芸術は「いい天気とかアヘンを吸った夜とかがもたらす単なる神経の歓び以上の」、「もっと現実的でもっと豊穣な陶酔」をもたらすとプルーストはいう。
「芸術は実在のものだとする仮説に身を委ねると、私には音楽が表現できるのは、いい天気とかアヘンを吸った夜とかがもたらす単なる神経の歓び以上の、すくなくとも私が予感したところでは、もっと現実的でもっと豊穣な陶酔であるような気がした」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.419」岩波文庫 二〇一七年)
松浦寿輝と星野太との対談。「書くことの味わいをめぐって」(『群像・2023・04・P.134~151』講談社 二〇二三年)所収。
星野太が取り組んだ「食客/寄生/パラサイト」という概念。松浦寿輝はいう。
「パラジットというテーマに向かわれたモチーフの一つとして、ここ十数年来、ずっともてはやされ続けている『共生』という行政的な流行語に対する違和感というか、居心地の悪さが底流しているわけですね。『多文化共生』だの『他者への寛容』だのといったスローガンは結局、美辞麗句というか抽象的な美談でしかないのではないか、と。穏和な書きぶりとは裏腹の、そういうかなり辛辣な批評的な視線が全編に行き渡ってもいる」(松浦寿輝/星野太「書くことの味わいをめぐって」『群像・2023・04・P.135~136』講談社 二〇二三年)
星野太はこう答える。
「『共生』という言葉の居心地の悪さはずっと気になっていました。もちろん、『共生社会』とか『多文化社会』といった理念そのものに対してではなくて、『とりあえずそう言っておけばいいだろう』というようなお題目としての『共生』に対して『共生◦◦』をうたう組織がぼこぼこ立ち上がっていたわけですが、あれは『共生』というキーワードを入れると文科省のおぼえがめでたくなる、という雰囲気が多分にあったと思うんですね。そうした空疎な言葉としての『共生』の氾濫にずっともやもやした気持ちがありました。共生というと『わたし』なり『あなた』なりが確固たるものとしてあって、いざ共生していきましょうというイメージがあるけれど、むしろわれわれ人間のありようが、さきほどの作品と批評の関係と同じように、つねに寄生関係で成り立っているというのが実際のところなのではないか。理論的な興味・関心としては、わたしたちの生の現実を、ありきたりな『共生』ではなく『寄生』という観点から論じてみたいというねらいがありました」(松浦寿輝/星野太「書くことの味わいをめぐって」『群像・2023・04・P.137』講談社 二〇二三年)
今日は「国際女性デー」らしい。ところが女性、特に日本の女性、の置かれた現在地はどうだろう。様々な女性がいるのは確かというより常識以前なのだが、「『共生社会』とか『多文化社会』」というわりには、どこに女性たちの社会的変革があったのか。いかにも疑問かつ不審である。逆に目立って社会進出している女性とはどんな女性か。ジジェクの指摘が当てはまる。
「男とは対照的に、女は今日どんどん早熟になり、小さな大人として扱われ、自ら生活を管理し、キャリアを設定するよう期待される。この新しい性差の形においては、男は遊び好きな青年で無法者であり、女は毅然とし成熟して、真面目で、合法的で、懲罰的であるように見える。女性は今日支配的なイデオロギーによって従属せよと呼びかけられてはいない。彼女たちは裁判官たれ、経営者たれ、大臣たれ、CEOたれ、教師たれ、警官たれ、兵士たれと呼びかけられーーー求められ、期待されーーーているのである。セキュリティ関連の組織で日々起こっている典型的な光景は、女性の教師/判事/心理学者が、未成熟で社会性のない非行青年の面倒を見るというものである。新たな女らしさの形象がこうして立ち現れてくる。冷酷で競争力があり権力を握る行為主体であり、誘惑的で操作が上手く、『資本主義の条件下では、〔女は〕男よりもうまくやれる』というパラドクスを実証するのだ。これはもちろん、女を資本主義の手先だと疑うことではない。それが表しているのは単に、現代の資本主義は自らにとって理想的な女性像を、人間の顔をした冷淡な管理権力像を、作りだしているということだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.277~278」青土社 二〇二二年)
テレビのコメンテーターとか裁判官とか議員など。といっても、女性がテレビのコメンテーターや議員になってはいけない、と言っているわけではまるでない。日本の現状で、テレビのコメンテーターとか国会議員、地方議会議員、裁判官、経営者、CEO、教師、警官、自衛官など、社会全体に対して重大かつ怖ろしく旧弊な圧力をかけることのできる要職を務めているのは一体どのような女性か、それが問題だというのである。
プルーストに戻ろう。「アヘン」についてほんの少し触れている。今でいえば「サイケデリック」。しかしありとあらゆるサイケデリックを体験したバロウズは逆にサイケデリックを奨励しない。「サイケデリック革命」などというのは丸きり「瞞着」だと。サイケデリックはむしろ民衆の管理のために都合よく利用されていると。
例えばメンタルヘルス大国アメリカ。前日の疲労から回復し気持ちを上げるためマリファナで一気にストレスを発散させる。様々なビタミン剤をごちゃ混ぜでほおばりエナジードリンクでぐいぐい飲み干す。そうでもしないと仕事がこなせない。しかしそれを続けると自分の体が根を上げてしまい三年も持たない。するとさらに大がかりなメンタルヘルス治療に取り掛からねばならなくなる。見る見る間に治療費が底をつくか、その前に死ぬ。この種の悪循環をよく知っていながら、なぜか、アメリカの幾つかの州は逆にマリファナを合法化し、労働者をもっと過酷な職場へ放り込む。さらにLSDやマリファナはストレス発散効果だけでなく目の前の政治課題を覆い隠してしまう効果がある。
比較できないし、するべきでないのかもしれない。が、プルーストのいうように芸術という方法があるにもかかわらず、今は逆に、芸術は却下されるか徐々に死角へ入る方向へ圧力がかかる。どうしてだろう。
何も大袈裟な「芸術」でなくても全然構わない。例えば、日本の作家たちが書き残したエッセイ一つ取ってみても、実は「酒の肴」になるものは大量にある。酒の勧めではない。だがしかし、二十代後半からアルコール依存症の只中を過ごしてきたところに身を置いていると、それがよくわかる。小説なら檀一雄、水上勉、野坂昭之、藤沢周平、村上春樹の短編集など。エッセイとなるともう山ほどあって、坂口安吾、田村隆一、田中小実昌、片岡義男、吉田知子、沢木耕太郎、中島らも、などなど枚挙にいとまがない。さらにハヤカワ文庫や創元推理文庫で出ているちょっとしたミステリ短編集を味わうこと。その貴重な時間が大切だ。
