アルベルチーヌの態度は<私>を否応なく「死」の観念へ向け換えてしまった。<私>にとってそれは「事件」だと<私>は読者に向けて報告する。しかしその「事件」というのはどういう形を取るのか。「とうていその瞬間には収まりきらない」とプルーストはいう。
「事件というものは、それが生じる瞬間よりも広大で、とうていその瞬間には収まりきらないらしい。事件は、それが記憶にとどめられるがゆえにもちろん未来へはみ出すが、とはいえ事件に先立つ時間のなかにも占めるべき場所を要求する。たしかに事件に先立つ当時は、将来それが生じるように事件を見ているわけではないと言えるだろうが、しかし記憶においても事件はこれまた変更されているのではなかろうか」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.485」岩波文庫 二〇一七年)
今の日本のテレビ批判から始めないといけない。「記憶においても事件はこれまた変更されているのではなかろうか」。歴史の改竄に手を貸し続けている今のテレビ。<事件>と<出来事>との違いについてドゥルーズはいう。
「メディアに<事件>をとらえるためのじゅうぶんな手段があるとも、メディアがその使命をになっているとも思いません。まず、一般にメディアが最初と最後を見せるのにたいして、<事件>のほうは、たとえ短時間のものでも、あるいは瞬間的なものでも、かならず持続を示すという違いがあります。そしてメディアが派手なスペクタクルをもとめるのにたいして、<事件>のほうは動きのない時間と不可分の関係にある。しかもそれは<事件>の前後に動きのない時間があるということではなくて、動きのない時間は<事件>そのものに含まれているのです。たとえば不意の事故がおこる瞬間は、いまだ現実には存在しない何かを見る目撃者の目に、あまりにも長い宙づりの状態でその事故がせまってくるときの、がらんとした無辺の時間と一体になっているのです。どんなありふれた<事件>でも、それが<事件>であるかぎり、かならず私たちを見者にしてくれるのにたいして、メディアのほうは私たちを受動的なただの見物人に、そして、最悪の場合は覗き魔に変えてしまいます。グレイトゥイゼンも、あらゆる<事件>は、いわば何もおこらない時間のなかにある、と述べているではありませんか。待ち望む者が誰もいなかった予想外の<事件>にも狂おしいまでの期待が宿っているということは一般に見落とされているのです。<事件>をとらえることができるのは芸術であってメディアではない。たとえば映画は<事件>をとらえています。小津がそうだし、アントニオーニがそうです。しかし、ほかでもない、動きのない時間は小津やアントニオーニの場合、ふたつの<事件>のあいだではなく、<事件>そのものに宿って、<事件>の密度を高めているのです」(ドゥルーズ「記号と事件・4・政治・P.323~324」河出文庫 二〇〇七年)
足元に横たわっている諸問題を<見ない>ようにするため、神妙な面持ちで、あるいは芸能タレントを用いて、視聴者の側を別の出来事へ誘導=洗脳することを止めようとしないテレビという政治的装置。
その上で、「事件に先立つ当時」は、どのようなありようを呈しているか、が問われてくる。中井久夫の言葉を借りよう。
「分裂病になる確率を仮定します。確率Pは誰でもゼロではありません。非分裂病状態Rから分裂病状態Sへと移行する確率Pはゼロと1との間にあります。また一人の人間でも絶えず変動しているようです。秒、分、時間単位から日、週、月、年単位まで人間にはさまざまな周期がありますが、それらは一般に通分できない数値のようにみえます。それらが周期して大きな山や谷ができると危ないからでしょう。大きなタンカーをも沈めると恐れられている三角波は多くの波の周期が同期してできる合成波です。しかし同期しやすい時刻はあります。
一日のうちでも夕方はどうも同期しやすいようです。実際に、夕方には対象のない不安が高まります。また、患者の中でも夕方だけ分裂病症状を示す人が結構あります。さらに、誰であろうともおおよそ四時から七時までの間は不安や孤独感が高まるようです。医局で患者からの電話を受けていますとよくわかります。『八時まで待ってごらん、まだ続くようだったらかけてらっしゃい』といって待っていると、もう一度かけてきた人はほとんどいないものです。ですから、一部の人には不幸にも人生のある時期に、非常に大きい合成波が起こって、確率Pが三角波のように高まるのかもしれません。波の形がある程度以上けわしくなると波頭が砕けます。そういうイメージが浮びます。これが破綻です。分裂病発病に至る事件には一見些細なものが少なくありません。不幸だけれども、この人はいつかは何かの折に発病しただろうと思ってしまう人もないではありませんが、どうしてこの人が?!と思う人もあります。しかもきっかけとみられるものは些細なのです」(中井久夫「最終講義・P.47~49」みすず書房 一九九八年)
中井久夫はいう。「夕方には対象のない不安が高まります」。だが労働時間も労働形態もともに大きく変化した現代では、この「夕方」(誰であろうともおおよそ四時から七時までの間は不安や孤独感が高まる)に相当する時間帯が大きく変化し、さらに非正規雇用の現場では常に流動してもいるため、今ではほぼ二十四時間に渡ることとなった。そう言わなければわかりにくくなってきた。実際、膨大な医学的蓄積を持つ今のアメリカは巨大なメンタルヘルス大国と化して久しい。
アメリカの凋落は経済ばかりではない。ビジネスエリートを含む国内主要労働力を現状維持するためのメンタルヘルス体制強化に用する金額は経済的凋落とは逆にうなぎのぼりに上昇中だ。世界第一位の座へのぼり詰めた。そしてそのすぐ後ろまで迫ってきた中国も、「富国強兵」の旗のもと、同様の条件でますます大国化していく限り、第二のメンタルヘルス大国化することはもう目に見えている。中国を破綻させるものがあるとすれば、それは外部からやってこない。内部からずるずる崩壊する。そこでもし仮に、「国際社会」の要請と圧力とを受けて軍事要塞化しつつある日本がすぐさま戦場と化すことを少しでも回避する方法があるとすれば、日本政府が日本国内にわだかまる諸問題解決へ向けて優先的に取り組みつつ、米中内部の崩壊を「待つ」という方法が見えてくる。米中ともに再び日本に依存するしかない状況が回帰してくる時間帯を「待つ」ことができれば、こんなちっぽけな日本であっても諸大国の間で重宝される機会はまた巡ってくる。
二月頃、島田雅彦が新聞でいっていた。「今のウクライナは明後日の日本だ」と。おそらくそうなるだろうと思っていたら沖縄周辺がたちまち軍事要塞化してきた。島田の言葉はやおら現実化してきた。軍事要塞というものは、完成次第、戦争するなら是非ここでやってくれと名乗り出ているに等しい。膠着して動きようのないウクライナ戦争と置き換えの利く場所は日本列島が最適だろう。インドはこれから急速に発展しつつ世界の大市場になる。中央アジアを戦場にするのはいかにもまずい。とすれば次の戦場候補として東アジアの端っこの部分、日本列島はよりいっそう好条件に恵まれている。打ち続く低賃金重労働の煽りをくって消費者層が壊滅してしまう時期を見計らっていればいい。消費者層が壊滅すれば後は遠慮会釈なく戦場化できる。「戦争-経済」をよりよく回転させるために「国際社会」は当然そう考える。ポツダム宣言は今なお生きている。
ところが日本のテレビではロシアや中国の動きについて「国際社会はどのような審判を下すのでしょう」といういつものステレオタイプ(紋切型)を繰り返し視聴者を欺いている。太平洋戦争中のラジオ放送のようだ。アメリカとその同盟国ならびに中国もロシアも含めた「国際社会」は、その一員たる日本に向けて、「国際社会」維持存続のため犠牲になってはくれまいかと暗黙の圧力をかけているというのに、日本は何かアメリカがずっと日本を庇護の下に置いて保証してくれるものだとばかり勘違いしているかのようだ。
中井久夫のいう「八時まで待ってごらん」。約一時間半くらい。「待てる」かどうか。そこから見ないとわかるものもわからない。大事なのは「待つ」という態度だろう。「待つこと」ができるようになってきて始めて時間の有効な使い方も身に付いてくる。症状が落ち着いてきたかのように見えていても、肝心なこと、「待つこと」の意味と時間の有効な使い方が身に付いていないことはよくある。その認識なしに慌てて始めた再就職活動はほぼ間違いなく失敗する。運よく再就職できたとしても一週間もすれば再発する。中井久夫はそんなケースを星の数ほど見てきた側の人であり、そうであって始めて伝えることのできる知恵の宝庫でもある。
しかし重要なことは実にしばしば見落とされがちだ。「きっかけとみられるものは些細なのです」。ごく一部の大手スーパーで、女性の正規雇用と非正規雇用との間にある賃金格差を解消すると発表されたばかり。だからといって、この「<些細な>きっかけ」まで消え失せるわけでは全然ない。大変な大金持ちの男性でもなおこの種の「<些細な>きっかけ」からたちどころに発病し長期通院を余儀なくされているケースはいくらもある。次回はこの言葉について述べたい。