アルベルチーヌに繋ぎとめられているのは<私>の側ではないかという不安へ揺り戻される。これまで何度か語られてきた。だがここでは二つに対立する一方の極から他方の極への反復が確かに認められる。「アルベルチーヌは出てゆくかもしれないという不安から比較的平静な気持へと、休みなく揺れ動いた」と。
「しかし胸の動悸がひどく、ふたたび横になることができない。私は籠のなかで一方の端からもう一方の端へと飛びかう小鳥のように、アルベルチーヌは出てゆくかもしれないという不安から比較的平静な気持へと、休みなく揺れ動いた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.486」岩波文庫 二〇一七年)
不安の出現と消滅とが繰り返し反復される。何が言いたいのだろう。バルトはこのような動きを「エロティック」と呼んでいる。
「身体の中で最もエロティックなのは《衣服が口を開けている所》ではなかろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現-消滅の演出である」(バルト「テクストの快楽・P.18」みすず書房 一九七七年)
<私>の側がアルベルチーヌを監視管理しているにもかかわらず逆にアルベルチーヌに縛り付けられて身動きできない精神状態へ転倒し、いつ終わるともしれぬ苦痛の時間を延長させること。それが「エロティック」だとしたらいうまでもなく<私>はこの苦痛を快楽しているというわけだ。
もっとも、スワンの場合、苦痛の延長への意志は明らかだった。そのような快楽は考えられるだろうか。じゅうぶん考えられる。
「内面化され自己自身の内へ逐い戻された動物人間のあの自己呵責への意志、あの内攻した残忍性である。飼い馴らすために『国家』のうちへ閉じ込められた動物人間は、この苦痛を与えようとする意欲の《より自然的な》はけ口がふさがれて後は、自分自らに苦痛を与えるために良心の疚(やま)しさを発案した、ーーー良心の疚しさをもつこの人間は、最も戦慄すべき冷酷さと峻厳さとをもって自分を苛虐するために宗教的前提をわが物とした。《神》に対する負い目、この思想は彼にとって拷問具となる。彼は自分に固有の除き切れない動物本能に対して見出しうるかぎりの究極の反対物を『神』のうちに据える。彼はこの動物本能を神に対する負い目として(「主」・「父」・世界の始祖や太初に対する敵意、反逆、不逞として)解釈する。彼は『神』と『悪魔』との矛盾の間に自分自らを挟む。彼は自分自身に対する、自分の存在の本性・本然・事実に対するあらゆる否定を肯定として、存在するもの・生身のもの・現実のものとして、神として、神の神聖として、神の審判として、神の処刑として、彼岸として、永遠として、果てしなき苛責として、地獄として、量り知ることのできない罰および罪として、自分自らのうちから投げ出す。それは精神的残忍における一種の意志錯乱であって、全く他にその比類を見ることのできないものである。すなわち、それは自分自身を到底救われがたい極悪非道のものと見ようとする人間の《意志》であり、自分の受ける刑罰は常に罪過を償(つぐな)うに足りないと考えようとする人間の《意志》であり、『固定観念』のこの迷路から一挙にして脱出するために事物の最奥に罪と罰の問題の害毒を感染させようとする人間の《意志》であり、一つの理想ーーー『聖なる神』という理想ーーーを樹てて、その面前で自分の絶対的無価値を手に取る如く確かめようとする人間の《意志》である。おお、この錯乱した痛ましい人間獣の上に禍あれ!この人間獣が《行為の野獣》たることを少しでも妨げられるとき、奴は何を思いつくことか!どんな途轍(とてつ)もないことが、どんな乱心の発作が、どんな《観念の野獣性》がただちに勃発することか!ーーーこれらはすべて極度に興味ある事柄ではあるが、しかしまた暗黒な、陰鬱な、神経を鈍らせるような悲哀に包まれている。だから、諸君はこの深淵を余り長く覗き込むことを自ら戒めなければならない。疑いもなく、ここには《病気》がある。これまで人間のうちに荒れ狂ってきた最も恐るべき病気があるーーーそして拷苦と背理とのこの夜のうちに、《愛》の叫びが、最も憧憬的な狂喜の叫びが、《愛》における救いの叫びが響き渡っていたのをなお聞くことのできる者は(だが、今日われわれはもはやそれを聞き取る耳をもたないのだ!ーーー)、打ち克ちがたい戦慄に囚えられて面を背けるーーー人間のうちにはこれほど多くの愕くべきものがあるのだ!ーーー地上はすでに余りに長い間癲狂院であったのだ!」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・二二・P.109~115」岩波文庫 一九四〇年)
スワンは苦痛自体に惑溺しているのではなく、スワンが愛しているオデットがスワンを愛してくれているか確証が持てない宙吊り状態に置かれており、この宙吊り状態がもたらす苦痛というものは、どこまでも延々引き延ばすことができるとわざわざ読者に伝える記号として、身振りとして、実にしばしば死にたがる機能を演じている。
さて、中井久夫のいう「<些細な>きっかけ」について。何をきっかけにして統合失調症発症へ至るのか。
「分裂病になる確率を仮定します。確率Pは誰でもゼロではありません。非分裂病状態Rから分裂病状態Sへと移行する確率Pはゼロと1との間にあります。また一人の人間でも絶えず変動しているようです。秒、分、時間単位から日、週、月、年単位まで人間にはさまざまな周期がありますが、それらは一般に通分できない数値のようにみえます。それらが周期して大きな山や谷ができると危ないからでしょう。大きなタンカーをも沈めると恐れられている三角波は多くの波の周期が同期してできる合成波です。しかし同期しやすい時刻はあります。
一日のうちでも夕方はどうも同期しやすいようです。実際に、夕方には対象のない不安が高まります。また、患者の中でも夕方だけ分裂病症状を示す人が結構あります。さらに、誰であろうともおおよそ四時から七時までの間は不安や孤独感が高まるようです。医局で患者からの電話を受けていますとよくわかります。『八時まで待ってごらん、まだ続くようだったらかけてらっしゃい』といって待っていると、もう一度かけてきた人はほとんどいないものです。ですから、一部の人には不幸にも人生のある時期に、非常に大きい合成波が起こって、確率Pが三角波のように高まるのかもしれません。波の形がある程度以上けわしくなると波頭が砕けます。そういうイメージが浮びます。これが破綻です。分裂病発病に至る事件には一見些細なものが少なくありません。不幸だけれども、この人はいつかは何かの折に発病しただろうと思ってしまう人もないではありませんが、どうしてこの人が?!と思う人もあります。しかもきっかけとみられるものは些細なのです」(中井久夫「最終講義・P.47~49」みすず書房 一九九八年)
といっても、何が「<些細な>きっかけ」になるのか、個人差があるというありふれた凡庸な話ではない。そこで、大手スーパーの店員(レジ係)とその客たちという場面を設定してみよう。
(1)レジでは今ちょうど引き継ぎの時間がやってきたとしよう。客たちは行列を作っているわけではないが、ほんの二人ほどレジに近づいてくるところだ。店員(レジ係)は早く引き継ぎを済ませようと次の店員(レジ係)に話し始めた。シフト表通りでもあるし早く引き継ぎを済ませて保育所へ向かわないと約束通りに子どもを帰宅させることができない。
(2)ところが、多くの人間が経験しているように、引き継ぎという作業は、そういつも上手く行くとは限らない。ベテラン同士でさえ時には混乱して思いのほか手間取ることがある。そうこうしているうちに客は二人ともレジに並んでしまった。最初の一人は大金持ちで恰幅のよい男性、次の一人はいつも心に不安を抱えていて見た目も心細そうで声も小さい女性。
(3)引き継ぎの間、最初の男性は多少いらいらしながらも「紳士的」に振る舞い、客のことを放ったらかしにした引き継ぎに割って入り自分の支払いを済ませた。男性はそこで立ち去ろうとする。定点カメラで見ているとする。すると次に待って並んでいる見た目も心細そうで声も小さい女性もまた、さっさと支払いを済ませてレジを通過していくように映る。
(3)ところが、先の男性が少し見ていたところ、次の女性客がよろよろとレジの正面に立とうとするかしないのを見計らって、店員(レジ係)は途端に自分たちだけの引き継ぎにすっかり戻ってこそこそ何かしゃべり出してしまった。女性客はただでさえ心細い精神状態であるのに無視され後回しにされても構わないかのような取り扱いを受け、ないがしろにされて甚大な衝撃を受ける。だからといって、その女性が衝撃のあまりただちに統合失調症を発症するとは必ずしも限らない。精神的な面で問題が生じるのは実は大金持ちで恰幅のよい男性の側だったりする。
(4)店員(レジ係)の態度は、見るからに恰幅のよい男性が「紳士的」に振る舞う限りで、さっさと支払いを済ませてくれた。ところが何気なく見ていると、あるいは嫌でも目に入ってくるわけだが、自分の次にレジに並んだ弱々しい女性はあっけなくないがしろにされた。この違いがあり得ない衝撃として男性の心に深々と突き刺さる。大金持ちといっても地道にこつこつ仕事に従事してきた人間であればこそ大金持ちの系列に数え上げられるほどになったわけである。そういう人々は少なからずいるわけであって、大都市にいるとはまったく限らずどこにでもいるわけであり、「心のうぶ毛」を失ったわけでもなんでもない。むしろ「心のうぶ毛」を摩滅させないよう大切に、注意深く仕事に携わってきて始めて生活に多少の潤いが出てきたというに過ぎない。
(5)衝撃の質とその度合い。それは見た目では決して判断できない。恰幅のよい男性は優先されるが弱々しい女性はないがしろにされる。この種の待遇格差があちこちに蔓延しているのをずいぶん見てきた社会経験豊富な男性は、ここでもまた直視してしまった待遇格差ゆえにとうとうその夜、不眠に陥ったとしよう。不眠は統合失調症発病の重大な兆候の一つである。その点で、最も統合失調症発症の可能性が高いのは、今ここで試しに設定したケースでは、この男性だということになる。
(6)次に女性客だが、このようなケースの女性客は今なお大勢いることを踏まえていえば、またこんな目に遭わされたかとさらに絶望と不安とを増してますます社会経済活動から遠のいていく。そしてこの際に味わった衝撃が中井久夫のいう「合成波」として作用すればもうその帰途で、電車内なら電車内で、急性期症状に襲われる可能性が飛躍的に高まる。高速で近づいてくる破綻を回避しようとして脳が選択する方法を中井久夫は次に上げる。
「私は、分裂病から人間を護るシステムとは何かということを考えました。その候補は、発病の時に最後のあがきのように乱れた活動を示すもの、また回復の折にまっさきに現れるものに求めるのが順当でしょう。私はこれをまとめて次の順に並べてみました。睡眠、夢活動、心身症、意識障害、死です」(中井久夫「最終講義・P.44」みすず書房 一九九八年)
電車での帰途、途中下車して線路に飛び降りる人々は、何を考えて「死」を選んだのか。AIはその根拠を可能性として列挙するだけで、決定することはできない。あくまで未決定のまま宙吊りすることしか知らない。
「<些細な>きっかけ」。実に「<些細な>きっかけ」だ。「きっかけ」はとても「<些細な>だ。ところがそれが「きっかけ」になるとは、監視管理する側の人間も、よりいっそう徹底的に監視管理体制を強化し更新再更新していく機会装置の側も、一向に気が付かない。
(7)さらに、引き継ぎに夢中になる余り、二人の客に愛想を尽かされた店員(レジ係)はどうか。客を失ってスーパー全体になにがしかの打撃を与えたことになる。また保育所に預けてある子どもとの約束も果たせない。
ではレジをAIに任せることにすればどうだろう。
(8)AIは目認証・顔認証ができる。さらに生活スタイルの変化で同じ時間帯に大量の客が行列をなすことも少なくなってきた。レジが停滞することはほとんどなくなる。しかしAIの普及は人員削減の加速化であるだけでなく、雇用者側にとって人員削減が合理的かつ効率的であるという根拠を雇用者側に有利な形ですぐさま提供できる便利な道具でもある。大手スーパーで正規雇用と非正規雇用との賃金格差を解消する場合、人員削減を条件として始めてこの種の賃金格差を解消することができるとAIが指示してくるとしたら、雇用者側はどうするのだろう。もっとも、AIは機械なので責任を取ることはできない。
(9)と同時にAIは合理的に更新再更新を繰り返していく機械であるがゆえに、第一選択肢がたちまち第四選択肢の位置へ交代することはいくらでも起こりうる。今のように多くの消費者の手に貨幣(預貯金)がなく、従って労働力の再生産はほとんど絶望的だという状況では、当然、どんな商品をどれくらい準備しておけばよいかという初歩的段階からして、AIにとっての第一次資料が余りにも少なすぎるため、すでに躓く。さらにただ単なる機械だけでは利潤は生まれない。機械は人間労働力と合体されて始めて利潤を生む。ところが現在のところ、これといった消費者はほとんど見あたらない。消費者の再生産はもっと遠のくばかりである。
(10)なお、グローバルネット社会の成立に伴い、いつどこにいても仕事が欲しければ手に入る状況ができた。<釜ヶ崎の世界化あるいは世界の釜ヶ崎化>はたいそう頼りない形ではあれ、ほぼ形成された。けれども、そもそも人間身体はいつまでもそのような不自然な暮らしを続けることは決してできないようにできている。時間的生活スタイルの変化によって一度に客が行列をなして混雑するような風景はなるほど激減する。とはいえ次々とシフトが置き換えられる職場の不自然さとその不健康性に気づいた人々から順番に、元の生活スタイルに戻ったり自分の心身に見合ったまったく別の新しい生活環境を模索する動きが相次いでいる。多様な選択枝を提案するだけでなく実際に多様な社会の構築の実現をAI自体が目指すようにもなってきた。
(11)AIにできることはAIに任せればいい。ところがつい数日前からあちこちでAIの投げ売りにも似た広告が立て続けに報道されている。どういうことか。これまで押し進められてきたAI活用法はもう先が見えた、隠しておく必要がなくなった、一般の目に見えるところへ広く開示して売り飛ばしてみてもいい頃だろう。ということではないだろうか。
(12)十年ほどの間に増えてきた傾向について。すでに巷にあふれかえっているスマートフォン利用者の言葉を見てみよう。とりわけスマートフォン利用者の「嘆き・呆れ」の中で目立って増えてきたのは、画期的アップデート、画期的モデルチェンジなど、実をいうとここ三年くらい一つも見られないばかりか、どうでもいいアプリばかり提案されてもうたくさんだというため息である。
ここまで来てなお、現状は、若年層とAI使用に関する重大問題へ繋がっている。
(13)AIを駆使するIT企業が配給する最新型のゲームの問題。ゲーム好きの人々はゲームを通して何を学ぶか。どんどん更新再更新されていくシチュエーション、次々置き換えられていくフォーメーション、それらを器用にこなしていくことで身に付くのはただ単なるゲームの楽しみ方だけではない。電気料金がかさむことだけでもない。どんどん更新再更新されていくシチュエーション、次々置き換えられていくフォーメーション、それらを器用にこなしていくことで身に付くのは、世界中いつどこにいても、そこがいきなり戦場と化した際、どう振る舞えばいいかというサバイバル戦術である。なかでも「優れた」サバイバル戦術体得者は、日本列島のどこにいたとしても、そこがいきなり戦場になるや否や、ただちに戦場の指揮官として何年続くか見通しのつかない仕事を提供される。もっとも、拒否するかしないかを決めるのは自由だ。しかしもし拒否すれば拒否した人物として瞬時に「非国民一名」としてデータ化される怖れは常にある。現代日本社会の全体主義化はこのような方法で押し進められていると考えることはいとも簡単なのだ。
(14)日本のテレビは今年に入って「闇バイト」という言葉を流行語のように流通させている。知らなければただではおかないとあたかも脅迫に等しい恫喝放送を延々続けて見せつけている。が、丸一年をかけてウクライナ戦争を見る時間のあった日本にとって、戦場での指揮官もまた「闇バイト」の一つだ。ロシア側かウクライナ側か未確認としながらも兵士たちはグローバルネットワークーーーとりわけスマートフォンーーーを通して広く応募できる状況にあると口やかましく盛んに煽り立ててきた。ここ三ヶ月ばかりテレビはずっとそう宣伝してきた。そして一昨日くらいになって日本政府は「取り締まる」と約束した。けれども今上げたようなケースで「取り締まる」とは具体的にどのような取り締まりを意味するのかよくわからない。
(15)そう言ってみたところで、まだ問題は何一つ解決していない。「心のうぶ毛」というものはいつも固定された一定不変の質を保っているわけではまるでないからだ。「心のうぶ毛」自体が常に機敏に反応し変化する柔軟性を持つものであるということを忘れ去ってはいけないと思うのである。
(16)大金持ちで礼儀もわきまえ恰幅のよい男性の場合。その後どうなったかについて。アルコール病棟に入院していた一九九〇年代後半に実際に本人から聞くことができた。十年以上の長期入院患者。会話はできるのだ。ただ、いつも不安で不安で仕方がないという。どれほどお金を持っていても怖くて怖くて不安の持って行き場がないという。強迫神経症の圏内を通り越して統合失調症状態へ立ち至った例だという診断結果を自分で言っていた。長期通院者のケースではほとんど沈黙してしまっている。お金はある。ありあまるほどあるらしい。ところがほとんどの場合、いくらお金持ちでも「こればっかりはどうしようもない」、と絶望的なため息で会話は途切れてしまう。いずれにせよ、問題は、個人のみに帰することは決してできない。社会環境と、それを一緒に作り上げている多くの人間とともにあるとしかいえない。