goo blog サービス終了のお知らせ 

白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・別れ話のはずが、そのはずが8/「死んだ女/墓石」としてのアルベルチーヌ

2023年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム

眠りこむアルベルチーヌ。これまでアルベルチーヌが眠っているシーンは、変身するアルベルチーヌとして描かれていた。「蔓性植物マルバアサガオ」や音楽を奏でる「楽器」への生成変化として。次の箇所では「死んだ女/墓石」への変身が描かれる。

 

「あとでアルベルチーヌの部屋へはいったとき、私が目にしたのはまるで死んだ女であった。横になって、すぐ寝入ってしまったのだ。シーツは、アルベルチーヌの身体に経帷子(きょうかたびら)のように巻きついて美しい襞をつくり、石のような堅牢さを備えている」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.383」岩波文庫 二〇一七年)

 

起きているときのアルベルチーヌより眠り込んでいるときのアルベルチーヌの側が、変化という点で、最もアルベルチーヌに近く、そしてより一層生き生きしているように思われる。様々な変化を遂げて見せてくれる。さらにこの「死んだ女/墓石」への変身は睡眠ということと深く関わっている。睡眠はそもそも、それ以前と以後との切断であるほかないからだ。

 

「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である。たしかに中断があったのに(眠りが完全であったり、夢がまるで自分とかけ離れたものであったりした)、なにがわれわれを導いているのか?心臓の鼓動が止まり、舌を規則的に引っ張られて息を吹きかえすときのように、たしかに死があったのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)

 

不眠症に陥っていない限り、人間は少なくとも一日に一度、このような死体と化している。だから目醒めは、徐々に訪れる再生である。ところが<私>は、余りといえば余りに幸せというほかないが、起きている時に発症している不眠症について、てんで知らない鈍感さを併せ持っている。

 

とはいえ、ニーチェのいうような夢なら何度も見たことがあり、その意味もよく理解できたに違いない。

 

「《夢と文化》。ーーー睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である、それはまったく中絶するのではなくーーー人類の原始時代にはだれしも昼間や目覚めているときでもそうであったかもしれぬような、不完全な状態に後退させられている。実際それは恣意的で混乱しているので、ほんのかすか似ているだけでもたえず事物をとりちがえるのであるが、その同じ恣意や混乱でもって、諸民族は彼らの神話を詩作したのであった。そして今でもなお旅行者は、どれほどひどく未開人が忘れがちであるか、どれほどその精神が記憶力の短い緊張ののちにあちらこちらとよろめきはじめたり、単なる気のゆるみから嘘やたわごとをいいだしたりするかということを観察するのが常である。しかしわれわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十二・P.36」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

そこで現代の人間はさらに歩みを進めている。睡眠時に見る夢だけでは飽きたらなくなったのだろう。「共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態」、要約すると、繰り返し舞い戻ってくる怯えきった身体の内部がそうさせずにはおかない戦争状態への度重なる復帰。覚醒時における地上での、その不断の反復。さらにそれを時間と場所とを置き換えながら何度も繰り返し演じ続けることからもたらされる畏怖にも似た快楽(戦争経済含む)に依存するようになった。そして戦争状態がもたらす快楽(戦争経済含む)への依存度は日々増していく。

 

「我々の感官は、力学的・物理学的・化学的な種々の実験にますます曝されるようになり、そうした外から圧しつけられる力や律動に対して、《陰険な中毒症状》に対するような反応をします。毒に適応し、やがて毒を要求するようになるのです。そして服用量が日々不足に思われてくるのです」(ヴァレリー「知性の決算書」『精神の危機・P.188~189』岩波文庫 二〇一〇年)

 

この種の病的症状には今のところ、残念ながら有効な治療法は一つも確立されていない。するつもりがあるのかどうかもはっきりしない。はっきりさせたくないのかもしれない。けれどもベイトソンは報告している。

 

「1バリの社会で例外的に見られる累積的相互作用のうち、もっとも重要だと思われるものが、大人(とくに親)と子供との間で起こる。その典型的なシークェンスを述べてみよう。まず母親が、子供のちんちんを引っぱるなどして、戯れの行為を仕掛ける。刺激された子供は、その反応を母親に向け、二人の間に短時間の累積的な相互作用が生起する。だが、そこで子供がクライマックスに向かって動きだし、母親の首に手を回したりするなどすると、母親は自分の注意をサッと子供からそらしてしまう。この時点で子供は、別の累積的相互作用(感情の爆発に向けて相互に苛立ちをつのらせていくタイプのもの)を仕掛けることが多いが、これに母親はのらず、見る側に回って子供の苛立ちを楽しみ、子供が攻撃してきたときも表情ひとつ変えずにサラリとこれをかわしてしまう。これは、子供がもっていこうとする種類の相互作用を母親が嫌悪していることのあらわれではあるが、同時にそれが、他人とそのような関わりをもっても報われないことを子供に教え込む、学習のコンテクストになっている点に注意したい。仮に人間が、累積的相互作用に走る傾向をもともと具えているとするなら、それを抑え込む学習がここでなされていくわけである。ともかく、バリの生活に子供たちが組み入れられていくにつれて、彼らの行動からクライマックスのパターンが消えていき、それに代わって高原状態(プラトー)ーーー強度の一定した持続ーーーが現われていくと論じることは可能だ。バリ社会ではトランスも《いさかい》も、こうしたプラトー型の行為連鎖にそって進行する傾向を持つ。

 

2子供たちが競争と張り合いへ向かおうとする傾向が抑え込まれる例は、他にもよく観察される。たとえば、バリの母親は、わざと他人の赤ん坊に乳をふくませ、我が子がその侵入者を躍起になって引き離そうとするのを見て楽しむということを、よくする。

 

3バリ島の音楽、演劇、その他の芸術形態の一般的特徴として、クライマックスの欠如ということが挙げられる。音楽に関して言えば、その進行は型式的な構造に基づき、また強度の変化は、これらの型式的関係の展開のしかたと時間的長さによって規定される。近代の西洋音楽に特徴的な、強度を次第に増しながらクライマックスへと盛り上がっていく構造はなく、よりフォーマルな規則性にしたがって楽音が流れていくのである。

 

4バリ島の文化には、争いごとを処理する技術が確固として存在する。いさかいを起こした二人はきちんとその地区の代官のもとに出頭して、その事実を登記し、こののち最初に口を出した方のものが、科料を払うか、神に奉納することに同意する。この取り決めは、いさかいが収まった時点で正式に破棄される。この措置は『プイッ』と呼ばれるが、小さな子供の喧嘩にもこれを小型にした措置がとられるのは興味深い。ここで重要なのは、当事者の憎しみを取り除いて友好関係に導き入れようという意志が全然働いていないという点だ。むしろこれは、互いの敵対関係を正式に確認する、さらに言えば、関係を一定の敵対状態に凍結する、試みのようである。この解釈が正しければ、バリ島ではいさかいの処理にも、クライマックスをプラトーで置き換える方式が採用されているということになるだろう」(ベイトソン「バリ-定住型社会の価値体系」『精神の生態学・・P.177~180』新思索社 二〇〇〇年)

 

自爆的クライマックスをプラトーで置き換えること。明確な参考資料があるにもかかわらず、果たして現代人にそれができるかどうか。鬱々としてくる。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて280

2023年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。日の入頃にはいつものように西風に乗って雲がにょろにょろ出てきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

日の入時刻に近づきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.1)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.1)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.1)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.1)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.1)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.1)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

二〇二三年三月一日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて279

2023年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で100パーセントの予想。湖東方面も晴れ。鈴鹿峠は曇りのようです。

 

午前六時十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.3.1)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.1)

 

「名称:“通勤通学路”」(2023.3.1)

 

二〇二三年三月一日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが7/「国家共同体の永遠の反語」としての「女性」

2023年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストのいう「別離の芝居」。芝居で終わるはずだった。本当の別離に繋がることなどあるはずはなかった。しかしそれは<私>の頭の中だけで描かれた<一つのストーリー>だ。「好き勝手な口を利いているだけだと想いこんでいる」に過ぎない。

 

「私たちにとって、ただ別離を口にしただけで、すでに重大だったはずなのだ。そんな別離の話をするのは、実際本気ではないのだが、自分は本気でないばかりか、好き勝手な口を利いているだけだと想いこんでいる。ところが一般にそうした会話は、想いも寄らぬ嵐の最初のつぶやきが、知らぬまに心ならずも口から漏れ出たものなのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.380」岩波文庫 二〇一七年)

 

語られている「知らぬまに心ならずも口から漏れ出たもの」とは何なのか。意識化された部分。ニーチェはいう。

 

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

意識化される部分と意識化されない部分。両者はいつも切断されている。両者はまったく別々であって、意識化された一つの言葉がいつも必ず一つの価値体系に忠実に従っているとは全然限らない。別の価値体系へ接続された言葉が意識化されて出てきたとしても、それぞれを区別することはできない。そして人間は往々にしてそのような錯覚のうちに、錯覚していないかのように、何一つ問いかけることなく、生きている。すると次にあるような思いも寄らない事態が生じる。「まずは別離を口にし、ついでそれを友好的な形で実行に移したからだ。だがこれはわれわれの気づかぬ前兆にほかならない」。

 

「ただし短期間とはいえ実現されたこの別離は、われわれがそう思うほど恣意的に決定されたわけでも、間違いなく一回きりのものというわけでもない、またしても同様の悲哀がはじまり、いっしょに暮らすことに同様の困難が募るが、ただ別離だけが以前ほど困難なものではなくなっている。まずは別離を口にし、ついでそれを友好的な形で実行に移したからだ。だがこれはわれわれの気づかぬ前兆にほかならない」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.381」岩波文庫 二〇一七年)

 

アルベルチーヌの行方について、決定的別離の到来は誰もが読んで知っている。周知の事態。だから問題は、友好的関係から無関係への転倒、<切断>、でなければならない。ヘーゲルの頃すでにあった。

 

「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.246~247」岩波文庫 一九五一年)

 

さらにヘーゲルはいう。

 

「国家共同体は、一般的なもののなかに、家族の幸福を破壊し去り、自己意識を解体してしまうことによってのみ、自ら存在しているのだから、自らが抑圧しながらも、同時に自らにとって本質的なものでもあるものにおいて、つまり女性において、本来、自分の内面の敵をつくり出しているわけである。この女性ーーー国家共同体の永遠の反語ーーーは、たくらみによって、統治という一般的な目的を私的な目的に変え、その一般的な活動をこの一定の個人の仕事に転換し、国家の公の財産を、家族の私有物や装飾品に顛倒させてしまう」(ヘーゲル「精神現象学・下・D精神・六・A・P.58~59」平凡社ライブラリー 一九九七年)

 

国家共同体が今のようにグローバル資本主義の内部へ不可避的に回収され続けていくことから逃れられないとき、女性であるとはどういうことか。女性であるとは、グローバル資本主義の部分としての国家共同体の「反語」として、グローバル資本主義の内部からグローバル資本主義をラディカルに崩壊させる機能を<生きる>ことなのだと。

 

ただ、この逆説がすべての女性に当てはまるとは必ずしも限らない。日本だけなく、世界中の首相、国会議員、地方議会議員、裁判官、弁護士、世界的に有名なCEO、大手企業の重要ポスト、国公立私立大学の指導者、警察官僚、軍人、広範囲に渡る被害者相談窓口をカバーできる心理カウンセラー、ーーー。枚挙にいとまがないわけだが、それらの女性の共通点なら指摘できる。職場は同じでも男性より遥かに人あたりがよくソフトタッチ、ほどよく誘惑的で主体性もあり仕事もできれば「リーダーシップ」もある。

 

重要なのは、新しいグローバル資本主義が最も必要としている「女性像」を現場で実践して見せてくれる新しい「管理者像」、新しいグローバル資本主義にとって理想的な、人間の顔をしてはいるもののその実冷酷峻烈この上ない「管理権力者像」の体現者、その担い手はほかでもないその種の(主に政財官学界で活躍する)女性たちだ。

 

ネグリ=ハートのいうマルチチュード概念では凡庸無能な男性たちより遥かに「優秀」なその種の女性たちをも大いに支援することになる。すでに大きな不公平性が、満遍なくとまでは言えないにしても、ほとんど至るところへ浸透しつつあるにもかかわらず、公平に支援すれば、かえって不公平さばかりがますます増えていく。かといってヘーゲル=ジジェクのような二元論にしがみついていては見えるものも見えてこないケースが山ほどある。いずれの立場を選ぶにせよいつもどこかで不均衡が生じる。だがこの種の不均衡がもたらす<学び>もまたある。マーク・フィッシャーの提案による「階級意識」の政治問題化とその可視化。そのために今何に取り組みべきか、という<学び>が。

 

昨今売れているらしい「現代思想入門」とか「現代思想地図」とかのマッピング作業。書ける人々なら日本にもいる。そもそも現代の再先端ビジネスシーンで現代思想にかかわる言葉の意味一つ知らない人間は、どこをどう探してみてもまず見あたらない。美術展や音楽演奏会に行って感想の一つも述べられない人間は、ビジネスの世界に入ることはできても、そのキーパーソンの位置に就くことは決してできない。