プルーストは「きのうは演技だったものがあすは現実になることもある」と、なぜ言えるのか。
「ところが前者は、決裂を怖れないふりをするのが決裂を回避する最善の策だと考えるのに慣れているうえ(私がその夜アルベルチーヌを相手にやったことはこれである)、そもそも自尊心から、譲歩するくらいなら死んだほうがましと考えるタチだから、今さらやりかたを変えられず、ついにどちらも引くに引けなくなる時点までくだんの脅しをやりつづけるこけおどしは本心と混じりあったり本心と交互にあらわれたりすることもあり、きのうは演技だったものがあすは現実になることもある」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.388~389」岩波文庫 二〇一七年)
「譲歩」とは何かにかかわる。
<しない>と決めたはずが<する>側を選んだ結果へ転倒するのはどうしてか。<私>の「譲歩」は極めて中途半端な「譲歩」、ありふれた「譲歩」でしかない。「譲歩するくらいなら死んだほうがましと考えるタチだから、今さらやりかたを変えられず」とはいうものの、常に留保付きの次善の策ばかり選択してきたため、どこにでも見られるような結果しか出てこない。
「譲歩」について相異なる二つの態度を見ておきたい。第一次資料としてギリシア悲劇が実り豊かな考察の契機をもたらしてくれる。ソポクレスから四箇所。
(1)「アンティゴネ だってもべつに、お布令を出したお方がゼウスさまではなし、あの世をおさめる神々といっしょにおいでの、正義の女神が、そうした掟を、人間の世にお建てになったわけでもありません。またあなたのお布令に、そんな力があるとも思えませんでしたもの、書き記されてはいなくても揺ぎない神さま方がお定めの掟を、人間の身で破りすてができようなどと。
だってもそれは今日や昨日のことではけっしてないのです。この定りはいつでも、いつまでも、生きてるもので、いつできたのか知ってる人さえありません。それに対して私が、いったい誰の思惑をでも怖がって、神さま方の前へ出て、責めを追おう気を持てましょう。いずれ死ぬのはきまったこと、むろんですわ、たとえあなたのお布令がなくたって。また寿命の尽きるまえに死ぬ、それさえ私にとっては得なことだと思えますわ。次から次へと、数え切れない不仕合せに、私みたいに、とっつかれて暮らすのならば、死んじまったほうが得だと、いえないわけがどこにあって。
ですから、こうして最期を遂げようと、私は、てんで、何の苦痛も感じませんわ。それより、もしも同じ母から生まれた者が死んだというのに、葬りもせず、死骸をほっておかせるとしたら、そのほうがずっと辛いに違いありません。それに比べてこちらのほうは、辛くも何ともないことです。あなたに、私がもしも今、馬鹿をやったと見えるのでしたら、だいたいはまあ、馬鹿な方から、馬鹿だと非難を受けるのですわね」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.172~173』ちくま文庫 一九八六年)
(2)「イスメネ お姉さまがお認めならば、いっしょの仲間で、またお咎めも頒けあいます。
アンティゴネ まあ、そんなこと正義があなたに許さないわ、あなたはいやって言ったのだし、私も仲間にしなかったから。
イスメネ でも、私、こうしたあなたの不幸にあたって、受難のおりの、道連れになるのを、けして、恥じませんわ。
アンティゴネ 誰の仕事か、冥府の神やあの世の人が、ちゃんと知っておいでだわ、口先だけの仲好しなんて、ちっとも有難くはない、私。
イスメネ お願い、お姉さま、どうか私を見下げないで、いっしょに死なせて、そいで死んだ方へのお勤めをさせて。
アンティゴネ いっしょに死ぬなんてやめてよ。手も掛けなかったことを、自分のものにしないでね。
イスメネ だって、あなたに取り残されて、どんな暮しが嬉しいでしょう。
アンティゴネ クレオンさまに訊(き)いてごらんなさい、あの方の身内だから、あなたは」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.176~177』ちくま文庫 一九八六年)
(3)「クレオン いや、もう、皆も知ってのとおり、死ぬとわかると、一人のこらず、歌だとか泣きごとだとか、いっかなきりのないものだ、言わせておくとしてのことだが。さあさっさとすぐに引っ張ってかぬか。そして命じておいたとおりに、丸天井の墓穴へ閉じこめたうえ、そのまま一人きりにしてほうっておくのだ。死ぬものにしろ、またはそうした家の中にいて生き埋めの生(よ)をおくるにしろだな。つまり私らは、この娘については、瀆(けが)れに染みたくないのだ。だが、ともかくこの世へ戻ってくる道は、なくしとくのだぞ。
アンティゴネ ああ、お墓、そこが花嫁の居間で、いつも見張りのついた掘り抜きの牢屋なのだ、そこへ今、身内の人たちと出会いに赴くところなのだわ、とても、多勢の死んでしまった人たち、その大勢を(黄泉の女王)ペルセパッサが、死人の仲間に受け入れておいでの、ーーーその最後に、私が、それもずっといちばんみじめな仕方で、降りていくのだ、まだ寿命がすっかり尽きもしないうち。それでもとにかく死んでくにしろ、確かにこうと信じていますわ、あの世へ赴(い)ったら、父さまに、可愛い娘(こ)だって言われようと、ーーーまた、お母さま、あなたにもね、それからお兄さま、あなたにも可愛い妹って。。だって、あなた方がお没(なくな)りの折、この手でもって私が、お身体(からだ)を浄(きよ)めてさしあげ、身装(みなり)を整え、お墓のうえに供養の閼伽(あか)を灌(そそ)いであげたの。こんどのことも、ポリュネイケスさま、お身体を蔽い隠してあげたというので、こんな目にあったのですわ。<でも、どうであろうと、もののわかった方々なら、私があなたに尽したことは正しかった、と言ってくれましょう。つまりは、もし私が多勢の子の母親だっても、あるいは夫が死んで、その亡き骸(なきがら)が崩れていこうと、国の人たちに逆らってまでこうした苦労を引き受ける気は出さないでしょう。そんならいったいどういう筋からこう言うのか、とお思いでしょうが、夫ならば、よしんば死んでしまったにしろ、また代りを見つけられます。また子供にしろ、その人の子をなくしたって、他の人から生みもできましょう。ところが両親ともに、二人ながらあの世へ去(い)ってしまったうえは、もう兄弟というものは、一人だっても生まれるはずがありませんもの。こういった筋からして、私はあなたにをとりわけ大切(だいじ)にしてあげたのに、それなのにクレオンさまは、これが間違い、大それた仕業ときめつけるのです。お兄さま。それで今、これから、私を無理やり、このように引っ捉(つか)まえて連れてくのですわ。婚礼の歌も聞かずに、閨(ねや)も見ず、夫婦の縁も結ばぬうち、子の養育も許されずに、このように、親しい者にも見棄てられ、みじめな運命に、生きながら、死人たちの籠る洞穴に出かけるのです>」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.194~196』ちくま文庫 一九八六年)
(4)「アンティゴネ テーバイの里の、父祖代々の都、それに祖先の神さま方、もう連れてかれてまいります、一刻の猶予もなしに。ごらんください、テーバイの王家の方々、王族の最期の、たった一人残ったものが、どんな目に、しかも、どんな人間から、あわされるのか、神へのまことを大切に守ったばかりに」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.197』ちくま文庫)
アンティゴネとイスメネとを比較しつつラカンはいう。二箇所。
(1)「アンティゴネは『自律』として提示されます。それは、人間存在と、人間存在が奇跡的にその運搬者であるものとの純粋な関係です。人間存在が運搬するものとはシニフィアンによる切断であり、この切断が、人間存在は断固としてそれそのものであるという乗り越えがたい力を授けるのです。祈りとはおそらくすべてここをめぐっています。コロスが第五幕ですることはこれです。救いの神に加護を求めているのです。
その救いの神とはディオニュソスです。さもなければどうしてディオニュソスがここで言及されるのでしょうか。アンティゴネの行為、アンティゴネという人物ほどディオニュソス的なものはありません。しかし彼女は純粋欲望と呼べるものをリミットまで成就します。純然たる死の欲望そのものです。この欲望を彼女はその身に具現しているのです。
よく考えて下さい。この欲望は彼女の欲望でしょうか。それは<他者>の欲望のはずではないでしょうか。そしいて母の欲望に繋がっているのではないでしょうか。このテクストが言及しているように、母の欲望こそがすべての起源です。母の欲望は、構造のすべてを創始した欲望であり、エテオクレス、ポリュネイケス、アンティゴネ、イスメーネーという独特の子供たちを生み出しました。同時にまたこの欲望は罪の欲望でもあります。我々はこの『アンティゴネ』に、悲劇とヒューマニズムの起源に、ハムレットのそれに類似したある行き詰まりを見いだすことになります。ただし奇妙なことに、ハムレットのそれよりもっと根本的な行き詰まりです。
この両者には、いかなる媒介も可能ではありません。唯一の例外がアンティゴネのこの欲望、その徹底的に破壊的な性格です。近親相姦の婚姻の子孫は、二人の兄弟へと枝分かれしました。一方は権力を代表し、もう一方は罪を代表してします。罪を、罪の有効性を引き受ける人物はいません。アンティゴネを除いては。
この二つのあいだにあって、アンティゴネは、ただ単に罪人の存在そのものの守護者であることを選びます。ひょっとしてこうした事態は、社会共同体が二つのどちらをも許し、忘却し、これを同じ葬儀の名誉で包むことを望んでいたなら、終止符が打たれていたかもしれません。共同体がこれを拒むからこそ、家族の『アーテー』(無謀の犯した罪に対する罰として神から下される狂気、悪行、愚行、その結果としての破滅)であるこの本質的存在の維持のため、アンティゴネは自らの存在を犠牲にしなくてはなりません。こそこそモティーフ、真の中軸であり、この悲劇はこれをめぐっているのです。アンティゴネはこの『アーテー』(無謀の犯した罪に対する罰として神から下される狂気、悪行、愚行、その結果としての破滅)を永続化し、永遠化し、不死のものにするのです」(ラカン「精神分析の倫理・下・21・P.176~177」岩波書店 二〇〇二年)
(2)「『欲望に関して譲歩する』と私が呼ぶものは、つねに主体の運命においてなんらかの裏切りを伴うものです。皆さんもどんな症例においてもお気づきでしょう。その次元を考えて下さい。たとえば、主体は自らの道を裏切り、自らを裏切っていて、このことは彼にはっきりと解っています。あるいはもっと単純に、何かを誓い合ったり相手が裏切り、契約ーーー反逆でも逃亡でもどんな契約でもよいのです、その吉凶を問わず、暫定的な契約であれ短期間の契約であれ同じことですーーーを果たさなかったことを容認します。
人が裏切りを容認するとき、そして、善という観念ーーーこの瞬間裏切った人の善の観念と私は言いたいのですがーーーに押されて、自分自身のこだわりを捨てるとき、『こんなもんさ、我々のパースペクティヴは断念しよう、我々はどちらも、でも多分私の方が、そうたいした人間ではない、普通の平凡な道に戻ることにしよう』と納得するとき、この裏切りをめぐって何かが演じられています。ここに『欲望に関して譲歩する』と呼ばれる構造があることはお解りでしょう。
この限界、私がここで自分と他者との軽視を同じ一つの言葉で結びつけたこの限界が乗り越えられると、もはや戻ることはできません。埋め合せはできても、解約はありえないのです。このことは、精神分析が倫理的方針という領野において有効な羅針盤を我々に与えることができることを示す一つの経験的事実ではないでしょうか。
つまり私は三つの命題を提案したのです。
まず第一に、我々が有罪でありうる唯一のこと、それは欲望に関して譲歩してしまったことです。
第二に、英雄の定義、裏切られてもひるまない者です。
第三に、このような感じ方は万人の手の届くものでは決してなく、これこそ普通の人と英雄の相違です。この相違はそれと信じられているより、もっと神秘的なものです。普通の人間にとって、裏切りはほとんどつねに生じることですが、その結果として普通の人間は善への奉仕へと決定的に投げ返されます。しかしこの場合、この奉仕へと向かわせたものが本当は何であるかを見ることは彼には決してできません。
さらに申し上げましょう。善の領野、当然これは存在します。これを否定しようとするのではありません。しかしパースペクティヴを逆転させて、私は皆さんに次のことを提案します。第四の命題です。欲望への接近のため支払うべき対価ではない善はありません。というのは欲望とは、我々がすでに定義したように、我々の存在の換喩です。欲望がそこにある渓流、それはシニフィアン(記号表現)の連鎖の転調であるのみではなく、伏流として流れているのであり、これこそ本来の意味で我々がそれであるところのもの、そしてまた我々がそれでないところのものです。我々の存在、そして我々の非存在です。行為においてシニフィエ(意味されるもの)であるものが、連鎖のうちのシニフィアン(意味するもの)から他のシニフィアン(意味するもの)へと、あらゆるシニフィカシオン(意味作用)のもとで、移行しているのです」(ラカン「精神分析の倫理・下・24・P.233~235」岩波書店 二〇〇二年)
これだけでは何が言いたいのかよくわからない読者もいるに違いない。ラカンが強調している事情についてジジェクは次のように、一種の「現代文」へ翻訳する。
「今日の寛大な快楽主義の基本原則を思いだそう。わたしたちは設定された制限を超えてどこまでも自由に人生を楽しんでよく、そうするよう求められてさえいる。しかしこの自由の実体は(政治的に正しい)統制の新たなネットワークであり、この統制は多くの点でかつての家父長制による統制よりもはるかに厳格なものである。どういうことか。男を非暴力的で善良にというジレットの有名な広告への共感を表明する声のなかに、あの広告は男性を批判するものではなく、男性性の有害な過剰さのみを批判するものなのだという意見をよく耳にしたーーー要するにあの広告はただ、粗暴な男性性という汚水を捨てさえすればいいと言っているだけだというわけだ。しかし、『有害な男性性』の特徴だとされている要素の一覧ーーー感情を押し殺し苦痛を覆い隠す、助けをもとめたがらない、自分を傷つける危険を冒してでもリスクを取りたがる傾向ーーーをよく見てみるとすぐに、この一覧の何がそれほど『男性性』特有のものなのかという疑問が浮かぶ。これはむしろある困難な状況での勇気ある行動にこそ当てはまるのではないか。その困難な状況とは、正しいことをするために、自分が傷を負うことになったとしても、感情を押し殺したり、助けに頼れずリスクをとって行動したりしなければならないような状況だ。わたしは困難な状況において環境の圧力に屈せずこのように行動する多くの女性をーーー実際のところ男性よりも女性の方が多いーーー知っている。誰もが知っている例を出そう。アンティゴネーがポリュネイケースを埋葬しようと決めたとき、彼女はまさに『有害な男性性』の基本特徴に合致する行動をとったのではないのか。アンティゴネーはまちがいなく感情を押し殺し苦痛を覆い隠し、助けを求めようとはせず、自分を傷つける恐れの大きいリスクをとった。アンティゴネーの行動もある意味では『女性的』だと規定できる以上、それは単一の特徴や態度というよりもむしろ(歴史的に条件づけられる)『女性性』を規定する対立的な二要素のうちの一方ととらえるべきだ。アンティゴネーの場合、その対を規定するのは簡単である。それはアンティゴネーと、一般的とされる人物像(気遣いができ、物分かりがよく、衝突を好まないーーー)にはるかに近い妹イスメーネーとの対比である。どう考えても、政治的正しさに画一的に順応するわれわれの時代はイスメーネーの時代であり、そこではアンティゴネーの態度は脅威となるのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.274~275」青土社 二〇二二年)
イスメネばかりが幅を利かせる現代社会。<私>が演じていたのはただ単なる<猿芝居>でしかない。決してアンティゴネにはなれないし、なるつもりもないイスメネという安全地帯内部で演じられ、演じれば演じるほどそれがかえって自分自身の足枷になってくる<猿芝居>。
<私>はただ単に課題を先延ばししてきたに過ぎない。もっとも、春を演じることは誰にでもできる。しかし真夏になれば演じていたはずの誰もがお互いの顔を覗き込み見つめ合いながら気づかないわけにはいかない。所詮、芝居は芝居でしかない、とんでもない<猿芝居>に貴重な時間を奪われてしまっていたと。すると絶対的に高い価値を持つかのように見えていた貨幣の側が、結局のところ、二度と買い戻せない貴重な時間を自分の手からみすみす買い上げるための装置でしかなかったと気づく。が、ほとんどの場合、もう遅い。
