアルベルチーヌが嘘をつくときは、その話に不充分なところ、言い落としたところ、本当とは思えないところがあるか、それとも反対に、話を本当らしく見せるための些細な事実が過剰に出てくるか、どちらかの欠点があったことである。本当らしさとは、嘘つきがどう考えるにせよ、けっして本当のことではない。本当のことに耳を傾けている最中、なにか本当らしく聞こえるだけのこと、もしかすると本当のことよりも本当らしく聞こえること、もしかするとあまりにも本当らしく聞こえることを耳にすると、多少とも音楽的な耳の持主なら、規則に合わない詩句とか、べつの語と間違えて大声で朗読された語とかを耳にしたときのように、これは違うと感じるものだ。耳がそう感じると、愛する男なら心が動揺する。ある女がベリ通りを通ったのかワシントン通りを通ったのかが判然としないという理由でもって全生涯が一変するのなら、なぜこう考えてみないのだろうか?もし当の女に何年か会わずにいる思慮分別さえあれば、その何メートルかの違いなど、いや、その女自身さえ、何万分の一かに(すなわちこちらの目には見えないほどの大きさに)縮小されてしまい、ガリヴァーよりもずっと巨大であった相手も小人(リリパット)国の女になり果て、いかなる顕微鏡をもってしてもーーー無関心となった記憶の顕微鏡はもっと強力で頑丈だから措くとして、すくなくとも心の顕微鏡では見えなくなるのだ!それはともあれ、アルベルチーヌの嘘とジゼルの嘘のあいだにはーーー嘘だとわかるというーーー共通点が存在したとはいえ、ジゼルの嘘のつきかたはアルベルチーヌと同じではなかったし、アンドレとも同じではなかったが、それでもこの娘たちの嘘は、大きな違いを見せながらも、たがいにうまくかみ合って一体化していたために、その小集団に備わる他人には入りこめない堅固さは、ある種の商社や出版社や新聞雑誌社などと同様の堅固さを想わせた。こうした団体を相手にした哀れな作家は、その構成メンバーである名士たちの多様性にもかかわらず、自分がだまされているのかそうでないのか絶対にわからない。というのも新聞や雑誌の社主がいとも誠実な物腰で嘘をつくからで、それというのも社主としては、他社に反旗を翻し『誠実』の旗幟(きし)を鮮明にした以上、貶(おとし)めてきたほかの新聞や劇場の社主や、ほかの出版社社長らの金儲け主義とまったく同じことを自分がおこない、なんら変わらぬ収益策に走っている事実をことあるごとに覆い隠さなければならないだけに、なおさら勿体(もったい)をつけ誠実そうに嘘をつかざるをえないのだ。嘘をつくのはおぞましいことだと(政党の党首のように出任せででも)宣言してしまうと、往々にしてほかの人たち以上に嘘をつかざるをえなくなるが、だからといって勿体ぶった誠実の仮面や厳かな司教冠を脱ぐことはない。『誠実な人』たる経営協力者は、社主とは違って、もっと無邪気に嘘をつく。自分の妻をだますように、軽演劇(ヴォードヴィル)ふうの仕掛けを使って作家をだますのだ。新聞雑誌の編集責任者はといえば、不作法な正直者と言うべきか、なんの底意(そこい)もなく嘘をつく。建築家が家はこれこれの時期にできあがると約束しておきながら、その時期になってもまだ工事すら始めていないのに似る。編集長ともなると、天使のごときうぶな心の持主で、前述の三人のあいだを飛びまわり、事情がわからずとも仲間としての気遣いと優しい団結心から、その三人に非の打ちどころのない貴重なことばの助け船を出す。これら四人はたえず内輪もめをしているが、作家がやって来るとその内紛はぴたりとやむ。個別の言い争いを越えて、危機に瀕した『部隊』の救援に駆けつけるという、軍人としての重要な義務をだれもが想い出すのだ。私は例の『小集団』にたいして、そうとは気づかぬまま、ずっと以前からこの作家の役割を演じていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.398~401」岩波文庫 二〇一六年)
第三にシャルリュスの場合。「みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけ」てしまう。
「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)
プルーストがいうように「あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである」。そこで読者は「嘘つきの心理学」というより、プルーストが<暴露>しているのは遥かに次元違いの「嘘つきの<政治学>」だと気づくのだ。
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