アルベルチーヌの変化について、もはや事態は取り返しのつかないところまで来ていると、<私>は述べる。「従順に」という言葉の意味が一気に転倒するその直前の箇所にさしかかる。
「ここにいるのがもはや同じアルベルチーヌでないのは、バルベックでのように自転車に乗ってたえず逃走する娘ではないからだし、あちこちに点在する小さな浜辺のどこにいる女友だちのところへ泊まりに行ったのかわからず、おまけによく嘘をつくのでますます捕まえるのがむずかしい、行方知らずの娘ではないからだ。こうして私の家に閉じこめられ、従順に言うことを聞いてひとりでいるアルベルチーヌは、もはやバルベックのときのような、たとえ私が見つけたときでも、浜辺で見せていた捉えどころのない、用心ぶかく、悪賢い存在ではないし、その存在の延長上には娘が巧みに隠してしまう数多くの待ち合わせが潜んでいて、その待ち合わせに苦しめられるがゆえに私の恋心を募らせた存在でもないし、他人への冷ややかな態度やありきたりの返答のかげに、私にたいする軽蔑と策術がこめられ、前日と翌日の待ち合わせの存在が感じられた存在でもないからである。海の風がもはや娘の着ているものを膨らませることはなく、とりわけ私がその翼を切りとってしまったせいで、アルベルチーヌはもはや勝利の女神ではなくなり、私が重荷に感じて厄介払いしたくなる奴隷となっているからである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.410~411」岩波文庫 二〇一七年)
やがて読者はこの「従順に」という言葉の意味が決定的に転倒し、もはや取り返しのつかない事態へ立ち至るシーンに直面することになる。今とは逆にアルベルチーヌが自分自身の欲望に「従順に」なるとしたら。「譲歩しない」立場へ移動するとしたら。
ところで、ウクライナ戦争の膠着。不可解なのは、なぜもっと押し進めないのか、ということ。ロシアもウクライナも、両者ともに盛んに「祖国」のため、絶滅してもなお飽きたらないほど勝利を目指そうと世界中に呼びかけている。だが実際のところ、なぜ両者ともそこまで突き進もうとしないのか。どうしてあえて「膠着」なのか。
輪をかけて不可解なのはテレビ報道。今なお「西側東側」というすでに無効化して久しい、おそろしく古い死語をわざわざ用いるのだろう。逆に、実際に現在進行形の<多極化>には一切触れようとしないのだろう。何か不都合でもあるのだろうか。「大国間の思惑が絡み合い」、その結果、膠着状態に陥っているとでも言いたいかのようだ。
加速するテレビ離れのなかで視聴者の側から見れば、テレビは「戦争-経済」を連発してさえ上手く行きそうにないと、武器商人たちの心情を代弁しているように見えて仕方がない。ウクライナ人道支援名目で膨大な軍事資金を送金する。すぐさま武器に置き換えられる。その繰り返しばかりでは送金できる余裕のある諸大国内部ですでに着工に取りかかっている巨大建築物群を含む様々なプロジェクトを予定通り完成させることもままならなくなってきた。そう自白しているかのようだ。テレビによる呼びかけ、といっても、それは何も報道を通して行われるとはまったく限らない。非日常が日常と化している「茶の間」の荒れように気を配ることが必要だ。
「文化産業の地位が確固としたものになるにつれて、消費者たちの欲求は文化産業によって一括して処理されるようになる。消費者の欲求を文化産業は作り出し、操縦し、しつけ、娯楽を没収することさえできるようになる。そういう文化的進歩を妨げるものは、そこにはまったく存在しない。だがこういう傾向は、市民的・啓蒙的原理としての、娯楽の原理そのものに内在しているものなのだ。文化産業が大衆に対して、題材によって作品を、描かれた御馳走によって複製印画技術を、また絵に描いたプディングによってプディング・パウダーを宣伝するとすれば、そしてそういう形で娯楽へのニーズがあまねく産業によって作り出されるとすれば、娯楽には、いつもすでに偽物の押し売りめいた要素が、セールスマンの科白や縁日のテキ屋の呼び声がつきまとうのは見逃しようもない。しかし商売と切っても切れない関係にあるのは、もともと社会の弁護という性格を持つ娯楽の本質なのだ。浮かれているということは現状を承認していることだ。それはただ、社会の動きの全体に対して目をふさぎ、自己を愚化し、どんなとるに足らない作品でも備えているはずの、それぞれの枠の中で全体を省みるという逃げることのできない要求を、最初から無体にも放棄することによってのみ可能なのだ。楽しみに耽るということは、いずれにせよ、『それについて考えてはならない。苦しみがあっても、それを忘れよう』ということを意味する。無力さがその基礎にある。しかしそれが主張するような悪しき現実からの逃避なのではなく、残されていた最後の抵抗への思想からの逃避なのである。娯楽が約束する解放とは、思想からの解放であり、また否定からの解放なのである。『人々は何を欲しているのか』といった美辞麗句風の問いの破廉恥さは、この問いが人々から主体性を奪うことを特にねらいとしていながら、ほかならぬその人々が思想の主体であるかのように呼びかけることである」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・4・P.296~297」岩波文庫 二〇〇七年)
マーク・フィッシャーのいう「階級意識」。今の日本では「資金難階級」とか「生活困窮者階級」とか言っていいような人々。そういう立場に置かれている人間から見れば、つい最近テレビで話題になった「昆虫食」が何を意味しているか、よくわかる。戦時中の食物でないとしたら、一体なんなのか。給食に出されたのはその予行演習・人体実験でないとしたら、ではなぜわざわざ子どもの給食段階から習慣づけておく必要があるのか、さっぱり説明がつかない。
にもかかわらずテレビは、味が上手い上手くないとか、寄生虫対策は安全かどうかとか、まるで関係のない「おしゃべり」を演じて見せて視聴者を戦時中へ戦時中へと動員していくのに必死のようだ。そういうところで主に重宝されるのはいつもきまって芸能タレントだというのは、少なくとも日本では、太平洋戦争での全力動員を通してすでに経験済みでもある。
