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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて324

2023年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。雨降りでした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

日の入時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

二〇二三年三月二十三日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて323

2023年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は雨、湿度は89パーセントのようです。湖東方向も雨。鈴鹿峠は曇りのようです。

 

午前五時四十分頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.3.23)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

日が覗きました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.23)

 

二〇二三年三月二十三日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・曖昧化する境界線、しなやかなリズムとしてのアルベルチーヌ/脱軍事的編成と<多極化>の時代

2023年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌは「半分の時間を他人の家で暮らした習慣ゆえに身についたもの」を身に付けている。悲劇でもなければ喜劇でもない。「習慣」を身に付けないという「習慣」を生(性)として生きる。絶対的基準の消滅と境界線の曖昧化。一つの「習慣」が支配する世界へはまり込んだと思ったら、すぐさま次の場所へ移動すること。

 

瞬時に変身するし次々に変身する。実在する置き換え可能性としてのびのびしている。その軽快さはまるでモーツァルトの音楽のようだ。どこにでもいるわけだが、出会えない人々はいつまで経っても出会うことができない。出会っているのに気づかないということがしばしば起こる。

 

「アルベルチーヌには、以前は半分の時間を他人の家で暮らした習慣ゆえに身についたものかもしれないが、あっという間に私たちといっしょにパリへもどる決心をしたときのように、なにごとにも即座に応じられるという美点があった。アルベルチーヌは私に言った、『もし車から降りないのなら、この格好で行ってもいいでしょ』。そう言うと、自分の部屋着を隠すにはフォルティーニのふたつのコートのうちどちらにすべきかーーーまるでふたりのタイプの異なる男友だちのどちらを連れてゆくか迷ったみたいにーーー一瞬ためらい、すばらしいダークブルーのコートを羽織って、帽子にはピンブローチを挿した」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.493~494」岩波文庫 二〇一七年)

 

(1)「なにごとにも即座に応じられる」ということは「なにごとにも即座に応じ」<ない>ことが可能だ。といってしまえば余りにも当たり前すぎる。ところが人間は実にしばしばこの当たり前さに気づかない。

 

さらに「なにごとにも即座に応じられる」<ふり>をすることはいとも容易いということをも意味する。日本のテレビが演じ続けている<猿芝居>とは真逆の伸縮自在さに恵まれている。常に横断的で、「習慣」による秩序化圧力がアルベルチーヌを捕縛しようと動き始めるや、すぐさま捕縛しようのない<しなやかさ>として生きる。周囲から見ればどこの何ものとも知れない<他者>に映る。

 

ところが、これと似た経験をした近代日本人がまったくいなかったわけではない。留学という方法があった。夏目漱石もその一人だ。「道草」冒頭がそうであるように、主人公は留学帰りであり日本との出会いは改めて出会う再会という形を取っていて、すでに主人公は<他者>として登場する。世界の一つ一つの要素はいつも置き換え可能だという認識が当たり前として身に付いている。知らないのは主人公を埋め尽くしている近代日本の社会という極めて重々しい、失敗することがわかりきっているにもかかわらず、方向転換しようとしない、世界を<見ない>人々ばかり。

 

アルベルチーヌはニーチェが「習慣の道徳」と呼んだものから別の価値体系へ移動することに何の不安も伴わない。場所移動の重要性。プルーストが創作にあたって見つけた一つの態度だ。

 

「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)

 

(2)「フォルティーニのふたつのコートのうちどちらにすべきかーーーまるでふたりのタイプの異なる男友だちのどちらを連れてゆくか」。いずれに<なる>こともできる。無限の組み換え組み合わせが可能だ。

 

肝腎なのは、アルベルチーヌはあらゆる「道徳」から自由であり続けていくという軽やかな身振りだ。ここで「道徳」という名の暴力の濫用について、少しばかり述べておく必要がある。

 

<神は死んだ>というだけでは誤解を生む。誤解がいけないというわけではない。とはいえ間違いなく、第二次世界大戦は、わざわざ誤解をとことん利用した人間たちの手で遂行された大量殺戮である。ニーチェはもっと慎重に述べている。<神は死んだ>とはどういうことか。一つの絶対的道徳が無効化したということだけを言っているわけではまるでない。

 

「群畜的本能。ーーー道徳というものにぶつかる場合、いつでもそこにわれわれは人間の諸々の衝動や行為の評価と等級づけのあるのを発見する。これらの評価と等級づけは、いつでも、ある共同体や群畜存在の要求の表現なのである。《これらのものに》とって第一に役立つーーーまた第二にも第三にも役立つーーーもの、それがまたすべての個々人の価値を定めるうえの最高の規準でもある。道徳によって、個人は、群畜存在の機能であるように、また機能としてだけ自分を価値づけるように、導かれる。一共同体を維持する諸条件は他の共同体のそれとは非常に違っていたから、きわめてまちまちな道徳が存在した。さらに、もろもろの群畜存在や共同体、国家や社会に今後おこるでもあろう本質的な変革を頭におけば、次のようにわれわれは予言することができる、ーーーこれからも随分と変り種の道徳があらわれるだろう、と。道徳性とは、個々人における群畜的本能のことである」(ニーチェ「悦ばしき知識・一一六・P.210」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

次から次へと「道徳づら」した政治思想や政治政党がどんどん入れ換わり立ち換わり出現してくるだろうと言う。当たり前といえば余りにも当たり前。しかし暴力による<支配への意志>に突き動かされた諸勢力が今後もなお、ずいぶん真面目づらして台頭してくるに違いないというのである。実際、よりパフォーマティヴで、見た目ばかりはよりスマートそうに見える、ただ単にそう見えるに過ぎない暴力的政治政党による覇権競争が激化している。

 

ニーチェはいう。粛々と押し進められる組織化とともに家畜化される危険性に対して、もっと敏感であれと。同時に、すでに家畜化された人間獣に対して警戒を怠ってはいけないと。

 

今の日本はどうか。とりわけテレビ放送は、長い時間をかけて重ね重ね家畜化してきた群衆を組織しつつ、家畜群の頭のすげ換えに夢中のようだ。テレビはもう何度も繰り返しずいぶん世論の政治的誘導装置として使われてきたが、もはや化石化しつつある。自分で自分自身の巨体を支えきれなくなっている。

 

テレビ離れ。それは歴史の必然として急上昇中だ。群衆誘導装置としてのテレビに目をつけた最初期の人々はもうこの世にいない。さらに問題はそのまま店晒しにしたまま次の課題へ手をつけようという横着ぶりを見せつけて止まない。その問題とは何か。

 

「軍事秩序は、消尽が大饗宴(オルギア)さながらに頻繁に繰り返される情況に応じていたあの漠然たる不安感や不満の感情に終止符を打った。それは諸力を合理的に用いるよう命じ、そうすることで権力の絶え間ない増大を計ったのである。征服という方法的な精神は、供儀の精神とは正反対なものであり、そもそも初めから軍事社会の王たちは供儀に捧げられるのを拒むのである。軍事秩序の原則は、暴力性を方法的なやり方で外部へと方向転換することである。もし暴力性が内部で猛威をふるっているとすると、軍事秩序は可能な限りそれに対立しようとする。そして暴力の方向を外へとずらしながら、ある現実的な目標へとそれを服従させる。このようにして軍事秩序は一般的に暴力を服従させるのである。だから軍事秩序は派手に人目をひく戦闘の諸形態とは、つまりそういう戦闘は有効性を合理的に計算することよりも狂熱の堰を切ったような爆発によりよく応じているのだけれども、そのような戦闘形態とは正反対のものなのである。軍事秩序はもはや、かつて原始的な社会体制が戦闘や祝祭においてそうしたように、諸力の最も大きな濫費を狙うことはない。諸力を蕩尽する活動は残っているけれども、ある効率的生産性の原則に最大限に服従しているのである。力が濫費されるとしても、それはもっと大きな力を獲得する目的でそうされるのである。原始的な社会は、戦争においても、奴隷を掠奪することに限定していた。そしてその社会の原則に応じて、こうした獲得物を祭礼において虐殺することでその埋め合せをしていたのである。ところが軍事秩序は戦争から得た収益を奴隷へと編成し、奴隷という収益を労働へと編成する。征服という活動をある方法的な操作、つまり帝国の拡大を目ざした操作とするのである」(バタイユ「宗教の理論・第二部・一・軍事秩序・P.85~86」ちくま学芸文庫 二〇〇二年)

 

この種の方法的制覇の部分機械として、テレビ装置は、限りなく不自然に見えないような、けれどもれっきとした誘導装置を演じつづけることを止めようとしない。

 

テレビ離れはますます加速化する。ネグリ=ハートのいう「多極化」は世界中で始まっていて、すでに二十年も過ぎており、そのためこの流れに対抗し抑圧し去る体力が、もはやテレビには残されていない。大手スポンサー側からして共倒れから逃れるべく常に切断の機会をうかがっていることは周知の事実。

 

では<万年資金難階級あるいは生活困窮者階級>はどうなるのか。絶えず消費者として出現せざるを得ない立場であるがゆえに、逆説的にも、資本主義は生き残ることのできる逃走の線と闘争の方法とを与えておく。資本主義はいつだってもっと風通しのよい流れを差異化の運動として押し進めていくのであり、逆に中途半端かつ著しい反故化を見せてばかりで目立った芸風一つ見せらず行き詰まったテレビには愛想を尽かしてしまった。

 

例えばだけれども、映画の側がもっと面白い。商業映画はただ単に消費すればいい。さらに商業映画以外の、あえてメジャーを目指さない映画の側がずっと先を行っていて大変興味深い。グローバルネットワークの活用とよりベターな知識獲得への意志とともに、世界はテレビに見切りをつける。

 

ただ、情報の信用度という点でテレビにしがみつく視聴者が残されている。けれどもここ十年ほどの馬鹿馬鹿しい誘導報道と「コロナ禍」に責任転嫁してばかりで恥一つ知らないテレビには呆れるほかもう取るべき態度が見あたらない。

 

家畜化済みの人々が過半数を獲得している日本社会。もう何をどうすることもできないのか。ニヒルな態度を気取りすました身振りで家畜化再家畜化へ怠惰を決め込むのがいいのか。そうしたい人々はそうすればいい。だが実在する借金あるいはローンというのはただ単なるニヒルな態度で抵抗できるものではまったくない。どこまでも追いかけ追いつめてくる。

 

そこで、諦めと呆れとを携えてなお、選挙に行くしかない。代表する側(シニフィアン)と代表される側(シニフィエ)とはいつでも切断/移動可能である。一方、生成AIに駆逐される労働者はもっと増え続けるだろう。街頭に投げ出される労働者の割合はもっと上昇していくだろう。ところがイギリスの歴史が証明してきたように、街頭(ストリート)はいつも何か新しい動きを出現させてきた。街頭(ストリート)は打ち続く絶望が希望を産出するし、産出し続ける場であり続けている。どこか坂口安吾「堕落論」に似ている。

 

もっとも、街頭(ストリート)に投げ出された労働力のすべてを瞬時に抹殺するようなことは、資本主義はやらない。諸商品を生産するための部分として徐々に消費の生産へ回していく。

 

ところで先ほど少し名前を上げた夏目漱石。

 

漱石とその周辺。裾野はさほど広くはない。その場だけを見ていれば狭いくらいだ。といってもまるで閉鎖的だったわけではない。周辺に一人の女性、野上弥生子がいた。

 

小川公代が文芸誌で野上弥生子を中心として、一つの「女性史」として、連載を始めている。小川公代「翔ぶ女たち」(『群像・2023・03・P.27~52』講談社 二〇二三年)。

 

先月号が初回で次回は六月号の予定。だからといって五月号は買わなくていいというわけにはいかない。そもそも羽田圭介の連載開始に合わせて買い出したのでそれは読む。

 

一方、「磯崎新論」はもう何人もの評論家が様々な場所でいろいろ書いているが、田中純の連載は続いている。それへも配慮したい。貧乏人は貧乏人なりに何かと忙しいのである。

 

猫のタマは今日から春休みを頂きます。今後ともよろしくお願い致します。