アルベルチーヌは<私>にとって<私>の死角でもある。どこか手品めいたこの方法はどのようにして可能になるのか。「入口の検札の前に立って、連れの一行をどんどん劇場内へ入れてしまう」。
「アルベルチーヌが暮らしたさまざまな場所、これこれの夜にしたかもしれないこと、浮かべた微笑みや投げかけたまなざし、口にしたことば、受けた口づけ、こうしたことがらに私がいだく飽くなき苦しい好奇心と比べれば、いわゆる美的好奇心などは、むしろ無関心と称して然るべきであろう!私がいつかサン=ルーにいだいた嫉妬も、かりにまだ続いていたとしても、これほど途方もない不安をけっして与えはしなかったはずである。この女同士の愛情なるものは、あまりにも未知のことがらで、その快楽や美点がいかなるものかを確実に正しく想い描かせてくれるものはなにひとつない。アルベルチーヌは、なんと多くの連中を、なんと多くの場所を(たとえ本人には直接の関係がない場合でも、アルベルチーヌが快楽を味わったかもしれぬ漠然とした歓楽の場所や、大勢の人で混みあって身体が触れあう場所を)、その連中や場所など気にもかけていなかった私の想像力と記憶の入口からーーー入口の検札の前に立って、連れの一行をどんどん劇場内へ入れてしまう人のようにーーー私の心のなかに導き入れたことか!いまやその連中や場所にかんする私の認識は、心中で、即座に反応し、痙攣をひきおこして苦痛を与えるものとなった。愛とは、心に感じられるようになった空間と時間なのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.452~453」岩波文庫 二〇一七年)
愛する対象を固定することはできない。だからアルベルチーヌを描くとすれば、いつも運動状態にある進行形として描くことが適切だろう、とずいぶん以前に書かれていた。
今度は愛するという行動そのものについて、「愛」はいつもすでに「時間と空間として」動き出していると踏まえた上で、次の有名な文章が書かれる。アルベルチーヌは時間の「女神」なのだと。そうなるともうアルベルチーヌは人間が認識できうる限界を超える存在だということを認めるに等しい。時間の「女神」というのは言語化と同時に意識化されうるその手前か、少なくとも常に同時進行するし今後もしていく存在だからである。認識マシンとしての<私>は敗北するしか方法がない。
アルベルチーヌは予測不可能性として生きてきたし今後も自殺するまで予測不可能性でありつづける。死後になると手遅れであってただ単に予測不可能。あれこれ想像を巡らすばかりなのであり、どれもこれも想像の範囲を超えることはできない。
さて。円城塔「見張りたち」(『群像・2023・04・P.34~44』講談社 二〇二三年)。かつてJ.G.バラードが徐々に全体主義化していく世界についてSFという方法を用いて描いていた。それはとてもソフトな全体主義化ではあるものの、しかし浸透力は衰えることなく何食わぬ顔でだんだん全世界を覆い尽くしてしまう。
政治的な右派とか左派とか、資本主義とか社会主義とか、全然関係のない全体主義。どこへも逃げようがなくそもそも出口のない絶望的管理世界。隅から隅まですっかり管理されていることを管理されている側がすっかり忘れ去ってしまうような、ほんのり甘く誘惑的な、時々刻々と更新・再更新されていく管理方法に満たされている快感と違和感とが入り混じった世界。
円城塔「見張りたち」は、その作業がもはや完了し、再更新されていくばかりの世界を舞台としている。一方に見張る装置(人間=機械)を見張る装置(人間=機械)を見張る装置(人間=機械)をーーーの終わらない系列があり、もう一方に見張られる側のすべての系列(人間=機械の無限の系列)が、これまた延々と接続されている。ディストピアといってしまえば単純すぎる。大都会であろうとなかろうと、そこに打ち広がっている光景はまるで砂漠あるいは暗黒。
とはいえ。ではなぜ読者として、このような小説に惹かれるのだろう。小説なら他にいろいろあるにもかかわらず、真っ先に目を通したのが円城塔「見張りたち」なのはなぜなのか。見張り見張られという相互依存関係に置かれているのはもはや周知の事実。だがそのもっと先には何が創設されるのか。SFの未来をも、未決定という形で、垣間見せている。
さらに。今日発売の「文藝春秋」。真っ先に見たのは話題になっている柄谷行人「賞金1億円の使い途」『文藝春秋・2023・04・P.240~249』文藝春秋 二〇二三年)、ではなく、松竹伸幸/斎藤幸平「シン・日本共産党批判」『文藝春秋・2023・04・P.182~191』文藝春秋 二〇二三年)。
いつまで棚上げしておくつもりなのか、引き延ばせば引き延ばすほどかえって逆風になることがわかりきっている党首公選制の問題。真面目でなくてもいい、もっとごく「ふつう」に党運営のあり方の疑問点に取り組むべきだと感じる。もっとも、ここでは折にふれていつも言ってきたことだが。今のままの党運営ではとてもではないが、市民レベルで提起されている細々としてはいるが決して軽微ではない、むしろ重大な問題を取り上げ、それを対抗運動へ、陸続たるムーヴメントとして結びつけていけるような方向性を打ち出すのは無理だろう。
「《党略》。ーーー或る党員が党に対するこれまでの絶対的な信従者の立場を捨てて、条件つきの信従者に変わったことに気づくと、党はこれに我慢がならず、さまざまな挑発や侮辱をその党員に加えることによって彼を決定的な離党に追いこみ、党の敵にしたてあげようと努める。なぜなら、党は、党の信条の価値を何か《相対的》なものと見てそれに対する賛成や反対を、また検討や選択を許そうとする意図は、党にとり、総がかりで攻撃してくる敵よりももっと危険である、という猜疑心を持つからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・三〇五・P.208」ちくま学芸文庫 一九九四年)
それに加えて、新自由主義信奉者の密かな狙いを注視しつつ、という条件がいつも頭の中になくてはならない。そうでなくては「持ちつ持たれつ」の共犯関係をいつまでも続けていくことになる。
「《願ったりの敵》。ーーー社会主義運動は、王朝政府にとっては、相変らず、恐怖の種であるよりもむしろ好ましいものである。なぜなら政府は、まさにこの社会主義運動のおかげで、非常措置のための《法と剣》を手に入れ、これによって自分たちの本当の妖怪である民主主義者や反王党派をやっつけることができるからである。ーーーこういう政府は、自分が表むきに憎んでいるすべてのものにいまやひそかな好意と親密感を抱く。彼らは彼らの本心をカモフラージュせねばならないわけだ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・三一六・P.213」ちくま学芸文庫 一九九四年)
新自由主義信奉者と今の日本共産党。両者ともに建前は対立だが実質は相互依存という現実が見せつけるうさん臭さゆえ、どんな有権者も次々とニヒリストへ変身してしまうばかりであって、それならもう日本の政治はどこか別の国にやってもらうのが適切だろうということに、いずれ、なっていくに違いない。
次に見たのが、柄谷行人「賞金1億円の使い途」『文藝春秋・2023・04・P.240~249』文藝春秋 二〇二三年)
賞金にも1億円にも関心がない。そんなのはどこか遠い国の御伽話というに等しい。<生活困窮者階級>としては。で、読んでみて、そういえばと思ったのは、宇野弘蔵から学んだことがあったというエピソード。かつて浅田彰/柄谷行人/蓮實重彦/三浦雅士の四名による批評の中で柄谷行人はいっていた。
「『資本論』は科学だが史的唯物論はイデオロギーであるという宇野弘蔵の考えは、ぼくにとってはある意味で大きいものでした」(浅田彰/柄谷行人/蓮實重彦/三浦雅士「近代日本の批評2・P.118」講談社文芸文庫 一九九七年)
今になってその頃のエピソードがひょいと出てくるとは、なんとも言えず懐かしく意外だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/1c/d00c51a467db728ca80e8999b719bd40.jpg)