生成変化していく欲望の無限の系列。それがアルベルチーヌという名を与えられて語られている。アルベルチーヌの欲望が次々と形態変化して、というより、アルベルチーヌはいつも欲望だとプルーストはいうのである。そのことが<私>を怖れさせる。次の箇所はアルベルチーヌの性格について述べられているわけではいささかもない。
「ある人に惚れこんでいても、三日もすると、その人が訪ねてくるのもいやだと言う。また絵をやりたいと言いだすと、私がキャンパスや絵の具を買いにやらせるまで、一時間も待つことができない。二日間というもの、乳母とひき離された子供ように、いらいらして涙を流さんばかりに悲しむが、そのあとはけろっとしている。アルベルチーヌの人間や、事物や、用事や、芸術や、国々にたいする感情のこのような変わりやすさは、実際すべてのことに当てはまるので、私には信じられないが、たとえお金を好きになったとしても、それをほかのものよりも長いあいだ好きになることはできなかったはずである。アルベルチーヌは『ああ、あたしに三十万フランの年金があったらいいのに!』と言ったとき、たとえ良からぬことを考えていたとしても、それは長つづきせず、私の祖母が持っていたセヴィニエ夫人の本の挿絵で見たレ・ロシェへ行きたいとか、ゴルフの女友だちに会いたいとか、飛行機に乗りたいとか、叔母といっしょにクリスマスをすごしたいとか、また絵をはじめたいとか、そんな欲望と同じくさほど長く執着することはなかっただろう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.503~504」岩波文庫 二〇一七年)
脱中心化の運動として述べられている。諸商品の無限の系列。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)
だからアルベルチーヌは商品なのかというと、そうでもない。経済学でいう商品とも経済学批判でいう商品とも違っている。
「アルベルチーヌは『ああ、あたしに三十万フランの年金があったらいいのに!』」と言った際、「それは長つづきせず、私の祖母が持っていたセヴィニエ夫人の本の挿絵で見たそれは長つづきせず、私の祖母が持っていたセヴィニエ夫人の本の挿絵で見たレ・ロシェへ行きたいとか、ゴルフの女友だちに会いたいとか、飛行機に乗りたいとか、叔母といっしょにクリスマスをすごしたいとか、また絵をはじめたいとか、そんな欲望と同じくさほど長く執着することはな」い。
アルベルチーヌは「商品」ではなく逆に脱中心化を諸商品の無限の系列として生成変化していく「貨幣」なのだ。それは捕獲することも捕獲されることもできない。ベケットを思い出そう。
「だがとどのつまり、積み荷という言葉は、十六個の石を四つずつのグループに分けて、グループごとに一つのポケットに入れるという分配以外の何者をも、それ以上の何物をも意味しないこと、そして、これまで私の計算を誤らせ、この問題をまさに解決不可能にしていたのが、別の分配方法を考えることを拒否していたためだったことを見抜いたように思われた。そして、この解釈がよかろうと悪かろうとそこから出発して、私はついに一つの解決に到達することができた。たしかにスマートな解決ではなかったが、確実な、堅固な解決に。ところで、この問題には別の解決が、私がこれから述べようとする解決と同じくらい確実堅固で、さらにスマートないくつかの解決策があった、いや、今でもあると思う。思うどころか強く信じている。そればかりか、もう少し頑固(がんこ)なら、もう少し抵抗すれば、私自身それらを発見できただろうとさえ信じている。しかし私は疲れていた、疲れて。そして、この問題については、最初の解決に、それも解決には違いなかったから、卑怯(ひきょう)にも満足した。さて、そこまでたどりつく前に通り抜けたかずかずの段階、苦悩の総ざらいは割愛して、その解決策とは、その醜さ、次のごときものだ。なんてこともない、ただ(ただ!)、まず手はじめに、たとえば、六個の石をオーバーの右のポケットに入れ、というのも、相変わらずそれが供給用ポケットだからだが、次にズボンの右のポケットに五個、そして最後にズボンの左のポケットに五個おさめる、これで勘定が合う、五掛ける二足す六で十六、そして、オーバーの左のポケットには一つも入れない、もう残っていないのだから、それはさしずめ、からにしておく、もちろん、石がないということだ、なぜなら、いつものナイフは相変わらずそこにはいっているし、ほかにも、そのときどきの品物はおさめてあるからだ。なぜなら、いったい、果物ナイフや銀食器や自転車のラッパや、まだ名をあげていず、あるいはけっして名をあげないかもしれないそのほかのものをどこに隠しているとお思いか。よろしい。これで私はしゃぶりはじめられる。よくごらんいただきたい。こうして、オーバーの右のポケットから石を一個取り出す、それをしゃぶる、それとももうしゃぶらずに、オーバーの左のポケット、つまりからの(石のない)ポケットに入れる。オーバーの右のポケットから二番目の石を出し、しゃぶり、オーバーの左のポケットに入れる。こうして、オーバーの右のポケットが(いつもの品物、それに、そのときどきの品物は別として)からになり、一つまた一つとしゃぶった六個の石がすっかり、オーバーの左のポケットにおさまるまで続ける。そうしたら、一時しゃぶるのをやめ、精神を集中する。ばかなことをしでかさないためだ。そして、もう石のなくなったオーバーの右のポケットへズボンの右のポケットの五個の石を移し、そのかわりに、ズボンの左のポケットの五個の石を移し、そのかわりんオーバーの左のポケットの六個の石を移す。そこでふたたびオーバーの左のポケットには石がなくなり、一方、オーバーの右のポケットは、ふたたび、石の供給を受け、しかも、うまいぐあいで、つまり、今しゃぶったのではない石だというぐあいで、それを今度は一つ一つしゃぶり、順々にオーバーの左のポケットがふたたびからに(石がないことに)なり、しゃぶったばかりの五個が例外なしにすべてオーバーの左のポケットにおさまったら、そのときに、先ほどと同様の、あるいは類似した再分配に取りかかる、つまり、ふたたびあいたオーバーの右のポケットに、ズボンの右のポケットの五個の石を移し、そのかわりにズボンの左のポケットの六個の石を移し、そのかわりにオーバーの左のポケットの五個の石を移す。これで、ふたたびはじめる準備ができる。続けようか?いやいや。次のおしゃぶりと移動のひと回りの末には、最初の状況に戻るのだから。つまり、ふたたび最初の六個の石が供給用のポケットにあり、次の五個が古びたズボンの右のポケットにあり、最後の五個が同じくズボンの左のポケットにあり、そして、十六個の石は非の打ちどころのない順序で、そのうちのただ一つとして二度しゃぶられることもなく、ただ一つとしてしゃぶられずじまいということもなく、一回目のおしゃぶりを終えているはずなのである。なるほど、こうしても、次のときには一回目と同じ順序で石をしゃぶることはほとんど期待できないし、たとえば一回目のの循環の一番目の、七番目の、あるいは十二番目のかし、この不都合は私には避けがたかった。そして、循環を全体として見た場合、少なくとも各循環の内部には、解きがたい混乱が支配していたとしても、私は安心だった、つまり、この種の活動においてそうなれるかぎりにおいて、安心だった。なぜなら、口のなかへはいる石の順序に関して各循環がまったく同じであるためには、そして、私がそれをどれほど望んでいたかは神のみぞ知っているが、そのためには、ポケットが十六あるか、石に番号がついている必要があったのだ。そして、ポケットを十二追加するか、あるいは石に番号をつけることより、私は、各循環を別々に考えた場合、そのなかで享受できるまったく相対的な安心で満足することのほうを選んだ。なぜなら、石に番号をつけるだけではまだだめで、石を口に入れるたびに、正しい番号を思い出し、その番号をあちこちのポケットから捜し出さなければならなくなるからだ。それはたちまちのうちに石の味を失わせてしまっただろう。なぜなら、一種の台帳でもつけるか、しゃぶるにしたがって石にしるしでもつけないかぎり、まちがいないという確信はけっして持てなかっただろうから。そして、そんな手間は、私にはとてもできないと思われた。いや、唯一の完全な解決策は系統的に取りつけられて、一つずつ石をおさめた十六のポケットだったろう。そうすれば、番号を打つことも、考えることもいらず、ただ、一つの石をしゃぶっている間に、ほかの十五の石をポケット一つ分だけ進めればよい。たしかにこれも微妙な仕事だが、私の能力を越えてはいない。そして、しゃぶりたくなったら、いつも同じポケットを探りさえすればよい。こうすれば、各循環を別々に考えてのそのそれぞれの内部だけでなく、循環全体について、それが終わりなく続こうとも、私は安心していられたろう。だが私は、自分の解決策、不完全なものではあっても、それを自力で見つけたことにどちらかと言えば満足した、そう、かなり満足した。そして、それが、発見の最初の熱気のなかで思ったほど確実ではなかったとしても、その野暮くささはまったく保ち続けた。特に野暮くさいのは、私見では、次の点だった。すなわち、石を均等に配分しないというのが、私にはつらかった、肉体的に。たしかに、ある瞬間、各循環のはじまり、つまり、第三のおしゃぶりのあと、第四のそれの前には一種の均衡が訪れた。だが、長続きはしなかった。そして、それ以外のときは、石の重みで、ときには右手へ、ときには左手に引っぱられるのが感じられた。したがって、積み荷の調整をあきらめたのは、原則の問題以上のなにかを、すなわち一つの肉体的欲求をあきらめることだった。しかし、すでに述べたように、手当たりしだいではなく、肉体的欲求が妥協の余地なく対立したのだ。これもよくあることだ。しかし、ほんとうのところ、右に左に、前に後ろに引っぱられて、均衡が失われたように感じられようが、しゃぶるたびに、別の石か同じ石にぶつかることが、何世紀も何世紀も続こうが、そんなことは全然どうでもいいことだった。それというのも、石はみんなまったく同じ味がしたからで、十六個拾ったのも、それをある方法で運ぶとか、かわるがわるしゃぶるためではなくて、ただ、ちょっとした手持ちをつくっておいて、なくなることがないようにするためだったのだ。しかしまた、ほんとうのところ、なくなってしまえば、それでも、かまわなかった。なくなってしまえば、なくなってしまったときのことで、それで苦しみが増すわけではない、ほとんど増さない。そこで、最後に私が受け入れた解決策というのは、一つだけは別にして、石をみんなほうり投げてしまうことだった。そして、その一つを、ときには一つのときには別のポケットにしまっておいた。それももちろん、やがてはなくなすか、捨てるか、くれてやるか、それも呑(の)み込むかしてしまった」(ベケット「モロイ・P.104〜109」白水社 一九九九年)
何か意味があるだろうか。何もないわけではない。むしろ無数の意味や価値があるということはいつでも可能だ。ところがここには問いもなければ答えもない。何もないわけではない。ただ、それだけのことが反復され、さらに形を変えて繰り返し反復されていくばかりなのだ。