白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・別れ話のはずが、そのはずが18「多数性」の出現としての<音楽>/永続化する<釜ヶ崎の世界化>あるいは<世界の釜ヶ崎化>という就労状況

2023年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム

文学がなし得ないことを音楽はなし得るとプルーストはいう。

 

(1)「感じたものを文学的に、つまり知的に翻訳しても、それを報告し、説明し、分析することはできるが、音楽のようにそれを再構成することはできない」。

 

(2)「音楽では、さまざまな音が人間存在の屈折をとらえ、さまざまな感覚の内的な尖端を再現する」。

 

「傑作が最初にひきおこす幻滅にこのような反動が生じるのは、じつは、当初の印象が弱まったせいとも考えられるし、真実をひきだすには努力を必要とするからとも考えられる。このふたつの仮説は、あらゆる重要な問題、つまり『芸術』の現代性とか、魂の『現実性』や『不滅』とかの問題について提起されるもので、ふたつの仮説のどちらかを選ばなければならない。ヴァントゥイユの音楽の場合、この選択は、あらゆる瞬間に、さまざまな形で提起されていた。たとえばこの音楽は、私の知るいかなる書物よりもはるかに真正なものに思われた。ときに私はその原因は、人生においてわれわれが感じるものは想念という形をとることはないので、その感じたものを文学的に、つまり知的に翻訳しても、それを報告し、説明し、分析することはできるが、音楽のようにそれを再構成することはできないのにたいして、音楽では、さまざまな音が人間存在の屈折をとらえ、さまざまな感覚の内的な尖端を再現するように思われる点にあると考えた。この感覚の内的な尖端こそ、われわれがときどき覚える特殊な陶酔感を与えてくれる部分であるが、そばにいる人に『なんていい天気だろう!なんてすばらしい日の光だろう!』などと言ってみたところで、その陶酔感をなんら知らしめることにならないのは、同じ天気や同じ日の光が、相手にはまるで異なる心の震えを呼びおこしているからである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.418~419」岩波文庫 二〇一七年)

 

だからといってヴァントゥイユの音楽を聴いたすべての人間が<私>と同じように反応するわけではまるでない。<私>以外の人々の間では、音楽によりけり、文学によりけりで、いつもヴァントゥイユの音楽を上位に据えるとは必ずしも限らない。だから、<私>にとってのヴァントゥイユ、という条件つきで始めてそう言うことができるし、その限りで<私>に嘘はない。

 

また「同じ天気や同じ日の光」、要するにある同じ条件が<私>に与える衝撃は、同じであるにもかかわらず、「相手にはまるで異なる心の震えを呼びおこ」すことはよくある。それでいいのだ。主観を一つに固定する必要性は全然ないからである。

 

「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?

 

肉体を信ずることは『霊魂』を信ずることよりもいっそう基本的である。すなわち後者は、肉体の断末魔を非科学的に考察することから発生したものである。

 

《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する」(ニーチェ「権力への意志・下・四九〇~四九二・P.34~36」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

前に「連合」の場所移動について述べた。シニフィアン(代表するもの)とシニフィエ(代表されるもの)とはいついかなる時にでも置き換え可能だという現実の好例として上げた。そんな「連合」だが、「連合」加入者とその家族のすべてが救済されるわけではまるでない。第二次日本開戦は今すぐにでも可能だからだ。今すぐでなくとも、労働者としての最初の危機の時期はもう始まっている。グローバルネットワークで繋がっているすべての労働者は、いつも街頭に投げ出されていることができる。いつも街頭に投げ出された状態のまま仕事の到来を待つことができるようになった。<釜ヶ崎の世界化>あるいは<世界の釜ヶ崎化>というのはそういうことだ。

 

三時間、三週間、三ヶ月、といった短期間労働。あるいは逆に後何年つづくかわからないような職場もある。例えば友人の一人はもう五年くらい前から福島原発除染作業員として一日一万五〇〇〇円程度の日給を得ている。スマートフォン一台あれば事足りる。驚くほどの高学歴ではなくキャリア官僚でもない一般労働者の場合、路上へ投げ出された状態がいつまでも続く。だが、ただ単に仕事が欲しければいつどこにいても手に入れることはできる。

 

<釜ヶ崎の世界化>あるいは<世界の釜ヶ崎化>という就労状況の永続化はどのようにして可能になるか。マルクスから三箇所。

 

(1)「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本家に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されているのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫 一九七二年)

 

(2)「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(てこ)が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。

 

集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようとーーーこの場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せるーーー、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。

 

しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。

 

集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆(てこ)になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこにはーーー今日ではーーー集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。

 

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。

 

要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210~214」国民文庫 一九七二年)

 

(3)「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫 一九七二年)

 

「街頭」(ストリート)への放置。ところが、この「街頭」(ストリート)という場はとても逆説的な場だ。欧米はずっと先を行っている。「街頭」(ストリート)から生まれる抵抗運動の歴史が脈々と受け継がれている。フランスのイエロー・ベスト運動。アメリカのブラック・ライヴズ・マター。とりわけ諸外国の若年層の間で繰り広げられ次々と新しい展開を見せているヒップホップ。それらはどれも「街頭」(ストリート)から生じた。さらに南米がそれに次いでいる。そのような状況は世界中へ一挙に発信される。日本は救いようのないほど立ち遅れているわけだが。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて292

2023年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。よく晴れた一日でした。花粉もずいぶん飛散しているようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

日の入です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.7)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.7)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.7)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.7)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.7)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

二〇二三年三月七日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが17「ひとつの苦痛が他の苦痛の可能性をとりのぞいてくれ」る<私>のパターン/「半島」とは何か

2023年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌの言葉はレアとモレルとを同時に思い起こさせる。読者にとっては面白いけれども登場人物たちにとっては大真面目なシーンがあった。

 

「それは、シャルリュス氏がうっかり途中で開封してしまった例のレアからモレルに宛てた手紙の件を私が知って、ほんの二日後のことだった。私はもしかするとレアがモレルのことをアルベルチーヌに話したのではないかと思った。脳裏に『貴女(あなた)って下劣』、『なんて汚らわしい女(ひと)』ということばが浮かんで、私はぞっとした」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.416」岩波文庫 二〇一七年)

 

アルベルチーヌのピアノはヴァントゥイユの楽曲の断片的引用だが、今度の苦痛は「ヴァントゥイユ嬢とその女友だちにではなく」、「レアによってひきおこされた苦痛」である。ゆえに「レアによってひきおこされた苦痛が鎮まると、私はその音楽を苦しまずに聴くことができた」。

 

「とはいえ、ヴァントゥイユの音楽は苦痛を伴ってーーーヴァントゥイユ嬢とその女友だちにではなくーーーレアに結びついていたからこそ、レアによってひきおこされた苦痛が鎮まると、私はその音楽を苦しまずに聴くことができた。ひとつの苦痛が、他の苦痛の可能性をとりのぞいてくれたのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.416~417」岩波文庫 二〇一七年)

 

何度も繰り返される<私>のパターン。

 

「そもそも恋心とは不治の病で、リューマチが治まると代わりにしばらくして癲癇(てんかん)状の偏頭痛がおこるといった特異体質に似ている」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.185」岩波文庫 二〇一六年)

 

置き換えがきく。転移する。場所移動する。置き換えられて出現した時すでに見た目ばかりは全然違っている。

 

なお、決して小さなレベルではないレベルで、つい最近の日本を舞台に、ある種の「置き換え」が見られた。日本の「連合」が支持政党を換えたらしい。この動きは何を現しているか。マルクスの言葉を忠実になぞっている。

 

「議会の党がその二大分派に分解したばかりか、さらにその二つの分派のそれぞれの内部が分解したばかりか、議会内の秩序党は議会《外》の秩序党と仲たがいした。ブルジョアジーの代弁者や文士、彼らの演壇や新聞、要するにブルジョアジーのイデオローグとブルジョアジーそのもの、代表者と代表される者とは、たがいに疎隔し、もはやたがいに理解しえないようになった」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.122」国民文庫 一九七一年)

 

「代表するもの」(政治政党)と「代表されるもの」(支持者)とはいついかなるときでも置き換え可能だとするマルクスの批評を日本で、大規模な形で実現してみせた。「代表するもの」(政治政党)と「代表されるもの」(支持者)との繋がりは決して絶対的ではない。切り離し可能だ。それにしてもヨーロッパと比べてずいぶん遅い。遅すぎる。

 

ニーチェは労働者について「機械の結果としての<労働者>」と述べた。その通り。機械装置の普及と同時に、その結果として労働者は出現した。以後、<労働者の機械化>=<機械の労働者化>は加速的に押し進められた。問題はどう変わってきたのだろう。

 

「ここでは、もはや、機械と人間とを比較対照して、一方と他方との間に相互に対応、延長、代用の関係が可能であるか否かを評定するといったことが問題なのではない。そうではなくて、むしろ、人間と機械との間にコミュニケイションを形成して、人間がどのように機械《と結びついて部品となるのか》、あるいはほかの別のものと結びついて部品となり機械を構成することになるのかといったことを示すことが問題なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・補遺・P.460」河出書房新社 一九八六年)

 

そこで「エゴン・シーレ特集」でも提出されたアニミズムについてだが、アニミズムはもう消え失せたのか。まるで違う。中上健次は天王寺を紀伊半島の「西のつけ根」に位置づけてこう語る。

 

「高野(こうや)から橋本(はしもと)へ入り河内長野(かわちながの)を通って天王寺(てんのうじ)に抜ける道は何度もこの旅の途中に走った。天王寺とは紀伊半島の西のつけ根に当たる土地である為、大阪へ出るにはここしかない。天王寺、その地名の響きは紀伊半島の者に一種独特なものがある。此処(ここ)をくぐって半島から外へ出、此処をくぐって半島に出る。正直、私は何度、この土地に来ただろう。子供の頃から天王寺とは私を催眠状態にさせた。紀州熊野新宮に生まれた私に此処は彼方(かなた)であった」(中上健次「紀州~木の国・根の国物語・天王寺・P.277」角川文庫 一九八〇年)

 

中上健次の見る「熊野」はアニミズム的土壌を満載している。さらに天王寺へ出た中上は歩みを進める。通天閣、動物園、釜ヶ崎。中上の場合、被差別への問いとともに歩みを進める。それはそれでいいとして、しかし、釜ヶ崎は被差別部落とはまた違う。そこで暮らす日雇い労働者たちは差別される側に身を置いているわけだが、今やグローバル資本主義の成立とともに<釜ヶ崎の世界化>あるいは<世界の釜ヶ崎化>の成就を見た後の釜ヶ崎を見ることへ、場所移動しないといけない。「機械の結果としての<労働者>」はどうなったか。

 

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成したのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・13・P.234」河出文庫 二〇一〇年)

 

ニーチェとともにドゥルーズ=ガタリへ議論を進めると、「機械の結果としての<労働者>」とその<連合>とは、共に、「戦争機械の一部分にすぎぬような」国家のために心身ともに捧げると決めた、ということなのだろう。少なくとも日本ではという条件付きで。「連合」の場合、そこに「道徳的」な理由づけを行う。ところがその「道徳」とはどんな「道徳」かがさらに問題となる。

 

「《人間の自己分割としての道徳》。ーーー本当に自分の仕事に愛情をもっている著作家は、だれかがやってきて、同じ事柄をいっそう明確に述べたり、そこに含まれている問題に残りなく答えたりすることによって、彼自身を否定してくれればいいとねがう。恋している少女は、恋人の不実によって、自分の愛の献身的な忠実を確証できればいいと願う。兵士は、無敵の祖国のために戦場で倒れたいとねがう、なぜなら祖国の勝利において彼の最高のねがいもともに勝利をえているからである。母親は子どもに、彼女が自分自身からは奪い取るものを、睡眠・最良の食物を、事情によっては自分の健康・財産を与える。ーーーしかしこれらすべては非利己的な状態なのであろうか?こうした道徳的行動は、ショーペンハウアーの表現によれば、『不可能にして現実的』であるがゆえに、《奇蹟》なのであろうか?これらの場合にはすべて、人間は《自己のうちのなにか》を、一つの思想・一つの思慕・一つの作品などを、《自己のうちのなにか別のもの》よりもいっそう愛していること、したがって彼は自分の存在様式を《分割し》て、一方をもう一方の犠牲に供していることは、明瞭ではなかろうか?或る強情者が『わたしはこの人間にそこで一歩でもゆずるくらいなら、むしろ射倒されるほうがましだ』というとき、それはなにか《本質的に》ちがうことであろうか?ーーー《或るもの(願望・衝動・思慕)への愛着》は、上述の場合のすべてに存在している、愛着に耽ることは、どんな結果を伴うにせよ、ともかく『非利己的』ではない。ーーー道徳においては、人間はin-dividuum(分かちえぬもの、個体)としてではなく、dividuum(分かちうるもの)として自己を扱っている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五七・P.92~93」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

自己満足でしかないとニーチェは笑う。戦場で死にたい人々から順番に早く死ねばいい。自己満足に陶酔している人々はそうなるほか選択肢がないというわけだ。

 

そして「連合」とはまた別に、「連合」の知らないところで、まだなおアニミズムは堂々と生き残っている。といっても、アニミズムは一切合切消滅してしまえばそれでいい、というわけではない。そこまで単純でない。赤坂真理「東京プリズン」(河出文庫)ではアニミズムと天皇制とのただならぬ関係が描かれている。

 

また中上健次が触れた釜ヶ崎の日雇い労働者の中には、親天皇制と反天皇制とがいるばかりか、キリスト教徒もいればユダヤ教徒もいればイスラム教徒もいれば仏教徒もいる。世界化した<釜ヶ崎>のほんの半島に過ぎない日本列島。かつての紀伊半島の「西のつけ根」は今や世界の側に位置しており、日本列島の側は今や世界の末端でしかなくなった。泣こうが喚こうがこの方向性は加速的に押し進められていく。

 

自分たち自身が選んだ選択には違いない。戦争経済を継続させておくためにはどこか末端の場へ局所化しておく必要がある。全面戦争を避けつつ地域紛争から利益を上げなければ立ち行かない。ウクライナから置き換えることのできる地域は、候補として、今の日本列島はとてもいい条件が揃っている。日本のどこにでも大量に置いてある家電製品のメーカー名は日本の会社名かアメリカのもの。だが内部の部品のほとんどは中国製か台湾製。だから台湾有事といっても台湾全土を巻き込むわけにはいかない。とすれば日本列島がふさわしい。「連合」はおそらくその方向性で妥結した、あるいは積極的に第二次日本開戦への意志を表明したか、少なくとも合意したに等しいのかもしれない。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて291

2023年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で83パーセントの予想。湖東方面も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前六時頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.3.7)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.7)

 

「名称:“通勤通学路”」(2023.3.7)

 

二〇二三年三月七日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが16「アルベルチーヌの内奥の<覗き見>」とは何か/犯罪的錯覚の日常性

2023年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌを「奏楽天使」に喩える<私>。ただ単に打ち眺めているだけでは収まらなくなってくる。

 

「この奏楽天使の立体感は、私の心中でアルベルチーヌの想い出が占める過去のさまざまな時点と、視覚にはじまり私という存在の最も内的な諸感覚へといたる感覚中枢、つまり私がアルベルチーヌという存在の内奥にまで降りてゆくのを助けてくれるさまざまな感覚中枢とのあいだを何度も行き来することで形づくられたが、同様に、アルベルチーヌが弾いてくれる音楽にも備わる立体感は、私がそのさまざまなフレーズにどこまで光を当てることができたかによって、すなわち、当初は霧のなかにほぼ完全に埋没していると感じられた構成のさまざまな輪郭をどこまでたがいに結びつけることができたかによって、さまざまなフレーズの相違が目に見えるようになることで生じる。私を喜ばせるのは、私の思考に、いまだに不分明なものだけを提供し、その星雲のごとく混沌としたものに形を与える作業をさせることだと、アルベルチーヌは知っていた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.413~415」岩波文庫 二〇一七年)

 

<暴露・冒瀆>だけでなく、アルベルチーヌの内奥の、<覗き見>というプルーストのテーマ。それは<私>を誘惑するラビリンスに見える。と同時にそれは自己の内奥の<覗き見>でもある。自己にせよ他者にせよ、その内奥が「どんなに不規則なものであるか」、因果連関など何一つないということを「知る」という作業、それを<見ない>のではなく<見る>ことができ、徹底的に<見る>ことに耐えうる<力>(微々たる力、まばたきするほどの微力で十分)があるかどうか、に関わる。逆にマッチョな力の場合、徹底的に<見ない>ことに力を注ぎ込むケースが後を絶たない。

 

<ない>にもかかわらず<ある>かのような身振り(言葉遣い)を死ぬまで続けていく、ある種の「偽証」に対する全面的支援を死ぬまで演じつづけていくつもりなのかどうか。世界の側がこの種の「偽証」はもう止めようと言い出した時、「国際社会」を含む全世界の政済官学界の主な指導者たちがそう言い出した時、自分もまたこの種の「偽証」に加担していたと証言することができるか。そういう問題だ。

 

「自己の内奥を覗き見ることあたかも巨大な宇宙を覗きこむごとくである者、そして自己の内奥に銀河を抱いている者、こういう者はまた一切の銀河がどんなに不規則なものであるかを知っている。こういう者たちは、現存在の混沌と迷宮(ラビリンス)の奥深くまでわれわれを導いてゆく」(ニーチェ「悦ばしき知識・三二二・P.336」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

やや困難なフレーズとして「音楽にも備わる立体感」とある。「断崖絶壁から投身自殺するかのようだ」といったありふれたステレオタイプ(紋切型)ではない。問題は「音楽にも備わる」のなら絵画にも備わるのではという問いかけでなくては無意味に等しい。

 

とはいえ、絵画でいうキュビズムとはまた別の話。例えば「クラインの壺」。

 

二次元で書きあらわすことができる。背後に回っている部分は点線で示されている。<ある>と見なされる以上、点線でなら描くことができる。ところが三次元にすれば見えてしまう。そもそも「クラインの壺」が三次元の立体模型として成立可能かどうか誰にもわからない。だから三次元化は余りにも不用意な先走りであって、「クラインの壺」の謎めいた、そして資本主義経済にとって極めて重大な意味を、台無しにしてしまう。ここでは余りに長くなるのでいずれ取り上げたい。

 

今引いた箇所の要約はもっと後に反復される。そこではこうある。 

 

「私はかつてヴィルパリジ夫人の馬車からそうしたように、あるいは同様の日曜日にアルベルチーヌと出かけた車からそうしたように、このよく晴れた日に数えきれぬほど花咲いた娘たちをじっと見つめた。すると娘たちのひとりのうえに注いだ私のまなざしとたちまち対になったのは、アルベルチーヌならこの娘たちにこっそり投げかけたにちがいない、好奇心あふれる、盗み見るような、ずうずうしい、捉えがたい想いを反映したまなざしでで、そのまなざしは、青味をおびて謎めいた翼を羽ばたかせて私のまなざしと一体になり、それまではいたって自然のままであったこの小径の様相を一変させるには、私自身の欲望だけでは十分でなかっただろう。その欲望が私にとって未知な点はなにひとつなかったからである。ときには少し悲しい小説を読んで、いきなり過去へ連れ戻されることがある。というのもある種の小説は、一時的に正式の喪に服するようなもので、習慣を廃棄してわれわれをふたたび人生の現実に触れさせてくれるのであるが、それは悪夢のように数時間つづくだけである。なぜなら習慣の力なり、その力によって生みだされる忘却なり、頭脳には習慣と闘って真実を再創造する能力がないせいで習慣の力によって再生される陽気さなりのほうが、優れた書物の催眠術のような暗示力をはるかに凌駕するからで、書物の暗示力は、すべての暗示力と同じく、きわめて短時間の効果しか持たない。そもそも私がバルベックで最初にアルベルチーヌと知り合いたいと望んだのは、街なかの通りや郊外の街道であれほど何度も見かけて私の足を止めさせた娘たちを代表するのがアルベルチーヌだと思われたからであり、私にとってアルベルチーヌがその娘たちを要約しうる娘だったからではないか。その娘たちがひとつに凝縮されていた私の愛という、消滅しつつある星が、いまやふたたび散乱し、こうして塵のように飛散する星雲と化すのは、当然のなりゆきではなかろうか。あらゆる娘が私にはアルベルチーヌかと思われ、私が内心にいだくイメージは至るところにアルベルチーヌを見出させた。たとえば小径の曲がり角で車に乗りこむ娘がまざまざとアルベルチーヌを想い出させ、そのふっくらした身体つきがアルベルチーヌそっくりだったので、いっとき私は、いま見たのはアルベルチーヌ本人ではないか、死んだというのはつくり話で自分はだまされていたのではないかといぶかった。こんな小径の角で、もしかするとバルベックでのことだったかもしれないけれど、やはり同じような格好で車に乗りこむアルベルチーヌが目に浮かんだが、そのころのアルベルチーヌは人生になんと信頼を寄せていたことだろう。ところでその娘が車に乗りこむ動作を、私は散歩の途中でさっと消えてゆく皮相な外観として自分の目だけで見ていたわけではない。いわば永続する行為となったその動作は、そこにいまや余分につけ加えられた側面から、つまりかくも官能的に、またかくも悲しくわが心に寄り添った側面から、過去のなかへも広がっていくように思われたからである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.318~320」岩波文庫 二〇一七年)

 

要約にもかかわらず増殖している。なぜだろう。ここではフロイトの夢理論に通じる部分だけを拾っておこう。

 

(1)「娘たちを代表するのがアルベルチーヌだと思われたからであり、私にとってアルベルチーヌがその娘たちを要約しうる娘だった」。

 

(2)「娘たちがひとつに凝縮されていた」。

 

(3)「ふたたび散乱し、こうして塵のように飛散する星雲と化す」。

 

これらは<圧縮・転移・置き換え>と呼ばれる。ところで人間は、睡眠中の夢に出てくる表象に限り、<圧縮・転移・置き換え>という加工=変造作業を経た、と考えているのだろうか。プルーストは作品を通して、まったくそうではない、と教えている。

 

例えば、仕事の昼休み、近くのスーパーまで出かけたとする。

 

「というのも私は、美しいボディーラインを目撃したり、生き生きした顔色をかいま見たりするだけで、そうあるはずだと信じて、そこに惚れぼれする肩や甘美なまなざしなど、私がいつも想い出や先入観として心のなかに蓄えているものをつけ加えてしまっていたからである。このようにちらっと見ただけであわてて人を判断して陥る誤謬は、大急ぎで文章を読んでいるとき、ひとつのシラブルを見ただけで残りのシラブルを確認する時間をとらず、記された語のかわりに記憶からとり出した語を読んでしまう誤りと似ている」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.343」岩波文庫 二〇一二年)

 

このような錯覚を犯したことなど一度もない人間が一人でもいるだろうか。単純素朴すぎて犯罪的なレベルを常に維持している錯覚の構造。もはや錯覚なしでは生きていくことができない程度にまで立ち至っているのかもしれない。問うてみる価値はある。