眠りこむアルベルチーヌ。これまでアルベルチーヌが眠っているシーンは、変身するアルベルチーヌとして描かれていた。「蔓性植物マルバアサガオ」や音楽を奏でる「楽器」への生成変化として。次の箇所では「死んだ女/墓石」への変身が描かれる。
「あとでアルベルチーヌの部屋へはいったとき、私が目にしたのはまるで死んだ女であった。横になって、すぐ寝入ってしまったのだ。シーツは、アルベルチーヌの身体に経帷子(きょうかたびら)のように巻きついて美しい襞をつくり、石のような堅牢さを備えている」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.383」岩波文庫 二〇一七年)
起きているときのアルベルチーヌより眠り込んでいるときのアルベルチーヌの側が、変化という点で、最もアルベルチーヌに近く、そしてより一層生き生きしているように思われる。様々な変化を遂げて見せてくれる。さらにこの「死んだ女/墓石」への変身は睡眠ということと深く関わっている。睡眠はそもそも、それ以前と以後との切断であるほかないからだ。
「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である。たしかに中断があったのに(眠りが完全であったり、夢がまるで自分とかけ離れたものであったりした)、なにがわれわれを導いているのか?心臓の鼓動が止まり、舌を規則的に引っ張られて息を吹きかえすときのように、たしかに死があったのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)
不眠症に陥っていない限り、人間は少なくとも一日に一度、このような死体と化している。だから目醒めは、徐々に訪れる再生である。ところが<私>は、余りといえば余りに幸せというほかないが、起きている時に発症している不眠症について、てんで知らない鈍感さを併せ持っている。
とはいえ、ニーチェのいうような夢なら何度も見たことがあり、その意味もよく理解できたに違いない。
「《夢と文化》。ーーー睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である、それはまったく中絶するのではなくーーー人類の原始時代にはだれしも昼間や目覚めているときでもそうであったかもしれぬような、不完全な状態に後退させられている。実際それは恣意的で混乱しているので、ほんのかすか似ているだけでもたえず事物をとりちがえるのであるが、その同じ恣意や混乱でもって、諸民族は彼らの神話を詩作したのであった。そして今でもなお旅行者は、どれほどひどく未開人が忘れがちであるか、どれほどその精神が記憶力の短い緊張ののちにあちらこちらとよろめきはじめたり、単なる気のゆるみから嘘やたわごとをいいだしたりするかということを観察するのが常である。しかしわれわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十二・P.36」ちくま学芸文庫 一九九四年)
そこで現代の人間はさらに歩みを進めている。睡眠時に見る夢だけでは飽きたらなくなったのだろう。「共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態」、要約すると、繰り返し舞い戻ってくる怯えきった身体の内部がそうさせずにはおかない戦争状態への度重なる復帰。覚醒時における地上での、その不断の反復。さらにそれを時間と場所とを置き換えながら何度も繰り返し演じ続けることからもたらされる畏怖にも似た快楽(戦争経済含む)に依存するようになった。そして戦争状態がもたらす快楽(戦争経済含む)への依存度は日々増していく。
「我々の感官は、力学的・物理学的・化学的な種々の実験にますます曝されるようになり、そうした外から圧しつけられる力や律動に対して、《陰険な中毒症状》に対するような反応をします。毒に適応し、やがて毒を要求するようになるのです。そして服用量が日々不足に思われてくるのです」(ヴァレリー「知性の決算書」『精神の危機・P.188~189』岩波文庫 二〇一〇年)
この種の病的症状には今のところ、残念ながら有効な治療法は一つも確立されていない。するつもりがあるのかどうかもはっきりしない。はっきりさせたくないのかもしれない。けれどもベイトソンは報告している。
「1バリの社会で例外的に見られる累積的相互作用のうち、もっとも重要だと思われるものが、大人(とくに親)と子供との間で起こる。その典型的なシークェンスを述べてみよう。まず母親が、子供のちんちんを引っぱるなどして、戯れの行為を仕掛ける。刺激された子供は、その反応を母親に向け、二人の間に短時間の累積的な相互作用が生起する。だが、そこで子供がクライマックスに向かって動きだし、母親の首に手を回したりするなどすると、母親は自分の注意をサッと子供からそらしてしまう。この時点で子供は、別の累積的相互作用(感情の爆発に向けて相互に苛立ちをつのらせていくタイプのもの)を仕掛けることが多いが、これに母親はのらず、見る側に回って子供の苛立ちを楽しみ、子供が攻撃してきたときも表情ひとつ変えずにサラリとこれをかわしてしまう。これは、子供がもっていこうとする種類の相互作用を母親が嫌悪していることのあらわれではあるが、同時にそれが、他人とそのような関わりをもっても報われないことを子供に教え込む、学習のコンテクストになっている点に注意したい。仮に人間が、累積的相互作用に走る傾向をもともと具えているとするなら、それを抑え込む学習がここでなされていくわけである。ともかく、バリの生活に子供たちが組み入れられていくにつれて、彼らの行動からクライマックスのパターンが消えていき、それに代わって高原状態(プラトー)ーーー強度の一定した持続ーーーが現われていくと論じることは可能だ。バリ社会ではトランスも《いさかい》も、こうしたプラトー型の行為連鎖にそって進行する傾向を持つ。
2子供たちが競争と張り合いへ向かおうとする傾向が抑え込まれる例は、他にもよく観察される。たとえば、バリの母親は、わざと他人の赤ん坊に乳をふくませ、我が子がその侵入者を躍起になって引き離そうとするのを見て楽しむということを、よくする。
3バリ島の音楽、演劇、その他の芸術形態の一般的特徴として、クライマックスの欠如ということが挙げられる。音楽に関して言えば、その進行は型式的な構造に基づき、また強度の変化は、これらの型式的関係の展開のしかたと時間的長さによって規定される。近代の西洋音楽に特徴的な、強度を次第に増しながらクライマックスへと盛り上がっていく構造はなく、よりフォーマルな規則性にしたがって楽音が流れていくのである。
4バリ島の文化には、争いごとを処理する技術が確固として存在する。いさかいを起こした二人はきちんとその地区の代官のもとに出頭して、その事実を登記し、こののち最初に口を出した方のものが、科料を払うか、神に奉納することに同意する。この取り決めは、いさかいが収まった時点で正式に破棄される。この措置は『プイッ』と呼ばれるが、小さな子供の喧嘩にもこれを小型にした措置がとられるのは興味深い。ここで重要なのは、当事者の憎しみを取り除いて友好関係に導き入れようという意志が全然働いていないという点だ。むしろこれは、互いの敵対関係を正式に確認する、さらに言えば、関係を一定の敵対状態に凍結する、試みのようである。この解釈が正しければ、バリ島ではいさかいの処理にも、クライマックスをプラトーで置き換える方式が採用されているということになるだろう」(ベイトソン「バリ-定住型社会の価値体系」『精神の生態学・・P.177~180』新思索社 二〇〇〇年)
自爆的クライマックスをプラトーで置き換えること。明確な参考資料があるにもかかわらず、果たして現代人にそれができるかどうか。鬱々としてくる。