次の一節から二つ取り出してみる。「機械」という言葉は同じでも、別々の二つの系列が延びているように見える。
(1)「人手を節約して単なる機械にやらせてみたとしても」事情は変わらない。
(2)「私は、どんなにとんまな人間でも、自分の欲望や利害がからんでくるとその場合だけは、間抜けな暮らしの無能のさなかにも、複雑きわまりない歯車装置にただちに適応できることを重々承知している」こと。
「女主人は片づけをしている、えんえんと一心不乱に片づけをしている。小さなスプーンや果物ナイフのたぐいを片づけるのを、この背の高い美女に託すのではなく、人手を節約して単なる機械にやらせてみたとしても、アルベルチーヌの注視からこれほど完全に隔絶したさまを目にすることはできなかったであろう。それでも女は目を伏せたりせず、もの想いにふけることもなく、自分の仕事だけに注意を凝らして、自分の目と魅力とを輝かせていた。かりのこの菓子店の女がことのほか間抜けな女ではなかったら(ことのほか間抜けだという評判だったし、私も経験上そうだと知っていた)、このような無関心は抜け目のなさの極致ということもありえたかもしれない。それに私は、どんなにとんまな人間でも、自分の欲望や利害がからんでくるとその場合だけは、間抜けな暮らしの無能のさなかにも、複雑きわまりない歯車装置にただちに適応できることを重々承知している」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.498~499」岩波文庫 二〇一七年)
(1)について。
AIの普及ですっかり機械-部分と化した人間。さらなる高度テクノロジーがどのようなイノベーションをもたらすにせよもたらさないにせよ、新しく見えるものはその瞬間から早くも滅び去っていく。アーレントは、その反復から見えてくる事情についてこう語る。「私たち人間が人間でないものを探し求めようとしても、私たちが出会うのは常に人間自身の精神のパターンにすぎないのではないか」。
「私たちの物理的世界観によると、存在は、まったく秘密に満ちていて、けっして姿を現わさない。他方、存在は、極めて強力であって、すべての現象を生みだす。私たちはこのような存在の最後の秘密をつかまえるために、器具による感覚的経験さえ含め、すべての感覚的経験を超え、現象を超越しようとする。そうすると必ず、同じパターンが極大宇宙と極少宇宙の両方を同じように支配しており、器具に現われる表示は、いずれも同じであるのがわかる。私たちは、ここでもふたたび、しばらくの間は、再発見された宇宙の統一を喜ぶだろう。しかしすぐに、私たちの発見したものは極大宇宙にも極小宇宙にも関係がなく、私たちの扱っているのは、ただ、私たち自身の精神のパターンにすぎないのではないかという疑いにとらわれるだろう。実際、この精神こそ、器具を設計し、自然を実験の中でその条件のもとにおき、カントの言葉を使えば、自然にたいしてその法則を指示したものである。ーーー私たち人間が人間でないものを探し求めようとしても、私たちが出会うのは常に人間自身の精神のパターンにすぎないのではないか」(アレント「人間の条件・P.452~453」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)について。ネグリ=ハートはガタリを引用しつつ、現在進行形の世界の「機械状動的編成(アセンブリッジ)」についてこう述べる。
「ガタリは続ける。『<機械>は外部とその機械状の環境に開かれており、社会的構成要素や個人的主体性とのあらゆる種類の関係を保っています。したがって、この技術的機械という概念を《機械状動的編成》という概念へと拡大しなければならないでしょう』。そのとき《機械状》とは決して個々の孤立した機械にではなく、つねに動的編成(アセンブリッジ)に言及している。このことを理解するためには、機械システム、すなわち他の諸機械に接続され、それらと共に統合された諸機械を考えることから始めてほしい。さらに人間の主体性をそこに加え、機械の諸関係に統合された人間と、人体や人間社会に統合された諸機械を想像してほしい。最終的にはガタリは(ドゥルーズと共に)機械状動的編成(アセンブリッジ)を、さらに進んだ、あらゆる種類の人間と非人間の諸要素あるいは諸特異性の混成として考えている」(ネグリ=ハート「アセンブリ・第七章・P.169」岩波書店 二〇二二年)
スピノザはいう。
(1)「《様態》とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する」(スピノザ「エチカ・第一部・定義五・P.37」岩波文庫 一九五一年)
(2)「もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。ーーーなぜなら人間身体がそのような仕方で刺激されている間は、人間精神は身体のこの刺激を観想するであろう。言いかえれば、精神は現実に存在する刺激状態について、外部の物体の本性を含む観念を、言いかえれば外部の物体の存在あるいは現在を排除せずにかえってこれを定立する観念を有するであろう。したがって精神は、身体が外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、外部の物体を現実に存在するものとして、あるいは現在するものとして観想するであろう。ーーー人間精神をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。ーーー人間身体の流動的な部分が軟かい部分にしばしば衝き当るように外部の物体から決定されると、軟かい部分の表面は変化する。この結果として、流動的な部分は、軟かい部分の表面から、以前とは異なる仕方で弾ね返ることになる。そしてあとになって流動的な部分がこの変化した表面に自発的な運動をもって突き当たると、流動的な部分は前に外部の物体から軟かい部分の表面を衝くように促された時と同じ仕方で弾ね返ることになる。したがってまたそれはこのように弾ね返る運動を継続する間は〔以前外部の物体に促されてした時と〕同じ仕方で人間身体を刺激することになる。この刺激を精神はふたたび認識するであろう。言いかえれば精神はふたたび外部の物体を現在するものとして観想するであろう。そしてこのことは、人間身体の流動的な部分がその自発的な運動をもって軟かい部分の表面を衝くたびごとに起こるであろう。ゆえに人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、精神は、身体のこうした活動がくり返されるたびごとに、外部の物体を現在するものとして観想するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一七・P.119~200」岩波文庫 一九五一年)
(1)だけではわかりにくい。(2)を補足してみる。すると「変状」というのは一つの<反応>であり<反応としての自由への意志>のことだとわかってくる。一般的俗語として流通している「自由」とはまるで関係がない。<反応としての自由への意志>という柔軟性ゆえに、人間身体は「複雑きわまりない歯車装置にただちに適応できる」ようにも「適応」<しない>ようにもできている。
さて統一地方選について。もっとも、選挙に限らないけれども、「目的とはまさに手段を正当化する」とアーレントはいう。
「目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考えを追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう。しかし、このような踏みならされた思考の筋道を避けるには、それにいくつかの限定条件をつけ加えるだけでは不十分である。たとえば、必ずしもすべての手段が許されるわけではないとか、目的より手段の方が重要であるのはただ一定の状況のもとにおいてであるというようないくつかの限定条件はあまり意味がない。このような限定条件は、自分から進んで認めていない道徳体系を当然のこととして認めてしまうか、自ら用いている言葉とアナロジーそのものによって覆されるか、そのどちらかである。なぜなら、目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになるからである」(アレント「人間の条件・P.359~360」ちくま学芸文庫 一九九四年)
そして結果がどうであれ。
「群畜的本能。ーーー道徳というものにぶつかる場合、いつでもそこにわれわれは人間の諸々の衝動や行為の評価と等級づけのあるのを発見する。これらの評価と等級づけは、いつでも、ある共同体や群畜存在の要求の表現なのである。《これらのものに》とって第一に役立つーーーまた第二にも第三にも役立つーーーもの、それがまたすべての個々人の価値を定めるうえの最高の規準でもある。道徳によって、個人は、群畜存在の機能であるように、また機能としてだけ自分を価値づけるように、導かれる。一共同体を維持する諸条件は他の共同体のそれとは非常に違っていたから、きわめてまちまちな道徳が存在した。さらに、もろもろの群畜存在や共同体、国家や社会に今後おこるでもあろう本質的な変革を頭におけば、次のようにわれわれは予言することができる、ーーーこれからも随分と変り種の道徳があらわれるだろう、と。道徳性とは、個々人における群畜的本能のことである」(ニーチェ「悦ばしき知識・一一六・P.210」ちくま学芸文庫 一九九三年)
一つの「道徳」が葬り去られるや次の「道徳」が出現してくる。さらに。
「《囚人たち》。ーーーある朝、囚人たちは作業庭のなかへ入っていった。そのとき牢番はいなかった。彼らのうちの或る連中は彼らなりにすぐに仕事にとりかかったが、ほかの連中は働かずに突っ立って、反抗的にあたりを見まわしていた。そこへ一人の男が現われて、大声でこう言った、『好きなだけ働けばいい、でなかったら何もしないがいい。どちらにしても同じことだ。お前たちの秘密の陰謀が露顕したのだ。牢番は最近お前たちの話を盗み聞きした。そして近日中にお前たちを恐ろしい審判にかけようとしている。お前たちの知ってのとおり、彼は峻烈だし、執念深い心の持ち主だ。だが、よく聴け、お前たちはいままでおれを誤解していた。おれは見かけ以上の者なのだ。おれは牢番の息子で、おれの言うことは彼に何でも通るのだ。おれはお前たちを救うことができるし、また救ってやるつもりだ。だが、よく聴くがいい、お前たちのなかでおれが牢番の息子であることを《信ずる》者たちだけだぞ。そうでない者たちは、自分の不信仰の実を刈りいれるがいいのだ』。しかも父親を思いどおり動かすことができるのだ。私はおまえたちを救うことができるし、救いたいとも考えている。ただし、むろんのこと、救ってやるのは、おまえたちのうちで私が看守の息子であることを<信じる>者だけだ。信じようとしない者たちは、その不信心の報いを受ければよい』。『だが』としばらくの沈黙のあとをうけてひとりの年配の囚人が言った、『われわれがお前さんのことを信じようと信じまいと、それがお前さんにどれだけ大切だというのだい?お前さんが本当に息子で、お前の言うとおりのことができるのなら、おれたちみんなのために取りなしをしてくれ。それこそお前さんのほんとうの思いやりというものだ。だが、信ずるとか信じないとかのお談義はよししてくれ!』『そして』とひとりの若い男が口をはさんで叫んだ、『おれもあいつを信じないよ。あいつは何か妙な空想をしているだけなんだ。おれは賭けてもいい、一週間たったっておれたちは今日とまったく同じにここにいるのさ、そして牢番は《何も》知っては《いない》のだ』。『いままでは何か知っていたにしても、いまはもう何も知ってはいない』と、いま庭へ出てきたばかりの最後の囚人が言った、『牢番はたったいま急に死んだのだ』。ーーー『おーい』と幾人かの者がごっちゃに叫んだ、『おーい!息子さん、息子さん、遺産のほうはどうなんだね?われわれは、どうやらいまは《お前さん》の囚人なんだね?』ーーー『おれがお前たちに言ったとおりだ』と、呼びかけられた男は穏やかに答えた。『おれはおれを信ずるすべての者たちを解放するだろう、おれの父がまだ生きているのと同じ確実さで』。ーーー囚人たちは笑わなかった、しかし肩をすくめてから、立ちどまる彼を残して、立ち去った」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・八四・P.337~338」ちくま学芸文庫 一九九四年)
首のすげ換えは可能だ。にもかかわらずニヒリズムに陥ってしまいそうになる。ニーチェは根本的治療の必要性を思考するよう語りかける。