<私>は音楽を知性で処理したがる。例えば、このキーの楽曲でこのコード進行ならこのスケールが使えるので次のようなメロディになる、先も読める、それでもうその楽曲を「理解した=わかった」と考える。音楽の作り手にしても演奏家にしても聴き手にしても、そういう方法で始めて「理解した=わかった」と考える場合がほぼ全員なのではないだろうか。アルベルチーヌは<私>もまたその一人だということをよく理解している。なので<私>を楽しませるためには<私>が初めて聴く楽曲か、二、三度しか聴いたことのない楽曲をピアノで聴かせる。<私>の知性が満足をおぼえる楽しい時間を提供する。
「というのも私を理解しはじめたアルベルチーヌは、私が注意ぶかく聴きたがるのは私にとっていまだ判然としない曲だけなのを知り、私が好むのは、何度も演奏を聴くうちに、しだいに増大はするが遺憾ながら対象を歪曲してしまうわが知性の光、そんな対象とは無縁な光を当てることによって、当初はほとんど靄(もや)のなかに埋没していた構成の断片的なきれぎれの輪郭をたがいに結びつけることにあると心得ていたからである。最初の一、二回の演奏において、星雲のごとくいまだ形をなさぬ混沌としたものに形を与える作業が私の精神に与える歓び、それをアルベルチーヌは知っていたし、また理解していたようだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.413」岩波文庫 二〇一七年)
アルベルチーヌのピアノは巧みに<私>の「知性」を満たそうとする。<私>にとって「当初はほとんど靄(もや)のなかに埋没していた構成の断片的なきれぎれの輪郭」ばかり提示する。<私>は「星雲のごとくいまだ形をなさぬ混沌としたものに形を与える作業」に夢中になれる。
だが「断片的なきれぎれの輪郭をたがいに結びつける」ことは最初のバルベック滞在で始めて遭遇した「だれがだれかも分からぬ子供っぽい少女の一団」を思い起こさせる。その中にアルベルチーヌもいた。けれども「ほかの子よりきらきら光るふたつの目とか、いたずらっ子のような顔とか、ブロンドの髪とかを見わけたとしても、それらはたちまち見失われ、すぐにぼんやりした乳白色の星雲のなかに溶けこんでしまう」。曖昧模糊とした「星雲」へ繰り返し回帰していく。
「のちに一枚の写真を見て、そのわけが腑に落ちた。この娘たちは、見違えるほど完全に容姿を変えてしまう年頃をようやくわずかに越えたばかりで、そんな娘たちのなかに、ほんの数年前、砂浜のテントのまわりに輪になって座っていた、かわいらしいがだれがだれかも分からぬ子供っぽい少女の一団を、どうして認めることができたであろう?そんな一団は曖昧模糊とした白い星座のようなもので、そこにほかの子よりきらきら光るふたつの目とか、いたずらっ子のような顔とか、ブロンドの髪とかを見わけたとしても、それらはたちまち見失われ、すぐにぼんやりした乳白色の星雲のなかに溶けこんでしまうのだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.395」岩波文庫 二〇一二年)
<諸断片>へ個々別々に切断することができる。とともに<諸断片>はいついかなるときでも、どんな形態の「星雲」へも接続、組み合わせ組み換え可能である。
音楽は理解するものかどうか。音楽理論を持ってきて「知性」で理解するものかどうか。そうではない、とプルーストは教えている。
アルベルチーヌが<未知の女>でありつづけるのは「知性」ではなく「感性」の次元に生きる女だからである。<私>がどれほど高度な知性を身につけたとしても、当時すでにAIがあったとしてもなお、アルベルチーヌを理解することは全然できない。いつも予測不可能な<未知の女>でありつづける。アルベルチーヌ自身が予測不可能性と化したからだ。
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