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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて294

2023年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。暖かいからか本棚の整理をしていたら居眠ってしまいました。外はよく晴れた一日でした。でも花粉症と喘息とを抱える身には辛い季節です。

 

 

「名称:“日の入”」(2023.3.8)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.8)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.8)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.8)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.8)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

二〇二三年三月八日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 

 

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが20「回想」ではなく「印象」へ/パンデミックが炙り出した一つの問題

2023年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム

ヴァントゥイユの音楽を参照しつつ、「回想」ではなく「印象」へ。そうプルーストはいう。

 

「ヴァントゥイユから与えられた漠然とした感覚は、回想に由来するものではなく(マルタンヴィルの鐘塔の印象と同じく)印象に由来するものなので、その音楽のゼラニウムの芳香については、物質的な説明を見出すのではなく、その深い等価物を見出すべきであり、つまりヴァントゥイユがそれによって世界を『聞きとり』、その世界を自分の外に投げだしたやり方ともいうべき、色あざやかな未知の祝祭(ヴァントゥイユの個々の作品はそこから分離した断片、真紅の裂け目をもつ破片であるかに思われる)を見出すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.420」岩波文庫 二〇一七年)

 

この「未知の祝祭」は「断片」であるとともに、プルーストは、その<無数性>を大いに示唆している。

 

前回、「酒の肴」になる本について幾つか上げた。もう少し上げてみよう。「酒の肴」として最も多く読まれてきたのは、少なくとも読んできたものは、おそらくフィクションでない。ノンフィクション。椎名誠の「あやしい探検隊」シリーズ、宮脇俊三の「紀行文」(列車旅もの)など。だからといって、それらの本に責任があるわけではまるでない。むしろ面白い。

 

言いたいのは、前回上げたものも含め「ひと昔前の名」が多いことだ。特徴的であり注目したい点でもある。それらが大いに読まれた時期の日本。アルコール飲料も空前の売れ行きを見せていた。今は低迷。依存に陥るほど夢中になれる対象が他にもたくさん出現・増殖した。だがアルコール医療の現場は必要なくなったかといえばそうでもない。コロナ禍の三年間を通して逆に増えた面が出てきた。予想されていた事態ではあるのだが。

 

家飲みへの切り換え。外で飲むより遥かに経済的だということに多くの人々が気づいた。さらに職場を失くした人々、主に女性たちの飲酒環境とその家族の悲惨さ。映画「ドランカー」とか「酒とバラの日々」とかをーーーエンタメではなくーーー地で行くような、まったく厄介な状況が進行している。そういう人々の心の迷いに付け込む形で市民社会へ浸透したカルトの一つが一九八〇年代後半の統一教会。

 

しかし六年間ほど大阪市生野区で障害者介護に入っていた頃、身体障害者にせよ精神障害者にせよ、その周辺の心の迷いに付け込んで購読料や名ばかりの「お布施」を巻き上げていたのは統一教会ばかりではなく、もっとたくさん、うようよいた。今はその二世三世救済、とともに被害者二世三世救済、が問題となっている。

 

ところで安倍元首相銃撃事件以前、評論家の東浩紀が新聞記事で日本の特定政治政党のことを取り上げ、その幅広さに感心したと賛同の意を表明していた。しかし当時。その政治政党はまだ統一教会と一心同体というに等しい関係を保っていた。その頃からだろう、これまで東浩紀を見てきた人々の目が急速かつ大きく変わった。「カルト二世三世救済とともにカルト被害者二世三世救済」といっても、巨大な社会的影響力を持つ人間が新聞紙面で堂々とそういうことを発言していては、救われるものも救われないと思うのである。

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが19「もっと現実的でもっと豊穣な陶酔」としての芸術/「食客/寄生/パラサイト」という概念

2023年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム

芸術は「いい天気とかアヘンを吸った夜とかがもたらす単なる神経の歓び以上の」、「もっと現実的でもっと豊穣な陶酔」をもたらすとプルーストはいう。

 

「芸術は実在のものだとする仮説に身を委ねると、私には音楽が表現できるのは、いい天気とかアヘンを吸った夜とかがもたらす単なる神経の歓び以上の、すくなくとも私が予感したところでは、もっと現実的でもっと豊穣な陶酔であるような気がした」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.419」岩波文庫 二〇一七年)

 

松浦寿輝と星野太との対談。「書くことの味わいをめぐって」(『群像・2023・04・P.134~151』講談社 二〇二三年)所収。

 

星野太が取り組んだ「食客/寄生/パラサイト」という概念。松浦寿輝はいう。

 

「パラジットというテーマに向かわれたモチーフの一つとして、ここ十数年来、ずっともてはやされ続けている『共生』という行政的な流行語に対する違和感というか、居心地の悪さが底流しているわけですね。『多文化共生』だの『他者への寛容』だのといったスローガンは結局、美辞麗句というか抽象的な美談でしかないのではないか、と。穏和な書きぶりとは裏腹の、そういうかなり辛辣な批評的な視線が全編に行き渡ってもいる」(松浦寿輝/星野太「書くことの味わいをめぐって」『群像・2023・04・P.135~136』講談社 二〇二三年)

 

星野太はこう答える。

 

「『共生』という言葉の居心地の悪さはずっと気になっていました。もちろん、『共生社会』とか『多文化社会』といった理念そのものに対してではなくて、『とりあえずそう言っておけばいいだろう』というようなお題目としての『共生』に対して『共生◦◦』をうたう組織がぼこぼこ立ち上がっていたわけですが、あれは『共生』というキーワードを入れると文科省のおぼえがめでたくなる、という雰囲気が多分にあったと思うんですね。そうした空疎な言葉としての『共生』の氾濫にずっともやもやした気持ちがありました。共生というと『わたし』なり『あなた』なりが確固たるものとしてあって、いざ共生していきましょうというイメージがあるけれど、むしろわれわれ人間のありようが、さきほどの作品と批評の関係と同じように、つねに寄生関係で成り立っているというのが実際のところなのではないか。理論的な興味・関心としては、わたしたちの生の現実を、ありきたりな『共生』ではなく『寄生』という観点から論じてみたいというねらいがありました」(松浦寿輝/星野太「書くことの味わいをめぐって」『群像・2023・04・P.137』講談社 二〇二三年)

 

今日は「国際女性デー」らしい。ところが女性、特に日本の女性、の置かれた現在地はどうだろう。様々な女性がいるのは確かというより常識以前なのだが、「『共生社会』とか『多文化社会』」というわりには、どこに女性たちの社会的変革があったのか。いかにも疑問かつ不審である。逆に目立って社会進出している女性とはどんな女性か。ジジェクの指摘が当てはまる。

 

「男とは対照的に、女は今日どんどん早熟になり、小さな大人として扱われ、自ら生活を管理し、キャリアを設定するよう期待される。この新しい性差の形においては、男は遊び好きな青年で無法者であり、女は毅然とし成熟して、真面目で、合法的で、懲罰的であるように見える。女性は今日支配的なイデオロギーによって従属せよと呼びかけられてはいない。彼女たちは裁判官たれ、経営者たれ、大臣たれ、CEOたれ、教師たれ、警官たれ、兵士たれと呼びかけられーーー求められ、期待されーーーているのである。セキュリティ関連の組織で日々起こっている典型的な光景は、女性の教師/判事/心理学者が、未成熟で社会性のない非行青年の面倒を見るというものである。新たな女らしさの形象がこうして立ち現れてくる。冷酷で競争力があり権力を握る行為主体であり、誘惑的で操作が上手く、『資本主義の条件下では、〔女は〕男よりもうまくやれる』というパラドクスを実証するのだ。これはもちろん、女を資本主義の手先だと疑うことではない。それが表しているのは単に、現代の資本主義は自らにとって理想的な女性像を、人間の顔をした冷淡な管理権力像を、作りだしているということだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.277~278」青土社 二〇二二年)

 

テレビのコメンテーターとか裁判官とか議員など。といっても、女性がテレビのコメンテーターや議員になってはいけない、と言っているわけではまるでない。日本の現状で、テレビのコメンテーターとか国会議員、地方議会議員、裁判官、経営者、CEO、教師、警官、自衛官など、社会全体に対して重大かつ怖ろしく旧弊な圧力をかけることのできる要職を務めているのは一体どのような女性か、それが問題だというのである。

 

プルーストに戻ろう。「アヘン」についてほんの少し触れている。今でいえば「サイケデリック」。しかしありとあらゆるサイケデリックを体験したバロウズは逆にサイケデリックを奨励しない。「サイケデリック革命」などというのは丸きり「瞞着」だと。サイケデリックはむしろ民衆の管理のために都合よく利用されていると。

 

例えばメンタルヘルス大国アメリカ。前日の疲労から回復し気持ちを上げるためマリファナで一気にストレスを発散させる。様々なビタミン剤をごちゃ混ぜでほおばりエナジードリンクでぐいぐい飲み干す。そうでもしないと仕事がこなせない。しかしそれを続けると自分の体が根を上げてしまい三年も持たない。するとさらに大がかりなメンタルヘルス治療に取り掛からねばならなくなる。見る見る間に治療費が底をつくか、その前に死ぬ。この種の悪循環をよく知っていながら、なぜか、アメリカの幾つかの州は逆にマリファナを合法化し、労働者をもっと過酷な職場へ放り込む。さらにLSDやマリファナはストレス発散効果だけでなく目の前の政治課題を覆い隠してしまう効果がある。

 

比較できないし、するべきでないのかもしれない。が、プルーストのいうように芸術という方法があるにもかかわらず、今は逆に、芸術は却下されるか徐々に死角へ入る方向へ圧力がかかる。どうしてだろう。

 

何も大袈裟な「芸術」でなくても全然構わない。例えば、日本の作家たちが書き残したエッセイ一つ取ってみても、実は「酒の肴」になるものは大量にある。酒の勧めではない。だがしかし、二十代後半からアルコール依存症の只中を過ごしてきたところに身を置いていると、それがよくわかる。小説なら檀一雄、水上勉、野坂昭之、藤沢周平、村上春樹の短編集など。エッセイとなるともう山ほどあって、坂口安吾、田村隆一、田中小実昌、片岡義男、吉田知子、沢木耕太郎、中島らも、などなど枚挙にいとまがない。さらにハヤカワ文庫や創元推理文庫で出ているちょっとしたミステリ短編集を味わうこと。その貴重な時間が大切だ。

 

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて293

2023年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で83パーセントの予想。湖東方面も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前五時五十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.3.8)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.8)

 

「名称:“通勤通学路”」(2023.3.8)

 

二〇二三年三月八日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。